瞳いっぱいの微笑みを

中富虹輔

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一章 八月~九月

一 雨

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 その日は、珍しく雨降りだった。夏休みも終わりに近づき、たまっているレポートを片づけるために図書館にいっていた、その帰りだった。
 弁当持参で意気込んでいったというのに、思っていたよりも簡単にそのレポートは片付いてしまい、ぼくは残った午後をどう使おうか思案しながら、図書館をでた。
 朝からふり続いている雨はいっこうにやむ気配がなく、空を見上げながら、ため息を一つついて、傘をさす。本屋にでもいって、今月の新刊でものぞいてくるか……そんなことを思いながら、とりあえず足を町の方へ向けた。
 バスに乗ろうか、それとも歩いていこうか……いつもなら間違いなく歩くのだけれども、この雨降りだ。いい加減歩くのもおっくうになる。……決めた。バスに乗ろう。決断し、ぼくは手近なバス停へと向かって歩いていった。
 そこでぼくは、彼女に出会った。
 傘もささず、たった一人立ち尽くしている、彼女と。
 彼女は制服を着ていた。ぼくと同じ学校の制服。ぼくが見つけたそのときにはもう、彼女はずぶ濡れだった。長い、緩やかなウェーブのかかった髪は、肌や着ているものにべったりと張り付き、その着ているものも、いうに及ばず。重そうな色のスカートも、水を吸い込んでさらに重そうに見えていた。
 そして……そして。
 彼女は、泣いていた。
 彼女の顔をつたい落ちていく雨の滴にまぎれるように、けれども確かに、彼女の瞳からは、ぼろぼろと、涙がこぼれ続けていた。
 ぼくは間違っても軟派な人間ではないし、それにどちらかといえば、女の子と話をすることなんかは、苦手な方だった。けれどもなぜぼくがそんなことをしたのかといえば……ぼく自身でもわからなかった。たぶん、彼女がぼくの学校の制服を着ていた、という気安さもあっただろう。けれども、そう。雨のなか、たった一人泣きながら立ち尽くしている彼女に、なにか引かれるものがあったのも、事実だった。
 ぼくはゆっくりと彼女に近づいていき、そして、彼女を傘の下にいれた。一瞬。彼女は戸惑いの表情を見せ、そしてゆっくりと、ぼくの方を見た。ぼくはそれにどう反応してよいかわからず、しどろもどろになりながら、いった。
「風邪、ひきますよ。そんなとこに立ってると」
「……あ、うん……」
 心、ここにあらず、といった風情で、彼女はうなずいた。同時にバスがやってきて、乗り口のドアが開いた。彼女は、
「ごめんなさい、のらなきゃ……」
 とりあえず、そこにぼくがいたからそういってみた、そんな、まるで気のない言葉を口に出すと、彼女は傘を抜けでて、そしてバスに乗った。バスの扉が閉まり、発車する。ぼくは呆然とそれを見送りながら、やがて、あのバスにぼくも乗るべきだった、ということを思い出した。
「しかたない……歩くか……」
 ぼくはため息をつくと、町に向かって歩きだした。

 残暑もきびしい九月。長い休みが終わり、新学期がやってきた。一月半ぶりに顔を合わせた奴もいれば、夏休みじゅうつきあわされ、いい加減顔を見るのもうんざりだという奴もいる。
 席について、クラス全体を見回す。一月半前と変わらない空気。ひどくなつかしいその空気に、ぼくは思わずもう一度、教室の中を眺め渡した。
「おい、久保。宿題、終わってるか?」
 声をかけてくる級友に、「そういうことは、もう少し早くいってくれよ。もう時間切れだ」ぼくは軽口を叩いて、「おい、頼むよ」哀願口調になるそいつに、「しかたないなぁ」応えて、ぼくはノートを取り出した。「さんきゅ。助かったよ」そういって、彼はノートを受け取り、
「おい、ノート、手に入ったぞ!」
 一冊のノートにどっと群がる級友たち。砂糖に群がるアリみたいだな。あまりにも似すぎているその光景に、ぼくは苦笑した。
 うーん、と大きく伸びをすると、
「どうしたの? 夏休みぼけ?」
 後ろから、声がかかる。ぼくはあわててその動作を中断して、振り返った。「やあ、久我。久しぶりだね」
 ぼくはもう一度伸びをして、こらえきれなくなって大きなあくびをした。「でっかいあくび」久我はあきれかえったようにいって、そして彼女は、となりの席……彼女の席だ……に、腰掛けた。
 それが何気ない日常の始まりだということを、ぼくは疑いもしなかった。
「で、どうだった、夏休みは?」
 久我の問いに、ぼくは我に返った。
「……別に、どうってこともないよ。いたって平穏な日々をすごさせてもらったよ」
 ぼくは何気なしに応え、そしてその瞬間だった。頭の中に、「彼女」がよみがえってきたのは。雨の中、たった一人たたずむ「彼女」。
 『風邪、ひきますよ。そんなとこに立ってると』
 『……あ、うん……』
 『ごめんなさい。のらなきゃ』
 ぼくと彼女とあわせて、たったの三言。それだけが、ぼくと彼女が交わした言葉だったのだ。なぜだか無性に、もう一度彼女にあいたい、という思いが強くなってくる。
 もう一度、彼女に……。
 ばかばかしい。ふとぼくは我に返った。
 もう一度彼女にあって、なにをしようっていうんだ? どこの誰ともわからない、たった一つ共通しているのは、同じ学校の生徒、ということだけの人なのに。
 それに……。仮に彼女にもう一度会えたとして、じゃあぼくは彼女になにをしてあげられる?
 次々と押し寄せてくる現実的な考えに、我知らずため息がでて、ぼくはふたたび、自分の思考の中に没頭した。久我の声が聞こえたような気もしたのだけれども、ぼくはそれには気づかないふりをした。

 図書室というのは、嫌いな場所ではない。もともとが、人とつきあうのが得意な人間でないから、静かな環境で、ゆっくりと読書をする、というのは、なかなかぼくにとってはぜいたくなことなのだ。結局今日も、何の用もないのに図書室にきてしまっていた。
 別に何を読みたいわけでもないのだけれど、本棚をあちこち歩き回り、何か変わった本がないかをさがす。入学して一学期がすぎてしまえば、たいがいどこに、何の本があるのかはわかっているのだけれども、ときおり気づかなかった本がおいてあったりして、それが結構楽しいのだ。
 今日は、どういうわけだか図書室はいっぱいだった。
 珍しいこともあるものだ。そう思いながら、ぼくはいつものように、「今月の新刊」コーナーから、眺めて回る。
 読みたい本を物色しつつ、ぼくはいつも座っている場所……窓際の、外がよく見える場所……があいているかどうかを確認した。
「ちゃー」
 席はふさがっている。しかたない。予定変更だ。特別読みたい本があったわけでもないし。町の本屋にでも、寄って帰ろう。そんなことを思いながら、ぼくは図書室を出て、玄関へ向かった。靴をはきかえ、校門を出る。
 よく晴れた日だった。そろそろ、日が短くなるのを実感として感じられるようになってきたとはいえ、九月の初旬。日が沈むには間がある。
 本屋に寄って、何冊か、まだ買っていない本を見つける。それをレジに持って行き、代金を払い、ぼくは本屋を出た。
 ふと、空を見上げる。
 ゆっくりと、ではあるけれども、町が夕日色に染まってきていた。その様子を見ながら、ぼくはふと、思った。
「あの人」には、こんな、夕日色の町が、似合うんじゃないかな……。
 きれいな空だった。雲一つない、快晴。太陽は、ちょうど、向こうに見えるのっぽビルの最上階にかかっていた。夕方の光が、すべてのものを夕日色に変えていく。
 いつもの、あまりにも何気なさすぎる光景が、これほど違うものに見えるなんて。
 それはまさに、「自然の神秘」といっていいものだっただろう。ぼくは我を忘れて、そこに立ち尽くしていた。
「きれいな空ぁ……」
 不意に後ろからかかった声に、ぼくはどきりとした。別に驚く必要なんて、なかったかもしれない。たぶん、それをいった人は、独り言のつもりだったのだろうから。
 ともあれぼくは、驚いて振り返り、そして、そこに「彼女」を見た。
 ……うそだろう、おい?
 そこに、あのときの「彼女」が、立っていた。確かに、雨にうたれていた彼女とは、イメージは全然違ったけれども、しかし見間違えようのない、ぼくの目にくっきりと写ったその姿は、そのままだった。ぼくは何もいえなくなってしまい、その場に立ち尽くした。彼女は、おぼえているのだろうか? あのとき、傘をさしだしたぼくを。
「あ、ごめんなさい。驚かせたかしら?」
「彼女」は、そういってぼくの方を見た。「……いえ。ぼくも、空、見てたから。あんまりタイムリーなんで、ちょっと……」
「驚いたんでしょう?」
 くすり、と「彼女」は笑って、同意を求めるように、小さく首をかしげた。「はあ、まあ」ぼくは応えて、「素直でよろしい」彼女はいって、笑った。
「同じ学校なのね。何年生?」
 ズボンについている校章に気づいたのだろう。彼女は問うた。「あ、えーと……」ぼくが応えようとするより早く、
「あ、待って。当ててあげるから」
 いって、彼女は、「……一年生。どう?」微笑まじりに問うた。
「ええっ? どうして? 何でわかったんですか?」
「わかるわよ、そのくらい」ふふふ、と、彼女はいたずらな笑いを浮かべた。
「一年生は、ういういしいから」
「……ういういしい、ですか?」
 うん。彼女はうなずいた。「きみも、三年生になれば、わかると思うよ」また、微笑。
 ……きれいな笑いをする人だな。ぼくは思わずにはいられなかった。そしてその直後だった。彼女の言葉に隠されている、重大な事実に気づいたのは。
「……さんねんせい、ですか?」
「うん」もう一度彼女はうなずいた。三年生。二歳とし上。
 ……遥か彼方じゃないか! ぼくはショックに、めまいがしてきた。三年生。まあ、少なくても年上なんだろう、とは思っていたんだけれど……思わずため息が出る。
「どうしたの、ため息なんかついて?」
「何でもないです」ぼくは応えると、歩き始めた。自分でも、肩ががっくりと落ちているのを、感じていた。
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