炭酸の泡のよう

美苑

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一 怯え、迷い、惑う

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 この世の老害が嫌いすぎるので、ぶっ殺してやろうと思い立った。
 老害、老害、老害。この世は老害に溢れている。
 こいつらのために汗水流して働いて、上司からの圧力と部下からの軽蔑の視線で鬱病になり、社会のゴミになりさがって馬鹿みたいだった。
 今、下の階で俺の母親は沈んだ顔をして泣いているだろう。
 たった一人の息子。自分たちの希望を乗せて羽ばたいていくはずだった息子が、今や立派なニートになって自堕落な生活を送っているのだから。実家に住み着いている金食いモンスターと言っても過言ではない。
 全部全部老害のせいだ。こいつらのせいで俺の人生は根本からおかしくなった。
 だから、この世の老害を一人残らず抹殺してやろうと心に決めたのだ。
「……なにさっきからブツブツひとりごと言ってんの」
「あ?るっせえな!ひとりごとじゃねぇよ!お前に話してんの!!」
 横に座ってる友達に俺の苦労話を聞かせてやっていたというのに、なんということだ。こいつは俺がひとりごとを言っていると勘違いしていたようだった。
「働いてうんぬんかんぬん言ってたけどさ、そもそも俺ら働いてないじゃん。まだピンピンの学生だよ。あと下の階の母親とか言ってたけど、ここ公園だから下の階……下にはミミズとかしかいないよ」
「そんなことはわかってるって!俺が馬鹿だとでも言いたいの?」
「うん。正真正銘の馬鹿でしょ」
「はあ!?ぶっ潰すぞ!!……というかお前俺の話聞いてたんじゃん。なんか返事とか相槌くらい打てよな」
「そんな物騒な危険思想に巻き込まれたくないからね。しかも全部妄想だし。一人でやっててもらえないかな」
 ああもう!叫んで頭を掻きむしりたくなった。全く、物分かりの悪い友達だ。
 午前中、学校でイライラが止まらなくて授業の間ずっと貧乏ゆすりをしていた結果、右足に鈍い痛みが張り付いてしまっていた。
 そのせいで余計にイライラしたから、頭の中にあるゴチャゴチャした感情を全部受け止めてもらおうと思ったのに。 
 つまんない気分のまま、背をベンチに完全に預けて全身の力を抜く。憎たらしいほどに晴れ渡った空が視界いっぱいに広がった。悔しいけど、目の端に入った木の緑とすごくマッチしていてなぜか泣きそうになった。
「危険思想?最近の若いやつってみんなそう思ってんじゃねーの」
「思ってるかもしれないけど、お前は特に物騒すぎると思うよ」
 よっこらせとオッサン臭い掛け声と共に、友達が立ち上がった。俺たちが座っているベンチの近くにある自販機へ歩いていく。
「なー、俺コーラ」
「自分で買ってよ」
 口ではそう言うが、友達は優しいので俺に140円の小さいコーラの缶を買ってくれた。自分用のアイスティーを持ってない方の手でコーラを投げ渡してくる。
「ありがとーな!なんだかんだ言ってお前俺にやさしいよな!!大好き~♡」
「…………」
 缶のプルタブを引っ張りながらわざとらしく叫ぶと、いつもは俺のジョークを軽く流してくる友達が何も言ってこなかった。無言のままどっかりと俺の隣に腰をおさめて、アイスティーをごくごく飲み始める始末だ。
 そんなに喉乾いてたのかよウケる、と思いながら俺もコーラを飲んだ。
 喉をチクチク刺激しながら炭酸が通り抜けて行って、爽快な気分になった。前から思ってたんだけど、コーラってヤクと同じ中毒性がある気がする。薬やったことないからホントの中毒性なんて知らないけど。
「?どったの、黙っちゃって」
「……いや。お前は何も考えていないんだろうね」
「はぁ~!?考えてるけど!考えてますけど!?俺なりに一生懸命いろんなこと考えて生きてますけど!!」
「そういうことじゃないんだけどな……まあいいや。いろんなこと考えてるからさっきみたいな危険思想が頭の中に沸くんだね。なるほど、勉強になるよ」
 ふんふんと大袈裟に友達が頷いて煽ってくるものだから、俺はカッとなってしまった。目の前が真っ赤になって冷めた顔をしている友達のことしか目に入らなくなる。
 今日の友達はなにか、どこかがおかしい気がした。
「――っ!!なんなんだよさっきっから!!」
 気づいたら勢いのままに立ち上がって、飲みかけのコーラ缶を友達に投げつけてしまっていた。
 カラン、と軽い音がして缶が土の地面に転がる。
 髪の毛をコーラでびちゃびちゃにした友達が、さっきまでと変わらない冷えた目線でこっちを見つめていた。毛先からぽたぽた頼りなく落ちるコーラが、制服の真っ白なシャツに汚い茶色の水玉模様を描きあげている。
 それが幼稚園児が描くへったクソな絵みたいでおかしいなと場違いな感想を抱いた。
「…………どういうつもり」
 笑いはもちろん、怒りすらも感じられない冷えた声音が俺を現実へ引き戻す。それには何の感情もこもっていなくて、AIが喋ってるみたいな妙な違和感を感じた。
 友達が友達じゃない何かに変わってしまったような気がした。
「ぇ、あ……」
 謝らないといけないと思った。
 頭を下げて、ごめんって一言をいわないと。そうしたら友達もいつもの調子に戻って笑ってくれる。きっとそうだ。そうなのに、頭はもうイカれたように動かなくて口から意味のない音を垂れ流すことしかできなかった。
 頭の中のまだマトモな壊れていないところが、素直に謝れと熱烈に訴えかけてくる。俺もそれが正しいとわかっていたし、そうしようとした。
「…………」
 でも、俺の身体は思ったように動こうとしない。
 謝ろうと決心して、汚い水玉模様からコーラ濡れの友達の顔に目を移して――その途端に、足は俺の意思に反して踵を返し公園の入り口へと駆けた。この上なく完璧なスタートダッシュだ。
 角を曲がるときに、ベンチに座り続ける友達の姿が見えた。
 あいつは俺を追いかけることもせずに、逃げ去る俺の姿をただただ、見ていた。


 あーあ、やっぱ謝るべきだった。ここ数日、そんなモヤモヤした気分で心は埋め尽くされていた。
 コンビニでレジ打ちのバイトをしていても、まるで集中できずにずっと夢を見ているような感覚だった。
 あれから一週間経つけど、友達とは全く話していない。
 公園コーラ事件(俺が命名した)が起きてから、登下校も一緒にしなくなった。それだけではない。昼飯を一緒に食べなくなったし、寝る前のLINEの送りあいもなくなった。
 なんだか気まずくて、俺から話しかけることができなかった。おはようって一声かけて、この間はごめんな!俺もイライラしてたんだ。と、簡単な言葉を言えばいいだけなのに。
 俺が話しかけないからか、あいつから絡んでくることもなかった。
 思えば、こうなる前からそうだったかもしれない。いつも俺が一方的に絡みに行っていて、あいつから話しかけてくることはほぼなかった。そう気づいてしまうと無性に腹立たしくて寂しくて、やるせない気分になった。
 俺が勇気を出して謝れば、元通りになるのに。
「……クソ」
「ハァ!?なによ、今アタシに向かってクソって言った!?聞こえたわよ!ちょっと、一体どうなってるのこのバイト!!信じられない!!店長は!?店長呼びなさいよ!!」
 脳死でレジ打ちをしている俺の前にいた客がキレ散らかし始めた。ババア様の普段は機能しない、それこそクソみたいな聴力は、悪口に対しては確実に効果を発揮するらしい。
 騒ぎを聞きつけて奥から出てきた店長が、客を宥めて謝り倒し始める。その間客は、俺の態度が悪いだとか、暴言を吐かれただとか、こんな高校生バイトはとっととクビにした方がいいだとか、そういうくだらないことを馬鹿みたいにデカい声で叫んでいた。
 態度が悪いのも暴言を吐いてるのもお前だろ、老害。死ね、早く死ね。
 だいたい、友達にコーラをぶっかけてしまったのも、元はと言えば俺が老害のせいでイライラしていたからだ。やはり、全部全部老害が悪い。
「不快な気分にさせてしまい、申し訳ございません」
 店長が俺の頭を掴み、一緒に深々とお辞儀をさせる。店長はともかく俺のお辞儀には謝罪の気持ちが一切含まれていないので、なんだか笑い出しそうになってしまった。
 ヒステリックに騒ぎ立てるブッサイクな女は、発情した豚みたいにギャーギャー騒いでいたが、やがて飽きたのかコンビニを出て行った。
「もういい!このコンビニには絶対来ないから!!」
 一生来るな、こっちから願い下げだブーース!と、俺は心の中で叫び、捨て台詞を吐いて去っていった女の背中に、立てた中指をプレゼントしてやる。
「あの客にも問題はあるけど、君のそれもやめた方がいいと思うよ」
 その動作を横目で見ていた店長が小さなため息を落とした。俺の行動を注意している言葉だが、声音に咎めるような色はない。
「さーせん。イライラが止まらないもんで」
「大丈夫?倉持くらもちくんは普段とてもよく働いてくれるから、心配だよ。あの客に暴言を言ったってわけじゃないんだろう?」
 さすがコンビニの店長、本当に人が良い。
 隣町のコンビニでバイトしているクラスメイトは、店長がクソだ辞めたいと毎日のように騒いでいるから俺は恵まれているんだと思う。というか、そんなに店長が嫌ならとっととやめればいいのに。
「あーハイ、そうなんすよ。ちょっと友達とケンカしちゃって仲直りできてなくて。それで自分がイヤになって思わずクソって言っちゃっただけで」
「なるほどね。どれくらい仲直りできてないの?」
「……一週間」
 憎たらしいけど、やっぱり好きな友達の顔を思い出す。あいつは今どこで何をしているんだろう。
 俺がこうして友達のことを考えている間にも、あいつは何も気にせずのんびりゲームでもしているのかもしれない。他の人と遊んでいる可能性もある。俺以外の、人間と。
「一週間か。それならまだ大丈夫だと思うよ。だけど、時間が空けば空くほど仲直りは難しくなるから、早めに仲直りした方がいい」
「でも、あいつは俺のことあんま好きじゃないのかもしれないです。俺が絡んでくるから、仕方なく相手してたのかもしれない。だったら、俺は」
 俺が話しかけなかったらあいつは話しかけてこない。俺が一緒に帰ろうって言わなきゃあいつは俺と一緒に帰らない。俺がLINEでくだらないことを送らなきゃあいつは俺にLINEをよこさない。
 つまり、そういうことなのだ。
 どうしようもない、誤魔化しきれない寂しさが胸を満たす。俺の存在はあいつにとって邪魔なのかもしれない。
「嫌いな人のためにわざわざ時間を割いてまで一緒にいる人なんていないでしょ。だから大丈夫だよ。ちょっと勇気を出して謝ればきっと大丈夫」
 店長は俺の背中を痛いくらいにバシバシ叩いた。普段なら痛いといって振り払うそれを俺は振り払わず、受け入れる。
「ほ、ほんとかな。ほんとに、元に戻れるかな」
「うん。大丈夫。こっちがすごく気にしていることって、相手はあまり気にしてないことが多いんだよ」
 店長の言葉が嫌に力強く聞こえた。相手はちょっと肥満気味の独身のオッサンなのに、どうしてこんなにも心強いんだろう。目の奥がツンとして、俺は必死にそれを知らないふりをした。
 視界が滲んで前がよく見えなくなっていたのは、誰が何と言おうと背中の痛みのせいなのだ。
「ところで、どうしてケンカしたの?」
 完結に説明すると店長は、俺が友達にコーラをぶっかけて仲違いしたという話をそれは大層おもしろがった。そんなことができるのは学生時代くらいだと大絶賛された。
「あっはっはっ!コーラぶっかけたくらいで友達を失ってどうする!明日仲直りしなよ!!ハハハハ」
 こっちは真剣に焦っているというのに、そう豪快に笑い飛ばされてしまってはなんだか仲直りも楽勝な気がしてくる。
 次のシフトのやつが自動ドアから入ってきて、大笑いしている店長と涙目の俺を見て怪訝そうなギョっとした顔をしながらバックヤードに消えて行った。
 時計を見るともう一八時を回っていて、俺のバイトの時間はいつの間にか終わっていた。
 その帰り道に、ポケットの中に入れっぱなしになっていたメントスを口の中で転がしながら、明日は絶対に謝ろうと覚悟を決めた。
 メントスのスースーした味が俺の迷いと怯えもさっぱりなくしていくように思える。


 深く頭を下げて誠心誠意謝ると決めていたのに、友達は今日学校に来ていなかった。担任が言うには体調不良で休んでいるようだ。
「んでいねぇんだよ……」
 今日も今日とて自席で一人寂しく弁当をつつく。そのうち、これに慣れてしまいそうな自分がいて少し嫌だった。 周りのクラスメイトは仲良しグループで固まってワイワイ昼食をとっていたが、そこに入る気はさらさらない。
 そもそも、俺は友達とずっとくっついていたから他のクラスメイトとはそこまで仲良くなかった。話す機会があれば話すけれど、それ以外では全く関わらない微妙な距離感。
 友達はマジメちゃんなのでずる休みはしない。体調を崩したのは事実だろうが、どうしても俺を避けているように思えてしまって虚しかった。
「アー……帰りに家行ってみっか……」
 LINEでも送ってみようかと思ったが、「今日風邪?ちゃんと健康管理しないからいけないんだよ、バーカ」とか送ってしまう気がしてやめた。どうやっても素直にLINEを送ることができないのだ。バカは自分だろ。
 俺が送らないから全く動かない友達とのトーク画面を見ているのも馬鹿らしくて、スマホの電源を切ってポケットに滑り込ませた。
 弁当の中に入っていた少し萎びたウインナーを口に入れる。母さんには悪いけど、あんまおいしくない。一口かじって、残りは弁当の中に戻した。
「倉持、今日も一人なの?」
 右側の隣席の女がこちらに体を向けて、馴れ馴れしく俺の名前を呼んできた。珍しいなと思った。たぶん授業以外で話したのは今が初めてな気がする。
 名前はなんだったか。たぶん山田とか山本とか、なんか山がつく名前だったと思う。今までずっと興味がなかったからよくわからない。
「え、うん。そうだけど」
「最近一人でお弁当食べてるよね」
 安達あだちとケンカでもしたの?と女の目線が後ろの方の友達の席を捉える。
 俺と友達は新学期が始まってから今までずっと昼飯を一緒にしているから、不思議に思われたのだろう。
「あーそう。ちょっとケンカした」
「えー!そうなの!?なんでケンカしちゃったの?すごい仲良しなのに、珍しいね」
 どうしてこの女はこうもずけずけと話しかけてくるんだ。俺たちがどうしてケンカしたかなんて、この女に教えて何になるだろう。
 そういえば、女って言う生き物は好奇心の塊だから教えるまで引かないんだよ、面倒くさいよね。と、友達が言っていた。あいつは姉がいるから女の生態をよくわかっているのだ。
「俺があいつにコーラぶっかけただけ。今日謝ろうと思ったのにあいつ休みやがったんだよ」
「ギャハハハ!なにそれ!!コーラぶっかけるとか、おもしろすぎ!!」
 人のケンカがそんなにおもしろいのか、女は涙を流して笑っていた。いい加減どこかに行ってはくれないだろうか。鬱陶しくて殴り飛ばしたくなってきた。
 もう食べる気の失せてしまった弁当の蓋を閉めることで、イライラしてきた気持ちも押し込めようとする。わかりきっていたことだったが、そんなことをしても俺のイライラはこれっぽちもなくならなかった。
 女が机に頬杖をついて「ねぇー」と甘ったるい声を出した。
「倉持と安達って絶対おもしろい人たちだよね。なのにさ、なんでみんなと絡まないワケ?」
「え?それは……」
 必要を感じない、というのが正直な感想だった。他の人と絡む必要性を感じない。俺は友達がいればいいし、友達だって俺がいれば……。
 友達は、どうなんだろう。別に横にいるのが俺じゃなくても、いいのではないか。
「前から思ってたんだけどさ、ずーっと二人で一緒にいて他の人とは全然喋んなくて、なんかさぁ、おかしいよね」
「は?」
「だってさ、二人で毎日べったりしてるからみんな話しかけられないんだよ。ふたりの世界っていうのかな。まーなんていうか、そんなのができあがっちゃってるみたいなカンジ?」
「何言ってんの、お前」
「倉持と安達の周りにだけバリア張られてるみたいな。なんか、変だよ」
 思ってもみなかったことを言われて、目の前が白くチカチカするみたいな感じがした。
 ふたりの世界だなんて。俺たちは、そんな、特別な関係なんかじゃない。
 ちょっと距離が近かったり互いの家に泊まりあったりすることもあるけど、俺たちの関係はただ一言、親友と表せるもののはずだ。
 四年前、誰も知ってる人がいない中学校の教室に入って、あいつに出会った時からずっとそうだったはずだ。
「今日話してみて思ったけどさ、倉持と安達はずっとケンカしてた方がいいんじゃない?ハハハ、なーんつって!今度みんなで遊び行こうよ、ね?」
 女は媚びるみたいに首を傾げ、笑顔を俺に向けて教室を出て行った。かわいさをアピールしたつもりなのかもしれないが、俺にとっては不愉快極まりない微笑みだった。
 誰が一緒に遊びに行くかよ、バーカ。
 廊下でさっきの女が、仲間であろう派手な人たちと笑いあっているのが見えた。指こそ指さないものの、視線は完全に俺に向けられている。もっと隠せよ。
 教室の扉でいくらか音は遮断されているはずなのに、俺の耳にはやけにはっきりと奴らの笑い声が響いた。
 アハハ、アハハハ、ハハハハハ。
 じくじくと脳みそに入り込んできて、侵されていく。
 べったり、ふたりの世界、おかしい、変。叩きつけられた言葉がぐるぐるぐるぐる身体中を回って、それすらも俺を笑っている気がした。
 目が回る。女の笑い声に侵される。脳が揺さぶられる。耐えきれなくなって、弁当がのったままの机に突っ伏した。
「もう、どうすりゃいいんだよ……」
 その日、俺は初めて高校を仮病で早退した。


 家に帰ったは良いが母親も父親も仕事でいないし、やることも何もないのでとりあえずテレビをつける。誰もいない家に、ニュースキャスターの無機質な声がよく響いた。
 ニュースを真面目に見る気も起きず、ボーっと何気なく流し見する。どこかの会社が脱税したとか、どこかの教師が女子生徒にわいせつな行為をしたのがバレたとかそういう話題ばかりが流れていた。
「アホばっかだよな、日本人って」
 俺もその仲間だ、と心の中で付け足しておく。
 とりあえず、棚に無動作に置かれていたカップ麺にお湯を入れた。机の上にカップ麺を置き、その独特な触り心地の表面を指でなぞりながら三分経つのを待つ。
「はっ。なにやってんだか」
 たかがケンカごときでこんなに悩むなんて、まったくもってアホみたいだ。
 小学生の時の俺だったら、ケンカしても次の日何も気にせずに話しかけることができただろうに。高校生にもなると謎のプライドと許してもらえないんじゃないかっていう不安が、俺の邪魔をする。
「うめぇー」
 情緒が崩壊しているのか、たったの三分で完成したカップ麵のおいしさに俺は泣きそうになった。本当に、これを発明した安藤百福に乾杯だ。
 平日の昼間、家に誰もいなくてよかったと思う。涙目でニュースをガン見しながら必死にカップ麵をすすっている息子の姿を見たら、母親と父親は腰を抜かしてしまうに違いない。
 もっとも、ニュースは涙でぼやけていてまるで見えていないけれど。
「ア~どうすっかな~」
 食べ終わって空になったカップとか、箸とかを洗う。
 普段なら自分の分だけ洗って終いにしてしまうのだが、油のこびりついた鍋とかケチャップがついたままの皿とかを、これでもかというほど綺麗に洗い上げた。朝、母親が汚れたまま流しに置いていったものだ。なんとなく皿洗いの時間を延ばしたかった。
 教室にいたくなくて帰ってきてしまったのはいいが、このあとどうするか全く考えていなかった。寝てしまってもいいのだが、やはり友達のことが脳をよぎる。
「家、行ってみっか……」
 体調不良で休んでいたし、見舞いに来たという理由をつけて行けばいいだろう。ついでに軽く謝れば大丈夫、きっと許してもらえるはずだ。
 そう自分を鼓舞して蛇口を閉める。手を濡らしている水を、手を上下に振って雑に振り落とした。
 学ランを脱いで着替える時も、靴紐を結ぶときも、俺の中には隣の席の女に言われて染み込んだ言葉がじくじくと疼いていた。
 心は少しの怯えを訴えかけてきていて、チャリの鍵を差し込む指が震えていたが、俺はそれには気づかないふりをした。
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