黒い人

桶乃ハシ

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黒い人

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 遠くから、人の呻き声が廊下に響き渡っている。この呻き声から逃れたくて、部屋から出たのに。あの、黒い人の声が聴こえて来る。真夜中だと余計に不気味で、背中に氷を入れられたかのように、背筋に寒気を感じてしまう。

 私は入院していた。手術すれば助かる程度だ。それで少しは安心して手術を受けた。そりゃー不安はあったけど、家族や友達が応援してくれたから、頑張れた。そこまではよかった。手術後が最悪。手術から目が覚めると、部屋の中に黒い人型が二人も居たのだ。黒い人は、ずっと呻いていて、苦しそうなのだ。追いかけては来ないが、気味が悪くてしょうがない。それで廊下にある長椅子に今、腰掛けているのだ。手術する前はそんなもの、見たこともなかったのに。霊感でも授かったかのようだ。

 まだ声が聴こえないところへ移動しよう。


──ふと、視線を感じる。辺りを見回した。


 廊下を突き当たって右の壁際に、何か黒いものが見えた。ずしんと、心臓の重みを感じた。黒い人だったらどうしよう。そう思うほど、心臓は重みを増した。行動することさえ、怖くなった。黒いものから目を離せない。

 じっと見ていると、その黒いものはそろりそろりと、こちらへ近づいて来た。逃げようと腰を上げたが、足に力が入らなくて、尻餅をついた。その途端、黒いものはスピードを上げて、こちらへ近づいて来る。廊下を半分辺りまで黒いものが来ると人型だと気付く。部屋で見た黒い人より、だいぶ小さい。それでも怖いものは怖く、黒い人を目から放さないように、手を使って後退りをするが、殆ど動けない。黒い人は、あっという間に、私の目の前に来た──

「どうしたの?」

 近づいて来たのは、五歳くらいの女の子だった。二つ結びをし、大きな落書き帳を抱えていた。普通の女の子に見えるけど、相手に聞こえそうな程の心臓音は、治まらなかった。

「眠れないだけ。あなたはこんな時間に何してるの。ぴっくりしたじゃない」
 
 ゆっくりと、私は立ち上がった。

「ごめんなさい。遊んでたの」

 女の子は朗らかな笑顔を見せた。頬に出来たえくぼが、また可愛らしかった。こんな真夜中に女の子がいるなんて、幽霊ではないかと疑ってしまう。でも、こんなに可愛らしいのなら、幽霊だとしても大丈夫なんじゃないかと思った。

 急に女の子が後ろを向いた。その目線の先は、またしても黒いもの。

「怖いの来てるから、お姉ちゃんこっち」

 私の手を引っ張って、黒いものがいる廊下と反対方向を走り出した。走りながら、何処へ行こうとしているのかわかった。ナースステーションだ。あそこだったら明るいし、看護婦さんも居るから、安心出来そうだ。でも、こんな真夜中に走って行ったら、さぞ怒られるだろう。それでも、黒いものに何かされるよりは断然マシだ。

 明かりが見えた。ナースステーション近くで、女の子はしゃがんだ。人差し指を口にあてた。静かに、と言っているようだ。呼吸が乱れて息苦しいのを我慢して、静かに呼吸し、私もしゃがんだ。それからナースステーションから死角となるように、受付の壁際に張り付くようして、体操座りをした。女の子は、落書き帳をそっと床に置き、白いページを開いた。

 右手には、鉛筆が握られている。
〝あさまでここにいたらだいじょうぶ〟
文字の大きさがまばらで、まだ字の練習が必要な字だった。それが何故かほっとし、和んでしまった。私は口パクで「ありがとう」と伝えた。

〝あしたのおひる そとのいすで まってるね〟

 顔を見ると、にっこり笑う女の子。私は微笑み返した。すると、女の子は落書き帳を閉じると、立ち上がった。ひやりとした。看護婦さんは誰も、気付いていないようだった。

 女の子はすぐに駆け出して行き、黒い影になるほどの距離になって振り向いた。こちらに手を振っているようだったので、手を振り返す。それからすぐに、女の子は見えなくなった。

 強い光に照らされ、目が覚めた。ベッドの上に寝ていた。ナースステーションから戻って来た記憶はない。どうやら、看護婦さんに見つかって連れて来られたみたいだ。

 辺りを見渡すと、やっぱり黒い人がまだ苦しんで呻いている。それも、私のベッド前にいるのだ。またここから抜けなきゃ。急に襲ってきたらって思うと、落ち着かない。

 部屋から出て、女の子が言っていた外の椅子、多分庭のベンチのことだろう。そこへ向かう事にした。
歩きながら思う。何故、黒い人は私の部屋だけなのだろう。廊下には、以前患者だったであろう幽霊が、点滴を持って歩いていたりするし、注射器を持った看護婦さんの幽霊だっている。でも、みんな黒くない。だとすると、私の部屋は特別に何かあったのだろうか。

 気になるけど、看護婦さん達に聞いても無駄なんだろうな。変な噂でも立ったら、大変だから絶対喋ってくれないだろう。

「あの子のいる301号室行くの、怖いのよね」

 通りがかりに、聞こえて来た。看護婦さんだ。給湯室で二人、話しているみたいだ。気になって、壁に寄りかかって、聞き耳を立てた。

「どうもあの子、見えるみたいなのよね。誰もいないのに、隣に誰かいるかのように喋ってるんだから」

「それくらいならまだマシよ。私なんか、数年前の火事のこと聞かれたんだから。ヒヤッとするわよ」

「火事?」

「あぁ、あなたまだいなかったわね。ココだけの話なんだけど」

 三拍程おいて、声が小さくなった。

「いかにも怖そうな男の人が入院してきてね、煙草吸ってたのよ。怖くて強く止めるように言う人がいなかったの。私も怖くて言えなかったわよ。ちょっとでも気に食わなかったら、怒鳴り散らすんだから。それでその男がね、寝煙草して、火事を起こしたのよ。それで一部屋焼けちゃったの。
それも、その男以外に、入院してた患者さん二人いてね……」

「まさか!」

「しっ! 声が大きいわよ。そのまさかよ。可哀想に。あんな男さえいなけりゃこんなことにはならなかったんだから。運が悪いわよね」

 はっとした。あの、黒い人……この話の人かもしれない。そんなおぞましいところに私を入れるなんて、酷いわ。これは後で看護婦さんに言って、絶対部屋を変えて貰わなきゃ。
給湯室から離れ、外庭に出た。目的のベンチは、藤棚があってその下にベンチが置いてある。今は藤が綺麗に咲いていて、短めの紫のカーテンのようだ。ベンチに近寄ると、昨日の二つ結びの女の子がそこに座っていた。

「おはよう」

 女の子は、辺りを窺うようにきょろきょろと見回すと、微笑で、「おはよう」と返しえくれた。病院で話す相手がいると言うのは、すごく嬉しいと思った。女の子の隣に座る。

「その落書き帳、何か描いてるの?」

「見ていいよ」

 最初のページをめくると、看護婦さんだ。あんまり上手くなくとも、ナースキャップや制服でなんとなくわかる。手には、注射器まで持っている。次をめくると、男の人らしく、点滴を押している人が描いてあった。何だか、見覚え
がある。次をめくると、真っ黒に塗られた、人型のもの。

 女の子の顔を見た。にんまりと笑っていて、何も感じてないようだ。どうも、この子には、普通に幽霊が見えているらしい。どれも描かれているのは、私が見た幽霊だ。次をめくった。

 心臓が跳ねた。顔は赤く、それ以外は真っ黒に描かれた人型。髪の毛が長くて、辛うじて女の人だとわかる。何て酷い幽霊なのだろう。これじゃ、成仏出来ないはずだ。

「見たことないな。これは何処にいる幽霊?」

「目の前に居る、お姉ちゃんだよ」


 ──何を言っているの? これが……私?


  そう思った瞬間、私は思い出した。思い出してしまった! そうだ、私が知らない内にこの身体は焼けたんだ。手術が無事に終わって、眠っている間に寝煙草の火事で目が覚めた。その時には既に火が部屋中に回っていて、逃げられなかったんだ。

 思い出したら身体が熱い。手足の先の感覚は無くなっているのに、痛い。

「お姉ちゃん、もう苦しまなくて大丈夫だよ。もう、何も痛くないよ。だからね、お空に行きたいって願えば、苦しくないよ」

 女の子は私に抱き着いた。ほんのり温かい体温に、自然と痛みが無くなったような気がした。

「ねえ、私が怖くないの?」

「お姉ちゃんが笑うとね、ちゃんと笑顔なの」

 そう言って、落書き帳の次のページを女の子は捲った。そこには、明るい顔色で描かれた笑顔の女性の顔があった。

「これ、私?」

「そうだよ。お姉ちゃんはまだお姉ちゃんだから、こう見える事があるの。だから怖くない。だけど」

 俯いた女の子は足をぶらぶらと揺らして、黙ってしまった。子どもなりに考えているのだろうか。こんな幼い子が怖いものが見え、他人を気にしている事が、異様に見えた。

「このままだとお姉ちゃんも黒い人になっちゃう。だって、だって、本当は五回目だから」

 足を揺らすのを止め、女の子はジャンプするようにしてベンチを降りた。

「同じことを五回してるの。だから、これが最後……お姉ちゃんは頑張ったんだよ」

 目頭が熱くなった。女の子が言っている事が理解出来たと同時に、何も、思い出せなかった。

「も、もしかして私、あなたのこと、五回も忘れてるの?」

 今度は女の子が泣く番だった。無造作に目元をごしごしとこすって、涙を拭っている。涙をなかったかのようにしたそうに、何度も何度も。

「でもね、でもね、お姉ちゃん、お話できて良かったの。何度もお話できてよかったの」

 私は立ち上がり、女の子を抱きしめ、頭を撫でた。懐かしい気がした。以前、誰かの頭をこうして撫でていた気がした。誰をこうして撫でていたのだろうか。もう、今の私には何も思い出せなかった。

「あっ」

 不意に女の子が声を出した。それもそのはず。私の手先が消えていく。それは波紋が広がるように身体が消えていた。

「ねえ、最後に名前を教えて」

 消えてしまう前に、聞きたいと思った。

「は、はずき! はずきだよ」

 胸の奥がどしんと重くなった。これが何を意味するのか分からないまま、私は女の子に笑顔を向けた。

「はずき、ありがとう」



 
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