【R-18】色彩

八百万 研磨

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-2- ひめごと

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 社員に与えられる休憩時間は、原則1時間。12時から13時に固定されている。都心に構えたオフィスなら徒歩でランチに繰り出すところだが、田舎ではそうもいかない。周囲には低い民家が点在するばかりで、小洒落た飲食店など望むべくもなかった。
 女性社員の中には、自家製の可愛らしい弁当を開けている者もある。男でも家庭のある者は、温かい弁当にありつくことができた。問題は独り身の男である。出勤の道すがら、コンビニで仕入れた冷たい食料を詰め込むか、車で10分ほどのところにある、大手チェーンのファストフード店に頼るほかない。健介はジャンクフードのために営業車を出す気になれず、120円のおにぎりを三つ平らげて、胃袋を誤魔化すことにした。
 事務所の手洗い場で歯を磨き、リステリンで口を洗い流すと、ようやく海苔の味がさっぱりした。午後からは、昨日までに獲得したアポ先を回ることになっている。必要な営業資料は、午前のうちに揃えてあった。健介は鏡の前で顔面の緊張を解し、スマイルをチェックしてから便所を後にして、その足で玄関に向かう。近頃は、作り笑いも随分自然になったと思う。不機嫌な中年男たちの前で、へらへら笑いながら、へこへこ頭を下げる自分も、受け入れられるようになってきた。これが、大人になるということだ。
 ドアの外では、設置型の灰皿を囲み、同僚達が煙草を吸っていた。立ち昇る煙を尻目に敷地を出て、事務所からほど近い場所にある、寂れた公園を目指して歩く。短い道中は、日中とは思えない静けさである。
 公園は、ゆったりした足取りでも横切るのに一分とかからない。雲梯や滑り台など、申し訳程度に設置された遊具は塗装が剥がれ落ち、剥き出しの鉄が錆びついている。まばらに立つ樹木だけが、わずかに生命感を放っているようだが、いまいちピンとこない配色だった。
  健介は、廃墟のような公衆便所の前の古いベンチに腰掛けた。見た目には朽ちているが、男の体重を支える強度は保たれているようだ。寂れた公園で一人、俯き加減に座っていると、雑念が引っ切り無しに降ってわいた。主として、卑猥な内容である。明鏡止水の境地など、自分には一生たどり着けるものではない――健介は内心苦笑したが、この後のことを考えれば、無理からぬこともであった。脈打つ胸と下半身を宥めるべく、大きく深呼吸をすると、停滞した空気の中に、木々が放つ柔らかな春の香りが微かに混ざる。それらは紛れもなく、降り注ぐ陽光が生み出したはずのものだが、健介にはどこか、彼女の匂いに似ているように感じられた。
 明日香との距離を縮めたのは、意外な共通点である。
「あれ、松岡さんじゃないですか?」
 ある月曜日の早朝。団地の住人専用の集積所に、はち切れんばかりのゴミ袋を放り投げた健介は、足早に部屋に戻りかけ、不意に呼び止められた。
「……山田さん?」
 明日香は、部屋着にジャンパーを羽織っただけの、寒々しい服装で立っている。やはり、ゴミを出しに来たらしい。化粧こそしていないが、髪は梳かれ、不自然な癖は見られない。最低限の身繕いは済んでいる。一方の健介は、パジャマ代わりのジャージー姿で、髭も剃らず、寝癖もそのままである。
 健介のものと比べると、随分小ぶりなゴミ袋を集積所に積み上げてから、明日香は意外そうな口調で言った。
「もしかして、この団地にお住まいなんですか?」
「……ええ、まあ」
 気恥ずかしさから、健介はやや顔を背けて答えた。
 つい数日前に、入社の挨拶を受けたことで、彼女の顔は記憶に新しい。細身で、若々しく、美しい女である。見た目には、子を持つ母親とは思えない。同僚の中には、早々に情欲の視線を向ける者も多かった。男たちは喫煙所で、酒の席で、いかにして明日香の肉体を手に入れるか議論を重ねた。当初、美人な派遣社員程度の認識だった健介も、同僚たちの声を聞くごとに、自身の彼女を見る目が変化するのを、意識せずにはいられなかった。やがて健介は、狭い団地の一室で、ひとり自らを慰める時、明日香を思い浮かべることが増えた。アダルトサイトを回遊し、好みの動画を見つけても、肝心のところになると、何故か明日香の姿が浮かんでしまう。想像の中で、明日香の肌を、頭から爪先までしゃぶり尽くすうちに、絶頂を迎えるのである。
 職場で注目を集める美女と、広義では同じ屋根の下で暮らしていることが判明したのだ。嬉しくないわけではない。だが妄想の中で、本人が知れば激怒しかねないことを連日している。日頃の行いが祟り、気まずさが勝っていた。
 ところがこの日以降、どういうわけか、頻繁に明日香と顔を合わせるようになった。近隣の催し物で、選挙の投票会場で、他愛もない世間話をする。同じ区域の同じ団地に住んでいるため、当然共通の話題は多い。健介は仕事にせよ私生活にせよ、雑談に苦手意識があったが、言葉に詰まる心配はなかった。そんな日々を重ねる中で健介は、彼女が以前の夫と別れていること、現在は両親と同居し、幼い娘を育てていることなどを把握していた。
 ある日の休日、健介は団地の前で、幼い少女の手を引く明日香を見かけた。少女は明日香の気を引こうと、盛んに身振り手振りをしながら、何事かを話している。それを妨げないように、健介は無言で通り過ぎようとしたが、会釈しすれ違う刹那、視線がしっかり絡み合ったのは気のせいではない。ほんの数秒の間ではあるが、明日香の表情は母ではなく、女のものであった。
「健介さん」
 回想に沈んでいた意識が急激に引き上げられ、健介ははっと顔を上げた。落ち着いたトーンの声が、風のようにするりと流れ、停滞した空気を洗い流した気がする。健介の目に映る風景は打って変わって、明るい色彩へと変貌していた。
「お待たせしました」
「あ、どうも……」
 入り混じる期待と緊張を悟られないように、座ったまま軽く手を挙げて答えた。
 明日香は人目を気にする素振りを少し見せてから、健介の隣に腰かける。
「失礼しますね」
「あ、はい」
 健介はふと、朽ちたベンチが大人二人の体重を支えられるか心配になった。しかし口にするのは野暮なので、黙っておく。いざとなれば、自分が何とかすればいい。
 代わりに、他愛もない話題を振ってみた。
「もう、お昼は済ませたんですか」
 明日香は、微笑んで答えた。
「ええ。まあ、簡単なものですけど」
「自分で作ってきたんですか? 流石ですね」
「昨日の残り物ですよ。大したものではありません。健介さんは?」
 健介さん――彼女は、二人きりの時に限り、名前で呼んでくれる。その都度、健介の胸は、どうしようもなく高まってしまう。
「俺は……コンビニのおにぎりですね」
「おにぎりだけ? それで、足りるんですか?」
 言いながら、明日香が腕を絡めてきた。大胆にしなだれかかりながら、健介の逞しい上腕をぺたぺた撫でる。先手を打たれ動揺する健介に、明日香は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「せっかく、ガッチリしているのに……痩せてしまいますよ?」
 その手つきは、どことなく淫靡だ。
「そんなことは、まあ、あるかもしれませんね」
 健介は必死で平静を保とうとしたが、下半身の変化は制御しきれない。おそらく、明日香も気づいているはずだが、健介の身体を走る手が止まる気配はない。
「そうでしょう。今度、あなたの分も、作ってきてあげましょうか」
「いやいやそんな、申し訳ないですよ」
「いいんですよ。どうせ、ついでですから……」
 会話は、そこで途切れた。健介はしばしの間、明日香のしたいようにさせていたが、次第に我慢ならなくなってきた。
 元より、軽口の応酬が目的で、彼女と待ち合わせたわけではないのだ。
「明日香さん……」
 健介は背後の公衆便所を目で示し、明日香の手を引いて、ベンチから立ち上がった。
 休憩時間は限られている。誰かに見られる可能性もあった。残念ながら、まったり過ごす余裕は無い。
 背後の古い公衆便所にも、一応男女の概念が存在したが、健介は構わず男便所に明日香を連れ込んだ。足を踏み入れると、乾いた小便器が整列し、二人を厳然と出迎える。清掃されている様子はないが、風通しが良く利用者もないので、不思議と清潔感があった。
 健介は人目が遮られたのを確認するや、明日香を抱き寄せ唇を奪おうとしたが、制止される。化粧が落ちるのを気にしているのだろう。いつものことなので、大きなショックなかった。
 切り替えて胸を弄るが、下着の硬い感触を得るばかりだ。乳房は秘匿されている。健介はじれったくなり、明日香の上着の裾を掴むと、一息に顎まで捲り上げた。すると、カップ付きの白いキャミソールが露わになる。上から胸に触れてみるが、当然ながら、感触は大して変わらない。とは言え、この場でこれ以上脱がすには骨が折れそうな代物だった。
 健介は乳房を拝めない口惜しさを噛みしめながら、せめてもの慰めにと、胸元に顔を埋める。谷間に鼻を突っ込んで、大きく息を吸ってみた。途端に、濃厚な女の匂いが立ち込める。男の本能を刺激する、甘酸っぱい、官能的な香りである。
 健介は胸を締め付けられるような切なさを覚え、はち切れんばかりに膨張したズボンの先端を、明日香の下腹部に押し付けた。腰を振りながら夢中で深呼吸をしていると、不意に頭を撫でられ、健介は我に返った。
 はっとして見上げれば、明日香が聖母の如き笑みを浮かべ、囁くように言う。
「手で、してあげますね」
 ここまでは、ある種お決まりの展開であった。
 明日香は健介のズボンに手をかけ、ジッパーを下ろす。慣れた手つきで健介のものを露出させると、絶妙な力加減で扱き始めた。
「気持ちいいですか?」
 柔らかい声音の問いかけに、健介は無言で頷いた。明日香の手が上下するほど、逸物が益々膨張し、熱を帯びてくる。
 ところが、昂るものとは対称的に、健介の胸は不思議と落ち着きを取り戻し、穏やかに鼓動していた。さながら母の胸に抱かれる幼子の心境である。健介は目を閉じ、肩の力を抜いて、全てを明日香に委ねた。
「気持ちいい……明日香さん……」
 表を流れる風の音が、やけに大きく聞こえてくる。
「……”さん”は、要りませんよ」
「……明日香」
「ふふ……はぁい……」
 健介の耳元で返事をしながら、明日香の手つきが少し速まる。
「あぁ……っ……」
 快楽の渦に飲まれまいと、母に縋る子供のように、健介は明日香にしがみついた。時折、明日香の首筋や耳元にキスをしたり、小ぶりな尻を撫でたりするが、いずれも効果は薄いようだ。
「これ、お好きですよね」
 健介の拙い抵抗を楽しむようにしながら、明日香は手つきに変化を加えた。犬の顎を撫でるように、健介のものを、裏からなぞり上げてくる。
「あ、ああ……」
 健介はたまらず、返事とも喘ぎ声ともつかない声を上げ、目を見開いた。そうしてようやく、息のかかるような至近距離で、明日香がこちらを見つめていることに気づいた。
 明日香は相変わらず、健介の反応を嬉しそうに眺めながら、逸物を愛撫し続ける。
「あぁ……あ……っ」
 たまらない――健介は思わず、女のような声を漏らしていた。気持ちいい、というよりは、心地よい。
このままでは、すぐに達してしまう――健介は腕を上げ、再び明日香の胸に触れた。
「ん……駄目。駄目ですよ」
 想像以上に強い力で、明日香の胸を握ってしまったらしい。自分でも理由は分からなかった。子供のいたずらを窘めるように、手を”めっ”とされたが、健介はとにかく彼女の胸のふくらみに触れていたかった。
「もう……」
 言葉とは裏腹に、明日香もまた恍惚な表情を浮かべ、健介をじっと見返してくる。セックスの中で、明日香は時折嗜虐的な一面を覗かせたが、同時に被虐趣味の気質も併せ持っているようだった。健介の、若く荒々しい愛撫に、明日香はしばしば明確な反応を見せたのである。
「明日香……! 明日香……!」
 健介は明日香を呼びながら、下着の形状が歪みかねないほどの力で、胸を強く揉みしだいた。
「……っ」
 苦痛に、明日香が眉間に皺を寄せたが、絶頂を迎えつつある健介には、気にする余裕がない。胸に触れたことで興奮が高まったのか、射精感が一気に押し寄せていたのである。
 数秒後には、破裂しそうなほど昂ったものから、勢いよく精液が飛び出していた。
「あぁ!! あっ……あ! ああああ!!」
健介は喉を晒し、便所の天井を仰ぎながら、たっぷり10秒近くもの間、射精していた。明日香は、吐き出された欲望を、手のひらで受け止めたらしい。重力によって、指先から精液が糸を引き、薄汚れた床に滴り落ちている。
 絶頂の余韻からか、脚に力が入らない――呼吸が整い、足腰に力が戻るまで、健介は明日香の肩に縋りついていた。
「沢山出ましたね」
 明日香はポケットティッシュで指を一本一本丁寧にふき取りながら、笑みを浮かべた。
「気持ちよかったですか?」
「……はい」
 健介が下半身を露出したまま、弱々しく返事をすると、明日香は満足したようだった。気恥ずかしさから顔を反らしつつ、萎びた物をズボンに押し込んでいると、明日香は嬉しそうに回り込んでくる。
「……なんですか?」
「いいえ、べつに」
 いつになくニヤつく明日香に、むっとした。
 健介は、獲物を捕らえる肉食動物のような速度で、明日香に抱きついていた。
「あ、ちょっ……」
 明日香は驚き、身を固くしている。壁を背負わせるようにして、逃げ場を与えない。健介は有無を言わさず、スカートを捲り上げ、下着の中に指を滑り込ませる。
「あ、だめ!……あっ」
 指先に陰毛が触れた。
「お礼を、させてください」
 囁きながら、茂みをかき分け突き進むと、水っぽい感触を得られた。慎重な手つきで陰核を探り当て、軽く小突いてやると、明日香の身体がぴくりと震えた。
「……っ」
 無抵抗を良いことに、健介は明日香の下腹部を弄んだ。先ほど、明日香が自分にしたように……。
 少しずつ、少しずつ、下着の中の湿度が増してきたようだ。明日香の秘所から、淫水が漏れだしているらしい。形勢逆転の手ごたえだった。
「……脱がせてくれますか」
 歓喜する健介に、明日香がぽつりと言う。下着の汚れを気にしているようだ。健介は頷き、しゃがみ込んで、スカートの中に両手を差し入れる。明日香の腰骨のあたりに指を掛け、膝下まで来ると、めくれ上がったショーツが姿を現した。そのてっぺんに、染みが浮いている。それを見た健介の下半身は、早くも熱を取り戻しつつあった。
 健介は、スカートの下の光景を想像し、生唾を飲んだ。明日香の秘所は今、半ば外気に晒されている。スカートを捲れば、たちまち露わになるだろう。だが健介は、すぐにでもスカートを捲り上げたい衝動を堪え、明日香の顔を見上げて言った。
「スカートを、自分で捲ってください」
「……え?」
 明日香の目が揺れている。戸惑いは、どうやら本物らしい。驚いているとき、迷っているとき。そんな時、明日香は押せば動いてくれる。健介の経験則だった。
「お願いします」
 畳みかけるように言うと、明日香は恐る恐る、スカートの裾に手をかけたが、そこで止まってしまう。
「さあ、お願いします」
 健介はじれったくなり、僅かに語気を強めた。急かされた明日香は、スカートの裾をぎゅっと握りしめ、か細い声で答えた。
「……分かり、ました」
 明日香は意を決したように、目を固く閉じると、スカートを胸元まで捲り上げた。
「おお……」
 ガラスの無い窓から差し込む光が、明日香の下半身を照らし出している。清楚な見た目とは裏腹に、下腹部の茂みは濃い。無造作に伸びた陰毛は、整った容姿には少々不釣合いだが、むしろ猥褻な印象を抱かせる。
 健介が感嘆の声を上げると、明日香は慌てたように、内腿をぴたりと閉じてしまった。
「そんなに見ないで……恥ずかしい」
「いいや、もっと、よく見たい」
 我慢しきれず、健介は両手で、明日香の腿を強引に開かせた。
「あ、やだ……やめて」
 言葉とは裏腹に、明日香はスカートを下ろそうとはしない。ならばと、健介はむっと熱気を帯びた股座に顔を近づけ、息のかかるような至近距離で、女陰をじっと鑑賞する。剛毛に覆われ、やや黒ずんでいる。それなりに、使い込まれているに違いない。健介の胸に、嫉妬に似た感情が生まれた。大切なものが目の前にあるはずなのに、実際は自分と全く関わりの無い世界にあるような、切ない感情――しかし、綺麗だとも思った。そして何故か、いつか見た明日香の娘を思い出した。幼稚園に上がるかどうかの、幼い少女だ。あの日少女は、母と見つめ合う男を、不思議そうに見上げていた……。明日香はあの子を、ここから産んだのか――そう思った瞬間、健介は明日香の股座にしゃぶり付いていた。
「あっ!」
 意図せずがっついてしまったせいか、明日香が驚きの声を上げたが、健介は構わず唇と舌を器用に使って、陰部全体を丁寧に舐めまわしていく。
 縮れた陰毛と、仄かな尿の匂いが鼻を擽る。染みだす淫水を舐めとる、ぴちゃぴちゃと卑猥な水音が、間断なく古い便所に響き渡った。
「……あ……あ!」
 抑えきれない嬌声が、くすんだ壁を木霊する。立ち並ぶ小便器に見守られながら、明日香は膝を震わせ、時折ぴくりと痙攣した。それは決まって、健介が明日香の陰核を攻めた時だった。
「ああ……健介さん……」
 名前を呼ばれ、応えてやりたい気もしたが、明日香の膣から湧き出るものを、一滴も逃したくはない。健介は明日香の腰を両手で掴み、犬のような貪欲さで、明日香の股間を執拗に舐め続けた。少し苦みのある、奇妙な味だ。お世辞にも美味いとは言えないが、味などどうでも良かった。たとえどれほど不味かろうと、自分はこうして、明日香の股座に食いついたに違いないのだ。
「ん……っ……あ……! ああ!」
 それからしばらくして、明日香の身体がひと際大きく痙攣した。見ると、最奥への入口がひくひくと蠢いて、夥しい量の水分を吐き出していた。
 どうやら、絶頂を迎えたようだ。健介は顔を離し、愛液に塗れた口元を拭う。随分長いこと明日香の股座に顔を埋めていた気がするが、時計を見ると、さほどの時間は経っていないらしい。
 今なら、ギリギリ間に合うか。健介が立ち上がり、一度は収めた逸物を取り出そうとしたとき、明日香がすっとスカートを下ろしてしまった。
「……それは、だめです」
「……え?」
 明日香は肩で息をしながら、じっと健介を見つめていた。明日香の顔には未だ赤みが差しているが、目には理性の色が戻っている。明日香は、首を振って言った。
「今日は、だめな日なので……」
 健介は、己の迂闊さを呪った。避妊具を持参していない以上、交渉の余地が無い。有効な材料も無いのに、熱意だけで押し切る行為は、後々良い結果をもたらさないことを、健介は日々の業務を通じ知っている。
 だが、肩を落としている暇はなかった。
「……拭いて、くれますか?」
「えっ?」
 予想外のリクエストだった。健介が驚いて顔を上げると、明日香は艶美な笑みを浮かべて、使いかけのポケットティッシュを差し出してきた。反射的に受け取ったが、興奮の冷めた頭では、どうしていいか分からない。
 健介がまごついていると、明日香は自ら、再びスカートを捲り上げ、下半身を露出した。
「こんな状態では、下着が汚れてしまいます。お願いできますか?」
 茂みから下が、まるで風呂上りのようだ。湿り気を帯びた陰毛が絡み合い、束になっている。内股には、幾筋もの液体の伝った跡が見て取れた。これでは、午後の業務に差し支えるだろう。
 原因は全て、紛れもなく、健介が無遠慮に舐めまわしたことだ。
「……分かりました」
 健介はポケットティッシュを二、三枚引き抜いてから、再びしゃがみ込んだ。手始めに内股の汚れをふき取りにかかると、明日香が擽ったそうに身もだえして、吐息のような声を漏らした。
「ん……っ」
 ただそれだけのことで、再度膨らみ始める軽率な分身を叱りつけながら、健介は作業を進めた。
 内腿を一通り拭き終え、秘所に移る。まるで髪を乾かすように、陰毛を上からごしごしふき取ると、たちまちティッシュの含水量が限界を迎えてしまった。すかさず、新しいティッシュを引き抜き、適当に丸めて股間を拭ってやった。
「ふふ。ありがとうございます」
「いえ……」
「でもやっぱり、ちょっと恥ずかしいですね」
 下着を履きながら、明日香は本当に恥ずかしそうに赤面していた。恥ずかしいのは、お互い様だろう。健介は内心膨れながら、密かに股間の位置を調整した。
 それから後始末に使ったティッシュを、全て大便所に流す。廃墟に等しい便所だが、水が流れることは確認済みだ。
「戻りましょう。先に、行ってください」
 服装を直して、明日香は言った。二人で帰社しては怪しまれるので、いつも時間差で事務所に戻ることになっている。順番は毎回、健介が先である。明日香を一人残すのは心配だったが、細々とした身繕いなどもあるのだろう。黙って従うことにしていた。
 だがその前に、やり残したことが一つある。
「分かりました。……それでは」
 健介は公衆便所から出る振りをしてから、くるりと向きかえり、明日香を強く抱きしめた。この場で、ひとつになれない悔しさを含んだ抱擁だった。
 健介の行動が意外だったのか、明日香はしばし硬直していたが、やがて遠慮がちに、健介の背中に手を回してきた。身体が繋がっていなくても、心だけは、常にひとつでありたい。肉欲に勝るとも劣らない切実な感情が、健介を突き動かしている。
 それは彼女もまた、同じだと信じていたかった。
「それでは……また、後で」
「……はい」
「明日香、好きだ」
 さながら、絞り出すような告白だ。彼女にしてみれば、未熟な言葉かもしれないが、一瞬の間をおいてから、遠慮気味だった明日香の腕に力がこもる。
「健介さん。私も、あなたのことが好きです」
 この言葉を告げる瞬間だけは、明日香の声音から、遠慮や躊躇の類が一切消える。健介には、それがこの上なく嬉しかった。
健介は明日香の体温を十分に味わってから、身体を離した。何も、今生の別れなどではない。それでも、拭い難い名残惜しさ宿した目で語りかけてから、健介は公衆便所を出た。なるべく早く、立ち去らねばならない。周囲に人目が無いのを確かめ、健介は音もなく公園を後にする。
 脳裏に落とされた一点の色彩が、モノクロの人生を、瞬く間に塗り替えていた。見上げれば、太陽が依然として、薄い雲を通して地上を照らしている。春先の淡い光は、心なしか、さっきまでより温かい気がした。
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