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1-4 利良の世界(2)

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 正之進が住む薩摩国日置郡鹿児島近在比志島村(現・鹿児島県鹿児島市皆与志町)から造士館(現・鹿児島県鹿児島市城山町)までは、山間の道を抜けて行く。
 徒歩でおおよそ二時間半。
 同じ道ながらいつも違う表情を見せる風景は、造士館に近づくにつれ、正之進の胸を早鐘を打つように高鳴らせた。高鳴る鼓動に呼応するように、正之進の歩も速まる。
 多量の瓜を抱えているにも拘らず、造士館まで全力疾走をしてしまうほどには、正之進は少なからず興奮していた。興奮を覚えるほどの、全力疾走の理由。黎明の空に見た己の将来を培う造士館に早く着きたい、新太郎の家に早く行ってみたいという思い。その外に、正之進にはもう一つ理由があったのだ。
 〝妙円寺詣り〟である。
 鹿児島県日置市で毎年十月、第四週の土・日曜日に行事が行われる鹿児島三大行事の一つだ。
 慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、美濃国不破郡関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。かの有名な『関ヶ原の合戦』だ。この合戦において「島津の退き口」といわれる敵中突破により、島津義弘が奇跡的な生還を遂げたのだ。
 関ヶ原における先人の体験を見習って心身を鍛えるべく、義弘の木像が祀られている妙円寺(現・徳重神社)に参拝するのが〝妙円寺詣り〟だ。
 藩士たちは甲冑に身を固め、鹿児島城下から伊集院郷徳重村の妙円寺までの往復四十キロメートルを夜を徹して歩く。義弘のなしえた偉業を讃えることに発した、この妙円寺参りは、現代まで根強く受け継がれている。
 妙円寺詣り正之進ら、若い藩士達とて関係のない話しではない。
 最低限の甲冑に身を包んだ若二才わかにせ(※ 若者)は、郷中(※ 集落)毎に班を作り妙円寺まで俊足を競うのだ。郷中の誰かが一等賞を取ればいい、ただそれだけの決まりである。
 ところがこの一等賞を取るのが至難なのだ。
 単純に走ればいいわけではない。仲間を先に行かせるべくして、郷中同士による邪魔や乱闘が始まる。異種格闘技を含んだ、持久走大会と化す。これほどまでに、若二才が一等賞に固執するのには訳があった。
 報償品が用意されているのだ。これは異種格闘技になっても仕方がない。
 しかし、今年はいつもよりさらに造士館の面々が、妙に熱気を帯びていた。それもそのはず。島津斉彬からいつもより報償品が用意されている、という噂がまことしやかに囁かれていたからだ。
 できれば、褒美の品が欲しい。幼き兄弟にその品を見せてやりたい。
 自己研鑽と自己利益を兼ねて、山間の道を走る正之進の息が上がる。
 両腕に抱えるたくさんの瓜を落とさぬよう、それでも風景を凪ぐように走る正之進の顔は晴れやかだった。いつかこの道を懐かしむことがあるのだろう、と。自分の未来をでこぼこした道に託して、正之進は一歩また一歩と速度を上げて駆け抜けた。


「ッ!?」
 大事に抱えた瓜を落としそうになるほど、正之進は酷く狼狽した。
「? 川路殿どうかしたか?」
「新太郎殿どん殿……。新太郎殿は〝俺家おいげぇ俺家〟って、言いもしたな?」
 新太郎の二歩後ろで、全身をこわばらせる正之進に、新太郎は首を傾げる。さっきほどまで、連写式火縄銃のように喋りまくっていた正之進が、急に押し黙って顔を引き攣らせている。
 正之進がそうなった理由も分からない新太郎は、自宅まであと一歩というところで足を止めた。
「ここ。俺ん家、だけど?」
「俺ん家ってのは、もちっとばっかい慎みがある表現じゃなかか?」
「慎み?」
 新太郎が訝しげに答えた瞬間、正之進は新太郎に詰め寄る。そして距離感無しに、頭をグッと近づけた。
「こげんかお屋敷ば、俺ん家なんち! なんちゅあならんがほら!!」
「なんちゅ……? なんちゅ??」
 いつもの倍速で正之進がまく捲し立てる郷言葉に、新太郎はつぶらな目をぱちくりさせて仰反る。
「山にっちょった瓜しか持って来んかったが、はんな」
「……はんな?」
「事前にわかっちょけば、もうちょっとよか手土産どん準備したて。こげん手土産でよかどかい……」
 往来のど真ん中。
 一人で郷言葉を捲し立て、一人で凹み続ける正之進。奇妙な行動をとる正之進へ向けられる人の目が気になりつつも、新太郎はどうして良いか分からずただただ立ち尽くすばかりだった。
 造士館から東へ。御着屋の波止場をぬけ、天文観測所を横目にして、さらに行き着いた先にある新屋敷。後に第二代内閣総大臣を務めた黒田清隆や、鹿児島市城山町に立つ西郷隆盛像の作者・彫刻家の安藤照を輩出している場所だ。
 山の中であくせく生活する正之進にとって。城下にある新太郎の家は、とてつもなく都会で立派で、巨大に他ならなかった。
 一般からすると、そう大きくもない門の前で、正之進は今更ながら、取りだした手拭いで、汗ばみ汚れた顔を拭きだす。
「新太郎さん、お帰りなさい」
 その時、門扉がギィと音を立てた。
 門の向こう側から、色白の細身の女性が騒がしい表の様子を伺うように顔を覗かせる。
「新太郎さん。そんな所で、何をされているの?」
「母上」
「お!? お母様っかはんな!?」
 汗を懸命に拭いていた正之進が、新太郎と女性の会話に飛び上がるほど驚いた。
 その衝撃で、正之進が抱えていた瓜の一つがスルリと腕から抜け落ちる。
「わっ!?」
 放り出された瓜を、新太郎は慌てて受け取った。地面に体を投げ出し、瓜を大事に手中に収める新太郎の傍。正之進はぼんやりと新太郎の母親を見つめていた。
「川路殿、大丈夫か?」
仏様ほとけさぁ仏様のごつあ……」
「え?」
 まるで何かに魂を抜かれたように、奇妙な言葉を呟く正之進に、新太郎は眉根を顰める。
「新太郎殿。本当に、知らん世界じゃいもした」
「は?」
「世の中には。特に江戸には、こげん見事て(※ きれいな)人がおるちゅあ。まこて、知らん世界じゃあさいなぁ」
「何言ってんだよ、川路殿」
「ここで、十分に新世界を開拓した気分じゃっど」
「川路殿! それくらいで驚いては困るっ!」
「え?」
 新太郎は素早く立ち上がると、ぼんやりと直立する正之進の腕を引っ張った。
「新世界を開拓したと感傷に浸るには、まだまだ早いすぎる!! 早く中に入れっ!」
「え? 新太郎殿? えぇ?」
 大人しい新太郎の意外な一面を目の当たりにした正之進は、なんの抵抗もせぬまま。新太郎に促されるまま。門の中へと一歩、足を踏み入れた。

「お口に合うかどうか……。金平糖をどうぞ」
「これは!? お菓子であいもすか!?」
 小さな角がツンと立った不思議な形状のお菓子を前に、正之進は顔を真っ赤にして言った。小皿に懐紙が引かれ、その上にうやうやしく鎮座する金平糖を上下左右から眺め倒す。
 その様子に新太郎の母親は、袖口で口元を隠して「あらあらまぁ」と笑いながら冷えた麦湯をその横に置いた。
「甘い砂糖菓子だ。一つ食べてみなよ」
 新太郎に促され、正之進は生唾を飲み込むと無骨な指で小さな金平糖をひとつまみしする。そして、目をぎゅっと瞑り、口の中に放り込んだ。
「甘い……!?」
「この金平糖。母上の生家からの飛脚でたまにくるんだ」
「はぁ~……。こげな見事みごてお菓子が世の中にあっとは……。さらに新世界を開拓したごたっ」
 正之進は、涙を流さんばかりに口の中に滲みる小さな金平糖を味わった。そして、「キヨに見せんないかん」といって、小皿に残された金平糖を懐紙に包むと、まるで宝物でも扱うように大切に懐にしまう。
「新太郎さんが、お友達をつれてくるのは初めてよね~」
「は、母上!」
 柘植つげの木目がはっきりとした丸盆を両腕で抱えて、新太郎の母親は嬉しそうに言った。白い頬を薄らと朱に染めるその仕草は、仏様が遣わせた天女のようで。正之進は、すっかり毒気を抜かれたような顔をして深く息を吐く。
「正之進殿。新太郎さんを、よろしゅうお頼もうします」
「は、はいっ! ま、任せっくいやい!」
 真っ赤になって返事をする正之進の様子を訝しみながらも。新太郎は個人情報を惜しげもなく垂れ流す母親の存在が、急に恥ずかしくなった。
「し、しばらく川路殿と、二人っきりで話がしたいので! 母上は席を外していただけないでしょうか!!」
「はいはい。正之進殿、ごゆっくりしてらしてね~。うふふ」
 丸盆で口角の上がった口元を隠し、新太郎の母親は優美な柳腰やなぎごしの残像を残して居間から去っていった。
 その一連の様子を、正之進は口を開けて見つめいたが。ハッとした表情をして、徐に麦湯を口にする。
「……新太郎殿が、俺家おいげぇなんぞ見たら、ひっくり返っどなぁ」
「え?」
 正之進は、日に焼けた頬を指先で描きながら、バツが悪そうな顔をした。
「俺ん家は荒屋に近こし、周りは田畑と山しかなか。それに、いつ絞められっか戦々恐々としぃちょっ鶏も、若干凶暴じゃ。そげん所じゃっどん、よかどかい?」
 その瞬間、新太郎は正之進と自分が似ているんじゃないか、と直感した。
 中級藩士ながら、生まれ育った環境に引け目を感じて、なかなか馴染めずにいた新太郎と。
 下級藩士が故に、生まれ育った環境から抜け出さんと、己を鼓舞しなければならない正之進と。
 外見も能力も全く違う存在であるにも拘らず、魂の奥にある何かが揺さぶられる。そのほんの小さな何かが、近いと思ったのだ。
(あぁ、そうか。これが生魂《いっだましい》っていうのかもしれないな)
「行くっ! できれば泊まりたいっ! 川路殿の家に!」
「え? 新太郎殿、正気じゃいもすか……?」
 散々、山の中の〝川路邸〟について述べた直後の新太郎の反応。正之進は驚きを通り越して、頭が真っ白になった。
「正気も正気! かなり正気だ!!」
「え? おいが話ば、ちゃんと聞いちょいやっ……」
「聞いている! 理解している! 敢えて言っている!」
 新太郎はずいっと頭を正之進に近づける。
 いつもなから正之進の方が距離を詰めてくるのだが。新太郎の突然の距離感に、正之進はめずらしく狼狽して体を仰け反らせた。
 新太郎のつぶらな目に力を宿る。
 馬鹿にされ、揶揄われ。言い返すこともせずに、じっと下を向いて泣くのを我慢している。小さな中級藩士ではない。そんな強さを迸《ほどば》らせる新太郎に、思わず正之進の口元が緩んだ。
「二言は無かな? よか二才殿にせどん(※ 色男)」
 新太郎をわざと煽るように、正之進は呟いた。引くか否か。本心を見透かし、人格を見極められているような。含みを忍ばせた利良の返事に、新太郎の心が騒つく。新太郎は正之進の前襟を掴んで叫んだ。
「当たり前だ! だから俺の前では卑下ひげするな! したがって対等だ! さらにしたがって! 今から正之進殿と呼ぶ……呼びもんそ!!」
 最後の一語のみ。新太郎の言葉が、何故か郷言葉に変換されている。
 それが、新太郎の意気込みを物語るものなのか。はたまた、正之進の口ぶりが感染うつってしまったのか。下を向いて涙を堪える新太郎ではない。
 自分の意見を真っ直ぐぶつける、一皮剥けた新太郎の姿を目の当たりにし。正之進は短く「おう!」とだけ答えた。
「……って、格好つけてみたけど。俺じゃ全然格好つかないな」
 急に尻すぼみし。直情した思いを吐き出した己を恥ずように言う新太郎に、利良は堪らず目を丸くする。そして、互いの顔を見合わせ、込み上げる可笑しさを抑える事なく笑いあった。
 小さな力はやがて希望となり、巨大になりながら風雲をおこす。その風雲は、明治というまだ見ぬ新しい世界への扉をこじ開ける。
 そして、今、時代をかえる風雲のその種が、新太郎と正之進の間で生まれようとは。この時の本人達すら気付かないでいた。
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