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8-2 生魂(1)

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 晋祐は悩んでいた。
 島津義弘公の教えともいわれる、『男の順序』
 ある日、私学校の学生が「先生は、ご自分がどの順位にであると自己評価しぃもすか?」と聞いてきたのだ。
 難しい--。
 自分自身のことであるはずなのに。考えれば考えるほど、自分はどの位置にいるのか。即答するどころか、見極めることすらできないでいたからだ。
『一 何かに挑戦し、成功した者
二 何かに挑戦し、失敗した者
三 自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手伝いをした者
四 何もしなかった者
五 何もせず、批判だけしている者
六 何もせずに批判するだけではなく、足を引っ張る者』
 せめて四位以下ではない、と思いたい。
 しかし、一位や二位を語ってしまうほど、何かをしたというわけではない。
 晋祐はお湯を含んだ猪口を握りしめ、「あぁ~」と叫んで項垂うなだれた。
「何ちな! 晋祐殿しんすけどんは、そげなこっで悩んじょっちな!」
 庭先の水仙花が冷たい風を、花びらに孕んでサワサワと揺れた。
 その風は、新屋敷の有馬邸から上がる楽しげな話し声をも高く舞い上がらせているように、軽やかに凪いでいる。
 鹿児島へと帰郷した利良は、晋祐と久しぶりに焼酎を酌み交わしていた。
 もうすぐ日も暮れる。東からゆっくりと昇った丸い月の明かりが、縁側に座した二人の姿をジンワリと浮かび上がらせる。
 いつもの洋装とは違う。ゆったりとした袴姿の利良と散切り頭の前髪を下ろした晋祐は、火鉢を縁側に持ち出し、雪見酒ならぬ花見酒を楽しんでいたのだが。
 不意に学生に言われたことを思い出し、突拍子もなく悩む晋祐を見て。利良はお湯で割った焼酎を一気に煽り、楽しげに笑った。
「一番でよかろごたっどんなぁ」
「よく言うよ。『では、何を成したのですか?』と言われたらどうする? 大したこともなし得なかった、しがない勘定方の俺だぞ? 余計に失笑を買うだけだろ」
 晋祐は黒千代香くろぢょかから猪口に焼酎を注ぐと、勢いよく喉に流し込む。

 結局、大久保利通の真意がわからぬまま。利良は鹿児島出身の邏卒等と共に帰郷した。いくら焼酎を煽っても、決して取れることのない小さな痛みは、利良を心底明るくはさせてくれない。未だ悩み続ける晋祐に悟られまいと、利良は大袈裟なまでに明るく振る舞っていた。
「利良殿は、目に見える実績があるからなぁ」
「え?」
「治安のいしずえを築いた大警視だ。一番だ、と言っても誰もが納得するよ」
「晋祐殿、おいはそんな……大したことは、しぃちょらんが」
「おい、利良殿」
 苦笑いを浮かべ力なく答える利良を、晋祐は顔を近づけて見上げる。あまりにも真っ直ぐに見つめられ、利良は不自然に視線を逸らした。
「何か、おかしい」
 目と口を真一文字にした晋祐は、利良を問い詰める。利良はドキリと一つ心臓が、大きく脈打つのを感じた。
「おかし、ち……。何か、俺におかしこっがあっけ?」
「行動が不自然! なんだか陰気! 隠し事があるみたいに暗い! したがって俺が知ってる利良殿じゃない!」
「……え?」
「それにきちんと食べているのか、疑わしいほどに痩せている!!」
「……え???」
 酔った勢いがそうさせているのか。自分でも分からなかった弱い部分を的確についてくる晋祐に、利良は言葉を失った。
「できれば、俺にも。利良殿の抱えている物を預けてほしい」
「晋祐……殿」
「しかし、その胸中が背負い込むのは、俺が触れてもいいものではないだろう」
 晋祐はそう言うと黒千代香を傾け、利良の猪口に焼酎を注いだ。
「ならば、今は。俺といる今だけは。少しだけ忘れて、心の底から利良殿には笑ってほしい」
「……っ」
 正鵠を得る。
 利良は思わず声をあげそうになった。
 晋祐の言うとおり。大警視という大きなお役目を授かる以前より、利良自身、弱音を吐けずに無理を押し通していたのは紛れもない事実だ。
 気を張り、不安を押し殺し、寝る間も惜しんで邁進してきた利良は。
 晋祐の言葉に、救われたような気になっていた。恐らく、利良はずっと待っていたのだ。単純なのに力を与えてくれる言葉を。
 ずっと待っていたのだ。
「あはは……!  本当ほんのこっ、晋祐殿には敵わんが」
 利良は、注がれた猪口の中身をぐっと飲み干す。不安の種が小さく軽くなって、利良は満面の笑顔で晋祐に言った。
「『何かを救い、何かを助くっ。何かを的確に見据え導く』」
「利良殿。順序にそんなのあったか?」
「俺が今、作い申した」
「え?」
「どう考げてん、足らんがな。どげん良か二才にせが束になっても敵わなん! 晋祐殿は、一番の上! 優等じゃ!」
「!?」
 唯一無二の親友から、そういう風に言われることに、晋祐は恥ずかしながらも嬉しかった。
 遠くで活躍する利良が、いつまでも変わらずに自分を頼ってくれること。
 本来の自分を曝け出してくれること。
 渇いた水田に清流からの水を満たすように。晋祐は、利良の〝生魂いっだましい〟が未だ光を湛えているを感じた。
 初めて会った時と変わらぬ、穏やで好奇心に満ちた利良の声と笑顔。つい、つられて。晋祐も笑い出してしまった。
 今日みたいな日が、ずっと続けば良いのに。
 利良が抱えている得体の知れない不安が、無くなれば良いのに、と。
 猪口の中の緩くなった焼酎に口をつけた晋祐は、心の中でひっそりと祈っていた。

 しかし、穏やかな日は--予想だにしない形で幕を閉じることになる。
 川路利良が、私学校生に拘束されたのだ。
 晋祐の微かな願いすら届く事なく。知らぬ間に増幅した黎明の潮流は、容赦なく二人を巻き込み飲み込んでいったのだ。
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