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ひきこもりの弟が兄である僕に嫁になれと迫ってきます。✴︎就職編✴︎

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✳︎

 新入社員として第一歩を踏み出す今日。
 俺は晴れ晴れとした誇らしい気持ちと、ガチガチに固まって緊張した気持ちの狭間で、完全にカオスとなっていて。顔に力が入っているのを感じた。そんな俺に向けられる視線。俺はたまらず、ため息をつく。
「紘太。なんだよ、その顔。イケメンが台無しなんだけど」
 洗面所の鏡の前で、中腰の姿勢をしている俺に、恵介がイタズラっ子のように笑った。
「……しょうがねぇだろ。元々チキンなんだよ、俺は」
「ちょっと、動くなって! 今よりイケメンにしてんだからさぁ」
 「あぁ、もう!」と母親みたいな声を出した恵介が、いい香りのヘアワックスを手のひらで広げる。
慣れた手つきで、恵介は俺の髪をフワッといじった。
 いや……俺。悪癖なんて持ってないぞ!? 持ってないけど、その手つき……。ヤバイくらい、ムラムラする。
「恵介、こんな時になんなんだけどさ」
「なんだよ、紘太」
「緊張してんだ、俺」
「見りゃ分かるよ」
「だから」
「だから?」
「キスしたい」
「はぁ!? 何言ってんだよ、おまえ!!」
「恵介、お願い!」
「今日から初出勤なんだろうが、おまえはっ!! どうせキスだけじゃ終わらないくせに、何をヌかしてんだよ!」
「お願い!! キスしたら落ち着くんだよ、俺」
 玉ねぎの微塵切りを想像して、涙腺を刺激すると。自然と目に涙が潤って。今にも泣きそうに、そしてそれを我慢しているように眉に力を入れる。俺……俳優慣れるんじゃね? もちろん、恵介限定だけど。
「……わかったよ、紘太」
「恵介……」
「わかったから……そんな顔すんなよ。少し、少しだからな」
 恵介は手を洗いながら、鏡越しにぶつかった視線を逸らして恥ずかしそうに言った。
 恵介の弱点。俺がこんな顔をしたら、一発で言うことを聞く。わかってんだよ? 恵介のことなら、なんでも。隅から隅まで。外側から内面まで。全部……全部、知ってんだよ? 俺は。
 身長は俺より少し低いくらいなのに、その体は驚くほど華奢で。俺の腕が二周するんじゃないかってくらい、しなやかで細いその腰に手を回して。俺は恵介の体を引き寄せて唇を重ねる。
「…………ん、は…….げし……」
 吐息ともに漏れる恵介の声が、ヤバすぎるほど俺を刺激して……。就職1日目の朝にして、俺の前がずいぶん派手に起き上がってしまった。
「ちょ………やめ……やめろって!!」
 今な今まで、キスだけでとろけた顔と顔をしていた恵介が。一気に現実に引き戻されかのように、俺の体を突き放す。
「初日で!! 初日で、遅刻とか!! かなりマズイからっ!!」
「やっぱ、そうだよな?」
「やっぱ、って……何落ち着いてんだよ!! つーか、おまえの下!! 早くそっちを落ち着かせろって!!」
 顔を真っ赤にして、俺の状態に慌てふためく恵介が余りにもかわいくて……。俺は速攻で恵介を抱きしめたくなった。まぁ、それ以上すると。大変なことになるって、わかってるけどさ。
「じゃあ、帰ったら……ご褒美くれよ、恵介」
「しょうがねぇな! 帰ったら……帰ったらだかんな」
 照れながらも強気にデレる恵介に。俺は不安と緊張を吹っ飛ばすほど、あらゆる意味で元気になったんだ。


 大学に復学して、俺は猛烈に頑張った。本当に頑張って。頑張った結果、一年半で単位を取り終えて。
 今春。俺は無事、就職できたんだ。恵介と同じ会社に。
 よく、就職できたな、って? だって、言ったじゃん! 俺、猛烈に頑張ったって。
 恵介と同じ会社に入りたくて、エントリーシートも研究に研究を重ねて書いた。人見知りな性格を抹殺して質問もたくさんしたんだよ、俺は。そして、その苦労が報われて。俺は無事、恵介と同じ会社に就職した。
 ただ一つ。不満なことと言えば、同じ部署じゃなかったってこと。
 恵介は営業二課。俺は総務課。
 できれば、一緒がよかったのに……。しかも、俺が配属された総務課って所が、やたらと女子の密度が高くて。人見知りな俺の性格がゾンビみたいに復活した。さらには、部屋の空気がなんだかピンクに見えてきて。呼吸すら、儘ならない。
「京田」
 そのキラキラ、ふわふわした部屋の中で、男特有の野太い声が聞こえて。ホッとしたと同時に、その部屋の雰囲気とは異なる違和感に、俺は勢いよく声のする方へ振り返った。
「京田……だろ?」
「あ、はい……はじめまして。京田紘太です。よろしくお願いします」
 目の前に立つ、細身のスーツをスッキリと着こなした若い男性。俺はすぐさま頭を下げる。挨拶をした俺の声は情け無いくらい震えていて。緊張でガタガタいう歯の音が聞こえてしまうんじゃないか、ってくらいドキドキした。粗相が……粗相があっては、いけない。初日で粗相はマズイだろ、俺! しっかりしろ、俺!
「こちらこそよろしく。俺、内村匠。今春、営業二課から転属になったんだよなぁ。何もわからないのは京田と一緒だから……まぁ、あてにならないけどさ。仲良くしようぜ」
 内村と名乗った男は、そう言って右手を差し出した。
「……ありがとうございます、内村先輩」
「おまえさ、ひょっとして」
「はい?」
「恵介の、弟?」
「はい」
「……おまえかぁ……ま、よろしく」
 おまえかぁ、って何!? なんだ!? 内村の、なんか含みのある発言が、なんか癪に触って。一瞬で緊張も不安も。ガタガタなる歯の音も吹っ飛んだ。
 ……ぜってぇ。絶対に今日は。家に帰ったら、恵介を問い詰めなきゃって思って。俺は右手の拳を強く、強く握りしめた。

 従業員の給料計算や旅費、福利厚生に係る契約なんかの。細々とした仕事が総務課に配属された俺の仕事だ。含みのある発言と同じく含みのある笑顔を浮かべた内村は、僕の真向かいの席に座っていて。さっきまでの余裕綽々な表情とは打って変わり、難しい顔をしている。……慣れない仕事って、本当だったんだな。
「雇用保険料の掛け率とか、厚生年金の掛け率とか。掛け率ばっかで意味わかんねぇよ、マジで」
 内村は、頭をわしゃわしゃかきながら独り言を呟いた。そんな内村をみて、ハッとした俺は慌ててパソコンの画面に目を移す。
 かくいう俺も。目の前のパソコンに表示されている数字の羅列する意味が、全くわからなくて。隣の席の先輩に聞きまくっていた。
 ……働くって、簡単じゃないんだな。やっぱり。こうして考えると、恵介の持つポテンシャルの高さが、非常に羨ましく感じる。
「京田くんって、二課の京田さんの弟さんなんでしょ?」
 親切かつ、意外と丁寧に仕事を教えてくれる、この隣の席の先輩は、いい匂いがするソコソコかわいい女性の先輩で。にっこりと笑って、俺にベタな兄弟ネタをふってきた。まぁ、いくらかわいいとはいえ、恵介とは比べ物にならないんだけどさ。
 いかん、いかん……仕事、仕事。
「はい。似てないんで、兄弟って気づかない人が多いんです」
 動揺を悟られないように、俺は極力、笑顔で答えた。
「お兄さんは綺麗な顔してるもんねぇ。そういう京田くんは正統派なイケメンだね」
「そうですか? ありがとうございます」
 たとえお世辞であっても。俺は他人に褒められるのが、結構好きだ。認められてるって気がするし。怒られるよりも、ずっと幸せな気分になれる。やる気だって湧いてくる。
「お昼、いつもみんなで行ってるんだけど、京田くんもどう?」
「あ、俺、弁当もってきてるんで」
 ガタッとーー。
 隣の先輩の椅子が音を立てて、フロアの女子の視線が一斉に俺に集中した。
 お、俺、なんか変なこと言ったか……?
「か、彼女の手作り?」
 先輩のかわいい笑顔は妙にひきつっている。俺と先輩の一挙手一投足を、フロアの女子が固唾を飲んで見守っている、みたいな。変な構図が出来上がっいて、俺は再び緊張感に苛まれた。答えを……答えを、早く言わなきゃ!!
「俺の……手作りなんです」
「え?」
先輩の「え?」と言う声と、フロアの女子の「え?」と呟いた声が、サラウンドみたいに反響した。
「俺、家事、得意なんで…………」
「うそ?」
 先輩の目が〝彼女だろ? 絶対、彼女が作ったんだろ? 正直に言わねぇと、今後のお前の身の振り方が変わってくるんだぞ? オラ?〟的なオーラを纏っていて……。さっきまで、ニコニコかわいかった先輩と同一人物とは思えないくらい、殺気立っている。コワイ……めっちゃ、コワイ。
「そういえば恵介もよく弟が作った弁当持ってきてたよなぁ」
 何というタイミングで……! 内村がボソッ呟いた。ま、まさか!! 俺に……助け船を出してくれのか?
「しかも卵焼き一つとっても、出汁入りだったり、ほうれん草が入ってたり。毎日違っておいしそうな弁当食っててさぁ。そこら辺の女子の弁当よりこってて、俺、恵介が羨ましかったもん。あれ、京田が作ってたんだろ?」
「はい」
「そ、そうなんだぁ」
 内村の一言で、先輩の殺気が一瞬で消えさった。よ、よかった……。
「京田、俺も今日弁当だし、一緒に食おうぜ」
「あ、ありがとうございます。内村先輩」
 フロアの女子全員の視線から解放されて、俺はフッと息をはいた。隣の先輩も元のソコソコかわいい先輩に戻って。
「弁当男子かぁ、すごいなぁ。私も弁当作ってこようかなぁ」
 なんて独り言を言いながら、先輩の業務にさりげなく戻っていく。男性が多いところもそれなりに大変だけどさ。女性が多いところもそれなりに大変だ……って。出勤初日で重くのしかかってきたんだ。

「さっきは、ありがとうございました。……あのコレ……どうぞ」
 さっき助けてもらったお礼とお世話になります、という意味を込めて。俺は内村に缶コーヒーを渡した。
「気ィ使わなくてよかったのに」
「いや、本当、ああいうの慣れてなくって。ありがとうございました」
「いやいや。京田がイケメンすぎてみんな色めき立ってんだよ。あと一週間もすりゃ、ビックリするくらい静かになるって」
「……そんなもん、なんですかね」
 俺があげた缶コーヒーを口に含みながら、内村はマジマジと俺を見る。
「しかし、本当カッコいいな、おまえ」
「……あ、ありがとうございます」
「恵介が惚れるわけだな」
 ん? んーっ!! 
 内村の不意をつく発言に、俺は飲んでいたお茶をマーライオンみたいに吹き上げそうになった。
「な、な、ななな」
「俺さぁ、前、恵介に告ったんだよね」
「!?」
 さらに内村の予想外の言葉が、腹に深く食い込むようなボディをくらったみたいな衝撃で。その衝撃でお茶が鼻に入ってしまった。マジで、悶え苦しみそうになるくらい、痛い……。
「ま、あっさりフラれたけど」
「……え"っ?!」
「……おまえが大事で、おまえが大好きで、おまえのことしか考えられないってよ」
「……」
「でも、俺。恵介のこと、まだ諦めてないから」
「……内村先輩」
 内村は口角をキュッあげて、俺に笑いかけた。
「仕事は仕事、プライベートは別だからさ。女の園の総務課で男同士、仲良くしようぜ」
 あ、この人って。めちゃめちゃ面倒見がいい人なんだ。そして、裏表がない正直な人。
 めっちゃ、強敵だ!! こんな人が恵介のそばにいたなんて……。こんな強敵と、俺はいつのまにかライバルになっていたことに驚愕する。
 うかうか……してらんないな、全く。
 恵介は、どんだけ〝男〟にモテるんだよ。
「なぁ、京田。苗字で呼ぶのもなんだから、紘太って呼んでいいか?」
「あ、はい。もちろんです」
「俺さ、〝巻き返し〟がスゲーんだぜ? 紘太」
「俺も……です」
 前向きな内村の言葉に、なんだか腹が据わったっていうか。負けてらんない、って思ったんだ。
「土壇場になってからの底力がすごいんですよ? 内村先輩」
「そうこなくっちゃ!」
 お互いの顔を近づけて、自信ありげに笑いあう。出勤初日で、重くのしかかっていた色んなモノが、その瞬間、ふっとどこかに消え去ってさ。
 俺、やっていけるかもって、思ったんだ。そして、恵介を……俺の嫁を守んなきゃって。俺がしっかりしなきゃって心に強く誓った。

「内村……いいヤツ……だったろ……?」
 出勤初日。ご褒美という名目で、俺は恵介と肌を重ねていた。俺の体の下で、火照った顔をした俺の嫁が、俺の指に感じながら言った。
 こんな時に人の話? 俺のことが心配なのは分かるけど。こんな時に言わなくてもいいんじゃね? そんな恵介に俺は、意地悪したくなって仕方がない。
「……うん。すごく、いい人」
「……だろ? こ、た……指、増やす……な」
「恵介」
「……ん」
「告られたんだって? 内村先輩に」
「なっ!! 内村……が、言った…のか?」
「ほかに誰が言うんだよ」
「……だよな」
「俺さ……負けてらんねぇって、思った」
「……紘太」
 恵介は少し眉をひそめて、俺の首に両腕を回す。
「まさか、あんな強敵がライバルだなんて思わなかったからさ……」
「紘太……なんでも、ないから……内村とは……なんでも」
「俺、恵介がいつまでも俺に惚れてくれるように、めっちゃ頑張るから」
「……紘太」
「頑張る、俺。頑張るから、見てて。恵介」
「うん……見てる。紘太のコト……ずっと見てる……」
 首に回した細い腕で、俺の体を引き寄せた恵介は。俺にゆっくりキスをして、いつもより激しく舌を絡ませてきた。いつにもなく、色っぽい顔して…最高じゃん!!
「恵介……入れて、いい?」
「ん……紘太……入れて……」
 俺は恵介の足を肩にかけて、その中にゆっくりと挿れる。瞬間、恵介の顔が一気にトロけだした。
「あ……やぁ…こ、う……た」
「どうしてほしい?」
「……う、ごい……てぇ」
 その恵介の声とか、その恵介の表情とかさ。全部俺のものだ。誰にも渡さないっ!! 仕事もプライベートも……。そりゃ、ひきこもるくらいだから、すぐ、凹みやすいけど。そんなこと言ってられない!! 俺は、全力で頑張んなきゃなんない。
 よーしっ!! やってる!! 
 気合いが、体と連動してしまって。ついつい激しく強く体を動かす俺の下で、恵介が体を逸らして叫んだ。
「んぁっ!! ちょっ……やぁ……らぁ!!」
「あ、ごめん……つい、力がはいっちゃった……」
 不可抗力とはいえ、恵介の奥深くまで突き上げすぎて……。恵介は華奢な体をヒクつかせて、白目をむいていた。
 あぁ……ごめん、恵介。


「紘太、おまえのお兄さんって、めっちゃ美人だなぁ」
 営業二課に配属になった同期の大原が、藪から棒にとんでもない発言をしたから。俺はかなり動揺して、もっていたビールのジョッキを落っことしそうになった。
 就職してちょうど一カ月。ゴールデンウィーク前に、同期で集まろうって話になった。
 みんな仕事も慣れて、仕事の愚痴とか人間関係の軋轢とか。お酒が入って少し気が大きくなって、同期にしか言えない事を口々言っていた。
 そんな中の、信じられないこの台詞。恵介は相変わらず、男を引き寄せるフェロモンを撒き散らしているようだ……。
「オレの隣の席でさ、お兄さんについて回って仕事をしてるんだけど。見れば見るほど、綺麗っちゅーか何ちゅーか。あの色素の薄い大きな目でジッと見られたら、ドキッとするっちゅーか。本当、紘太と全然似てねーよな?」
 酒が入って饒舌に喋る大原に。
「……まぁ、それはよく言われるよ。似てないってさ」
 俺は複雑な心境で、返事をした。
「だよなぁ。オレ、男をとか全く興味ないんだけど、お兄さんならいいかな? って思っちゃ……ちょっと、紘太。そんな怖い顔すんなよ」
「え?!」
 大原に指摘されて、俺はハッとした。そう言えば、眉間が強張って硬直している。無意識に、大原を睨んでいたらしい、俺は。ヤバいヤバい、平静を保て!! 無になれ、俺!!
「か、仮にも先輩なんだから……。そんなことしねぇよ。そういう願望の話だよ、話」
「……願望、あんのか?大原」
「……か、仮の話だろ……」
 酒が絡んだ席とはいえ。大原の不用意な発言になんだか感情が抑えきれずに。大原と俺の間に気まずい空気が流れた。
 このままじゃ、イケナイ。イケナイぞ、俺。
「ご、ごめん、大原」
「お、おう」
「恵介は……結構隙だらけだからさ、今までも色々前科があって、心配なんだよ」
「い、いいって。オレもつい酒が入って気が大きくなっちゃったからさ。悪かったな、紘太」
「いやいや、俺こそ……」
「オレがそんなこと言ってたって、お兄さんに言わないでくれよ~」
「あぁ、仕事しにくくなるしな」
「そう言うこと」
 ……そんな、こと。会社の後輩が恵介にムラムラしてるって。
 言えるわけないだろーっ!! って、叫びたい気持ちを抑えつつ。イライラとと早く帰りたい欲求をごまかすように、俺は手にしていたビールを一気飲みしてしまった。


「こう……た、なんか……はげし……」
 俺は恵介をバックで突いてて。肩越しに俺を見た恵介の顔が、色っぽすぎるから……。また、抑えきれずに恵介の腰をグッと掴んで、強くその中をかき乱す。 酒が入ってるからか。大原のせいで生じたイライラが、ムラムラにかわったせいか。恵介に対する欲求が湧き上がって、歯止めがきかない。今日は、今日は……止まんないぞ、俺。
「っ! ひぁっ!!」
 つい入れたまま、強引に恵介をひっくり返して正常位にした。恵介が瞳を潤ませて、驚いた顔をする。
手首を掴んで、恵介をベッドに貼り付けると、また恵介の中を奥へと突き上げた。
「やぁ……こ、うた!! んぁっ!!」
「恵介、好きだ」
「ぼく……も……すき……だからぁ!!」
 その悲鳴に近い恵介の声でハッとなって……。
 ヤバイ……また、やっちまうかも!! 嫉妬に、怒りに狂って。恵介の声に頭がスッと冷たくなる。このままだと、本当に恵介を壊してしまうかも、と我に返った。
 恵介の白くて細いお腹や太もも、白く汚れていて。俺が一心不乱に突きまくっている間に、恵介は後ろだけで何回もイっちゃていたらしい。俺がフロー状態だったから、恵介はそれにずっと耐えていて。そんな恵介を思いやることができなかった俺は、思わず、恵介を抱き上げた。
「ごめん!! 恵介っ!! 痛かったか?!」
「……ううん、だいじょ……ぶ」
 呼吸を乱して苦しそうなのに。恵介は俺の頰に手を添えて、にっこり笑う。
「紘太……おまえ……まだ、イッてない……だろ?……僕が、シてやるよ」
「い! いいって!! 自分でするからっ!!」
「遠慮……すんな、って」
 恵介が、まだギンギンになってる俺のを。片手でイジりながら上目使いで俺を見た。
 うわっ………その顔。他のヤツらに見せんなよ、マジで。
「ご褒美……だよ」
「ご褒美?」
「入社して一カ月。……めちゃめちゃ、頑張ってたじゃないか」
「恵介……」
「だから、今日は……紘太にご褒美……あげようって。紘太の……好きなようにさせてやろうって。先にガンガン……イかされちゃったけど。だから……大人しくしとけって……」
 上目使いのままにっこり笑った恵介は、顔にかかる髪をかきあげて。その形のいい口をいっぱいに開けると、俺のを奥まで咥える。
「……んっ……んんっ」
 色っぽすぎな顔で、喉の奥まで咥える恵介を見てると。健気で、いい嫁で。自分の器の小ささにつくづくウンザリしてしまった。もっと、しっかり……恵介に頼られたいのに。
 そんな感傷に浸っていたら、恵介の口で俺のが爆発しそうになる。……うっ! ヤバッ!!
「恵介!! 離せっ!! イクっ!!」
 焦る俺に、恵介は上目使いで咥えたまま首を振るから……っ!! 俺はすごい勢いで、恵介の口の中に出してしまった。あまりにも慌てていて。急に引き抜いたから、残りが恵介のキレイな顔にかかった。
 ……あちゃー。好きにしていい、って言われたけど……。好きにしすぎだろ、俺。
「ごめんっ!! 恵介っ!! 気持ち悪くないか?!」
 びっくりした顔をしていた恵介は、恥ずかしそうに笑いながら「平気」と言った。
「紘太。一つ、ワガママ言っていいか?」
「何!? なんでもいって!」
「僕を抱っこして風呂場まで運んでよ」
「……え?」
「腰……立たなくなっちゃってさ。できれば、体もキレイに洗って欲しいんだケド」
 そんなの、そんなの!! お安い御用だっ!!
 世間一般でいう〝お姫様抱っこ〟で、俺は恵介の細い体を楽々と持ち上げる。鍛えていた甲斐があった……涙。
「すげぇな、紘太。こんな軽々抱っこできるなんて。やっぱり、僕、紘太が大好きだ」
 俺の首に手を回して、体重の全てを俺に預けた恵介がすごく愛おしくて、たまらなく愛おしくて。その後もまた、二人して激しく、風呂場でイタしたのは、言うまでもない。
「なぁ、紘太……」
「何?……恵介……」
「おまえの、仕事が……波にのって……きたら、どっか……旅行、行こうか」
「……いい、ね」
「行きたい、とこ……ある?」
「恵介に……まかせる……」
シャワーに濡れて、その湯気で頰を赤らめた恵介は目を細めて笑って。俺の耳元で「了解」と囁いた。
 旅行……恵介と、旅行……!! 胸が高鳴る、興奮が冷めやらない。あれだけ凹んでいたのに、やる気が漲って。またしばらく、仕事が頑張れそうだと思ったんだ。


 総務課は出張がほとんどない。それは、分かる。しょうがない。じゃあ、なんで営業は出張があるんだ!! しかも、恵介が……あの、あの、大原と二人っきりで、福岡なんて!!
 もう、朝からソワソワが止まらない。なんで俺より先に、大原なんかと旅行……基、出張に行くんだよ!! 多分、そのイライラとソワソワが内村にアリアリと伝わったに違いない。
「紘太。不安なのは、すげぇ分かるぞ?」
「そんなこと言ってくれるの、内村先輩だけです」
「大丈夫だ。福岡のホテルはだいだいいつも決まったホテルだ。絶対、シングルだから。それにオートロックだし。そんなに心配することないからさ」
「でも……恵介が開けちゃったら……」
「……そこまでは、何とも言えねぇな」
「……内村先輩」
「じゃ、今日飲みに行かね? 二人して恵介自慢でもしようぜ!!」
「い……いいんですか?」
 内村がニッて笑って、俺はそれに、なんだかホッとして……。単純にも俺のイライラとソワソワは、少し小さくなったんだ。って言うか、気が紛れたに違いない。
 に、しても。大原、が……危険すぎて、許せない。




✴︎

 福岡は、久しぶりだ。実のところ、僕は結構、好きだったりする。だって、福岡のご飯やお土産のお菓子は美味しいし。箱にたくさん入ってる甘くておいしいお菓子が好きなんだよな、紘太は。
 いつもは僕のことを〝嫁〟と言ってはばからない。クールでカッコいい紘太が、お菓子を食べるとふにゃふにゃ顔が崩れる。そんな紘太の顔がダイレクトに頭に浮かんできて、思わず顔がニヤけてしまった。
「京田さん! どうしたんですか? にこにこして!ひょっとして京田さんも楽しいんですか!? 嬉しいなぁ」
 次の得意先に向かう道すがら。大原が僕より満面の笑みを浮かべて、僕に話しかける。
 ……楽しい? そもそも仕事だろ? なんで、嬉しいんだよ。どうせなら、紘太と来たかったよ、本当。

 僕は今、新人の大原を連れ立って福岡に出張にきている。昼過ぎに福岡についた僕と新人の大原は。そのまま一社目の得意先に挨拶に行って、少し遅い昼食をとってからまた、次の得意先に挨拶に行く。
 この大原……その間、ずっとしゃべってる。会社では普通な感じだったんだけど、初出張・初福岡で興奮しているのか。
 得意先では名前を言ったらニコニコ笑って何もしゃべらないくせに。それが終わると、昼食中でも移動中でも、ガイドブック片手にしゃべりまる。そのマシンガントークは、未だとどまることを知らない。旅行に来てるのか、おまえは。
「さっきの担当の方、京田さん見て顔が真っ赤になってましたね!」
「そう、だったか?」
「〝京田さんですか?〟って声まで上ずっちゃってて、名刺を大事そうに眺めてましたよ?」
「そう」
 第一印象でよく思われたら、営業だしそりゃ悪い気はしないけどさ。得意先への売り込みに来てるのに、おまえは一体何を観察してんだよ、大原。……まぁ、新人だし。初出張で浮かれてんのは、しょうがない。
「京田さん、夜何食べますか? もつ鍋もいいし、魚も食べたいし! ガイドブックを見てたら、正直迷っちゃって」
「宿泊先のホテルの近くに、安くておいしい居酒屋があるんだよ。そこなら、もつ鍋もあるし、刺身もあるし。福岡にきたらそこに行くって僕は決めてるんだけど、大原はどうする?」
「どうするって! 一緒に行くに決まってるじゃないですか!!」
「いや、食べたいの、いっぱいありそうだったから。1人で散策するのかなぁって。ホテルは中洲も近いしさ」
「〝中洲も近い〟? それ、どういう意味ですか?」
「知らない?」
「知りませんよ! 中洲には何があるんですか?!」
 若干、大きな声で、大原は僕に詰問しだした。僕は大原を制すように、耳元に口を近づけて呟いた。
「ソープ街があるんだよ、中洲には」
 僕の発言に大原は顔を真っ赤にして、体をのけぞらせる。
「まままま真っ昼間から、何言ってんですか!? 京田さんは!!」
 何? この反応。ひょっとして、大原は童貞なんだろうか???
「何って、おまえが聞いてきたんじゃないか」
「だからって!! ひょっとして、行ったことあるんですか? 京田さんは」
 少し疑いのかかった目つきで、大原は僕を見た。
「おまえはまだ若いから知らないと思うけど、高いんだぞ? ソープって。一介の平社員がフラッと、そんなトコ行けるわけないじゃないか。そんなんにお金を使うくらいなら、ちょっといいモノ食べて、飲んで早く寝たいよ、僕は」
 欲を言うなら、紘太と寝たい……なんだけど。
「……本当、ですか?」
 大原は、まだ疑いの眼差しで僕を見る。
「本当だってば」
「……」
「おまえなぁ、いい加減信じろって。ほら、得意先の会社、着いたから。ココ終わったら早くホテルにチェックインして、飯食いに行こう、な。大原」
「……はい」
 僕がソープとか変なコトを言ってしまったせいか。その後の大原は、なんか心ここに在らずというか。得意先でもニコニコ笑顔を振りまいてはいたものの、妙にソワソワしていて。大原が粗相をするんじゃないかって気が気じゃなかった僕は、いつもの出張以上に疲れてしまっていた。

〝紘太、今、ホテルに着いた〟
 僕はネクタイを緩めて、紘太にメッセージを送った。
「はぁ、疲れたな………」
 いつもなら。吐き出した小さな感情でさえ、紘太がいちいち拾ってくれて。「どうした? 恵介」って耳をくすぐるイイ声で僕に言ってくれるのに。そして、優しくそっと、唇を重ねるのに。……あたり前だけど、ここには紘太はいない。
 ほどほどな広さの部屋。置かれたベッドに腰掛けてたタイミングで、スマホが大きく振動した。
「もしもし?紘太?」
『恵介っ!! 大原に何もされてないか?!』
 ……開口一番、何だよソレ。いくら僕が、無自覚に男を引き寄せるフェロモンをダダ漏れさせているとはいえ。後輩まで引き寄せてるつもりはないよ。
「何でそうなるんだよ」
『いや……恵介があまりにも、心配で』
「何もねぇよ」
『いーや! 夜は今からだからな!? 気をつけろよ!? マジで!! いやマジで、本当!!」
「安心しろよ、部屋は別だから」
『あたりまえだっ!!』
 この、日常のやりとりが。さっきまで、僕に重くのしかかっていた疲れを、一気に吹き飛ばしてくれた。
「紘太は……紘太は今日はどうするの?」
『内村先輩と飲みに行く』
「そうか、あんまり飲みすぎるなよ? 明日も仕事なんだからさ」
『わかってるよ。俺より恵介の方が心配なんだよ。明日が、仕事じゃなきゃ……そっちにすっとんでいくのに……』
 紘太のスマホ越しの声が本当に寂しそうに聞こえて……。僕は女の子みたいに胸がキュンとしたんだ。
 僕だって、紘太に会いたいよ……紘太。
「僕も、だよ」
『恵介………』
「明日、おまえが好きなお菓子たくさん買って帰るからさ。ちゃんと、待ってろよ」
『分かってるよ……恵介、愛してる』
「僕も…….愛してる」
 ん? ちょっとまてよ!? 僕はまだいい。紘太は一体どこで、この恥ずかしい言葉を言ってるんだ???……ま、いいけど。
『っていうか! 大原には絶対気をつけろよっ!!』
「って、まだ言うかおまえはっ!!」


「キャナルシティも近いのに、こんなに美味しくて安くて。よくこういうお店見つけましたね」
 ビールジョッキを片手に、大原は目を丸くして居酒屋の店内を見渡した。テーブルには、大原がどうしても食べたかった、もつ鍋と刺身。二人分でもおなかいっぱいになるくらい、量もあっておいしいのにリーズナブルで。普通の庶民にはありがたいお店なんだ、ここは。
「前にタクシーの運転手さんに教えてもらったんだよ。ガイドブックにはのってない穴場的なお店は、そういう人の方が詳しいからね」
 僕は少し自慢げに。
いか明太をツマミにながらビールをちびちび飲んだ。せっかくなんだけど、ガバガバ飲んじゃいられない。明日も3社回らなきゃなんないし。
 目の前でヘラヘラしている大原は、旅行気分で全くアテにならないし。ちょっとセーブしなきゃな、僕。
「京田さん」
「何?」
「オレ、今日一日全然役に立たなかったですけど。京田さん見て、すごく勉強になりました!! 今日は、ありがとうございました!!」
 役に立ってないって言う自覚はあるんだな、コイツは。
「明日はおまえが説明してみる? 大原」
「!!」
 僕の言葉にビックリした大原は。飲んでいたビールを変なとこにひっかけたみたいに、顔を真っ赤にして激しくむせ出した。
「……冗談だよ……大丈夫か?」
「じょうだんっ!! やめてくらさい!!」
「あははは! ごめんってば、大原」
 ちょっとは、そんな風に思ってたけど。やっぱり大原は、いじり甲斐があっておもしろい。
「京田さんは、わかんない人だ……」
「え?」
「めちゃめちゃキレイな人なのに、真顔で冗談言ったり、そのキレイな顔を崩して笑ったり……。仕事もできて尊敬する先輩なのに、女子みたいにかわいいところがあって。京田がわかんないです、オレ」
 ……大原?それは、僕を褒めてんのか? 貶してんのか? どっちなんだ? さては、酔ってんなコイツ。
「大原、酔ってんのか? なら、早くホテル帰ろ」
「京田さん!!……好きな人……いるんですか?」
僕の言葉を遮るようにして、唐突に大原から放たれた言葉に、一瞬、僕は硬直する。
 なんで今、そんなこと? でも、その瞬間。紘太の顔がハッキリと頭に浮かんで。
「……いるよ。好きな人」
 と、言い切ってしまった。
「いるのかぁ!!」
「な、なんだよ。なんなんだよ、大原」
「なんでも、なんでもないです!!」
「はぁ!?」
「あ、京田さん!! 唇に海苔ついてる。とってあげます」
「え?」
 一瞬、だった。大原から目を離した瞬間。
 僕の首に手を回した大原は、その冷たい唇を僕に重ねて……軽く舌を入れてくる。
 ほんの一瞬の、出来事。
 ビックリして、身動きが取れないでいると。大原はまたいつものニコニコした顔に戻っていて。のんきに「海苔、とれましたよっ!!」って無邪気に言った。 大原は……。僕のことが分からないって言ってとけど。この瞬間から、僕は大原が分からなくなったんだ。
 結構、アルコールが回っていた旅行気分の大原とホテルの部屋の前で別れて、一人部屋に入る。つい……ドアチェーンまでかけてしまった。
『っていうか! 大原には絶対気をつけろよっ!!』
って、紘太が言ったのって、あながち間違いじゃなかったんだな。あんなトコであんなコトするなんて……まぁ、個室でよかったけどさ。
 普通、口についた海苔をキスしてとるか???
 ましてや、舌なんて入れる必要ないだろ???
 僕はベッドに体を投げ出して、大原の感触が残る唇を手で何度も拭った。
「……紘太ぁ」
 紘太に……会いたい。
 紘太の声が聞きたい。
 紘太に……ギュッと、してもらいたい。
 僕は、いい大人なのに。大原にキスされただけで、ショックで、苦しくて。情けないけど、泣いてしまっていた。泣いたら……目が腫れるってのに。
「……こう……た」
 今日ほど。気持ちとか繋がりとか形の無い愛の証じゃない。はっきりとした、〝僕は紘太の嫁だ!〟って言う形のある愛の証が欲しいと思ったことはない。
 なんでも、いい。お揃いのネクタイとか、名刺入れとか。何か一つ、紘太を近くに感じられて。互いの気持ちを共有できる何かが、欲しかったんだ。


✴︎

「ただいま」
 いつもよりちょっと疲れているような。そんな恵介の声が玄関先から聞こえて。俺は、飼い主が帰ってきて、いてもたってもいらない犬みたいに。
そんな表現がピッタリな感じで、恵介を玄関先まで迎えに行く。
「おかえり! 疲れた?」
「うん……疲れた。……あ、お土産」
 恵介は力なく、俺に大きな紙袋を差し出した。
 あ!! これっ!!

「俺が好きなお菓子っ!! お茶いれて食べようぜ」
「……あと、これ」
 そう言って、恵介はポケットの中から小さな紙袋を俺に渡す。
「時間があんまりなかったから……しょうもないモノなんだけど」
 小さな紙袋の中から出てきたのは、赤い楕円形の物体がヒゲをつけたキャラクターのストラップ。小さい頃から、変なのを買ってくるなとは思ってたけど。なかなかシュールなものを買ってきたな。
「ありがとう。これ何?」
「明太子のキャラクターなんだって。ちなみに……僕と……お揃い」
 え? お揃い……? それで、これをセレクト?
 顔を赤らめて、俺から恥ずかしそうに視線を逸らして。恋人に対して最高のプレゼントをした的な、そんな表情で照れていて。荷物を床に落とした恵介は、俺に急に抱きついて、深いキスをしてきた。恵介が、感情に任せてそんなことするなんてめずらしい。よっぽど寂しかったのか。それとも何かあったのか。
「お揃い……欲しかったんだ、僕。……紘太と、お揃い」
「恵介……」
「変だと思ってる?」
「え……いや、かわいいよ? うん、かわいい」
 多少、自覚はあるらしい恵介は、悲しそうに瞳を揺らして俺を見る。
 そんな……恵介が買ってくれたものは無条件でマストアイテムなのに。そんな顔をして俺を見る恵介が、めちゃめちゃいじらしくて。めちゃめちゃかわいくて。俺の嫁、最高に最高で。ぎゅっと抱きしめて、思わず言ってしまった。
「土曜日さ、今度の土曜日さ。一緒にお揃いの……何か買いに行こうか、恵介」
 お風呂でも、ベッドでも。たった二日会わなかっただけで。俺たちはどうしてこうも、燃え上がるように激しくなるんだろう。恵介は出張で疲れているはずなのに、何かに取り憑かれたように一心不乱に俺を貪る。
 なんか、あったな……絶対。
 口を割らすべきか、否か。恵介から言うのを待つか。いや、例えそれが俺にとって、またひきこもりになってしまうくらい衝撃的なコトでも。
 恵介は俺の嫁だし。俺が恵介の全部を知らなきゃ、夫婦じゃないって思ったんだ。
「……恵介、何かあったんだろ」
 俺は、恵介を激しく揺らしながら言った。

「……やっ!! あぁ、んっ!! こう、たぁ……」
「隠すな、よ! 正直に言えって、恵介!!」
「………こ、た……こうた…ぁあ……」
 今にも泣きだしそうな顔をした恵介は、俺の攻めに必死にこらえる。
「怒らないから……嫌いにならないから……正直に言えよ、恵介」
「……ほん…と?」
「ああ、本当。本当だから」
「……きらいに……なら、ない?」
「ならないから。大丈夫だから。恵介!」
 目に涙をいっぱいにためた恵介が、ぎゅっと目を瞑ると。その目尻から涙がポロッとこぼれ落ちた。
「……キス」
「……え?」
「キス……された。口についた、海苔とるからって……大原に、キスされた……」
 ……はぁぁぁっ!? キスーっ!? はぁぁぁっ!? って心の中で叫んだと同時に、恵介を強く突きすぎてしまって。「ひぁあっ!!」って叫んで恵介は体を仰け反らた。俺は恵介の中にこの二日間、溜まりに溜まったものを出し尽くしてしまった。

「……紘太に。紘太に、あんだけ言われていたのに……急だったし、一瞬だったし。もう、僕、どうしたらいいか……分かんなくて」
 恵介は両腕で顔を隠して、微妙な涙声で切々と語る。
 しばらく前の俺だったら。間違いなく、ひきこもり生活に逆戻りしていたんじゃないかって。
 それくらい、ショックだった。でも、でもさ……。信じていた後輩に、不意打ちにキスされて。日頃、サバサバしていて、こんな風に取り乱したりしない恵介なんだ。恵介が一番ショックだったに、違いない。
 多分、俺以上に恵介の方がショックだったんだって思ったら。恵介を、嫁を守らなきゃいけない立場の俺がひきこもってたりなんかしたら! 恵介が余計、傷つくと思ったんだ。
 こ、ここは。多少無理をしても、〝男〟を見せなければ!! 広くて深い、〝男の器〟を見せなければ!

 恵介の両腕をそっと握って、その手を恵介の顔から引き剥がした。
「恵介、つらかったな……」
「……紘太ぁ」
 恵介が涙をポロポロ流しながら、俺にしがみつく。
「もう、何も心配することはない。安心していいよ、恵介」
「……紘太」
 恵介は俺の体に回した腕に力を入れる。その細い体を俺に密着させると、声を殺して泣き始めたんだ。
 恵介の体をゆっくりと摩っていると。俺は、大原に対する怒りがフツフツと湧いてきた。
 しかし……許せねぇ、大原ぁぁ!

「僕にあんなこと、したのにも拘らず。酔っ払ってたのか、すっぽり記憶を消してしまったのか。大原はいつもの大原でさ……。しかも、得意先でちゃんと話しもし出してさ。僕、もう、わけわかんなって。僕だけ一人悶々としてて、大原はなんかスッキリしてて………やんなっちゃうよ、もう」
 俺の腕の中で、ひとしきり思いの丈を語った恵介は、憂いを帯びたキレイな顔をして。俺の肩におでこをくっつけた。
「恵介……」
「ごめんな……ごめんなさい、紘太。僕、やっぱ隙だらけだ……」
「気にするな……俺は、恵介が無事ならそれでいいから」
「ありがとう、紘太」
「いや、気にすんな」
「……ねぇ、紘太」
 恵介は、〝必殺!上目使い〟で俺を見上げた。
 だから、その顔……他のヤツにするなよって。
「大原を……嫌いになるなよ……?」
「え?」
「同期って、大事だから……」
「……恵介」
「だからさ……紘太。……もっかい、シよ?」
 だからさって、どういうことだ??
 なんで……エッチ、シよ? になるのかわかんないけど。いつもより俺からくっついて離れない恵介を強く抱きしめて、深いキスをした。
 恵介に、そんな言われてもなぁ。俺は、恵介を泣くほど困らせた大原が、憎くて憎くて。今すぐにでもスイス銀行にお金を振り込んで、表情の変わらない腕っ節のいいスナイパーを雇いたくなったんだ。


「それな。スナイパーを雇いたくなるわな、そりゃ」
 内村は自作のタコさんウインナーを頬張りながら、心底俺に同情してくれた。総務課唯一の〝弁当男子〟の俺たちは。執務室の隅っこにあるミーティングテーブルで、いつも弁当を囲んで昼休みを過ごす。この時間、女子はみんなしてランチに外に出るから、執務室に残っているのは俺たちだけしかいなくて。俺は身の上に起きたことを、内村にいつも聞いてもらっている。まぁ、主に恵介のことが、内容的に多いけどさ。
「やっぱそうですよね? 俺、間違ってないですよね?」
 俺の意見に同情してくれた内村につい嬉しさがこみ上げてきて。俺は、ウサギの形に切ったりんごを噛み切るように言った。
 今も。恵介に起こった身の上話を、兄のような存在でありライバルでもある内村に話していたんだ。
「しかし、そいつ。随分手慣れてるつーか、よくもまぁそんなことできるよなぁ。俺なんか恵介に嫌われるのが怖くて、したくてもできなかったぞ?」
「普通はそうだと思うんですけどね」
「で、恵介はどうだった?」
「やっぱりショックだったみたいで。その日の夜は、思い出してはウルウルしてたんですけど、次の日の朝は案外ケロッとしてて。それに……」
「それに?」
〝それに〟って、自分で続けておいて、俺は後悔した。余計なことを、口走った……。
「……いや、なんでもないです」
 内村の箸がとまる。
「そこまで言って止めんなよ」
「あ…あぁ、そっから先は単なるノロケになるんで……」
「ムカつくけど、聞きたい」
「え?」
「そこまで言いかけたお前が悪い。紘太、早く言え!」
 内村の圧が強くて。俺は口を割らされたみたいに、つい、ノロケを口にしてしまった。
「恵介が『お揃いの何かが欲しい』って言うから……その」
「その、なんだよ?」
「セミオーダーのネックレスを……」
「……ひょっとして、今もつけてるのか?」
「……はい」
「恵介も?」
「……はい」
「話の続きをするならば、〝お揃いのネックレスを買って、さらに恵介が浮上してきた〟ってことでいいんだな? 紘太」
「さすが先輩は、恵介のこととなると鋭いですね! 大正解です!!」
「おい、紘太。俺は今、スナイパーをものすごく雇いたくなったぞ?」
 内村の言葉に俺は思わず笑って、それにつられて内村も笑って。
 内村がいなかったら、とか。恵介が嫁になってくれなかったら、とか。俺の周りの人は俺のプラスに作用して、俺はもうひきこもりにならないって、漠然と、そう思ったんだ。


「恵介、この間の出張旅費の精算をしたいんだけど、ここに印鑑もらえる?」
 仕事……表向きは、あくまでも仕事で。俺は大原の偵察に営業二課のフロアに足を踏み入れた。
「……紘太、おまえ」
「なんだよ」
「目立ってる、って自覚。あるか?」
 恵介が席を立って俺に視線を合わせた後、周囲にその視線をなげる。つられて周囲を見回すと、女子という女子がこっちを見て………というか凝視している。中には、俺と恵介を交互に見比べて、妄想しているかのような表情をしている女子もいて。総務課の女子と、なんだか毛色が違う。
「ただでさえ、イケてんだから……僕を、不安にさせんなよ」
 小さな、とても小さな声で。恵介は俺の耳元に口を近づけて言った。
 恵介。おまえの方が、無自覚なんだよ……本当。距離が近い、だから、相手をドキッとさせる。そういう行動が、腐女子の妄想を掻き立てる。いろんなヤツのオカズにされても、文句は言えないな、こりゃ。
「自覚、してるよ。自己分析力はあるんだよ、恵介より」
「……まぁ、な」
「大原の分もあるんだけど、大原は?」
「今、席外してる。大原の分の旅費の精算、預かっとくよ。あとで大原に持って行かせるように言うから」
「わかった。……恵介、大丈夫か?平気そうか?」
「うん、大丈夫」
 恵介はにっこり笑うと、また俺の耳元に口を近づけて小さく囁いた。
「紘太が近くにいるからな、大丈夫だよ」
 だからさ、俺は嬉しいんだよ? 嬉しいんだけど、そういうの周りが変な妄想をして喜んじゃうから、マジでやめろって。
「紘太! 悪いな、オレ席外してて!!」
 総務課に大原の無駄に元気な声が響きわたる。響き渡っているというのに。総務課の女の子たちは、大原に視線を一度向けると、すぐ向き直ってまた仕事に戻った。営業二課と総務課と、決定的に違うトコは女子のその反応にある。
 興味のない人には、とことん興味がないのが総務課の女子で。興味がなくても、些細なきっかけで興味を持つのが営業二課の女子で。大原、おまえには悪いけど、総務課ではそんなに興味がなかったようだ。まぁ、大原もそこそこイケてると思うよ、俺は。
「いや、悪いな。わざわざありがとう」
「初出張、めちゃくちゃ楽しかったよー!!」
「楽しかったって、仕事で行ったんじゃないのかよ」
「仕事が楽しかったんだよ! 紘太のお兄さんとも一緒にいれてさぁ」
 大原の、不用意な一言に。内村が怒りの炎を宿した目で大原を睨んで。一方俺は大原の発言に固まって。その微妙な空気を読めないのか。大原は全く気にせずニコニコ笑って、俺との距離を詰めると俺に言ったんだ。
「恵介さん、好きな人いるんだって? 紘太、おまえ知ってる? 知ってるなら教えてくれよ。オレ、マジで、恵介さん好きになっちゃったんだ」
 コイツは、わかってて言ってんのか? それとも、素で、天然で言ってんのか? 恵介が言ったことが分かった気がした。
 人当たりがよくて、単純そうにみえるニコニコした笑顔のウラにどういう感情を隠しているのか、本当に分からない。大原が、わからない。こういう感情を他人に持つなんて、自分自身がいやになる。他人がイヤだとか、コワイとかなんて、今まで嫌と言うほどあった。あったんだけど、〝キライ〟って思ったのは、今目の前にいるコイツが初めてかもしれない。


「んぁ……あ……こう、たぁ」
 ベッドにうつ伏せになって、シーツを握りしめた恵介は肩越しに俺を見た。ズブズブとした中を上下にかき乱すたびに、恵介の胸元で揺れるネックレスが俺のところからも丸見えで。
 ヤバい、めっちゃ色っぽい。
 おかしくなりそうなくらい、そそる。
 そうしてる中でも。何故か大原のあの意味深な笑顔が脳裏に浮かんでは消えて、振り払ってもまた現れて。恵介は俺のだって分かってるのに、危なかっかしい恵介にその薄黒い感情をぶつけてしまいそうで……俺が、不安定になっている。俺は無理矢理に恵介を起こして、仰向けに寝た俺の上に座らせた。
「恵介……自分で入れて、自分で動いてみなよ」
「紘太……」
 恵介は少し困った顔をした。それでも、俺に言われたとおり、ギンギンになっている俺のを手に、恵介自身の中に入れようと腰を浮かす。
「……ん、は…いんな……」
「ほら、頑張んなよ。恵介」
「……いじわる……いうなよ……」
 顔を赤らめて、泣きそうに瞳を潤ませた恵介は、そう言われながらも懸命に、俺の言うことをやろうとして。その恵介の姿に俺は、胸が苦しくなったんだ。
 ……恵介は、健気な嫁なのに。その健気さを逆手にとって、俺はイジワルをしてしまった。恵介の細い腰を掴んで、俺は恵介の中に一気に入れて突き上げる。
「っやぁ!!」
 恵介の背中がしなって、その手の爪が俺の腹に食い込む。
「恵介……っ!!」
「紘太っ!!………おく、して!!」
「……俺のだ!……恵介はっ!!」
「あ、たり……まえっ!!……紘太しか!!いらないっ!!」
「恵介!!」
「つよくっ!!……シて………紘太っ!!」
 恵介は、カンがいい。昔から、小さい頃からそう。俺の感情の細部まで察知して、俺に対して最善の努力と愛情を注いでくれる。
 だから、今も。俺の不安定さを、くみ取ったに違いない。俺は、恵介の反り上がった細い体をきつく抱きしめた。
 ごめん、恵介。口には出せないけど……。心の中でしか謝ることができないけど。だから、こうして強く抱きしめることしかできない自分が不甲斐ないんだ。


✴︎

 残業は、苦手だ。特に最近は、そう。
 だって、もれなく大原がついてくる。別にいなくてもいい、本当。大原がよくわからないってのもあるし、いたらいたで、仕事をしてくれるからいいけど。大原……コイツは、とにかくうるさい。
 もうちょっと、黙って仕事をしてほしい。早く仕事を片付けて、早くうちに帰って、紘太を抱きしめたいし、紘太に抱きしめられたい。早くそうしたいのに、大原のマシンガントークについ返事をしてしまって、なかなか仕事に集中できないんだ。
 福岡出張の思い出に始まり、先日見た映画に続き、明日の合コンにおける気構え方に波及してくるから。
大原のことがよく分かっていたなら。「だからなんだよ」ってツッコミの一つや二ついれて、その話を止めてやりたいとこなんだけど。
 本当、大原の話はとどまることを知らない。さらに癪なのが、福岡の居酒屋で大原が僕にキスをしてきたことについては、そこだけマルッとなかったかのように会話の中にでてこないから。僕に気を使ってるのか、もしくは、はぐらかして僕の反応を見ているのか。
 だから、大原の考えていることがわからない。
 内村は同期だし、裏表のないアッサリしたいいヤツだっただけに。比べてるワケじゃない、比べるのも失礼なんだけど。あまりにも今までと違いすぎて、僕のペースが乱される感じがするんだ。
 ふと、時計に目をやると。もうすぐ二十時半になろうってとこで。
 紘太に先にご飯食べてて、って連絡したけど、紘太のことだからギリギリまで待ってんだろうな。そんな想像をしただけで、居ても立っても居られなくなる。 僕は紘太の顔を早くみたくて。シャツの下に埋もれている、僕の体温であったまった〝もう一つの紘太〟を、思わずシャツの上から握りしめた。
「よし、ここまでしたら、帰ろうかな」
「京田さんっ!! 目処がつきましたか!! よかったぁ!!」
 僕は単純に喜んで笑顔を見せる大原に対して、少し気が緩む。
「僕に遅くまで付き合わせて悪かったな、大原。あとは僕がやるから、もうあがっていいよ」
「いいえ!! ここまで来たら最後まで付き合います!!」
「いや、大丈夫だから。明日も早いし、先帰んなって」
「じゃあ! このあと、軽くメシでも食いに行きませんか?」
「悪いな、大原。紘太……弟が、飯作って待ってんだよ。せっかく作ってくれたのを食べないのも悪いからさ。また今度な、大原」
「紘太、とか。弟、とか。……そんなに、紘太が大事ですか?」
「……え?」
 急に変わった大原の声音に、僕は心底驚いて隣に座っている大原を見た。
 いつものニコニコした大原じゃなくて。
 僕にキスをしてきた大原でもなくて。
 熱っぽい目は真剣で、僕から一ミリたりとも視線を逸らさずに、僕を見ている大原がいて。その大原の眼差しや表情のせいで、僕は言葉を発することができなかった。
 ゴクっと乾いた喉が鳴る。
「残業中、一回もオレを見てくれない。オレのことそんなに嫌いですか?」
「嫌い、とか……そんな」
「出張で……キスしたから、ですか?」
 あのさ……大原。
 仕事するのに好きとか嫌いとか、そういうの関係ないだろ??? だいたい、おまえが僕にキスしといて、嫌いですか? って、そういう質問自体おかしいだろ???
 って、大原に言いたいのに。喉がカサカサして、声が出てこなくて、僕は口をパクパクさせてしまう。
「そんな目で、そんな顔で、オレを見ないでくださいよ。京田……恵介、さん」
「っ!! な、なにすんだっ!!」
 ビックリしすぎて頭と体が機能しない僕の肩を掴んだ大原は。そのままの勢いで、僕を椅子ごと床に押し倒した。
 バタンーー!!
 床にぶつけた背中、頭も、痛い。そして、なぜか胃まで痛い。胃液が逆流したような感覚に襲われて……。マジで、吐きそう。
 熱っぽい真剣な眼差しのまま、大原は僕の胸ぐらと手首を掴んで僕を見下ろした。
「好きなの人って、誰ですか恵介さん」
「関係ない、だろ!! 大原には」
「ありますよ。オレ、恵介さんのことが……理性を失ってこんなことをしてしまうくらい、好きなんだ!!」
「はぁ!? 何言って……」
「そいつを超えなきゃ、オレ、恵介さんの一番になれないじゃないですか」
「……ってか!! 離せって!!」
「離しませんよ? 恵介さんが教えてくれるまで」
「……教えないって……言ったら?」
 「好きな人教えて」って言われて、「ハイ、いいですよ」って簡単に教えるバカがどこにいるんだよ。思ったことを素直に返した僕を、大原は睨むように目を細める。
「なら……実力行使あるのみでしょ?」
「はぁ?!」
「言うまで犯す。それだけ、です」
「やめろ……大原……やめろってば!!」
 足は椅子の肘掛部分にからまって取れない。上半身は大原に押さえこまれてるし。そうこうしているうちに、大原の顔が近づいてくる……!! 絶体絶命って、こういうこというんだ……って!! 感心してる場合じゃない!!
 たまらず心の中で叫んだ!!
 紘太っ!! 紘太ーっ!!
「おいっ!!大原!! 何やってんだ!!」
フロアの入口から、聞きなれた声が聞こえた。
「……内村っ!!」
 ……助かった。助かったんだけど、この状況。大原が椅子ごと倒れた僕に馬乗りになってるこの状況。内村にどうやって言い訳すりゃいいんだ……。
「残業してたら、上の階から派手な音が聞こえたからさ。大原、おまえ何やってんだよ!!」
「違うっ!! 僕が椅子ごとコケたんだ!! コケたんだよ、内村っ!!」
「はぁ!?」
 内村が、「はぁ!?」って言いたくなるのも無理はない。僕が内村の立場にいたら、僕の口から出た咄嗟の言い訳なんて信じられるハズがないもんな。
「おい、大原。どうなんだ? 恵介が言ってること、本当か?」
 僕を見下ろしたままの大原は、少し悔しそうな顔をした。そして、僕の手首を強く掴んでいたその手を引いて、僕の体を引き上げる。
「本当です……。誤解されるようなことをして、すみませんでした。京田さん」
「い……いや、ありがとう。大原」
 咄嗟についた苦しい言い訳とはいえ、なんで僕は大原にお礼をいってんだ……。
「じゃあ、オレ……お先に失礼します。おつかれさまでした」
「あ、あぁ、おつかれ。また、明日」
 大原は自分のデスクを片すと、何も無かったかのようにスッとフロアを出た。フロアを出る、内村とすれ違う瞬間、二人が交わした視線に火花のようなバチバチしたものが見えたのは、きっと僕が疲れているからだと思う。うん、きっとそうだ。
「大丈夫か? 恵介」
 椅子の肘掛に足がからまってなかなか抜け出せない僕に、内村はかけよってそれを解いてくれた。
「相変わらず……バレバレの嘘つくのな、恵介は」
「……あはは」
 それ、言われたら元も子もない。
「恵介!? おまえなんか、熱いぞ!?」
 僕を抱きおこした内村が叫ぶように言う。そういや、なんか床で頭をぶつける前から、頭が痛かったような。顔も熱かったような。ここんとこ忙しかったし、疲れてんのに……。毎日、紘太ともサル並みにヤッてたから。やっぱ、疲れてんだな……僕。
「……へいき、だいじょうぶ……うちむら、だいじょうぶ……」
「おい!! 恵介!! しっかりしろっ!! 恵介っ!!」
 立とうとしたら、足元がフワフワして、頭がクラクラして………。いきなり、目の前が真っ暗になった途端、僕はその後を、全く覚えてない。


 お出汁の……いいにおいがする。
 このお出汁で作る紘太の卵おじやが、うまいんだよなぁ。
 うん、うまいんだよ……ん? お出汁? おじや?
 会社にいただろ、僕……夢、か?
 夢で嗅覚までも、紘太を欲してるなんて……病んでるのか、僕は。
 いやいや、違う違う。僕はその美味しそうなにおいにつられて、目を開けた。
「……こう、た?」
 喉の奥が熱くて、その粘膜がひっついている感じがする。声が出しづらいし、開けた目が涙目になって視界がぼやけた。
「おい、紘太。恵介が気がついたぞ」
 内村、の声……?
「うちむら?」
 ぼやけた視界の中に急に内村の顔が現れて。いつもの僕ならめちゃめちゃ驚いているはずなんだけど。頭がぼんやりして、そんなことに驚いてる余裕がなかった。
「よかった、気がついて。恵介が目の前でぶっ倒れた時は、心臓とまるかと思ったぜ」
「……ごめん、うちむら」
「疲れがたまってたんだろ?」
「……そうかも」
「起きれそうか? 紘太が卵おじや作ってんだけど、食える?」
「……くえる」
 僕のおでこには冷却シート。ちゃんとTシャツと短パンに着替えてて。多分、紘太がやってくれたんだろう。そして僕と紘太と内村と、変な組み合わせで、夕飯を食べている。
 もう22時前だから、ほぼ夜食だな。
 僕が元気なら食べられていたであろう夕飯のおかずを紘太と内村が食べて。僕は美味しそうなそのおかずを尻目に、一人卵おじやを頬張っていた。
「紘太。この卵おじやの出汁、なんでとってんだ?」
「あごだしですよ、先輩」
「あごだし?」
「トビウオの出汁なんです。風味が強いから、味噌汁の味噌も少しでいいし、調味料もあんまりいらないし」
「確かにうまいな、これ」
「恵介が、このお出汁じゃなきゃ食べてくれないんです」
「なんだそれ。見かけと中身が逆じゃねぇか、おまえら」
「でしょ?」
 僕からすると、おまえらの会話の方が、パラレルワールドだよ。出汁の話をして、家族の愚痴に同意して。主婦か、おまえら。
 でも、内村が、ここにいてくれてよかったって思った。紘太一人だけなら、僕が倒れたことを自分のせいだって思い悩んでしまうに違いない。こうして、内村が紘太とフランクに話してくれるから、元々うまい紘太の卵おじやがよりうまく感じられる。
 一人静かに卵おじやをすすっていると、2人がニコニコしながら僕を見ていることに気づいた。
「……なに?」
「恵介、うまい?」
「うん、うまい。ありがとう、こうた」
「さっきからすると顔色もよくなったな。それ食い終わったらもう一眠りしろよ、恵介」
「うん。うちむら、ありがとう。めいわく、かけてゴメンな」
 多分、疲れて、風邪ひいたんだ……僕。熱っぽいし、頭も痛いし。体が弱ってるから、気持ちもちょっと弱ってて。ちょっとイヤなことがあったらへこんじゃうし、ちょっと優しくされちゃうと涙が出そうになるくらい嬉しいし。だから、明日はきっと元気になれる。
 うん、大丈夫。
 明日は、紘太にも内村にも、ちゃんと「大丈夫。ありがとう!」って言える。僕は、少しぬるくなって食べやすくなった卵おじやを一気にかきこんだ。


✴︎

 恵介は卵おじやをキレイに平らげて、シャワーで汗を流したらすぐ眠りについた。
 恵介の寝息が聴こえてきて、それから俺は少し内村と話をした。
「大原アイツさ、やっぱ、あやしいぞ」
「……」
「俺も協力するからさ、大原から恵介を守ろうな、紘太」
「先輩……ありがとうございます。でも……」
「俺、まだ恵介が好きだし。でも、恵介はおまえが好きだしさ。少しでも、おまえらに関わりたいってのは、俺のわがままなんだけど。協力させてくれ、な、紘太」
「……先輩」
「そのかわり、お願いがあるんだけど」
「なんですか?」
「あごだし、分けてくれ」
「……おやすいごようですよ、そんなもの」
 あごだしをもらって、内村がにこやかに帰っていったのが二十三時半くらいで。内村が帰って、恵介が寝室で静かに寝ているその後の部屋は、一気に静かになった。
 いつもは、恵介の笑い声とか話し声とか……喘ぎ声とか……が、ひっきりなしに聞こえて。二人で暮らしているはずなんだけど、この部屋はすごくにぎやかで。恵介一人が元気ないだけで、こんなに違うんだ。たったそれだけのことなのに、俺は少しセンチメンタルになっていた。寝室をそっと開けると、ニ燭光でぼんやり恵介の顔が照らされる。 俺がその熱い頰に触れても、微動だにしないくらい、恵介は深い眠りについていた。
 弱音を吐かない、からなぁ……恵介は。
 細いくせに、やたら体が丈夫にできてる恵介は、自分を過信しすぎて、すぐ無理をする。最近、ほぼ毎日残業して仕事で疲れていたはずなのに。大原に気を使ってさらに気力を消耗していたはずで、それなのに、俺の要求にもちゃんと全力で応えてくれてさ。恵介が俺の首に腕を回して「ねぇ、紘太。シよ?」なんて、上目づかいで毎日俺にせまってくるのもさ。
 全部、俺のためなんだって。俺、嫁である恵介に甘えすぎてたのかも、な。
「ごめんな、恵介」
 そう独り言のように呟いて、もう一度、恵介の頰に触れた瞬間、恵介の大きな瞳がゆっくり開いて。俺と目があった。
「……紘太?……泣いてる? どうして?」
 恵介の熱を帯びた手が俺の頰には優しく触れて。自覚無しに流れていた俺の涙を、そっと拭う。
「僕の、せい?」
「……違うよ、恵介は何にも悪くない。俺がワガママなだけなんだよ……」
「紘太」
 恵介は、いつも俺にエッチをねだる時みたいに、その華奢な腕を俺の首に回した。
 体温が、いつもの恵介より、熱い。その感覚に無性に悲しみや不安が込み上げてくる。
「紘太……泣くなよ。おまえが悲しいと、僕まで悲しくなる……じゃない、か」
「……恵介」
「朝には、朝がきたら元気になるから。紘太……僕に、紘太の元気を分けて」
 そう、恵介が、そう言うからさ。俺はしがみつく恵介にキスをしようとした。
「キスは……ダメ」
 恵介が顔をそらして、俺のキスを阻止する。
「なんで? 元気、分けたげるから」
「風邪が移るよ。こうしてて、しばらく……しばらく、こうしてて欲しい。紘太、僕を離さないように……抱きしめてて欲しい」
 俺の首に絡んだ恵介の細くて熱い腕に力が入る。
「……恵介」
「紘太、好きだ。愛してる。紘太ぁ……僕を、キライにならないでね……」
 弱音を吐かない恵介が、めずらしく涙声で弱々しく弱音を吐いて。恵介の気持ちが弱くなっているのが、手に取るようにわかったから。俺は恵介の気持ちに応えるように、恵介を強く抱きしめたんだ。

「おはよ、紘太」
 恵介の声がいつもの声に戻っていて、俺は慌てて目を開けた。時計を見ると五時前を指している。恵介は俺と目が合うとにっこり笑って、そのままゆっくりと俺の胸に頭をひっつけた。
 頭から、体から伝わる恵介の体温が、熱くない。
 いつもの、恵介だ……よかった……!
「ありがとう、紘太。もう、調子いいよ」
「本当に? よかった」
「紘太と、内村のおかげだ」
「……今日は、休む? 仕事」
 恵介は俺の胸にその細い手をなぞらせると、華奢な体を預けて首を振った。
「行く」
「……おい、恵介。大丈夫か? 無理すんなって」
「もう、大丈夫。それに……」
「それに?」
「今日は……今日は僕にとって、勝負の日だから」
「勝負の日?」
「うん。勝負の日。だから、頑張んなきゃ」
 恵介は俺の体から頭を持ち上げて、俺を上目づかいで見て笑う。
「なぁ、紘太」
「何? 恵介」
「勝負に勝ったら、さ。紘太、僕にご褒美、くれる?」
「いいよ、なんでもあげるよ」
「言ったからな?」
「あぁ、言った言った。けど、さ。無理、すんなよ?恵介」
「分かってるよ、紘太。大丈夫!大丈夫だから。絶対ご褒美………忘れないでね」
 そう言った恵介の茶色い大きな瞳は、ブレることのない強い意志を秘めていて。その瞳に底知れぬ色気と冷たさを感じた。俺は、その美しさにゾクッとしたんだ。
 この顔、久々に見た。少年野球をやってた時の、ツーアウト満塁一打逆転って場面の顔だったり、俺を愛宕山の倉庫で見つけた時の顔だったり。
 これ、この顔……。恵介が本気を出した時の顔だ。 その顔が、俺の心の奥底を揺さぶるって、胸騒ぎがとまらない。
 勝負って、仕事か? 最近忙しかったし、大きなプレゼンを控えてるって言ってたよな。
 でも、それだけじゃ……。それだけじゃない、はずだ。今までだって大きなプレゼンは山ほどあったのに、あんな顔しなかったのに。
 仕事に集中しなきゃいけないのに。恵介のあのキレイな顔が瞼に焼き付いてしまって、俺は気もそぞろになってしまっていた。
 ……あぁ、もう!! しっかりしろ!!俺っ!!
「紘太」
「は、はい!」
 内村の俺を呼ぶ声に、俺を必要以上にビクついて返事をした。
「ここ、給与控除の額が違う。紘太、どうした? おまえにしてはめずらしいな」
「あ……すみません」
「どうした?恵介、まだ具合悪いのか?」
「いや! 具合はもう、すっかり良くなって。恵介も先輩にお礼言わなきゃって言ってたくらいで」
「じゃあ……」
「虫の知らせ……って言うんですかね?」
「え?」
「なんか、落ち着かないんです。漠然としていて何かはわからないけど……落ち着かない、んです」
 あの顔。恵介の、あの顔を見たからなんだ。

「やっぱ、紘太の飯は世界一うまいよなぁ」
 俺は今、非常に混乱している。恵介が見せたミステリアスなキレイな顔から一変。今は美味そうに俺が作ったオムライスを頬張る無邪気な顔の恵介がいて。
 見たまんま、だよ。
 恵介のいっていた勝負に勝ったのは、その表情を見たら一発でわかる。で、その勝負って一体なんだったんだよ……恵介。
「ご褒美……何が、いいんだ?恵介」
「……え? わかる? 顔に出てた?」
「出てるも何も。そんなにヘラヘラしてたら、バカでもわかるよ、そりゃ」
「あはは。マジで?」
 昨日、熱でへろへろしていた恵介とは同一人物とは思えないくらい。キレイにオムライスを平らげた恵介は、胡座をかいている俺の上に腰をおろすと、華奢な腕を首に回して俺にキスをする。
 これは……おねだり、か。恵介のキスはオムライスのケチャップとバターの香りが強くして、そのまま、恵介を食べたくなってしまった。
「ご褒美って、ソレでいいの?」
「だって、昨日シてないし」
「……勝負って、なんだったの?」
「それは、あとで……それより紘太、早くシよ?」
「昨日、熱出てたクセに……無理すんなよ」
「イジワル……だな。ご褒美、くれるんだろ?」
 そう言って俺の頰を両手で包み込んだ恵介は、また、バターとケチャップの香りだだよう、おいしそうなキスをして。俺はたまらず、恵介の全体重で俺を押し倒した。
「どうなっても……知らねぇよ?」
「ご褒美なんだから、それなりのことはシてくれるんだろ?」
「もちろん……!!」
 押し倒された体を恵介ごと無理矢理起こして、恵介を力づくで抱きしめると。恵介のスウェットをズラして中を指で攻めながら、もう片方の手で胸をいじる。
そして、俺の舌は、恵介の耳を愛撫するんだ。
「あっ! や……ぁん」
「なんだ……よ、もう………トロトロなってんのかよ……さっきまで、の強気はどこ行ったんだよ」
「んやぁ……こうたぁ……」
 体をしならせたり、足に力を入れたり、恵介も色々工夫をして快感に耐えようとしているけど。すればするほど、腰が揺れて、前もガチガチになってくる。ヤバい……。一日シなかっただけで、こんなんなのかよ、マジで。
 恵介、おまえ、大丈夫か? って、言いたかったんだ、俺は。
 カッコよく、頼れる男みたいにさ。でも、つい俺の口から出た言葉は、かなり意外なものだったんだ。
「恵介、おまえ、マジ最高……!!」
 さすがに。欲に支配されているとはいえ。口からつい出た自分の言葉にクラクラした。何言ってんだ、俺。
「サイコー、なら……こ、うたの……入れて、早く」
 熱、とは違う。恵介の体のアツさと、紅潮した顔が。
 俺を見つめるそのキレイな顔と、密着するその華奢な体が。
 俺を惑わし、支配する。
「こう、たぁ!……ごほう、び……はやくっ!」
 その恵介の一言が、俺の理性をぶっ壊すトリガーだった。恵介を強引にうつ伏せにすると、俺は勢いに任せて恵介の中を激しく、強く……。恵介を壊してしまうんじゃないかっていうくらい、恵介を突き上げたんだ。


✴︎

 勝負の日だったんだ、今日は。ちょっと大きなプレゼンがあって。だから連日、残業して、頑張って。多少無理してでも、絶対成功させたかった。そもそも僕は負けず嫌いだから、絶対、負けたくなかった。
 それは、大原に対しても一緒で。とにかく、今の全てに負けたくなかったんだ。
 胸に小さな希望を持ってさ。これが片付いたら、休みとって紘太と旅行に行こうって。黒歴史を塗り替えるために。福岡に行こう、って決めて。
 グランドハイアットのキングスウィートを予約して。観光して野球見て、疲れたらホテルでのんびりして。足を伸ばすんなら、ハウステンボスにも行きたいし。近場でなら、太宰府天満宮と九州国立博物館にも行ってみたいし。想像するだけでも、ワクワクして、ドキドキして、紘太の喜ぶ顔を思い描いてさ。
 お揃いのネックレスを選んでくれたお礼に、紘太とゆっくり……紘太の嫁になってから初めて行く、2人だけの旅行をプレゼントしたかったんだ。
「よし! 頑張ろっ!」
 僕が小さく気合いを入れると、大原がいつもの笑顔で僕に話しかけた。
「頑張りましょうね! 京田さん!」
 昨日の、今日で、大原のこの笑顔。コイツの心臓には毛が生えてんのか? それとも、僕を椅子ごと押し倒してイタしちゃおうとしたことを、キレイサッパリ忘れてしまっているのか。僕は、大原のコレにペースを乱されてたんだ。いつも、知らぬ間に。
 気を使って、ペースを乱されて、大原の術中に陥ってしまったようになって。
 でも、もう。大丈夫。大丈夫……!!
「京田さん、今日なんか雰囲気違いますね」
「そう?」
「スッキリしてる、って感じ……鋭い、って感じみたいな」
「大原」
「なんですか?京田さん」
「プレゼンが終わったら、おまえに言わなきゃならないことがある。だから、ちょっと時間作ってもらえないかな」
 大原の目を真っ直ぐ見て言えた。そんな大原は、いつもの笑顔をなくしてしまったかのように一瞬、真顔になる。大原はまたすぐあの人懐っこい笑顔に戻って「分かりました!」と、元気よく返したんだ。
 大丈夫!
 プレゼンも、大原も、絶対にうまくいく! 
 シャツの下に隠しているネックレスを、シャツの上からこぶしで押さえて、「よし!」と小さく呟いた。

「京田さん!手応えありって感じですね」
「うん。大原が手伝ってくれたおかげだよ。ありがとう」
「と、とんでもない!」
 プレゼンも手応えあった。あとは結果を待つだけなんだけど、この手応えは、勝算ありで。
 残すは、大原との勝負となって。今、ここで。
 資料室で資料を片付けてるこの時、今だと思った。
「大原、色々ありがとな。でも、僕は大原の気持ちには応えらんないから」
「……京田さ……恵介、さん」
「多分、カンのいいおまえのことだから分かると思うけど。僕、弟……紘太が好きなんだ」
 僕は作業の手を止めて、大原を真っ直ぐに見て言った。大原が目を見開いて僕を見る。
「紘太が大事で、大好きで。紘太がいるから仕事も頑張れるし、僕も紘太のそばにいたいし。だから、大原の気持ちには応えられない。悪いな、大原」見開いた大原の目が大きく揺れだして、資料を握っていた僕の手を強く掴んだ。
「大原……そういうことしても、無理なんだよ」
 押し倒されることは、多少は、覚悟していた。でも、それ以上はしないって、そういう勝算はあったんだ。昨日、僕を押し倒した時の大原の顔を見て思った。
 大原がずっと分からなかったんだ、今まで。いつもは必要以上に元気でうるさいクセに、僕に対しては高圧的になって、キスしたり椅子ごと押し倒したり。
 やっと分かった……どっちの大原も本当の大原じゃないって。
 本当の大原は、今の大原だ。気持ちが繊細で、弱くて……。僕のことが好きで、その気持ちをどうすることもできなくて、僕に嫌われたくない。それを隠すために、やたら明るく騒いで、わざと強引に僕を支配しようとして。紘太と、似てるんだよ、大原は。
 似てるけど、似てるんだけど。
 大原は、紘太には、絶対になれない。
 紘太が絶対で、紘太しかいらないんだ、僕は。
 僕は大原の手をそっとはずした。
 さっきまで強い力で僕を掴んでいた大原の手は、簡単に引き剥がせるくらい力が抜けていて。一瞬、ドキッとする。
「恵介……京田さん」
「何?」
「オレ、京田さんにフラれたのに……。京田さんのことがキライになれない。いっそのこと、キライになりたかったのに……まだ、京田さんが……好き、なんです」
 肩を震わせて、目に涙をいっぱいにためて。素直な大原の表情と心情を目の当たりにした僕は。この勝負にも勝ったって確信した。
「大原が僕の気持ちを縛れないのと一緒で、僕も大原の気持ちを縛ることはできないよ。……人を好きになるって、幸せだけど苦しいよな。僕もそうなんだ。紘太を思う気持ちが強すぎて、時々、本当に苦しくなる。僕を必要としなくなったら? 僕から離れていったら? なんて、しょっちゅう考えてしまう。……大原は、違うか? そういう気持ちに、ならないか?」
 大原は潤んだ目に力を入れて、小さく首を縦に振る。
「いつかさ、今みたいな気持ちを僕以外の誰かに素直にぶつけることができたらいいよな。虚栄を張らないで、素直な大原を見せて、大原の全てを好きになってくれる人が……。僕は、大原にとってのそういう人にはなれない、けど。応援、してるからさ」
 大原の目からオーバーフローした涙が、頰を伝って流れ落ちていく。僕は、それの様子がすごく長い時間のように感じた。
「紘太が、京田さんを捨てた場合……京田さんは、どうするんですか? オレ以外の人を見つけるんですか……?」
 小さく、静かに、大原が口を開く。
 大原が納得できる答えかどうかは少し不安だったけど、僕は大原の質問に素直に答えたんだ。
「紘太しか、いらないんだよ……僕は。紘太以外なんて有り得ない。もし、紘太が僕から離れていったとしても、僕は紘太しかいらない。他の誰かを好きになるなんて、僕には考えられないんだ。だから、大原の今の質問は、僕にとって愚問なんだよ」
 紘太以外、僕の心に入り込む隙なんてない。
 それだけは、わかって欲しかった。
 例え紘太が僕から離れてしまったとしても、僕は紘太以外好きにならないし、大原のことも……。好きになれないってことを、わかって欲しかった。大原は泣きながら優しい笑顔を浮かべて、僕に言った。
「完膚無きまでに、ってこういう時に使うんでしょうね。ここまで京田さんに言われるとかえって気持ちがいいくらいです。……オレ、やっぱり、京田さんを好きになってよかったです。ありがとうございました。京田さん」
 その様が、すごく吹っ切れたように見えて、僕は嬉しくなったんだ。
「……また次の仕事も頑張ろうな、大原」
 そう言って、はたと気づいた。今は女の子に執着しなくなったから気にしなかったとはいえ、女の子には相変わらずモテないくせに、男にはモテまくって。
 また、男をフッてしまった……。
 僕、くらいだよな、本当。
 そして、今。僕は勝負に頑張ったご褒美を紘太にもらっている。
 すごく、きもちぃ……。
 そういえば。最初に紘太に無理矢理に押し倒された時も、イヤイヤ言っていたのは事実だけど。あの無理矢理感でさえ、気持ち良かった。
 大原に押し倒された時と、無理矢理なコトは一緒なのに。大原とは絶対にイヤだけど、紘太ならいいかなって潜在的に思ってたのかもしれない。さらに、僕は紘太を前にすると兄であることをすっかり忘れて、嫁モード全開で甘えちゃうことも分かったし。自分から「シよ?」って言ってしまうくらい淫乱に……なることも分かった。
 互いの乱れた呼吸が、部屋にこだまする。
 僕は紘太に深いところを弄ばれてとろけそうだし、紘太は僕の中にいれて、酔いしれたような顔をして。 離れたくない、離したくない。
「ゃあ……も、らめぇ……」
「……俺もっ!! 恵介っ!!」
「………こうたぁ!!」
 紘太に後ろだけでイかされて、紘太は僕の中にたくさん出して……。この瞬間、僕は紘太と一つになれたって実感するんだ。
 たいがい僕は、淫乱だな。紘太の汗ばんだ背中に腕を回して、僕は紘太に深いキスをした。
 そして、言ったんだ。
「次の三連休に一日プラスして休すもうよ、仕事」
「何? 旅行? どこ行くか決めたの?」
「福岡に、紘太と行きたいから。大原とのイヤな記憶を紘太と塗り替えたいし……」
「塗り替えたいし、何?」
 まるで嫁のワガママを静かに聞いているオトナな男の体で、紘太が優しく笑って僕を抱きしめるからさ。 胸が、きゅんとして。紘太の耳元で、僕は囁いたんだ。
「夫婦になって初めての、旅行でしょ? これってまだ、新婚旅行って言わない?」
 
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