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第7話:くるま交差点(下の中)
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(前回までのあらすじ)
ノブ子たちは、車たちの導き手であり、スモーマフラー所属の十俊英たちからグレートラハトハのとあがめられている青年と出会うが、その正体は擬態した木偶人形だった。
彼の本体はノブ子のようなただのおしゃべりスパークプラグで、十俊英首魁の反隋の能力で擬態をしていた。
そして十俊英瓦鷺。
彼は自分の知りもしなかったグレートラハトハの正体にたどりつき、彼の身柄を拘束した。ついでにノブ子もね。
果たして。彼とノブ子の運命や如何に。
そして分岐して脇道に逸れに逸れた十条と非津の運命や如何に。
***
姉古川市中部。
「うぇーい、おまたせ!」昨日呑気にチーマー狩りゲームに興じていた大学生二名は呑気に今日も姉古川の街中で集合する。
「おいおい、直電してから一時間たつけど? 何してたの?」
「ごめんごめん、飼ってるルーパーが泳げるようになってさ」
「ウーパールーパーのこと? もともと水生だよ」
「えー。そうなの?」
「え、ずっとどうやって面倒見てたの?」
「カブトムシの籠の中に一緒に入れてたよー」
「かわいそ。よくそいつ生きてたね。サンショウウオじゃないの?」
「それで、電話のデブがヤバいって何のことなの?」
「お前、ひょっとして二時間前のやつ見てなかった?」
「なになに?」
「あ、やっぱ投稿見てなかったか。さっき、この辺でデブチーマー湧きまくってたから」
「あ、そうなの」
「反応薄いな。軽くバズってたんだよ」
「何でもいいけど、デブチーマー、昨日のおっさんの擬人化だったよな」
「おっさんは擬人化してもおっさんだよ。まあ、わかるよ、昨日のおっさん本当にデブチーマーそっくりだったからな」
「バズのスモーしか見てなかった」
「バズのスモーってなに? 相撲がバズってるの? そんなのみなかったよ」
「ちがうって。不正疑惑のバズだって!」
「ああー、知ってるわ。スモーマフラーでメーター不正があったかもしれないってニュースだろ」
「そうそう、めちゃバズだったじゃん」
「けど、どうでもよくね?」
「それが裏ではあの十人の侍が関わってるって、めちゃ言われてるし」
「十人の侍? ん、十常侍? ちがうな。あ、十俊英のことね。あの都市伝説の悪の組織」
「なんでわかったの」
「まあ、長い付き合いだからな。てか、スゲー話になってんだな。どうせ嘘だろうけど……、ん、まあ、……、ん」
「……、……」
「……、……」
「今日救急車多いな」
「……、……」
「……、……」
「何か悲鳴聞こえないか」
「悲鳴、……、聞こえるかも。行ってみる?」
ウウウウウウウウウウウゥン、キュルルルルルルル、ウウウウウウウン。
「ん、え、こっち来た! マジで!」
「あぶねえ!!」
軽自動が二人に勢い良くつっこんできた。ボケっぱなしだった方のボンクラ大学生が相方を押しのけて一人で衝撃を引き受けた。
助けられた男にとってそれは突然訪れた恐怖だった。生々しい人体の何かが折れ曲がり圧し潰される音が聞こえたと思えば、今話していた相方が二メートル先の花壇の上で血みどろになっている。
だ、だれか、誰か! 助かった方のボンクラ大学生は腰を抜かしたまま辺りに声を上げた。
たった今、人を轢いた車には誰も乗っていなかった。だがそのままバックして右を向いたかと思えばどこかへ慌てたように走り去って行った。
同時刻、中国・浙江州とある市のとある町。
茫々と生えに生えた草に覆われた空き地の中で所々見えていた白い頭の何かがひとつ、また一つ動いてこの沼から這い出ていく。
這い出たのはEVだった。一台、まだ一台、ぼんやりと生気なく進んでいた彼らは次第に速度を上げてまっすぐに街へ向かいだす。
一台、まだ一台、白い彼らはてんでばらばらに東、北西と思い思いの方へ向かった。
九十九、百、まだまだ空き地でうごめいているのを数えてみれば、自我を持ち、これから行動を起こす者は二百や三百で足りる数ではなかった。
***
「え、なんて?」
プロペラの回転音とエンジン独特の、キーン、という高く鳴り渡る音で簡単には話し声が聞き取れない。ジェイミーは聞き返した。
「ですから、HISとは、言ってしまえば追放の言葉です」反隋はそう語った。
声量は小さめなはずなのに、頭に直接響くような話し方をされた。今度はよく聞き取れる。
ヘリコプターにはジェイミー達と運転手、土岐が座っていた。
一同、天井に張り付いた両目の模様があるイトマキエイのぬいぐるみを見上げていた。
その姿はただただ不気味の一言に尽きる。
むこうからはぽかんと口を開ける自分たちがさぞかし間抜けに見えるだろうが、仕方ない。
「追放ってなんですか? 彼らは何から追放されたと言うんですか?」
質問を返しながら、ジェイミーはなるべく頭上のイトマキエイと目を合わせないようにした。
イトマキエイのぬいぐるみは何らかの術でただのスパークプラグ(しかし意思や人格の有るものだが)を人間の青年に見せていたということだ。これは本当か嘘かイトマキエイ本人から暴露された。
人に幻覚を見せる術を持っている。今はまともに話を聞きはするが、警戒していないと、自分たちがいつの間にか相手の術中にはまる恐れがつよい。
だが、同時に特に何もしてこないのではという思いも強くもたげてくる。
スモーマフラーは数時間前に不正疑惑の報道がされたのだ。エフィに連絡をして裏は取れている。
反隋は自分たちの手で終わりにするためにリークをしたと言っていたが、本当だとするとおぞましい。
今更自分たちの手で流した疑惑を、噓でした、で片づけるわけにはいかない。
これからありとあらゆる手で不正が暴かれ、数千、数万、いやもっとではないか、それだけの人間が被害を被る。
結局、十俊英もスモーマフラーも意志を持った車のための組織なのだ。用が済めば即ポイ。
スモーマフラーやラハトハの事実を知らなかった瓦鷺だってそういう意味では被害者だ。
しかし、ノブ子を取り戻すため、止めないといけない。反隋達だって同じだ。
ラハトハとかいう、スパークプラグの姿をした自分たちの神を取り戻さないといけない。
そして組織のシミである瓦鷺も、何かしでかす前に消去しなくてはいけない。その点で彼女たちは信用できる。
ガー、と無線から音が入ってきた。
「反隋様。入ってきている情報では現在、混乱が世界中で広がっている模様です。特に中国では各地で数千台規模での車の行進や道路の封鎖が行われており、軍隊が出動する事態になっています」
暫穴から無線連絡だ。彼女は現在、ジェイミー達の乗るヘリのはるか前方を飛びながら偵察をするもう一機のヘリに乗っていた。
「全て予想通りのことです。我々はあくまで瓦鷺に集中するのです」
無線のスイッチは反隋自身が尾を使って押した。
「さて、何から追放されたか、でしたね」
無線を切り、イトマキエイは再び話し出した。
「え、ええ……」
「この世からの追放ですよ」
「この世からのって……」
ジェイミーは簡単には想像できなかった。
仮に自分が、ぬいぐるみ全体が、世界から見放されたとして、それがどれほどの衝撃というのだ。
「具体的に人間の言葉には訳せません。彼らにとって、この世界からの否定、拒絶の意味を持ちます。人間である瓦鷺に繰り返し言われたことで彼らは混乱の中、人間に反旗を翻すという結論になりました」
「マジないわー、ってことじゃん! あーしも言ったことあるし。そんなん言われただけで、そんな傷ついたの?」
メルザは先ほど使用したナイフを研ぎながら気だるそうに話す。語気は鋭い。
メルザがそれを昨日連呼したときは結果として大量の意志を持つ車を集合させる事態になったのだが、むしろそれで済んだことが幸運だったのだ。
今回はそれを、自分たちの最大の同士ラハトハを捕らえられた状態で言われたのだから効果てきめんだったのはわかるが、胸にストンと落ちてこないものがある。
「僕もそう思います。一人間が言ったことが、そこまで影響するなんて信じられないですよ」
それに対して、端に座り、居眠りをしているように見えた土岐が目を見開いて話し出した。
「吾輩らは車共にとっては、あまりに特別で複雑すぎる存在なのだ。仮にも車というものを生み出したのは人間。オリュンポス神のような、創造神につながる神神しさを持ち合わせながら、餓鬼の醜さも持ち合わせている。そして時に人間は羽虫のように何気ないことで死んでいく」
「彼らはまだ神話の中、楽園に生きているのです」土岐に付け足しながら、反隋の模様が目を閉じたものに変わった。こっちの模様はなんだか可愛らしい。
「なら、今はまだ、車たちにとっては黎明期。世界との関係を見出している最中ってことですか……」
ジェイミーはなるべく友好的に見えるように話した。自分の向かいでトイプードル型ぬいぐるみの双子はのんびり寝息を立てている。ため息が出そうだ。それに一番注意をしておかないといけないのが一匹。
「アナグマっち。やっぱ、あーし、ノブ子のこともあるけど、コッちーたちのことも、気になる」棘のある口調でメルザは誰とも目を合わせずジェイミーに聞いてきた。大分神経をとがらせている。
瓦鷺が唱えた追放の呪言は車たちを一斉にパニックにさせた。さらに瓦鷺はラハトハとノブ子を人質に出し、彼らを脅してそのうちの一台に乗り込んだ。皆が奴を捕らえようと動いたが、人間憎しと集まった周りの車たちに阻まれてまんまと脱出を許してしまったのだ。
すぐに助けに向かわなければいけないと思ったが、同時に一つ気がかりがあった。
コアラーとゲリウスだ、両方とも半壊の状態で外に出て行った。彼らの行方も追わないといけない。
それに自分たちの身も絶体絶命だった。スモーマフラーのスペシャリストたちに囲まれたジェイミー、メルザ、双子だったが、彼らの前に現れた首魁の反隋がもちかけてきたのは、まさかの共闘の誘いだった。
その反隋が淡々とメルザに返す。
「単独で出られても見つかる可能性は低いです。このまま我々と行動を共にすることが一番の近道ですよ」
「だからそれ、さっきも聞いたし。イミフにも程があるのよ! なんであのジジイ追うことがを見つけることになんのよ! 見たでしょ。コッちー、ゲリ子はもう関係ないんだよ。自分たちを殺そうとした奴らんことなんて、もう、どうでもいいって思ってるのよ」
「まあ、そこだろうなあ」土岐は腕を組みながら肯定するかのようにつぶやく。
「ほら、アンタもそう思うわよね」
「うむ。あの二台は間違いなく、自分たちで罪の共有という軛から解き放たれた。しかし、ひどく傷ついている」
「もとはと言えばアンタらが処刑をしようとしたからよね。信じらんない。ノブ子のことがなかったら、とっくにアンタらなんか潰してたのよ」
「メルザ。分かるけど、今は落ち着こう」
「分かってるわよ。アナグマっち」
流石にこれには土岐もカチンときたのか、鼻で深く息を吐き出し瞑目した。少しして、心が落ち着いたのだろう、また語りだした。
「そうだな。だからこそなるべく、いや、必ず吾輩の手で彼らのやや子を取り出さないといけないのだ」
え、と言いながらジェイミーとメルザは土岐の方を見た。こんな、深甚とした対応をされたことも意外だが、やはり自分たちは考えが足りなかったと、ジェイミーは痛感した。
「コアラーもそうですが、ゲリウスのほうも危険な状況です。自らの夫にぶつかって行ったことでコクーンに浅くはない傷を負っている状況でしょう」反隋の言葉にジェイミーは、やはりか、と確信した。
「じゃあ、車屋に……、あ……」メルザも事態に気付いた。
このような状況だと車屋はパニックだ。特に意志を持った車など受け入れられない。むしろ、攻撃を受けるだろう。それを知った二台は自らを修理するあてもなくて、そのうちチャイルドの危機に直面する。
そんな二人の唯一のあてはスモーマフラー。しかも、事情を知っているのは姉古川店。
イワンのいなくなった今となれば、泣きついてでも瓦鷺か土岐に頼むしかない状況なのだ。もしかすると、二人はすでに死亡しいるイワンの方を探しているのかもしれない。
「高い確率で、あの二人は姉古川店にもどるでしょう。我々が責任取って保護します。人員は既にいます」
ガー、とまた無線の音が入ってきた。
「瓦鷺の行方が分かりました。部下のドローンの映像から、その姿はとらえています。進路は十中八九、霞が関、旧本社ビルです!」
「分かりました。そのまま追跡を続けなさい。このまま旧本社を目指します」
承知、との勢いの良い返事と共に無線は切れた。
「霞が関の旧本社? 何で今更瓦鷺はそこに向かうのですか?」
反隋は一瞬固まった。目の紋様が変わらないから、何事かと思ったが、土岐に確認を取っていたのだ。彼がゆっくり頷き、再びイトマキエイはしゃべりだす。
「姉古川店には彼が必要としている、あるものが地下にあります……」
同刻、霞が関、スモーマフラー旧本社ビル。
「急げ! そっちの方もバリケードを早く張れ。持ち場を守れよ!!」
「バリケードってたって、そんなもん張る道具がどこにあんですかい!?」
旧本社に大量の意志を持った車たちが押し寄せてくる。本部からの連絡に、現場の人間たちは最初半信半疑だったが、ニュース等の速報を見て危機感を高めつつあった。
現場では、一人でも多くと、火急の自体に首都近郊の支部から集められた社員たちが一人、また一人と集結してはいたのだが、いかんせん人がまだまだ足りていなかった。
フットワーク軽く動ける営業の人間が集まったところで防衛の知恵や道具がそろうわけではない。スペシャリストの一人がたまたま早く駆けつけてこれを特別業績の好機と息巻いて指示を出すも、こんな緊急事態を想定していない現場の男たちは狭い道の上で浮足立っていた。
そこに一台、とんでもない速さでドゥカティのバイクが突っ込んできた。
機動隊が使うポリカの盾を構えていた社員の男の手前十センチで停まったそれは、フルフェイスのヘルメットをかぶったライダーが搭乗していて、何かを伝えるメッセンジャーのようにも思えた。
ただ異様だったのは、ライダーの男がヘルメットを取ると、その顔はホラー映画の登場人物と錯覚するほどに青ざめて目が充血していたことだ。
男は社員と目が合うと言葉をかけることなく、奇声を発して走り去って行った。
あっけにとられていると、反対側でも同じようなバイクに同じような男が一人、また同じ調子でどこかに走り去る。
間髪入れず一台、また一台とビルの狭間にある小さい道路と、歩道までも急遽迷い込んだようなバイクで埋め尽くされた。
そしてその中からは決まって青ざめた様子のドライバーたちが外に出てきて、必死に走って逃げだしていった。
完全なる袋小路だ。
現場の皆が、異様な圧迫感の中で走り去って行ったライダーたちのように顔を白くさせ始めていた。
「あっ」
一人が気付いたことに呼応して連鎖的に全員がその目的に気付いた。
道路のいたるところにシミができている。それも全てのバイクの腹下から伝って、まっすぐな線を描いていた。
嗅ぎ覚えのある匂いが鼻孔を畏縮させる。
ガソリンだ。
すべてのバイクがガソリン漏れをしている。
「逃げて!!」どこからか声がする。
だがまだ、半分が、この事態をどういうことか分からないままで、誰一人、動けずにいた。
「だで! たて!! 盾!!」スペシャリストが完全に狼狽えた声を腹からひりだし、その理性をかなぐり捨てた奇声が何とか聞き取れる単語になった。
コンマ一秒の世界の出来事。
すでに瓦鷺の投げた火のついたマッチの箱は地上から三メートルの位置にある。数人が、それを、口を開けたままながめていた。
箱に描かれた馬の顔が黒く焼けただれ、その歪な口元が灰塵と化していく。だれも、それが数秒後の自分だとは夢にも思わない。その瞬間は……。
社員の何名かが叫びをあげる。スペシャリストもだ。だが、誰も動こうとはしない。
刹那のサバイバルに敗れた彼らは約0.3秒後に訪れる一帯火の海の中に沈んでいく自分たちの姿が朧げに見えて来ていた。
……、しかし。マッチ箱は落ちなかった。
それは直前で突然激しい光に包まれて消えたように見えた。
ラハトハが電気分解により、高濃度の水素を作り出し、空中での燃焼を加速させることにより一瞬で塵にしたからだった。
「脅すだけだと言ったはずだよ」
「クッ、グ、ククク。ハハハハ! それは、さ、最後にとっておいた切り札というやつか?」
「どうだろうね……」
右手に持ったケーブルの先のラハトハはうなだれるようにぶら下がっている。マッチ箱を消して見せる際に瞬いた先端は今では嘘のように無機質なイリジウムの表面を見せている。
「ンー、ンー、ンンーーー!」
血みどろの左手でわしづかみにされているノブ子が必死に悶える。ラハトハよろし、テスターのケーブルに巻かれてぶら下がっていたが、あまり騒ぐため今は瓦鷺の手の中だ。
瓦鷺にデコピンを食らわされノブ子は気絶した。
「グ、ほ、ほんとうにこいつが車どもとの対話に必要なのか? どう考えてもアンタがいれば十分な気がするがね」
「絶対音感の持ち主みたいなものさ。彼女でなければみんなの放つ繊細な音は正確に聞き取れない」
「面倒じゃな。ここで捨てると言ったら?」
「それもいいかもね。ただ、僕も切り札をまた出すかもしれない」
「ふん。お前も少し大人しくしておれ」そういうとポケットにラハトハをケーブルごと突っ込んだ。
(どこに居ようと関係ないさ。ぶら下がったままよりは少し楽だけどね……)
ポケットの中にいれても、ラハトハのと念話は続く。
散り散りになって逃げていく社員たちを眺めながら瓦鷺は歩き出した。
人間たちが逃げた後は車たちが、バイクを倒して、無感情に踏みつけながら、駐車場まで不気味に進んでいく。
瓦鷺も彼らとは別にビルの中に入った。
入口には一人の小さな男の影が……。
角力田前会長だ。瓦鷺を待ち構え、一人立っていた。
「これは、ヒ、久しぶりではありませんか」
前会長は瓦鷺の怪我の具合を見て表情は変えなかったが、明らかに言葉が遅れた。狼狽を押し殺す一瞬の空気や間が隠しきれていなかったのだ。
「……。まず、。君に謝罪しよう」
「別に、もうどうでもいい。あなた方の手の速さにはほんとうに、グッ、はあ……、お、おそれいる」
瓦鷺はここに来るまでに知っていた。
午前のこと。スモーマフラーはの不正疑惑が報道された。報道内容は販売中古車のメーター不正についてだけだったが、いずれ全てを明かすためにわざとリークさせたことくらい分かる。
ネットの情報を見ると早くも十俊英の存在と組織への関与について噂が広まり始めている。
けち臭いメーター不正ごときで都市伝説の十俊英の名前が出ること自体ばかばかしいが、これも大金を払ってわざと流しているのだろう。世間の注目がさらにこの報道に行く。
そして盛大なトカゲの尻尾切りが始まる。
悪事は全て十俊英主導ということにしたいのだ。
スモーマフラー社が十俊英より権力が強かったというわけではないが、全てはポケットの中のスパークプラグの差し金だろう。もともと十俊英は解体する予定だったのだ。
そして自分の意志に沿う者のみ連れていく流れなのだ、つまり土岐や暫穴のことだ。
怒りはない。組織に裏切られるのは二度目だ。
角力田元会長は苛立ちを覚えるほど腹の座った目つきで瓦鷺にあるものを差し出した。それはカードキーだ。
「ホワイトホールのマスターキー。君の欲しいものだろう」
「……。手間が省けた。グ、だが、何故?」
「条件がある」
聞かん。瓦鷺は提案を一蹴してマスターキーを取り上げた。
蹴とばされた元会長は腹を抑えて荒く咳をしている。
瓦鷺は自分の仲間に電話をかけた。
しかし、何度もコールしても全く相手につながらない。
「なんじゃ。せっかくのタイミングに」
しかし、瓦鷺の後ろにはすでに三つの人影があった。
「それはねえ。電話に出る必要がないからさ」
瓦鷺が振り返ると、線目でにこやかなスーツ姿の男、ポロシャツでチノパン姿の男、タンクを背負いガスマスクをした重装備の男がいた。
「ん、流石じゃな。グップ、ゴホ、もう着いていたとは」冷や汗をかきながら瓦鷺は振り返る。携帯にも大量の手汗がついていたが、気取られることはなかった。
「プヒュー、オマエ、すごいケガだな。ヒュー。右も左も。左腕のほうはデカい穴が開いて血だらけだぞ」タンクを背負いガスマスクをした重装備の男が瓦鷺の体を見てマスクの奥の眼を細めた。
「平気じゃよ。お前こそ散布してないのなら、ガスマスク切っとけ。グ、物騒でいか
ん」
「EEEEE(イーストレート)か……」
ポロシャツの男が顎に手を乗せながらある推測をつぶやいた。
それに対してカワラサギは目を逸らし控えめに肯定をした。
「へーえ。ま、僕らを待たずに一人で立ち回ったんだ。そんなことになるだろうねエ」細目の男は粘度を含んだ語り方で嘲笑か、あるいは皮肉か、瓦鷺を笑った。
彼らはサハラに黒河馬狩りの任務で派遣されていたはずの残りの十俊英だ。
十俊英たちの会議があったその後に、瓦鷺から連絡をうけ、部下たちを残して日本に秘密裏に帰国していた。
線目のスーツ男が、下請け恐喝の競場(せるば)。
ポロシャツ、チノパン、サンバイザーをかぶったゴルフボールの結鬼。
たった今、ガスマスクを外して、顎のたるんだ顔を見せた巨体は、除草剤の烈弩(れつど)。
瓦鷺はもともと、ゲリウスの強制妊娠に関わりつつも、非津、十条、砂里、若い三人の十俊英たちのいがみ合いが日増しに大きくなる様子を見て、決して小さくない内部分裂が起こることを予期していた。
そこで反隋と有辺に反目している派閥である競場たちに話を持ちかけていた。
これから起こるであろう内部の混乱を利用してラハトハと直接コンタクトできる反隋とその娘の砂里を狙い、ラハトハにたどり着き、その身柄を確保する。
大義を手に入れた後は非津でも十条でも、生き残った者を取り込み、有辺を袋叩きにする。
計画に具体性がないのは言わずもがな。
手に入ったはずのラハトハが未だポケットにあることが、瓦鷺の本心だ。
好奇心が勝ったか、アドバンテージを有したかったか、三人がサハラから戻る前に、どうしても反隋の目的を知り、ラハトハの正体にたどり着きたいために、瓦鷺は抜け駆けをした。おそらく理由は前者だろう。
暫穴と土岐がむこうについていたのは計算外。反隋がいることは想定通り、ラハトハの正体は少し想定外。
EEEEEを使うことで分の悪い賭けであったあの場は、辛くも切り抜けることができた。
しかし……。
「その様子、ラハトハ様も手に入れれず、反隋に負けておめおめ戻ってきたと言うところかな?」サンバイザーの先に手をかけて、結鬼は盗み見る目つきで問う。
「ああ、その通りじゃ。ラハトハ様もおられなかった。何とも言い訳のしようがない……」
「ハーッ、ハー、見え透いた。野心があるからこその抜け駆けだ! ほんとうなら、はー、ここで悶え死なせてやるところを!」烈弩は左目だけ見開き、大きな顔を瓦鷺に近づけた。
「レツ、はあはあ言い過ぎ。またデブったよねえ。少しは節制しなって」競場が横目で烈弩をたしなめた。
「む! これは、はー、鼻炎が激しくて口呼吸なんだ!」言い訳も苦しかった。
「ユーキ。どうするう? お祭りに間に合ったのはいいけど、一気に狂っちゃたね。俺ら反逆者じゃん」
「セルバ、どうあれ、敵対することはもともと決まっていただろう」
「あーん、たしかにそうかもねエ……」競場は目くばせして烈弩にも確認をする。
「ハー、ハンズイは元々我々を切り捨てるつもりだったのだ。会社の不正の全てを押し付けた後で。ハーッ、ハー」
「そうとは限らんだろう」結鬼はサンバイザーの下の眼元にしわを寄せた。
「なアに? 社長や会長や元会長(小蠅共)の仕業っていいたいわけかなあ?」
「そうだろう。タイミングからしておかしい。でかいプロジェクトがいくつも動いていたのだぞ。暖簾をしまうには
あまりにも急だ」
「ハー。だがあのハンズイだぞ、会社連中の動きに気付かなかったとも思えん。ふー」
「それもそうだよねえぇ」
ワシもそれに賛成じゃ。瓦鷺はここぞとばかりに割ってはいる。
「グ、奴もドキやアルベも、もともとスモーマフラーなぞ、属しとらんかった。いくつもいくつも会社を替えて瓦礫の山を作りながらラハトハ様の意志に、シ、従ってきただけじゃ」
「だからあ、今度も意図したリークっていいたいんだろォ」
「奴は、いっとったよ。十俊英とスモーマフラーは解体と……」
実際にそれを言ったのはラハトハなのだが、同時に彼に忠実な反隋の意志であることも違いはない。
瓦鷺の話を聞く三人の顔つきが修羅の様相を呈してきた。
「本気で解体するのであれば後始末はするじゃろうよ。わしらをスケープゴートにして」
「みんなで口封じにくるだろうねえ♪」
「総力戦か。大博打になるな」
結鬼はサンバイザーを目深にかぶり、ほくそ笑む顔を隠した。彼の手はいつの間にかポケットの中にあり、コリっという音が聞こえた。
四人は反隋を迎え撃つ意思を固めた。ここまで強気に出れる理由は瓦鷺の右手に握られたカードキーにある。
「ハーッ、カワラサギ、それはお前が起動するつもりか?」
ホワイトホールのマスターキーを指して、烈弩だけでなく競場、結鬼もまた、ただならぬ顔で瓦鷺を睨む。
「当然じゃろう。勝ち取ったのはわしじゃ。そもそもお前らに仕組みや使い方が全部わかるか?」
「……。別にいいさ。データの開放だけ行われば、俺たちはそれ以上ホワイトホールに用はない」
「おいおい、ユーキ。勝手にオレたちの意志もきめないでほしいねエ。まあ、あんなデカブツ、大して用はないけど、一応オレら共有のモノってことにしないかなあ?」
「ホー、俺もそれでいい。カワラサギ。起動はお前がしろ。ハー、ただし、それ以降そいつを使う用事があれば俺たちに許可を取るようにしろ。ハー」
「まったく疑り深い。まあ、いいじゃろう」
四人はそれ以降何も言わず散らばって行った。
腹を押さえながら角力田会長は瓦鷺の背中だけを見ていた。
***
何よ! 私だって一生懸命やってるのに、何なのよ! その目は!
微睡みの中に半分浸ったままの十条は、そういって詰め寄ってくる女たちに、ひたすら反論を繰り返していた。
母親、施設の女職員、二年前に捨てた彼女。
自分自身も何を言い返しているのか訳が分からない、支離滅裂だった。本当に言いたい一言はどうあがいても口から出てくることはない。
しかし夢の相手が全部女、何で女なんだ。薄目を開けた先にあるのはスーツ姿で鋭い目つきをこちらに向ける、お堅い男共だと言うのに。
「……さん。十条治英(はるひで)さん。聞こえますか?」
眠りへの名残が一瞬で消え失せて、十条は椅子の上で体を震わせた。
「あ、ああ、はい。……、すみません。ここは……」
「覚えはないですか? 中々あなた方が起きないもので、ここまで、あまりいいやり方ではないのですが、運ばせていただきましたよ」
「……、それは、すみませんでした。申し訳ないのですが、まだ頭がはっきりしなくて……」
辺りを注意深く見渡す。自分一人に対して、警察の捜査官らしき風貌の男たち。
その数は書記を入れて三人。
立ったまま、十条を尋問しようとしている態度の二人は耳にアコースティックイヤホンと胸に無線機を身に着けている。
こうしてみると本当に取調室だ。奇妙なのは右手の壁に一面鏡が貼られていることだ。何となく十条はそれについて予想がついた。
「では、こちらは覚えがないですか?」
正体の分からない男は、そう言ってもう一人に合図をすると、合図を送られた方は手元のリモコンを操作した。
部屋の中の全てを映していた鏡は、急に別の部屋の様子を映し出した。
マジックミラーだ。切り替えることにより、ただのガラスと切り替えている。
隣の部屋には反隋紗里が自分と同じように三人の捜査官のような男女に囲まれ椅子に座っている。
十条よりも早く目を覚ましたのだろう。聞こえはしないが、すでに砂里は意識はっきりと受け答えをしていた。
「いかがですか?」
「……。もちろん知っています。彼女は同僚です」
「お名前をご存知でしょうか?」
「……。底片ヘレナです」
「では、貴方と彼女はどちらでお働きになっているのですか」
「スモーマフラーです」
男たちは顔を見合わせて頷き合った。
「どうやら、意識がはっきりされたようだ。貴方と底片さんはタクシーでこちらに参られました、その時、お二人とも寝ていた。運転手に聞いても知らぬ、存ぜぬ、でしたんで」
「それは、大変失礼をしました」
「……」
男はそれ以上問うことはせずに、書記の男に、どうだ、と問い始めた。パソコンのキーを叩いていた書記の男は確信ありげに頷いた。
「間違いありません。声帯は同一です。データベースとの照合からも、本人で間違いありません」
男は書記の男から十条に向き直ると、立てかけてあったパイプ椅子を開いて十条の前に座った。
「では始めましょうか。お名前、仕事先は聞きました。貴方の肩書から聞きましょうか、ひとまず順々に質問に答えてください」
理解が追いつかないまでも十条は、淡々と質問に超えた続けた。内容の大半はスモーマフラーでの自分の役割や直近の行動についてだ、上手く、十俊英についての活動やホワイトホールでのことなど社内の機密を避けて話していたが、違和感を感じる。一つ一つの回答について慎重に吟味をしている様子が取れる。隣の紗里についても先ほどから何度かちらちらと盗み見ていたが、一問一問の受け答えが長い。
「もう少々お待ちください。貴方の情報の裏付けが取れ次第、始めようと思いますので」
「なるべく早くお願いします。すべて、さっさと話してしまいたいが……、ああ、一つ、彼女の安全は確実に、確保されるのですか」十条は踏み込んで探りを入れることにした。
「安全というのは会社からの口封じ、もしくは報復が起こると言うことを示唆しているのでしょうか? でしたら、ご安心ください。事が終わるまで、あなた方の安全は確保しましょう」
「それだけではないだろう。彼女が、仮にだが罪に問われるということは、ないということでしょうね」
椅子に座る男は両ひざに手をついた。
「それは貴方や底片さん次第とだけ申しておきます。お二人のお話しいただく情報次第で、改めて罪状を追求するかは判断します」
十条は確信を得た。
これは司法取引だ。おそらくだが、ここは、最高検察庁。角力田元会長か十俊英のだれかか、一体誰が裏で手を回したのかははっきりしないが、自分と紗里は河原で眠らされた後、ここに移動させられた。スモーマフラーの不正の数々を打ち明けさせるために。
「おい、もういい」
十条と話していた男は立ったままの自分の部下らしき男をあごでしゃくった。指示を受けた男は先ほどのリモコンを取り出す。
「まってください」咄嗟に十条はリモコンを持った男を向いて言った。
「何か?」椅子に座った男は表情を変えず、立ったままリモコンを構える男の代わりに返事をした。
「……、いえ、なんでもない、です……」
椅子に座った男も、リモコンを持ち立ったままの男も十条を見て怪訝な顔をした。
彼が頭を抱えてうずくまりだしたからだ。
「……、大丈夫ですか。十条さん?」
「……、……。はい。……、……、何も、問題はありませんよ」十条は椅子からゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと十条さん……!」
立ち上がった十条、彼らにとってはまたとない出世のためのキーマン。彼は何気ない足取りで書記の男のもとに行き、その肩に触れた。
そう、まるで自分の部屋のように何気なく……。
「私よりも取引に相応しい男がいますよ。あなた方に紹介します」
十分後……。
「では十条様はこれからどこに……?」
「どこにって、会社に戻るさ」
「そんな、我々もお供しますとも……、なあ!」
「はい、立場こそあれ、私たちは朋友です。貴方の任務完遂のため、最後まで共にいさせてくだい」
部屋の中にいた男たちは皆立ち上がり、先ほどの冷ややかな顔つきはどこへやら、十条を囲んで澄んだ目、曇りない顔のまま快活な声で言葉を発する。
「しつこいな。俺の力を疑っているのか?」
少し凄んで周りを見るだけで、三人の検察官は恐縮して頭を下げた。
「じゃあ、俺はもう行く。お前たちはそのまま自分の仕事を続けろ。くれぐれも俺のことを上に報告するなよ。これから来る奴がお前たちが最初から接触するはずだった男だ。忘れるな」
最後まで深々と頭を下げて涙ぐむ検察官たちを背にして十条は部屋を出た。
深い息が体から漏れる。隣の部屋では紗里の取引がつつがなく進んでいることだろう。俺との接触を怖がるだろうが、どうか安心してほしい。もう、俺はいない。
静かに動き、十条は暗い廊下の中、階段を探した。
……、ガチャ……。
背を震わせた。隣の部屋のドアが開いたのだ。出て来たのは一人だ。かすかにパンプスの足音が聞こえる。
恐る恐る後ろを振り向くと、後ろには紗里がいた。
「……、なあ……」
「なあ、じゃないわ、どこに行くつもり?」
「それは、お前こそだろう? 取引はどうしたんだ?」
「あんた、私が取引で罪が減刑されるレベルだと思ってたの? 殺人、諜報、工作、調べられたら一発でアウトよ」
「検察官は?」
「眠らせた。いちいち言うまでもないでしょ」
「だとしてもバカなことを……。交渉次第で如何様にでもなっただろう」
「知るか。それよりもずっと見てたわよ。アンタこそコソコソと出て行って。覚悟はできてるの?」
十条は平静を保って話していたつもりだが、体の震えだけはどうしようもなかった。
自殺する前、母親もこんなふうに、何を言うにも荒れていた。出てくる言葉が長ければ長いほど、後ろが金切り声に近くなる。
「覚悟はできてんかって聞いてんのよ? 何よ、その目は?」
「いや、僕はいつも、母さんの味方だから」
「母さん……?」
我にかえり、十条はゆっくりと膝をついた。
「しかたねえな。好きにしてくれ……」
だが、帰ってきたのは予想外の返事だった。
「何よそれ? 好きにしてくれも何も、そんなバカやってる時間ないわ。確かに殴りたいけど……」
「時間がないって、どういうことだ?」
「あいつらから聞いてない? 今、車たちが暴れ回って町や人を破壊し回って大パニックだそうよ」
「ああ、それかよ」
「それかって、何やる気無くしてるの?」
「お前こそなんだ? そんなの俺らに関係がないだろ。勝手に暴れさせとけよ」
「何で関係がないって言えるのよ」
「俺らは十俊英だぞ。社の利益にならないことはしないさ」
砂里はその場でガハハと笑い出した。こんな下品な笑い声を聞くこともそうそうない。反応に困る。
「社の利益自体が無くなるような事態じゃない。これじゃ、どの支店にも未来永劫、車が来なくなるわよ。アンタのそのやらしい能力が役に立つ唯一の機会でなくて?」
十条は自分の手を見つめた。この能力は効能に個体差が大きいのだが、人間関わらずすべての生物に効く。
現にゲリウスの時だって拒否する彼女をこの能力で大人しくさせた。彼女の好意を自分に向かせることまではしなかった。いや、できなかったが。
今まで何度も意志を持った車に人間ほどではないが効果のあることは実証してきた。少なくとも暴走する車の動きを止めることはできる自信がある。
紗里は十条の迷いに関係なく歩き出している。
迷い動き出せない十条は動きだせない。紗里はその様子を見て戻ってきた。
そして思い立ったように十条の襟首をつかんでひっぱたき、突然、おい、と怒り出した。
「生むわ、この子」
「あ……」
「忘れてないわよ。アンタなんて、いつでも殺れる」
「……、……」
「死ぬまで、父親をやれ。アンタは人様の頭に岩を落とそうとするバカだけど……」
「……、……、バカだけど? 何だ?」
聞き返したがすでに砂里は歩き出していた。
十条は顔をしかめていた。
涙があふれそうだったが、踏みとどまったのはせめてもの抵抗か。自分の趣向が彼女に向かないように必死に調整した結果なのかもしれない。
***
「ちゃんとベルトかかったの確認したな?」
「へーい」
「じゃ、ゆっくり上げてけ」
油圧フォークリフトは、ピーピーと音を立てながらゆっくり下がって行った。
引き上げられたCCは大人しくなっていて、ゆっくりとその車体を引き上げられながら、後部を地面に設置させた。
フォークリフトが後ろに下がると、ボンネットにぶら下がった白目の土座衛門も引き上げられた。
「よしよし、そのままつないでおけ!」
「あいあいさー! お前もよくやった、バクホー」
引き上げられたCCに向かい足を引きずりながら歩み寄った迷い人が一人。
非津は必死にCCの車体を支え続け、その結果、足を傷め、両手は血だらけで痛々しい。
「兄ちゃん、近づいたら駄目だ。それより手当てしなきゃ……」
港のフォアマン(荷役作業監督)は、必死にCCを引き上げようとする非津の姿を見かねて部下を連れて助けに入った。少々もたつきはしたが、こうして今は一人と一台を助けることができた。
だが非津はその恩人の言葉も耳に全く入っていない。痛ましく怯え続けるCCの姿しか見えていない。
「CC、なんで……、どうしたんだ。何がそんなに怖いんだ?」
おずおずと彼は自分を嫌っている女の子に歩み寄るように、CCに近づいた。
「多分、どっかの馬鹿車がひっでえ、悪いことやらかしたんだよ!」
フォークリフトに乗る青年が言った。非津は流石にこれに反応した。
「悪いこと? 車が?」
「ああ、このバクホーも、さっきからちょっと怖がってんだよ。ま、こいつケツ叩けば喜んで働くけどな」青年は油圧フォークの座席背面をバシバシと、ゴム手袋をした手で叩いた。
その青年の頭に向けて安物のボールペンが飛んできた。
「馬鹿野郎、お前ら、人命救助だよ! こいつ死にかけてるじゃねえか!」
フォアマンに起こられて、青年は委縮した。
青い顔をして、呼吸の停まっていたたハルオ、しかし、急に絶頂したように、手足がぴんと伸びたかと思えば彼の目が見開かれた。
ビクン、ビクン、何度か異様な膂力で肺が唸った後、排水溝に水が吸い込まれる生々しい音が聞こえた。
そして全てハルオの中に吸収された。
「んぐ、ぬぐ、ごっくん! 魚うめえ!」
海水を全て飲み込み、ハルオは目を覚ました。ちなみに海に落ちかけた時と含めて、すでに致死量の海水と生魚を飲み込んでいる。
生き返ったばかりなのに、このデブは全く何もなかったかのように声を張り上げはじめた。
「わかった! 愛だよヒッツさん!」
……。
はあ、とその場にいる全員が唖然としながら新種のゾンビを見た。
「CCたんに必要なのは愛だよ非津さん。俺、海に入ったからさ、分かったんだよ! 愛しかねえんだよ」
埠頭に突如、真理が鳴り響いた。非津はフォアマンの方に、フォアマンはフォークリフトの青年の方に、青年は他の作業員の方に、作業員はまたさらに遠くの作業員の方に迷いの視線を投げかけた。
視線のバケツリレーが始まった。これは地球の裏側まで続くだろう。
「愛だって? そう、なのか?」ズキン、と非津の両手が痛んだ。両手に心臓の鼓動が伝わる。
「こんなに震えてるじゃねえか? CCたんはヒッツさんの愛に震えて身投げしようとしたんだぜ! 分からねえのか?」
「いや、ちがうんだって!」青年から突っ込みが入った。
「待て待て、仮にそいつが愛に飢えてるとして、どうやって兄ちゃんが愛を伝えるんだよ?」
フォアマンが顎をさすりながらハルオにたずねた。なぜハルオの発言を真に受けたか、誰にも分からないが長年生きて来た男のカンというやつが働いたのだろう。説明するこっちもヤケクソだが、そうに違いない。
「愛の伝え方だって? そんなもの一つしかないだろうよ!」
ハルオは胸を張り、積まれたパレットに向かい、目の前に立つと、晴天を仰いだ。そして迷わず額を天から地だ。ヘッドバットをかまされたパレットはバキバキと頭の形に抉れるようにして割れた。
「こうだ! 想いを込めて、全性欲を脳天にこめて! こうだぜえ!」
頭にプラの破片が刺さりながら、ハルオは二枚、三枚とパレットを割って行った。
「あーあ、デブの兄ちゃん、後で弁償しろよ」
皆が戸惑い、ある者は笑いながらハルオを見ていたが、次第に本当かもしれない、と考えだした。
ハルオの奇行をCCやバクホーはじっと見ていたからだ、そして青年はバクホーの鼓動を感じていた。今にも駆けそうな馬の鼓動、青春の鼓動がシートから、レバーから伝わってくる。
じっと、ハルオを見ていたCCも先ほどのような怯えがない。非津はその横顔をなにか物欲しそうにしているように感じた。
「愛……、そうなのか?」
途端に非津は嫉妬した。ハルオがCCの視線を独り占めしていることに対して。
そして、自分の中に残る羞恥やわずかばかりの勇気のなさを自覚した時点で、生き急ぎ気味なこの男は簡単に着火した。
非津はCCの前に立ちふさがった。そして両手をHUNKボディの半ケツ型ボンネットに押し付けた。
ボネドンだ。
ハルオよりも胸を張り、背を反らして、そして迷わず額を天から尻へだ。
ボゴオ! 恐ろしく鈍い音がした。周りから、ええええ、という驚愕が聞こえてくる。
しかし、非津は迷わず二発、三発かました。
ボンネットは両手と、額から流れる血でべったり赤に染まってきた。
流石、天下のHUNKボディ。衝撃を柔らかく跳ね返してへこみを一切残さない。無心で非津は頭を打ち続けた。
「そうだぜ、非津さん! その調子だ」
非津に負けじとひたすらパレットを割っていたハルオだが、青年の乗ったフォークリフトがこちらへ急速接近してくることに気付いた。
「げえ!」
背を向けて逃げようとしたが、ハルオは腕を爪ですくい上げられて、宙ぶらりんのままタイタニックポーズ。
そのままフォークリフトのバクホーはどこかへ走り去って行った。
「うおおおおおお!」
ひたすら頭を打ち付けていた非津だが、突然、CCが動き出した。
「ぷげ!」
彼らしくもない、間抜けな叫びで非津の体はCCフロントミラーに背中を向けて張り付いた。
CCは非津を張り付けたまま、バクホーと同じ方向に猛然と走って行った。
(次回へ続く)
ノブ子たちは、車たちの導き手であり、スモーマフラー所属の十俊英たちからグレートラハトハのとあがめられている青年と出会うが、その正体は擬態した木偶人形だった。
彼の本体はノブ子のようなただのおしゃべりスパークプラグで、十俊英首魁の反隋の能力で擬態をしていた。
そして十俊英瓦鷺。
彼は自分の知りもしなかったグレートラハトハの正体にたどりつき、彼の身柄を拘束した。ついでにノブ子もね。
果たして。彼とノブ子の運命や如何に。
そして分岐して脇道に逸れに逸れた十条と非津の運命や如何に。
***
姉古川市中部。
「うぇーい、おまたせ!」昨日呑気にチーマー狩りゲームに興じていた大学生二名は呑気に今日も姉古川の街中で集合する。
「おいおい、直電してから一時間たつけど? 何してたの?」
「ごめんごめん、飼ってるルーパーが泳げるようになってさ」
「ウーパールーパーのこと? もともと水生だよ」
「えー。そうなの?」
「え、ずっとどうやって面倒見てたの?」
「カブトムシの籠の中に一緒に入れてたよー」
「かわいそ。よくそいつ生きてたね。サンショウウオじゃないの?」
「それで、電話のデブがヤバいって何のことなの?」
「お前、ひょっとして二時間前のやつ見てなかった?」
「なになに?」
「あ、やっぱ投稿見てなかったか。さっき、この辺でデブチーマー湧きまくってたから」
「あ、そうなの」
「反応薄いな。軽くバズってたんだよ」
「何でもいいけど、デブチーマー、昨日のおっさんの擬人化だったよな」
「おっさんは擬人化してもおっさんだよ。まあ、わかるよ、昨日のおっさん本当にデブチーマーそっくりだったからな」
「バズのスモーしか見てなかった」
「バズのスモーってなに? 相撲がバズってるの? そんなのみなかったよ」
「ちがうって。不正疑惑のバズだって!」
「ああー、知ってるわ。スモーマフラーでメーター不正があったかもしれないってニュースだろ」
「そうそう、めちゃバズだったじゃん」
「けど、どうでもよくね?」
「それが裏ではあの十人の侍が関わってるって、めちゃ言われてるし」
「十人の侍? ん、十常侍? ちがうな。あ、十俊英のことね。あの都市伝説の悪の組織」
「なんでわかったの」
「まあ、長い付き合いだからな。てか、スゲー話になってんだな。どうせ嘘だろうけど……、ん、まあ、……、ん」
「……、……」
「……、……」
「今日救急車多いな」
「……、……」
「……、……」
「何か悲鳴聞こえないか」
「悲鳴、……、聞こえるかも。行ってみる?」
ウウウウウウウウウウウゥン、キュルルルルルルル、ウウウウウウウン。
「ん、え、こっち来た! マジで!」
「あぶねえ!!」
軽自動が二人に勢い良くつっこんできた。ボケっぱなしだった方のボンクラ大学生が相方を押しのけて一人で衝撃を引き受けた。
助けられた男にとってそれは突然訪れた恐怖だった。生々しい人体の何かが折れ曲がり圧し潰される音が聞こえたと思えば、今話していた相方が二メートル先の花壇の上で血みどろになっている。
だ、だれか、誰か! 助かった方のボンクラ大学生は腰を抜かしたまま辺りに声を上げた。
たった今、人を轢いた車には誰も乗っていなかった。だがそのままバックして右を向いたかと思えばどこかへ慌てたように走り去って行った。
同時刻、中国・浙江州とある市のとある町。
茫々と生えに生えた草に覆われた空き地の中で所々見えていた白い頭の何かがひとつ、また一つ動いてこの沼から這い出ていく。
這い出たのはEVだった。一台、まだ一台、ぼんやりと生気なく進んでいた彼らは次第に速度を上げてまっすぐに街へ向かいだす。
一台、まだ一台、白い彼らはてんでばらばらに東、北西と思い思いの方へ向かった。
九十九、百、まだまだ空き地でうごめいているのを数えてみれば、自我を持ち、これから行動を起こす者は二百や三百で足りる数ではなかった。
***
「え、なんて?」
プロペラの回転音とエンジン独特の、キーン、という高く鳴り渡る音で簡単には話し声が聞き取れない。ジェイミーは聞き返した。
「ですから、HISとは、言ってしまえば追放の言葉です」反隋はそう語った。
声量は小さめなはずなのに、頭に直接響くような話し方をされた。今度はよく聞き取れる。
ヘリコプターにはジェイミー達と運転手、土岐が座っていた。
一同、天井に張り付いた両目の模様があるイトマキエイのぬいぐるみを見上げていた。
その姿はただただ不気味の一言に尽きる。
むこうからはぽかんと口を開ける自分たちがさぞかし間抜けに見えるだろうが、仕方ない。
「追放ってなんですか? 彼らは何から追放されたと言うんですか?」
質問を返しながら、ジェイミーはなるべく頭上のイトマキエイと目を合わせないようにした。
イトマキエイのぬいぐるみは何らかの術でただのスパークプラグ(しかし意思や人格の有るものだが)を人間の青年に見せていたということだ。これは本当か嘘かイトマキエイ本人から暴露された。
人に幻覚を見せる術を持っている。今はまともに話を聞きはするが、警戒していないと、自分たちがいつの間にか相手の術中にはまる恐れがつよい。
だが、同時に特に何もしてこないのではという思いも強くもたげてくる。
スモーマフラーは数時間前に不正疑惑の報道がされたのだ。エフィに連絡をして裏は取れている。
反隋は自分たちの手で終わりにするためにリークをしたと言っていたが、本当だとするとおぞましい。
今更自分たちの手で流した疑惑を、噓でした、で片づけるわけにはいかない。
これからありとあらゆる手で不正が暴かれ、数千、数万、いやもっとではないか、それだけの人間が被害を被る。
結局、十俊英もスモーマフラーも意志を持った車のための組織なのだ。用が済めば即ポイ。
スモーマフラーやラハトハの事実を知らなかった瓦鷺だってそういう意味では被害者だ。
しかし、ノブ子を取り戻すため、止めないといけない。反隋達だって同じだ。
ラハトハとかいう、スパークプラグの姿をした自分たちの神を取り戻さないといけない。
そして組織のシミである瓦鷺も、何かしでかす前に消去しなくてはいけない。その点で彼女たちは信用できる。
ガー、と無線から音が入ってきた。
「反隋様。入ってきている情報では現在、混乱が世界中で広がっている模様です。特に中国では各地で数千台規模での車の行進や道路の封鎖が行われており、軍隊が出動する事態になっています」
暫穴から無線連絡だ。彼女は現在、ジェイミー達の乗るヘリのはるか前方を飛びながら偵察をするもう一機のヘリに乗っていた。
「全て予想通りのことです。我々はあくまで瓦鷺に集中するのです」
無線のスイッチは反隋自身が尾を使って押した。
「さて、何から追放されたか、でしたね」
無線を切り、イトマキエイは再び話し出した。
「え、ええ……」
「この世からの追放ですよ」
「この世からのって……」
ジェイミーは簡単には想像できなかった。
仮に自分が、ぬいぐるみ全体が、世界から見放されたとして、それがどれほどの衝撃というのだ。
「具体的に人間の言葉には訳せません。彼らにとって、この世界からの否定、拒絶の意味を持ちます。人間である瓦鷺に繰り返し言われたことで彼らは混乱の中、人間に反旗を翻すという結論になりました」
「マジないわー、ってことじゃん! あーしも言ったことあるし。そんなん言われただけで、そんな傷ついたの?」
メルザは先ほど使用したナイフを研ぎながら気だるそうに話す。語気は鋭い。
メルザがそれを昨日連呼したときは結果として大量の意志を持つ車を集合させる事態になったのだが、むしろそれで済んだことが幸運だったのだ。
今回はそれを、自分たちの最大の同士ラハトハを捕らえられた状態で言われたのだから効果てきめんだったのはわかるが、胸にストンと落ちてこないものがある。
「僕もそう思います。一人間が言ったことが、そこまで影響するなんて信じられないですよ」
それに対して、端に座り、居眠りをしているように見えた土岐が目を見開いて話し出した。
「吾輩らは車共にとっては、あまりに特別で複雑すぎる存在なのだ。仮にも車というものを生み出したのは人間。オリュンポス神のような、創造神につながる神神しさを持ち合わせながら、餓鬼の醜さも持ち合わせている。そして時に人間は羽虫のように何気ないことで死んでいく」
「彼らはまだ神話の中、楽園に生きているのです」土岐に付け足しながら、反隋の模様が目を閉じたものに変わった。こっちの模様はなんだか可愛らしい。
「なら、今はまだ、車たちにとっては黎明期。世界との関係を見出している最中ってことですか……」
ジェイミーはなるべく友好的に見えるように話した。自分の向かいでトイプードル型ぬいぐるみの双子はのんびり寝息を立てている。ため息が出そうだ。それに一番注意をしておかないといけないのが一匹。
「アナグマっち。やっぱ、あーし、ノブ子のこともあるけど、コッちーたちのことも、気になる」棘のある口調でメルザは誰とも目を合わせずジェイミーに聞いてきた。大分神経をとがらせている。
瓦鷺が唱えた追放の呪言は車たちを一斉にパニックにさせた。さらに瓦鷺はラハトハとノブ子を人質に出し、彼らを脅してそのうちの一台に乗り込んだ。皆が奴を捕らえようと動いたが、人間憎しと集まった周りの車たちに阻まれてまんまと脱出を許してしまったのだ。
すぐに助けに向かわなければいけないと思ったが、同時に一つ気がかりがあった。
コアラーとゲリウスだ、両方とも半壊の状態で外に出て行った。彼らの行方も追わないといけない。
それに自分たちの身も絶体絶命だった。スモーマフラーのスペシャリストたちに囲まれたジェイミー、メルザ、双子だったが、彼らの前に現れた首魁の反隋がもちかけてきたのは、まさかの共闘の誘いだった。
その反隋が淡々とメルザに返す。
「単独で出られても見つかる可能性は低いです。このまま我々と行動を共にすることが一番の近道ですよ」
「だからそれ、さっきも聞いたし。イミフにも程があるのよ! なんであのジジイ追うことがを見つけることになんのよ! 見たでしょ。コッちー、ゲリ子はもう関係ないんだよ。自分たちを殺そうとした奴らんことなんて、もう、どうでもいいって思ってるのよ」
「まあ、そこだろうなあ」土岐は腕を組みながら肯定するかのようにつぶやく。
「ほら、アンタもそう思うわよね」
「うむ。あの二台は間違いなく、自分たちで罪の共有という軛から解き放たれた。しかし、ひどく傷ついている」
「もとはと言えばアンタらが処刑をしようとしたからよね。信じらんない。ノブ子のことがなかったら、とっくにアンタらなんか潰してたのよ」
「メルザ。分かるけど、今は落ち着こう」
「分かってるわよ。アナグマっち」
流石にこれには土岐もカチンときたのか、鼻で深く息を吐き出し瞑目した。少しして、心が落ち着いたのだろう、また語りだした。
「そうだな。だからこそなるべく、いや、必ず吾輩の手で彼らのやや子を取り出さないといけないのだ」
え、と言いながらジェイミーとメルザは土岐の方を見た。こんな、深甚とした対応をされたことも意外だが、やはり自分たちは考えが足りなかったと、ジェイミーは痛感した。
「コアラーもそうですが、ゲリウスのほうも危険な状況です。自らの夫にぶつかって行ったことでコクーンに浅くはない傷を負っている状況でしょう」反隋の言葉にジェイミーは、やはりか、と確信した。
「じゃあ、車屋に……、あ……」メルザも事態に気付いた。
このような状況だと車屋はパニックだ。特に意志を持った車など受け入れられない。むしろ、攻撃を受けるだろう。それを知った二台は自らを修理するあてもなくて、そのうちチャイルドの危機に直面する。
そんな二人の唯一のあてはスモーマフラー。しかも、事情を知っているのは姉古川店。
イワンのいなくなった今となれば、泣きついてでも瓦鷺か土岐に頼むしかない状況なのだ。もしかすると、二人はすでに死亡しいるイワンの方を探しているのかもしれない。
「高い確率で、あの二人は姉古川店にもどるでしょう。我々が責任取って保護します。人員は既にいます」
ガー、とまた無線の音が入ってきた。
「瓦鷺の行方が分かりました。部下のドローンの映像から、その姿はとらえています。進路は十中八九、霞が関、旧本社ビルです!」
「分かりました。そのまま追跡を続けなさい。このまま旧本社を目指します」
承知、との勢いの良い返事と共に無線は切れた。
「霞が関の旧本社? 何で今更瓦鷺はそこに向かうのですか?」
反隋は一瞬固まった。目の紋様が変わらないから、何事かと思ったが、土岐に確認を取っていたのだ。彼がゆっくり頷き、再びイトマキエイはしゃべりだす。
「姉古川店には彼が必要としている、あるものが地下にあります……」
同刻、霞が関、スモーマフラー旧本社ビル。
「急げ! そっちの方もバリケードを早く張れ。持ち場を守れよ!!」
「バリケードってたって、そんなもん張る道具がどこにあんですかい!?」
旧本社に大量の意志を持った車たちが押し寄せてくる。本部からの連絡に、現場の人間たちは最初半信半疑だったが、ニュース等の速報を見て危機感を高めつつあった。
現場では、一人でも多くと、火急の自体に首都近郊の支部から集められた社員たちが一人、また一人と集結してはいたのだが、いかんせん人がまだまだ足りていなかった。
フットワーク軽く動ける営業の人間が集まったところで防衛の知恵や道具がそろうわけではない。スペシャリストの一人がたまたま早く駆けつけてこれを特別業績の好機と息巻いて指示を出すも、こんな緊急事態を想定していない現場の男たちは狭い道の上で浮足立っていた。
そこに一台、とんでもない速さでドゥカティのバイクが突っ込んできた。
機動隊が使うポリカの盾を構えていた社員の男の手前十センチで停まったそれは、フルフェイスのヘルメットをかぶったライダーが搭乗していて、何かを伝えるメッセンジャーのようにも思えた。
ただ異様だったのは、ライダーの男がヘルメットを取ると、その顔はホラー映画の登場人物と錯覚するほどに青ざめて目が充血していたことだ。
男は社員と目が合うと言葉をかけることなく、奇声を発して走り去って行った。
あっけにとられていると、反対側でも同じようなバイクに同じような男が一人、また同じ調子でどこかに走り去る。
間髪入れず一台、また一台とビルの狭間にある小さい道路と、歩道までも急遽迷い込んだようなバイクで埋め尽くされた。
そしてその中からは決まって青ざめた様子のドライバーたちが外に出てきて、必死に走って逃げだしていった。
完全なる袋小路だ。
現場の皆が、異様な圧迫感の中で走り去って行ったライダーたちのように顔を白くさせ始めていた。
「あっ」
一人が気付いたことに呼応して連鎖的に全員がその目的に気付いた。
道路のいたるところにシミができている。それも全てのバイクの腹下から伝って、まっすぐな線を描いていた。
嗅ぎ覚えのある匂いが鼻孔を畏縮させる。
ガソリンだ。
すべてのバイクがガソリン漏れをしている。
「逃げて!!」どこからか声がする。
だがまだ、半分が、この事態をどういうことか分からないままで、誰一人、動けずにいた。
「だで! たて!! 盾!!」スペシャリストが完全に狼狽えた声を腹からひりだし、その理性をかなぐり捨てた奇声が何とか聞き取れる単語になった。
コンマ一秒の世界の出来事。
すでに瓦鷺の投げた火のついたマッチの箱は地上から三メートルの位置にある。数人が、それを、口を開けたままながめていた。
箱に描かれた馬の顔が黒く焼けただれ、その歪な口元が灰塵と化していく。だれも、それが数秒後の自分だとは夢にも思わない。その瞬間は……。
社員の何名かが叫びをあげる。スペシャリストもだ。だが、誰も動こうとはしない。
刹那のサバイバルに敗れた彼らは約0.3秒後に訪れる一帯火の海の中に沈んでいく自分たちの姿が朧げに見えて来ていた。
……、しかし。マッチ箱は落ちなかった。
それは直前で突然激しい光に包まれて消えたように見えた。
ラハトハが電気分解により、高濃度の水素を作り出し、空中での燃焼を加速させることにより一瞬で塵にしたからだった。
「脅すだけだと言ったはずだよ」
「クッ、グ、ククク。ハハハハ! それは、さ、最後にとっておいた切り札というやつか?」
「どうだろうね……」
右手に持ったケーブルの先のラハトハはうなだれるようにぶら下がっている。マッチ箱を消して見せる際に瞬いた先端は今では嘘のように無機質なイリジウムの表面を見せている。
「ンー、ンー、ンンーーー!」
血みどろの左手でわしづかみにされているノブ子が必死に悶える。ラハトハよろし、テスターのケーブルに巻かれてぶら下がっていたが、あまり騒ぐため今は瓦鷺の手の中だ。
瓦鷺にデコピンを食らわされノブ子は気絶した。
「グ、ほ、ほんとうにこいつが車どもとの対話に必要なのか? どう考えてもアンタがいれば十分な気がするがね」
「絶対音感の持ち主みたいなものさ。彼女でなければみんなの放つ繊細な音は正確に聞き取れない」
「面倒じゃな。ここで捨てると言ったら?」
「それもいいかもね。ただ、僕も切り札をまた出すかもしれない」
「ふん。お前も少し大人しくしておれ」そういうとポケットにラハトハをケーブルごと突っ込んだ。
(どこに居ようと関係ないさ。ぶら下がったままよりは少し楽だけどね……)
ポケットの中にいれても、ラハトハのと念話は続く。
散り散りになって逃げていく社員たちを眺めながら瓦鷺は歩き出した。
人間たちが逃げた後は車たちが、バイクを倒して、無感情に踏みつけながら、駐車場まで不気味に進んでいく。
瓦鷺も彼らとは別にビルの中に入った。
入口には一人の小さな男の影が……。
角力田前会長だ。瓦鷺を待ち構え、一人立っていた。
「これは、ヒ、久しぶりではありませんか」
前会長は瓦鷺の怪我の具合を見て表情は変えなかったが、明らかに言葉が遅れた。狼狽を押し殺す一瞬の空気や間が隠しきれていなかったのだ。
「……。まず、。君に謝罪しよう」
「別に、もうどうでもいい。あなた方の手の速さにはほんとうに、グッ、はあ……、お、おそれいる」
瓦鷺はここに来るまでに知っていた。
午前のこと。スモーマフラーはの不正疑惑が報道された。報道内容は販売中古車のメーター不正についてだけだったが、いずれ全てを明かすためにわざとリークさせたことくらい分かる。
ネットの情報を見ると早くも十俊英の存在と組織への関与について噂が広まり始めている。
けち臭いメーター不正ごときで都市伝説の十俊英の名前が出ること自体ばかばかしいが、これも大金を払ってわざと流しているのだろう。世間の注目がさらにこの報道に行く。
そして盛大なトカゲの尻尾切りが始まる。
悪事は全て十俊英主導ということにしたいのだ。
スモーマフラー社が十俊英より権力が強かったというわけではないが、全てはポケットの中のスパークプラグの差し金だろう。もともと十俊英は解体する予定だったのだ。
そして自分の意志に沿う者のみ連れていく流れなのだ、つまり土岐や暫穴のことだ。
怒りはない。組織に裏切られるのは二度目だ。
角力田元会長は苛立ちを覚えるほど腹の座った目つきで瓦鷺にあるものを差し出した。それはカードキーだ。
「ホワイトホールのマスターキー。君の欲しいものだろう」
「……。手間が省けた。グ、だが、何故?」
「条件がある」
聞かん。瓦鷺は提案を一蹴してマスターキーを取り上げた。
蹴とばされた元会長は腹を抑えて荒く咳をしている。
瓦鷺は自分の仲間に電話をかけた。
しかし、何度もコールしても全く相手につながらない。
「なんじゃ。せっかくのタイミングに」
しかし、瓦鷺の後ろにはすでに三つの人影があった。
「それはねえ。電話に出る必要がないからさ」
瓦鷺が振り返ると、線目でにこやかなスーツ姿の男、ポロシャツでチノパン姿の男、タンクを背負いガスマスクをした重装備の男がいた。
「ん、流石じゃな。グップ、ゴホ、もう着いていたとは」冷や汗をかきながら瓦鷺は振り返る。携帯にも大量の手汗がついていたが、気取られることはなかった。
「プヒュー、オマエ、すごいケガだな。ヒュー。右も左も。左腕のほうはデカい穴が開いて血だらけだぞ」タンクを背負いガスマスクをした重装備の男が瓦鷺の体を見てマスクの奥の眼を細めた。
「平気じゃよ。お前こそ散布してないのなら、ガスマスク切っとけ。グ、物騒でいか
ん」
「EEEEE(イーストレート)か……」
ポロシャツの男が顎に手を乗せながらある推測をつぶやいた。
それに対してカワラサギは目を逸らし控えめに肯定をした。
「へーえ。ま、僕らを待たずに一人で立ち回ったんだ。そんなことになるだろうねエ」細目の男は粘度を含んだ語り方で嘲笑か、あるいは皮肉か、瓦鷺を笑った。
彼らはサハラに黒河馬狩りの任務で派遣されていたはずの残りの十俊英だ。
十俊英たちの会議があったその後に、瓦鷺から連絡をうけ、部下たちを残して日本に秘密裏に帰国していた。
線目のスーツ男が、下請け恐喝の競場(せるば)。
ポロシャツ、チノパン、サンバイザーをかぶったゴルフボールの結鬼。
たった今、ガスマスクを外して、顎のたるんだ顔を見せた巨体は、除草剤の烈弩(れつど)。
瓦鷺はもともと、ゲリウスの強制妊娠に関わりつつも、非津、十条、砂里、若い三人の十俊英たちのいがみ合いが日増しに大きくなる様子を見て、決して小さくない内部分裂が起こることを予期していた。
そこで反隋と有辺に反目している派閥である競場たちに話を持ちかけていた。
これから起こるであろう内部の混乱を利用してラハトハと直接コンタクトできる反隋とその娘の砂里を狙い、ラハトハにたどり着き、その身柄を確保する。
大義を手に入れた後は非津でも十条でも、生き残った者を取り込み、有辺を袋叩きにする。
計画に具体性がないのは言わずもがな。
手に入ったはずのラハトハが未だポケットにあることが、瓦鷺の本心だ。
好奇心が勝ったか、アドバンテージを有したかったか、三人がサハラから戻る前に、どうしても反隋の目的を知り、ラハトハの正体にたどり着きたいために、瓦鷺は抜け駆けをした。おそらく理由は前者だろう。
暫穴と土岐がむこうについていたのは計算外。反隋がいることは想定通り、ラハトハの正体は少し想定外。
EEEEEを使うことで分の悪い賭けであったあの場は、辛くも切り抜けることができた。
しかし……。
「その様子、ラハトハ様も手に入れれず、反隋に負けておめおめ戻ってきたと言うところかな?」サンバイザーの先に手をかけて、結鬼は盗み見る目つきで問う。
「ああ、その通りじゃ。ラハトハ様もおられなかった。何とも言い訳のしようがない……」
「ハーッ、ハー、見え透いた。野心があるからこその抜け駆けだ! ほんとうなら、はー、ここで悶え死なせてやるところを!」烈弩は左目だけ見開き、大きな顔を瓦鷺に近づけた。
「レツ、はあはあ言い過ぎ。またデブったよねえ。少しは節制しなって」競場が横目で烈弩をたしなめた。
「む! これは、はー、鼻炎が激しくて口呼吸なんだ!」言い訳も苦しかった。
「ユーキ。どうするう? お祭りに間に合ったのはいいけど、一気に狂っちゃたね。俺ら反逆者じゃん」
「セルバ、どうあれ、敵対することはもともと決まっていただろう」
「あーん、たしかにそうかもねエ……」競場は目くばせして烈弩にも確認をする。
「ハー、ハンズイは元々我々を切り捨てるつもりだったのだ。会社の不正の全てを押し付けた後で。ハーッ、ハー」
「そうとは限らんだろう」結鬼はサンバイザーの下の眼元にしわを寄せた。
「なアに? 社長や会長や元会長(小蠅共)の仕業っていいたいわけかなあ?」
「そうだろう。タイミングからしておかしい。でかいプロジェクトがいくつも動いていたのだぞ。暖簾をしまうには
あまりにも急だ」
「ハー。だがあのハンズイだぞ、会社連中の動きに気付かなかったとも思えん。ふー」
「それもそうだよねえぇ」
ワシもそれに賛成じゃ。瓦鷺はここぞとばかりに割ってはいる。
「グ、奴もドキやアルベも、もともとスモーマフラーなぞ、属しとらんかった。いくつもいくつも会社を替えて瓦礫の山を作りながらラハトハ様の意志に、シ、従ってきただけじゃ」
「だからあ、今度も意図したリークっていいたいんだろォ」
「奴は、いっとったよ。十俊英とスモーマフラーは解体と……」
実際にそれを言ったのはラハトハなのだが、同時に彼に忠実な反隋の意志であることも違いはない。
瓦鷺の話を聞く三人の顔つきが修羅の様相を呈してきた。
「本気で解体するのであれば後始末はするじゃろうよ。わしらをスケープゴートにして」
「みんなで口封じにくるだろうねえ♪」
「総力戦か。大博打になるな」
結鬼はサンバイザーを目深にかぶり、ほくそ笑む顔を隠した。彼の手はいつの間にかポケットの中にあり、コリっという音が聞こえた。
四人は反隋を迎え撃つ意思を固めた。ここまで強気に出れる理由は瓦鷺の右手に握られたカードキーにある。
「ハーッ、カワラサギ、それはお前が起動するつもりか?」
ホワイトホールのマスターキーを指して、烈弩だけでなく競場、結鬼もまた、ただならぬ顔で瓦鷺を睨む。
「当然じゃろう。勝ち取ったのはわしじゃ。そもそもお前らに仕組みや使い方が全部わかるか?」
「……。別にいいさ。データの開放だけ行われば、俺たちはそれ以上ホワイトホールに用はない」
「おいおい、ユーキ。勝手にオレたちの意志もきめないでほしいねエ。まあ、あんなデカブツ、大して用はないけど、一応オレら共有のモノってことにしないかなあ?」
「ホー、俺もそれでいい。カワラサギ。起動はお前がしろ。ハー、ただし、それ以降そいつを使う用事があれば俺たちに許可を取るようにしろ。ハー」
「まったく疑り深い。まあ、いいじゃろう」
四人はそれ以降何も言わず散らばって行った。
腹を押さえながら角力田会長は瓦鷺の背中だけを見ていた。
***
何よ! 私だって一生懸命やってるのに、何なのよ! その目は!
微睡みの中に半分浸ったままの十条は、そういって詰め寄ってくる女たちに、ひたすら反論を繰り返していた。
母親、施設の女職員、二年前に捨てた彼女。
自分自身も何を言い返しているのか訳が分からない、支離滅裂だった。本当に言いたい一言はどうあがいても口から出てくることはない。
しかし夢の相手が全部女、何で女なんだ。薄目を開けた先にあるのはスーツ姿で鋭い目つきをこちらに向ける、お堅い男共だと言うのに。
「……さん。十条治英(はるひで)さん。聞こえますか?」
眠りへの名残が一瞬で消え失せて、十条は椅子の上で体を震わせた。
「あ、ああ、はい。……、すみません。ここは……」
「覚えはないですか? 中々あなた方が起きないもので、ここまで、あまりいいやり方ではないのですが、運ばせていただきましたよ」
「……、それは、すみませんでした。申し訳ないのですが、まだ頭がはっきりしなくて……」
辺りを注意深く見渡す。自分一人に対して、警察の捜査官らしき風貌の男たち。
その数は書記を入れて三人。
立ったまま、十条を尋問しようとしている態度の二人は耳にアコースティックイヤホンと胸に無線機を身に着けている。
こうしてみると本当に取調室だ。奇妙なのは右手の壁に一面鏡が貼られていることだ。何となく十条はそれについて予想がついた。
「では、こちらは覚えがないですか?」
正体の分からない男は、そう言ってもう一人に合図をすると、合図を送られた方は手元のリモコンを操作した。
部屋の中の全てを映していた鏡は、急に別の部屋の様子を映し出した。
マジックミラーだ。切り替えることにより、ただのガラスと切り替えている。
隣の部屋には反隋紗里が自分と同じように三人の捜査官のような男女に囲まれ椅子に座っている。
十条よりも早く目を覚ましたのだろう。聞こえはしないが、すでに砂里は意識はっきりと受け答えをしていた。
「いかがですか?」
「……。もちろん知っています。彼女は同僚です」
「お名前をご存知でしょうか?」
「……。底片ヘレナです」
「では、貴方と彼女はどちらでお働きになっているのですか」
「スモーマフラーです」
男たちは顔を見合わせて頷き合った。
「どうやら、意識がはっきりされたようだ。貴方と底片さんはタクシーでこちらに参られました、その時、お二人とも寝ていた。運転手に聞いても知らぬ、存ぜぬ、でしたんで」
「それは、大変失礼をしました」
「……」
男はそれ以上問うことはせずに、書記の男に、どうだ、と問い始めた。パソコンのキーを叩いていた書記の男は確信ありげに頷いた。
「間違いありません。声帯は同一です。データベースとの照合からも、本人で間違いありません」
男は書記の男から十条に向き直ると、立てかけてあったパイプ椅子を開いて十条の前に座った。
「では始めましょうか。お名前、仕事先は聞きました。貴方の肩書から聞きましょうか、ひとまず順々に質問に答えてください」
理解が追いつかないまでも十条は、淡々と質問に超えた続けた。内容の大半はスモーマフラーでの自分の役割や直近の行動についてだ、上手く、十俊英についての活動やホワイトホールでのことなど社内の機密を避けて話していたが、違和感を感じる。一つ一つの回答について慎重に吟味をしている様子が取れる。隣の紗里についても先ほどから何度かちらちらと盗み見ていたが、一問一問の受け答えが長い。
「もう少々お待ちください。貴方の情報の裏付けが取れ次第、始めようと思いますので」
「なるべく早くお願いします。すべて、さっさと話してしまいたいが……、ああ、一つ、彼女の安全は確実に、確保されるのですか」十条は踏み込んで探りを入れることにした。
「安全というのは会社からの口封じ、もしくは報復が起こると言うことを示唆しているのでしょうか? でしたら、ご安心ください。事が終わるまで、あなた方の安全は確保しましょう」
「それだけではないだろう。彼女が、仮にだが罪に問われるということは、ないということでしょうね」
椅子に座る男は両ひざに手をついた。
「それは貴方や底片さん次第とだけ申しておきます。お二人のお話しいただく情報次第で、改めて罪状を追求するかは判断します」
十条は確信を得た。
これは司法取引だ。おそらくだが、ここは、最高検察庁。角力田元会長か十俊英のだれかか、一体誰が裏で手を回したのかははっきりしないが、自分と紗里は河原で眠らされた後、ここに移動させられた。スモーマフラーの不正の数々を打ち明けさせるために。
「おい、もういい」
十条と話していた男は立ったままの自分の部下らしき男をあごでしゃくった。指示を受けた男は先ほどのリモコンを取り出す。
「まってください」咄嗟に十条はリモコンを持った男を向いて言った。
「何か?」椅子に座った男は表情を変えず、立ったままリモコンを構える男の代わりに返事をした。
「……、いえ、なんでもない、です……」
椅子に座った男も、リモコンを持ち立ったままの男も十条を見て怪訝な顔をした。
彼が頭を抱えてうずくまりだしたからだ。
「……、大丈夫ですか。十条さん?」
「……、……。はい。……、……、何も、問題はありませんよ」十条は椅子からゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと十条さん……!」
立ち上がった十条、彼らにとってはまたとない出世のためのキーマン。彼は何気ない足取りで書記の男のもとに行き、その肩に触れた。
そう、まるで自分の部屋のように何気なく……。
「私よりも取引に相応しい男がいますよ。あなた方に紹介します」
十分後……。
「では十条様はこれからどこに……?」
「どこにって、会社に戻るさ」
「そんな、我々もお供しますとも……、なあ!」
「はい、立場こそあれ、私たちは朋友です。貴方の任務完遂のため、最後まで共にいさせてくだい」
部屋の中にいた男たちは皆立ち上がり、先ほどの冷ややかな顔つきはどこへやら、十条を囲んで澄んだ目、曇りない顔のまま快活な声で言葉を発する。
「しつこいな。俺の力を疑っているのか?」
少し凄んで周りを見るだけで、三人の検察官は恐縮して頭を下げた。
「じゃあ、俺はもう行く。お前たちはそのまま自分の仕事を続けろ。くれぐれも俺のことを上に報告するなよ。これから来る奴がお前たちが最初から接触するはずだった男だ。忘れるな」
最後まで深々と頭を下げて涙ぐむ検察官たちを背にして十条は部屋を出た。
深い息が体から漏れる。隣の部屋では紗里の取引がつつがなく進んでいることだろう。俺との接触を怖がるだろうが、どうか安心してほしい。もう、俺はいない。
静かに動き、十条は暗い廊下の中、階段を探した。
……、ガチャ……。
背を震わせた。隣の部屋のドアが開いたのだ。出て来たのは一人だ。かすかにパンプスの足音が聞こえる。
恐る恐る後ろを振り向くと、後ろには紗里がいた。
「……、なあ……」
「なあ、じゃないわ、どこに行くつもり?」
「それは、お前こそだろう? 取引はどうしたんだ?」
「あんた、私が取引で罪が減刑されるレベルだと思ってたの? 殺人、諜報、工作、調べられたら一発でアウトよ」
「検察官は?」
「眠らせた。いちいち言うまでもないでしょ」
「だとしてもバカなことを……。交渉次第で如何様にでもなっただろう」
「知るか。それよりもずっと見てたわよ。アンタこそコソコソと出て行って。覚悟はできてるの?」
十条は平静を保って話していたつもりだが、体の震えだけはどうしようもなかった。
自殺する前、母親もこんなふうに、何を言うにも荒れていた。出てくる言葉が長ければ長いほど、後ろが金切り声に近くなる。
「覚悟はできてんかって聞いてんのよ? 何よ、その目は?」
「いや、僕はいつも、母さんの味方だから」
「母さん……?」
我にかえり、十条はゆっくりと膝をついた。
「しかたねえな。好きにしてくれ……」
だが、帰ってきたのは予想外の返事だった。
「何よそれ? 好きにしてくれも何も、そんなバカやってる時間ないわ。確かに殴りたいけど……」
「時間がないって、どういうことだ?」
「あいつらから聞いてない? 今、車たちが暴れ回って町や人を破壊し回って大パニックだそうよ」
「ああ、それかよ」
「それかって、何やる気無くしてるの?」
「お前こそなんだ? そんなの俺らに関係がないだろ。勝手に暴れさせとけよ」
「何で関係がないって言えるのよ」
「俺らは十俊英だぞ。社の利益にならないことはしないさ」
砂里はその場でガハハと笑い出した。こんな下品な笑い声を聞くこともそうそうない。反応に困る。
「社の利益自体が無くなるような事態じゃない。これじゃ、どの支店にも未来永劫、車が来なくなるわよ。アンタのそのやらしい能力が役に立つ唯一の機会でなくて?」
十条は自分の手を見つめた。この能力は効能に個体差が大きいのだが、人間関わらずすべての生物に効く。
現にゲリウスの時だって拒否する彼女をこの能力で大人しくさせた。彼女の好意を自分に向かせることまではしなかった。いや、できなかったが。
今まで何度も意志を持った車に人間ほどではないが効果のあることは実証してきた。少なくとも暴走する車の動きを止めることはできる自信がある。
紗里は十条の迷いに関係なく歩き出している。
迷い動き出せない十条は動きだせない。紗里はその様子を見て戻ってきた。
そして思い立ったように十条の襟首をつかんでひっぱたき、突然、おい、と怒り出した。
「生むわ、この子」
「あ……」
「忘れてないわよ。アンタなんて、いつでも殺れる」
「……、……」
「死ぬまで、父親をやれ。アンタは人様の頭に岩を落とそうとするバカだけど……」
「……、……、バカだけど? 何だ?」
聞き返したがすでに砂里は歩き出していた。
十条は顔をしかめていた。
涙があふれそうだったが、踏みとどまったのはせめてもの抵抗か。自分の趣向が彼女に向かないように必死に調整した結果なのかもしれない。
***
「ちゃんとベルトかかったの確認したな?」
「へーい」
「じゃ、ゆっくり上げてけ」
油圧フォークリフトは、ピーピーと音を立てながらゆっくり下がって行った。
引き上げられたCCは大人しくなっていて、ゆっくりとその車体を引き上げられながら、後部を地面に設置させた。
フォークリフトが後ろに下がると、ボンネットにぶら下がった白目の土座衛門も引き上げられた。
「よしよし、そのままつないでおけ!」
「あいあいさー! お前もよくやった、バクホー」
引き上げられたCCに向かい足を引きずりながら歩み寄った迷い人が一人。
非津は必死にCCの車体を支え続け、その結果、足を傷め、両手は血だらけで痛々しい。
「兄ちゃん、近づいたら駄目だ。それより手当てしなきゃ……」
港のフォアマン(荷役作業監督)は、必死にCCを引き上げようとする非津の姿を見かねて部下を連れて助けに入った。少々もたつきはしたが、こうして今は一人と一台を助けることができた。
だが非津はその恩人の言葉も耳に全く入っていない。痛ましく怯え続けるCCの姿しか見えていない。
「CC、なんで……、どうしたんだ。何がそんなに怖いんだ?」
おずおずと彼は自分を嫌っている女の子に歩み寄るように、CCに近づいた。
「多分、どっかの馬鹿車がひっでえ、悪いことやらかしたんだよ!」
フォークリフトに乗る青年が言った。非津は流石にこれに反応した。
「悪いこと? 車が?」
「ああ、このバクホーも、さっきからちょっと怖がってんだよ。ま、こいつケツ叩けば喜んで働くけどな」青年は油圧フォークの座席背面をバシバシと、ゴム手袋をした手で叩いた。
その青年の頭に向けて安物のボールペンが飛んできた。
「馬鹿野郎、お前ら、人命救助だよ! こいつ死にかけてるじゃねえか!」
フォアマンに起こられて、青年は委縮した。
青い顔をして、呼吸の停まっていたたハルオ、しかし、急に絶頂したように、手足がぴんと伸びたかと思えば彼の目が見開かれた。
ビクン、ビクン、何度か異様な膂力で肺が唸った後、排水溝に水が吸い込まれる生々しい音が聞こえた。
そして全てハルオの中に吸収された。
「んぐ、ぬぐ、ごっくん! 魚うめえ!」
海水を全て飲み込み、ハルオは目を覚ました。ちなみに海に落ちかけた時と含めて、すでに致死量の海水と生魚を飲み込んでいる。
生き返ったばかりなのに、このデブは全く何もなかったかのように声を張り上げはじめた。
「わかった! 愛だよヒッツさん!」
……。
はあ、とその場にいる全員が唖然としながら新種のゾンビを見た。
「CCたんに必要なのは愛だよ非津さん。俺、海に入ったからさ、分かったんだよ! 愛しかねえんだよ」
埠頭に突如、真理が鳴り響いた。非津はフォアマンの方に、フォアマンはフォークリフトの青年の方に、青年は他の作業員の方に、作業員はまたさらに遠くの作業員の方に迷いの視線を投げかけた。
視線のバケツリレーが始まった。これは地球の裏側まで続くだろう。
「愛だって? そう、なのか?」ズキン、と非津の両手が痛んだ。両手に心臓の鼓動が伝わる。
「こんなに震えてるじゃねえか? CCたんはヒッツさんの愛に震えて身投げしようとしたんだぜ! 分からねえのか?」
「いや、ちがうんだって!」青年から突っ込みが入った。
「待て待て、仮にそいつが愛に飢えてるとして、どうやって兄ちゃんが愛を伝えるんだよ?」
フォアマンが顎をさすりながらハルオにたずねた。なぜハルオの発言を真に受けたか、誰にも分からないが長年生きて来た男のカンというやつが働いたのだろう。説明するこっちもヤケクソだが、そうに違いない。
「愛の伝え方だって? そんなもの一つしかないだろうよ!」
ハルオは胸を張り、積まれたパレットに向かい、目の前に立つと、晴天を仰いだ。そして迷わず額を天から地だ。ヘッドバットをかまされたパレットはバキバキと頭の形に抉れるようにして割れた。
「こうだ! 想いを込めて、全性欲を脳天にこめて! こうだぜえ!」
頭にプラの破片が刺さりながら、ハルオは二枚、三枚とパレットを割って行った。
「あーあ、デブの兄ちゃん、後で弁償しろよ」
皆が戸惑い、ある者は笑いながらハルオを見ていたが、次第に本当かもしれない、と考えだした。
ハルオの奇行をCCやバクホーはじっと見ていたからだ、そして青年はバクホーの鼓動を感じていた。今にも駆けそうな馬の鼓動、青春の鼓動がシートから、レバーから伝わってくる。
じっと、ハルオを見ていたCCも先ほどのような怯えがない。非津はその横顔をなにか物欲しそうにしているように感じた。
「愛……、そうなのか?」
途端に非津は嫉妬した。ハルオがCCの視線を独り占めしていることに対して。
そして、自分の中に残る羞恥やわずかばかりの勇気のなさを自覚した時点で、生き急ぎ気味なこの男は簡単に着火した。
非津はCCの前に立ちふさがった。そして両手をHUNKボディの半ケツ型ボンネットに押し付けた。
ボネドンだ。
ハルオよりも胸を張り、背を反らして、そして迷わず額を天から尻へだ。
ボゴオ! 恐ろしく鈍い音がした。周りから、ええええ、という驚愕が聞こえてくる。
しかし、非津は迷わず二発、三発かました。
ボンネットは両手と、額から流れる血でべったり赤に染まってきた。
流石、天下のHUNKボディ。衝撃を柔らかく跳ね返してへこみを一切残さない。無心で非津は頭を打ち続けた。
「そうだぜ、非津さん! その調子だ」
非津に負けじとひたすらパレットを割っていたハルオだが、青年の乗ったフォークリフトがこちらへ急速接近してくることに気付いた。
「げえ!」
背を向けて逃げようとしたが、ハルオは腕を爪ですくい上げられて、宙ぶらりんのままタイタニックポーズ。
そのままフォークリフトのバクホーはどこかへ走り去って行った。
「うおおおおおお!」
ひたすら頭を打ち付けていた非津だが、突然、CCが動き出した。
「ぷげ!」
彼らしくもない、間抜けな叫びで非津の体はCCフロントミラーに背中を向けて張り付いた。
CCは非津を張り付けたまま、バクホーと同じ方向に猛然と走って行った。
(次回へ続く)
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