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1. 埋められない距離

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 白い陽射しの中、非日常をまとう貴女が僕の少し前を歩いていた。
 弛く吹き上げる海風が、肩までに切り揃えた黒い髪を揺らす。細くなめらかな貴女の髪一本一本が、空気を孕んでさらさらと楽しげに踊っている。僕はそれを、まるで幻でも眺めるような心地で見詰めていた。
 風が悪戯に、貴女の香りを僕の鼻先まで運んでくる。だから僕は、くすぐったいような切ないような、そんな曖昧で居たたまれない気分で貴女の後ろ姿を追いかける。

 この香りは、貴女の髪の匂い? それとも、肌の匂い……?

 僕の知らない、貴女のなめらかな肌を想う。
 けれど僕の知らない誰かは、その肌に指を滑らす。いつでも、好きな時に貴女に触れている。誰にも咎められる事なく。

 そんな事を考える度に、閉じ込め切れない嫉妬が僕の心をじりじりと焦がす。僕自身を壊してしまいそうなくらい。そして救われない深い澱に沈んでいく。
 他の誰にも指一本触れさせたくない程いとしい貴女は、決して僕のものじゃない。
 知らしめられる度に苦しい。苦しくて、息すらできなくなりそうなんだ。

 そんな事、きっと貴女は気づいていない。いや、気づかないふりをしているだけかもしれない。
 貴女は僕のものじゃない。けれどその貴女は、今僕の傍に居る。
 今だけは、僕の傍に居る。

 たった三時間だけだけれど。
 たった数時間だけの非日常の中で、僕と貴女は出会う。
 誰にも邪魔されない場所で、二人だけで。

 貴女に会えるのは、平日の昼から夕方までの僅かな時間。僕の授業がなくて、貴女の仕事が休みの平日。その条件が重ならなければ、貴女は会ってくれない。
 けれど僕が貴女に会う為にこっそり授業をサボっている事は、貴女も知らない僕だけの秘密。

 貴女は決して日常という場所では僕に会ってくれない。だからこうして日常とは遠い場所で、僕たちは束の間の逢瀬を交わす。
 鎌倉の海岸沿いを二人で歩きながら、僕は一人心をおよがせていた。


 あの日、貴女と初めて言葉を交わした。本当に些細なきっかけで。
 
 図書館の返却されたばかりの本が置かれる棚から、僕は読みたかった一冊の本を見つけて取り上げた。本のページをめくろうとした僕の後ろから、貴女は声をかけてきた。

「ごめんなさい、その本……」

 一切のざらつきもない、綺麗なソプラノの声。不純物の交じらない音。
 その声は僕の鼓膜ではなく、もっと深く繊細な場所に触れて、そのまま溶けた。
 その声に引かれるように振り向いた僕の瞳に、貴女の姿が映り込んだ。

 一瞬、本当に時が止まった。そして、トンッと心臓が跳ねた。

「本の中に、しおりを挟んだままにしちゃって……」

 呆けたままの僕に、貴女は困ったような顔をして云った。
 僕ははっと我に返り、パラパラと本のページをめくっていく。ページの最後の方に、厚紙で造られた淡い桜模様のしおりが挟んであった。

「……これ」

 僕がぎこちなくしおりを差し出すと、貴女はほっとしたように頬を弛ませた。

「ありがとう」

 それが、貴女と初めて言葉を交わしたきっかけだった。


 あの時の貴女は、きっと僕の動揺なんて気づいてもいなかっただろう。
 貴女と僕がこの図書館で幾度かすれ違った事があるなんて、そんな事すら知りもしなかっただろう。ひっそりと貴女に憧れて、貴女がいつも現れる時間に合わせて僕が図書館に通っていたなんて、夢にも思っていなかっただろう。
 夕陽の射し込む館内で、本を探すふりをしていつも貴女の姿を追っていた事なんて、貴女は絶対に知らない。

 狭い図書館の中でずっと追いかけていた貴女は、今ここに居る。
 柔らかな線を描く後ろ姿が、僕の少し前で揺れている。淡いブラウスに、ふわり風を孕むスカート。低いヒールが貴女の足取りに合わせて小気味良い音を立てる。
 すらりとした貴女と小柄な僕の背丈の差はほんの数センチ。高いヒールを履けば、貴女の背丈は僕を追い越す。

 貴女は28歳。僕は19歳。
 貴女は既婚者。僕は大学生。

 年の差は決して埋まらない。そして今の関係は、決して埋められない。
 貴女が誰かのものである以上、この関係は決して動かない。

 憧れだった貴女は、僕の前で頬を弛める。
 けれど、僕のものにはならない。
 時折僕は、自分が繋ぎ止められなくなりそうな程、苦しくなる。
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