香港夜景

凛七星

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Chapter1

時の訪れ

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「ごらんなさい。この小さなところに八百万からの人間が蠢いてるんですよ」
 着陸態勢に入ったボーイングの窓からは、眼下に世界の三大夜景と例えられるネオンの光が、色とりどりに敷き詰められた宝石の絨毯のように輝いている。
「香港のビクトリアサイドだけでも、東南アジア全体よりネオンサインが多いくらいですから」
 急角度で降下していく飛行機の勢いに、すでにずいぶんと前からシートベルト装着のサインが出ていたはずなのに、あらためて確認をする乗客の姿がちらほらと見かけられた。
「奇妙だとはおもいませんか?どのネオンも瞬かないでしょう。中国に返還され特別行政区になったとはいえ、この都市の生存原則は『金銭こそ善』なんですから」
 ノリコの隣に座っているラテン系らしい男は、彼女が先ほど淡い眠りを醒めてからというもの、返事もしないのに一人でやたらと話を続けていた。彼女の会話への反応の悪さをわかりつつも、男はなんとか少しでも自分へ振り向かせたいのだろう。口を閉ざす気などさらさらないといった様子だ。
「ネオンの大きさには制約がないんですけどね。しかし、瞬かせるのは禁止なんです。あの背の高いビルの上を見てください。あそこの小さなライトだけが点滅してるでしょう。その隣のビルの壁にあるものも。あれはね、飛行機の誘導灯なんです。あなた信じられますか?ジャンボの誘導灯がビルの壁にくっついている空港なんて。とにかく、あれをパイロットが見逃したら飛行機は海か街の中へ落ちてしまうというわけです。滑走路そのものが海に突き出た桟橋ですよ。だから誘導灯以外の瞬きは生命に関わるというわけで……」
 まるで人形のように窓の方を向いたままのノリコの横顔に、少し戸惑う表情を作って男は話題を変えた。
「ところで失礼ですが、あなたは香港へは観光ですか?それともビジネス?」
 彼女は質問に長い睫毛をした大きな瞳も、細面の虚無感と憂いが貼りついた顔も動かすことなく、わずかに肉厚で湿度の高そうな唇を震わせるようにして小さな声を発した。
「わたしは……観光です」
「どちらから?わたしはワシントンDCからです。トーキョー?それともホノルルかな?」
「カリフォルニア……サン・ホセ」
 その気だるげな答え方で男は口説くことをようやく諦めたのか「よい旅を」と挨拶をしたあと、座席にもたれかかり着陸に備え静かになった。



 二十四時間眠らない街と称される香港の目抜き通り彌敦道(ネイザン・ロード)をハイヒールで鳴らして歩く女は、九龍公園を通り過ぎるとハーバーシティへと通じる海防道(Hai Phong Rd.)で角を曲がった。
 狭い歩道にごった返す人々と肩をぶつけないように器用な身のこなしですり抜けながら、頭上に突き出すやたらと派手な色彩とデザインの看板をやり過ごすと、「ニセモノ見る?」「足マッサージ」といった、胡散臭い客引きたちの声が飛び交う北京道(Peking Rd.)の交差点を渡った。中間道(Middle Rd.)まで来ると、女は香港を代表する最高級のクラシックな佇まいのホテルへと足を進めた。『香港大飯店』という看板がかかる玄関を、ベルボーイに目もくれずすり抜けていく。ボーイは細身だがグラマラスな線をタイトなチャイニーズドレス越し見せつける女に、暗黙の了解といった風情で中へと通した。
 女はホテルに入ると、すぐ右手にあるバーの扉を開け中の様子を窺った。カウンターでは蓄えた口髭と、額の皺が人生の退廃を映しているようなバーテンダーがグラスをから拭きしていた。
 女はゆっくりと歩き出す。その姿を「FOUNDED IN DEC.OF 1887」の文字が刷られた大きな鏡が、アールデコな装飾の額の中でとらえる。
「何時からいるの?」
女はベルベット地が張られたスツールに手をかけると、表情をなくしたバーテンダーに尋ねた。
「朝から」
「お茶?それとも……」
「スコッチ。朝からずっと」
「何をしてたの?」
「何も、朝からずっと待っているだけさ。毎日毎日、ただ待っている」
 女はカウンターの隅でグラスを手にしたまま酔いつぶれている男に、視線を向けたまま椅子に腰を下ろした。
「この店も落ちたものさ」
 バーテンダーは天井のクラシカルだがゴージャスな輝きを放つシャンデリアを見上げて、嘆息みたいな言葉を漏らした。
「生気のない日本人の男が、朝から酒を浴びて眠ってる。得体の知れないものを待ち続けてね」
 バーテンダーは顔なじみになった、明らかに夜の商売という装いをしている女に目を向けると、使い古した昔話を続ける。
「ここも三十年ほど前には白人や欧亜混血(ユーラシアン)の美人たちで朝から華やいでたもんさ」
 女は記憶できるほど聞かされた話を無視して、席を立つとカウンターにへばりつく男の方へと進んだ。
「シャーリー・マクレーンが銀のマドラーをくすねたときにオレはこう言ったね。すみませんがミス・マクレーン、バッグの中にあるマドラーの分までお勘定書きにおつけしておきましたが、よろしゅうございますか、ってね。あのころが懐かしいよ」
 バーテンダーの独り言は、バーの中に漂う淀んだような空気に溶けて消える。チャイニーズドレスの女が近づく気配に、酔いつぶれていた男は目を開けた。
「やぁ、おはよう、スーリン」
 女は切れ長の目をわずかに細めた。
「いつもここね」
「ここが気に入っている。カウンターの端にオレのネームプレートを打ちつけたいくらいさ」
「部屋へ行く?それとも……今日はそんな気分じゃない?」
「そんな気分だよ。悪徳にまみれたい気分だ」
 男はそう答えると、ようやくカウンターから身を起して、艶かしい匂いを放っている目の前に立つ女豹の手を取り、腕をサテンの布に被われた細くくびれた腰へとまわした。



「いつ見ても、この街はいい……」
 男は咥えタバコで両手をズボンのポケットに突っこみながら、高層階の部屋の壁一面に広がる大きな窓から猥雑な活気に満ちた街と人を眺めていた。その背後で女はドレスをたくし上げると深いスリットに指先を入れ、あからさまに男の視線と欲情を刺激することを目的にしているショーツを脱ぎ始めた。
「この前のように、服を着たままでするのかしら?」
「きょうは、違うことをしてみようとおもう」
 男は振り返ると、目だけでドレスを脱ぐように伝えた。
「いつまでここにいるつもり?」
 女は要望どおりにドレスを脱いで、ガーターベルトと艶やかな輝きを放つストッキングに手をかけながら質問すると、男はそれはそのままでいいという顔をして答えた。
「死ぬまでだ」
 女はストッキングだけの姿でベッドに横たわると、男がサイドテーブルに置かれていたカメラに手を伸ばすのを見て、ポーズを決めるように身体をくねらせた。
「なぜ、きょうもわたしなの?他にもっと若くてきれいな娘もいるのに。大陸から逃げてきた生娘だっているわよ」
「オレも香港も黄昏どきだ。キミのような女がよく似合う。悪いが、もう少し尻を高く上げてくれ」
 男はシャッターを何度か切ると、うつ伏せで扇情的な体勢をとる女に頼んだ。女は男に向けて青紫の血管が薄っすらと浮かぶ乳白色で形のよい臀部を突き出し、ふざけたように上下左右に揺らした。
「空港のジョン・リーが言ってきたわ」
「何を?ハンバーガーの売れ行きが落ちたとでも」
「ハンバーガーの売れ行きはいいそうよ」
 女は細身にはアンバランスなほどたわわな乳房の上半身を起すと、なめらかな白磁器のような色の両膝を大きく開き、指先を雌の匂いを放ち濡れ光る場所へとすべらせて動かし始めた。
「もう少し、深く指を入れてくれないか」
 男はレンズ越しに女の姿態を確認しながら頼んだ。
「来たそうよ……あなたの待っている人が」
「そうか」
「きようのノースウエスト便、サンフランシスコ発東京経由で」
「とうとう来たのか」
 男はカメラをテーブルに置くと、シャツとズボンを脱ぎながらつぶやいた。
「何を待ってるの?」
「殺しに来る奴さ」
「そう……」
「そいつはオレを始末しに来る殺し屋さ」
「……」
 男は再びカメラを手にすると、戸惑う女をベッドに押し倒して、すでに十分に熱く潤っている亀裂を数度自分の屹立する先端でこすりあげて、まとわりつく襞の奥へと突き刺した。
「ひさしぶりにオレの腕が試せる。二十年も磨き続けた腕を」
 男はしばらく腰を激しく波打たせながら、途中で女と交わっているところにレンズを向けると、何度もシャッターを切ったあと、再び硬く反り返って女の愛液で濡れ光るものを深々と女の中へと沈める。退廃を固めてファンデーションを塗ったような女の顔が、ほのかに紅潮し歪んだ。



「むかしの日本のギャングたちは、たいてい香港へ逃げたものさ」
 男は乱れたシーツと淫蕩の残り香に包まれながら、少し上半身を起すとタバコに火をつけた。吐き出された紫煙は、隣で身づくろいをする女の背中を撫でるように流れていく。
「知っているわ。映画で観たもの。石原(ソクウォン)や小林(シャオリン)の映画で」
「映画は彼らが日本に帰ってくるところから、だいたいは始まる」
「ええ」
「だけど今度は違う。その前で終わるんだ」
 男は情事の生々しい部分の画像を、一つひとつデジタルカメラのモニターで見ていた。
「その写真、どうするの?」
「夜になったら一人で眺める……それから消す」
 女の身支度が整ったのを煙が染みて細めた目で確認すると、シーツを蹴り上げて女の腕を取る。そしてまだ交わりの余韻を残す柔らかな身体を引き寄せて、再び欲情を漲らせ始めた男の部分へと、しっとり湿るやわらかな唇を導いた。女はまだ残っている自分の匂いのため、いささかの羞恥で淫らを呼び起こされたのか、男の昂まりがルージュの赤で移り染まるほど激しく刺激する。そして舌先は獲物を味わう蛇のように動き、硬くなり始めた男をなぞった。絶頂の放射へと導こうとする指先の動きも加えると、間もなく男が身体を小さく震わせて、呻き声と共に発した熱い粘液を脈打つリズムに合わせて吸い取り飲み干した。
「まいったな。ホントはキミの中で終わりたかったんだが」
「せっかく出かける用意を済ませたのに、もう一度やり直すのはイヤだったのよ」
 女は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して勢いよく喉に流し込んで、ソファに腰掛けると手鏡を見ながら色が剥げ落ちたリップを再び装った。
「確かにいつまでもこうしてるわけにはいかんな。訪問者が様子を窺いに行くのを待ってくれるわけじゃない」
 男は勢いよくベッドから飛び起きると、そのまま女の匂いをまとったまま服を身につけ始めた。
「シャワーはいいの?」
「オレの身体からキミの匂いを消したくないんだ」
「そう」
「さぁ、行くぞ。オレの命を狙って来たヤツの顔を拝みに」
 女は部屋のドアを開け、自分が出るのを待つ男の腕に自分の腕をからめた。二人は無言のままで互いを見つめる。視線は、つい先ほどの情事のように交わった。


つづく
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