約束

凛七星

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約束

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「すみませ~ん!」
 さわやかな風がすり抜けていくのを楽しみながら、近所の公園で無為と戯れているところに、わたしの足元へサッカーボールが転がってきた。声をかけてきたのは小学校低学年くらいの子どもたちだ。
 頭をペコリと下げる様子に口元が緩む。わたしはサッカー小僧だったころをおもい出して、カーブをかけるイメージで子供たちに向かってボールを蹴った。ちょっと回転が足らず、狙ったほど曲がらなかったが、大きく逸れることもなくボールは少年たちのもとへと帰った。それをトラップした男の子は、再びわたしに頭を下げると大きな声で礼を言った。そのときふいに、古い記憶がよみがえってきた。そうだ、あのとき、わたしたちもボールを蹴って走り回っていたなと。


 小学校に入って間もないころだった。
 広い公園にある桜の蕾がほころぶ下で、わたしたちはサッカーボールを追いかけていた。誰かがシュートしたのかロングパスを出したのか、もう定かにおもい出せない。ちょっとした拍子で、あらぬ方向に転がっていったボールは、ひとりの男の前で止まった。
 男は薄汚れたシャツとニッカポッカという労務者風の姿で、笑う口には前歯が何本か欠けているのが見えた。わたしがすみませんと声をかけると、その男はサッカーボールを両手で抱え、刻まれた顔の皺をさらに深めて笑いながら近づいて来た。
「坊主ら、犬は好きか?」
 唐突な話とその男の容姿に、わたしたちは言葉が喉につまってしまった。
「公園の向こうに子犬が捨てられてんねん。拾うたってくれへんかなぁ…」
 わたしたちは顔を見合わせて少し戸惑いながらも、男が指さした方向へと走っていった。
 公園の隅に植えられた背の低い緑の影には、段ボール箱に数枚の使い古したタオルに包まった、小さな子犬が身を震わせていた。薄い茶色の毛並みが少し汚れていて、それがわたしをいたたまれない気持ちにさせた。
「えらい弱ってんなぁ…」
「どこの人にほかされたんやろ」
 子犬は助けを求めるように震える小さな声で啼いた。
「連れて帰ったら、お母ちゃんに怒られるかなぁ」
 わたしが動物嫌いな母の顔を想い浮かべて悩んでいると、その様子に友だちが妙案を持ち出した。
「なぁ、けいちゃん。この犬、ぼくらで飼おうや」
「どこで?」
「ほら、この前作った秘密基地があるやん」
「そやな、あそこで飼おかぁ!」
 わたしたちが公園近くにある、自分たちで作った粗末な出来の秘密基地へ子犬を抱えて行くと、小さく痩せた体をきれいに拭いてやったり、家から持ってきた牛乳を飲ませたりした。
 子犬と戯れているうちに日はすっかりと傾いて、辺りは夕暮れの寂しさに染まっていた。     
 わたしたちは後ろ髪を引かれるおもいをしながらも、学校の行き帰りにここへ寄って、面倒を見る約束を交わし、家路を急いだ。


 子犬を拾って一週間ほどしたある日、春の嵐が雨粒とともに吹き荒れた。
 秘密基地と子犬のことが心配になって、わたしは傘を傾けながら友だちの家へと向かった。だが、玄関まで行くと扉の向こうから外へ出ようとする友だちを叱る母親の声を耳にして、わたしは言葉を発することなく踵を返して、雨足が強くなる中を駆け出した。
 誰もいない公園を走り抜け、大きな川の堤防をすべって転げないよう気をつけながら下りると、橋げたに寄りかかるトタン板をくぐった。
 屋根代わりの板はところどころに穴が空いて雨漏りしていたが、隅で身を縮める子犬はほとんど濡れておらず、わたしを見ると小さく頼りなげな声を上げた。
 わたしは「よしよし」と小さな身体を引き寄せると、家から持ってきた牛乳をアルミニウムの皿に入れてやり、舐めるように飲む子犬の体をタオルで拭いてやった。
 雨は一向に弱まる気配を見せず、あっという間に空は暗さを深めていった。子犬が心配だったが、そろそろ帰らないといけない。わたしは何度も子犬がいる橋げたの方を振り返りながらも、堤防にできた水たまりを避けて家路を小走りした。


 翌日も小降りだったが雨は続いた。冷たい雨に濡れて風邪をひいてしまったのか、微熱が出て布団の中にいたわたしは、電話で友だちに子犬の様子を見てきてほしいと頼んだ。
「けいちゃん、そやけど雨がやまへんもん。濡れるのいやや」
「濡れたって、しゃあないやん!犬、かわいそうやんか」
「濡れたらお母ちゃんに叱られるもん」
「もうええ!もう頼まへんわ!」
 友だちはわたしの怒声に泣き声で「そやけど、そやけど…」と、何度も続かない言葉をくり返した。
 しかし、友だちの態度に憤慨した次の日も、わたしは微熱があったため、母の命令で布団の中で悶々と過ごさざるをえなかった。
 そんな二日間を過ごすうち、あんなに激しかった雨も上がり、窓枠には空のあざやかな水色が切り取られていた。  
 お隣からはテレビで放映している喜劇を笑う声が耳に届き、なんともやるせない、胸が苦しくなる土曜日の午後だった。
 行き場のない気持ちに身が裂かれそうになっていたところへ、学校帰りの友だちが立ち寄ってくれたのだが、彼は黙ったままわたしの顔をしばらく眺めてもじもじするばかりだった。じれったくなったわたしが「どうしたん?」と声をかけると、ようやく意を決したのか顔色をうかがうようにポツポツと友だちが話を始めた。
「あんなぁ…さっきなぁ、犬のとこ行ってみてん…」
 やっと口を開いたものの、そこで言葉が途切れて、なかなか後が続かない。
「どうやった?」
「犬は…犬は…、犬はおらんようになってた」
「おらんようにって?」
 友だちの話では、けさ学校へ行く前に橋げたのところまで見に行ったらしい。すると川の水かさが増していて、秘密基地のあたりは水没していたということだった。
「そおかぁ…」
 わたしは子犬が苦しみながら流されて、溺れ死んでしまう様子が目に浮かんだ。
「きっと、どこかに逃げてるて。けいちゃん、あした秘密基地んとこ探しに行こや、な、けいちゃん行こ!」
 わたしは黙ったまま、それに小さくうなずくことしかできなかった。


 次の日、わたしたちは約束した子犬探しをしなかった。
 その次の日も、そのまた次の日も、わたしたちは橋げたへと近づかなかった。そこに行くのが怖かったのだ。自分の身勝手さと薄情さを突きつけられ、何かに責められるような気がしたのだ。
 それでも一週間が過ぎたとき、わたしたちは忘れたことにはできず、重い足取りで子犬がいた場所へと向かうことになった。
「やっぱり、犬いやへんなぁ」
「けいちゃん、きっと犬どっかで元気にしてるて。だいじょうぶやて」
 友だちの空虚な言葉に、わたしはしばらく返事ができずに立ちすくんでいた。
「あんなぁ…」
「ん、なんや?けいちゃん、どうしたん?」
 わたしはこぼれそうになる涙に必死で抗いながら告白した。
「あんな、あんな…ぼく、ホントは犬がおらんようになって、ほっとしてるねん。毎日えさやりに来るのもしんどかったし、家にも連れていかれへんかったし…」
 わたしの言葉に友だちが堰を切ったように声を上げて泣き出した。その姿を見て、子犬を世話していた辺りに立っていたわたしも、堪えていた涙をポロポロとこぼし、堤防の土で薄く汚れている運動靴のつま先へと落とした。


 遠い記憶から帰ってきたわたしの目に、夕日を浴びながらボールを追って、走っている少年たちのシルエットが映った。
 よっこらしょと声に出し腰を上げると、わたしはお尻についた土を払った。そしてちょっと遠回りにはなるが、公園の近くを流れる川の堤防を歩いて家に帰ろうとおもった。
 河原には犬を散歩させる人たちの影が伸びていた。その様子をゆっくりとした足取りで眺めつつ、少し冷えてきた春の風を抱えこもうとするように、両腕を大きく広げた。


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みんなの感想(1件)

プシュケー
2019.12.11 プシュケー

こういう切ない苦しみみたいなもの、誰しも1つや2つは抱えているよなあとおもいました。最近いろんなことで悩んでましたが、子どもの純粋な気持ちに触れて背中をさすられたような思いがしました。

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