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第14.5話 兄妹の思い出とジュニアMTB
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チャリチャンに出場しなかった男、諫早 暁は、自室で本を読んでいた。普段はライトノベルなどを好む青年にしては珍しく、自転車の専門誌などに目を通している。
もちろん、自分で買ったものではない。妹が買ってきたものだ。何が面白いのか、妹は定期的にこの手の本を買ってきたり、自転車の話をしている。
(こんな山奥で、しかも路面の悪いところに住んでいるのに、よく乗るよな)
と思っていた暁だったが、専門誌には自転車で階段を駆け下ったり、高い壁に飛び乗ったりする写真も載っていた。競技によっては当然のように使われるテクニックのようで、一般常識という素人の認識に囚われた暁には新鮮に映る。
(凄ぇな。よくやるよ)
驚き半分、呆れ半分でページをめくる。すると、スマホが振動した。
(誰だ?……って、茜か)
電話の相手は、現在レース中のはずの妹、諫早茜からだった。
「よぉ。どうした?お兄ちゃんが恋しくなったか?」
『んなわけねぇだろ。見たいテレビ番組があったから録画しておいてくれって頼みに電話したんだよ』
剣呑そうな声だが、実際にはキャラづくりだと知っている暁は気にしない。
「お兄ちゃんは寂しかったぞ。茜がチャリチャンに出てから、もう3日目じゃないか」
『いや、たった3日だろうが。アタイが高校に行くようになったらどうするんだよ?』
茜の声が少し柔らかくなる。暁が冗談を言ったり、甘えたことをするといつもこうなる。それが暁にとっては嬉しかった。
ただ、それはそれとして、
「高校、実家から通うのか?」
『う……まあ、それは……』
もう受験を来月に控えているという時期にもかかわらず、茜の第一志望校は絞り切れていなかった。それもそのはず。自転車部のある学校に通いたいと思う茜だが、そんなところは県外にしかない。しかも両親も反対しているのだ。
自転車部のある学校への入学を……だけではない。そもそも茜が自転車に乗り続けることも、プロを目指すことも、自転車競技に出ることも反対していた。今から説得するなら、何かしら実績がなくてはいけない。
(まあ、あの両親なら説得は出来るだろうな。何かの実績があれば、の話だが)
と、何やら訳ありな態度で暁が頭を掻く。
『ところで、兄貴。ホームステイの件はバレてないよな?』
当然、自転車レースのために3週間も学校を休んで家を空けていると、両親にバレたら一大事だ。イギリスに時季外れなホームステイに行っていると嘘をついている。これは少なくとも大会が終わるまで吐き通す必要のある嘘だ。
「ん?ああ、大丈夫だ。俺の方でうまく近況報告をでっちあげている。例えばさっきだって、今日の夕方に茜から電話があったって事にしているさ」
『なんて言ったんだ?』
「朝ごはんのマッシュポテトと焼きトマトが妙に美味しかった。と言っていたことにしてある。それから昨日の晩飯に出たニシンとベーコンのパイ包みは泣けた。ともな」
『なんで飯の話ばっかなんだよ』
「逆に訊こう。お前が飯の話以外を電話でわざわざ伝えるか?例えば本場のアイリッシュリールを聴いて感動した。フィドルとティンホイッスルの踊るような旋律が、ハーディ・ガーディとイリアンパイプスの伸びやかなハーモニーに共鳴して幻想的だった。とか電話で言ってくるか?」
『……ないな』
「だろう」
音楽については全く詳しくない茜は、
『そのイリアンナントカってアーティストも知らんし』
と、楽器の名前を歌手か何かと勘違いするレベルだった。苦笑した暁は、適当に話を切り上げる。
「まあ、うまくごまかしているから安心しろよ。それより、今日もご活躍の様子だったじゃないか。次郎なんちゃらの乗る100万円くらいのアメリカンバイクを抜いたって?」
『なんでそんなこと知っているんだよ?』
「そりゃ、ミスり実況を見ているからな。もちろん親にバレないように自室のパソコンで。いや、ミス・リード可愛いよな。そのうえエロいもんだから、すでにニコニコにMAD上がってんだぞ。人力ボカロとか」
チャリチャン当事者には分かりにくいかもしれないが、この大会は意外とネットやラジオでも大きく取り上げられている。テレビや新聞が動き出すのも時間の問題だろう。
つまり、茜の両親に知られるのも時間の問題かもしれない。
「大丈夫だよ。俺がうまく回避してやるさ。家のテレビは俺がチャンネル権を握っておくし、他のメディア機器も適当に避けてやる。だからお前は安心して、今日みたいな目立つ走りをガンガンしてこい。ああ、でも事故だけは起こすなよ。何だっけ?あの……」
『デスペナルティ、か?』
「そう、それ。そいつにはなるべく近づくな。茜に何かあったら、俺がそいつの住所と本名を特定してお礼参りに行ってやるからな」
『ははっ、ありがとよ。でも大丈夫だ。アタイはあんな奴にやられるライダーじゃない』
そう言う茜の声を聞いていると、本当に大丈夫な気がするから不思議だ。
「わかった。ところで、録画してほしい番組があるんだろう?何だ」
『え?ああ、そうだった。ええと――あー、やっぱいいわ。何を見たかったのか忘れた。明日は朝早い予定だから、もう切るぞ。じゃあな』
嘘のつき方が苦手な茜は、照れ隠しの仕方も下手だった。全てを察した暁。しかしそれ以上茜をからかおうと思った頃には、電話が切られていることに気づく。
「こいつ、切りやがったな。まあいいか。こっちも電話越しだと調子狂うから、からかいづらいし」
スマホがつながっていないことも承知で、茜に一言だけ
「おやすみ」
と、届きもしない声をかけて、ホーム画面を閉じる。ソファに寝そべって、テレビの興味ないニュースを耳に通す。
眠気に誘われながら、暁は茜との思い出を振り返る。茜が自転車に乗り始めたきっかけは、そもそも暁にあった。
今でも時々夢に見る。あの時と全く同じ夢……でないにしろ、忘れられない夢。
もう、十年も前。茜がまだ5歳のころで、暁も11歳だった。
「なあ、茜。これ、やるよ」
そう言って暁があげたのは、青い自転車だった。子供用の小さなフレームに、ダイナモライト。タイヤは24×1.75inのブロックタイヤ。ところどころに傷があり、プラスチック製の前かごは割れて原形をとどめていない。
Bridgestone クロスファイヤージュニア24inというジュニアMTBだった。マウンテンバイクと銘打っているが、この手の車体はスポーツ用ではなく、ママチャリをさらにデチューンしたような見掛け倒しの玩具だった。
要するに、変身ヒーローのベルトが本当に変身できる機能を持たなかったり、魔法少女のステッキが本当に魔法を使えるわけじゃなかったりするのと理屈は似ている。このマウンテンバイクは本当に山道を走れるわけではない玩具だ。
「まあ、俺には少し小さくなったからな。お下がりだ」
そう言って暁が自転車を差し出すと、茜は目をキラキラさせて喜んだ。
「ありがとう。おにいちゃん」
「そ、そんなに嬉しいか?俺のお古だし、補助輪も処分しちまったからついてないんだが……」
「嬉しい。だって、この自転車に乗っているときのおにいちゃん、かっこいいんだもん」
「か、かっこいいか?」
「うん。おにいちゃん、かめんらいだーみたい」
「か、仮面ライダーか!マジで?」
「まじでぇ」
男の子はいくつになっても、仮面ライダーに憧れるものである。憧れのヒーローみたいだと言われて喜ばない男の子はいないのだ。暁も例外ではなかった。
嬉しいけど恥ずかしいし、大人ぶりたい年頃も相まって複雑な表情を浮かべる暁。その顔を、茜は不思議そうに下からのぞき込んでいた。
「ねぇ。おにいちゃん。どうしたの?」
「え?いや、ああ、ちょっとな」
「へんなおにいちゃん」
ざっくりと言った茜は、続いてその自転車。クロスファイヤーに跨ろうとする。実は中学生になった茜が乗っているシクロクロスの名前もCROSSFIREというのだが、偶然の一致である。
「やっぱ補助輪買ってくるか?」
その日の夜。家の庭で暁は言った。茜は首を横に振る。
「乗れるまで頑張る」
「頑張るって、まだやるのか。もう暗いぞ」
季節は春。幸いにも気温は高かったが、夜は冷え込む予報が出ていた。何より大して明かりもない庭で、これ以上の練習は危険だった。
「つーか、お前もう擦り傷だらけじゃないか。家に戻れよ。もう天才てれびくん始まったぞ」
「や!」
茜は、転んだ自転車を起き上がらせて、もう一度跨る。皮肉にも車体は頑丈にできているので、何度転んでも壊れる心配はない。
とはいえ、家の庭は砂利敷き。近くの道も木の根が突き出たあぜ道だ。そこそこ自転車に乗れる人だって転ぶ道だし、5歳の少女が練習するには不向きである。
(本当に、自転車向きじゃないところに住んでいるよな)
どうせ乗るなら、やっぱりこんな玩具みたいなMTBじゃなく、もっと本格的な車体だ。いや、そもそも住むなら人里だ。こんな山奥じゃなくて、もっと町中の方。
(先祖代々守ってきた山だか知らんが、タケノコが採れるわけでもないんだから、丸ごと売って引っ越せばいいのに……)
と、子供ながらに思う。いや、子供だからこそ思うのだろうか。ちなみに、このころは山全体が実家の土地だと信じていたが、実際には山の一部が持ち土地だっただけだと知るのは数年後である。
「きゃっ!」
ガシャン!
音を立てて転んだ茜は、膝小僧から血を流しながら立ち上がって、嬉しそうに言った。
「今、見てた?」
「いや、見てなか……」
見てなかった。と言いかけた暁は、何かを察して嘘を吐く。
「ああ、見てたぞ。凄いじゃないか。結構乗れたな」
「え?えへへ……うん」
茜は嬉しそうに頷くと、もう一回自転車に跨りなおした。そこで母親が止めにかかる。
「あっくん。あかねちゃん。ごはんよ」
「あっくんはやめろ。ったく……茜、晩飯だってよ」
「え……でも……」
「そんなに乗りたいなら、飯食ってから乗ろうぜ。自転車は逃げないからさ」
「うん」
素直に頷いた茜は、まるで宝物を扱うような手つきで自転車を寝かせる。スタンドの使い方は難しかったらしく、いっそ使わないことになった。
ちなみに、そこらじゅう傷だらけの茜を見て母親がショックを受け、近くで見ていた暁が怒られたのは余談である。
いつしか中学生になった暁は、自転車に乗らなくなっていった。中学の校則で、自転車通学の場合はシティサイクルのみを許可するというルールがあったのだ。
他にもシャーペンの使用禁止。きれいな髪留めやアクセサリーの着用禁止。リップクリームや保湿クリーム、日焼け止め等の使用禁止。ポニーテールやツーテールの禁止。三つ編みのみを許可する。などの謎の多い校則があり、主に女子生徒から不評だった。
「そもそも、不平等を禁止するって事だろうな。例えば俺がMTBに乗って登校したら、ママチャリしか持ってない生徒が俺に嫉妬するだろう。だから不平等って事だ」
と、暁は納得した。一方で納得のいかない女子生徒たちは言う。
「でも、リップクリームはいいでしょ。使わないと唇ガサガサになるんだけど」
「っていうか、そんなこと言ったらブスに生まれた私たちは不平等じゃないの?次の校則に美人の入学禁止とか、巨乳は退学とか追加する気?」
「暁君はイケメンだから困らないかもしれないけど、私たちブスは辛いよ」
「私、三つ編みにするほど長くないけど、肩に届くから縛りなさいって言われているし」
確かに理不尽な話だが、世の中とは常に偏見と誤解の中で自分の立ち位置を探るゲームみたいなものだ。
子供だから理不尽にさらされているわけではない。ただ大人たちも国や政治から理不尽を受けているから、それを子供に当てつけているだけである。常に自分より立場の弱いものを探しているのは誰だって同じである。
その証拠に、この女子たちも部活では後輩にボール拾いだとかグラウンドの整備だとかを押し付けている。ちょっと早く生まれただけで先輩風吹かせて、下の学年に理不尽を押し付けているのだから汚い大人の仲間入りだ。人はこれを成長と呼ぶ。
「まあ、俺だって不条理だと思うぜ。なんせ俺の家は山の中だろう?ママチャリで走れないんだよ。本当に平等っていうのは、自分の住んでいる所に合わせて移動手段を選ぶことだと思うが、俺が思ったところで校則が変わるわけじゃないから仕方ないな」
まだ15歳という若さで達観しているあたり、暁はあきらめるのが早かった。早急に投げ出して、最初からすべてを受け入れるのが彼の処世術だ。
だから、将来の事もすべて、親の敷いたレールに任せていた。医学の道に進んで、父親の診療所を継ぐ。そのための後継ぎとして生まれ、後継ぎとして育てられたのだ。だから勉強以外に趣味などなかったし、仮にあっても熱中する気になれなかった。
こうして女子に囲まれていても、ちっとも嬉しくない。イケメンだろうがモテようが、中学生の本分は勉強にある。恋愛や不純異性交遊は校則で禁止されているし、そもそも父が許すわけがない。
そんな兄にまったく似なかったのが、あきらめの悪い妹がいた。
「よぉ。どこに行ってたんだ?こんな夜遅くまで」
20:00を回って、ようやく帰って来た9歳の茜は、泥だらけの顔で言った。
「みっちゃんち」
「みっちゃんち、じゃねぇよ。遠すぎだ」
一応、同じ小学校に通っているお友達らしいが、住所的には町の外れ同士。学区内と言えば校則違反ではないが、学区の端と端だ。距離は15kmほど離れている。
「遠くないもんね。クロスファイア」
小学生になった妹は、それでも兄のおさがりのジュニアMTBに乗り続けていた。この自転車も茜が乗り始めてから4年。兄が乗っていたころと合計して8年ほどになる。
フレームはいよいよ傷口が錆び始めて目立つようになり、青い塗装は日焼けしてグレーに近づいている。もともとはメタリックな色合いだったと言ったところで信じる人はいないだろう。メーカーロゴもポロポロ剥がれ落ちて判読しづらい。
そんな薄汚い自転車だが、茜の手入れによってチェーンは滑らかに動くし、タイヤの空気は抜けたのを見たことがない。この間なんてライトのクリプトン球を自分で交換していた。メーカーもここまで大切に乗ってもらったら感涙だろう。
「まあ、幸い今日も母さんがパートに出かけているから、バレやしないと思うが……毎回ごまかす俺の身にもなってくれ」
このころになると母親がよくパートに出かけているので、茜が夜になっても帰ってこなかったとしても、怒られることはなかった。
「それより兄貴。ごはん」
「お兄ちゃんって呼んでくれよ。まあ、いいや。何作る?」
「カレーチャーハン」
「まあ、その辺にしてもらえると俺も楽で助かる」
とりあえずカレー粉さえ入れておけば食えない出来にはならない。そのうえ金銭的にも助かるし、買い置きする品目も少なくて済む。カレーチャーハンはそういう意味で、中学生の暁が最も得意とする料理だった。
「できたぞ。今日のは激辛だ」
と、自信を持った兄の隠し味は、なんと追加のカイエンペッパー。この間デパートで偶然見つけたので、辛いもの好きの血が騒いで買ってみた。カレーをより辛くする調味料らしい。
(うん。辛い。これは満足だ)
と、暁は内心で自画自賛する。ただ、茜には辛すぎたかな。と思ってみると……
「もっと辛くても大丈夫だ」
「何?マジか」
「マジだ」
と、強気に発言された。どうも最近、茜が自分に変なところだけ似てきた。男言葉を使うようになったし、辛いもの好きになってきたし、遠くへ遊びに行くのが楽しいようだし――
(いや、最後のは似てないか)
暁も自転車に乗っていたころは、よく遠出しては両親に心配かけたものだ。それが今では家と学校を歩いて往復するだけで精一杯になり、暇さえあれば勉強を言い訳に引きこもっている。実際に勉強がはかどっているわけではないが、それ以外で自分のやることが思いつかない。
15歳で既にやりたいことを思いつかなくなった自分が、将来どんな大人になるか……それだけは少し不安だ。絶対につまらない大人になることは確かだが、目標を失った自分が体ばかり大きくなって、何も得ないまま生きていくのが予想できる。
「なあ、茜は、将来何になりたい?」
「ん?うーんとね……まだ決めてない」
「そうか。じゃあ、やりたい事とか、行きたいところとかは?」
暁が訊くと、茜は少し考えた。そして、
「自転車で、世界を見たい。アメリカとか、ハワイとか……あと、中国とか」
と、答えた。行きたい世界が微妙なチョイスなのは、一般的な小学生の知識の限界だろう。
「自転車じゃ海は渡れないだろう」
「あ、そっか……じゃ、日本。北海道から沖縄まで、日本中を自転車で回りたい」
「どうしても自転車なのか」
「どうしても自転車だな」
腕を組んで大仰に頷く茜。
「……そういえば、俺の友達が話していたんだが、世の中にはツール・ド・フランスとかっていう自転車レースがあるらしい」
ふと、暁はそんなことを思い出した。
「つーるど?」
「ああ、何でも、フランスって名前がついているけど、フランスだけ走るわけじゃないらしい。ヨーロッパの国々を自転車で走るレースなんだとさ」
「本当に?自転車で」
「ああ、本当だ……そうだ。俺もよく解らん」
こんな話をしたことを、まさかそのあと5年以上も引きずることになるとは、この時の二人には思いもよらなかった。
ちなみに、このやり取りを覚えているのは暁だけである。茜はそもそも、ツール・ド・フランスの存在をどこで知ったのか覚えていない。
ある日、茜がボロボロになって帰ってきたことがあった。体中が擦り傷だらけで、まるで崖から転げ落ちたような姿だ。
「どうした?誰とやり合った?」
誰にやられたか、ではなく誰とやり合ったかを訊くあたり、妹をよく知る兄である。
「ああ……兄貴。ごめんな」
茜はうつむいたまま、小さく呟いた。たとえインフルエンザにかかっていてももう少し元気であろう茜の態度に、暁は心配を深める。
「そういえば、自転車はどうした?」
「ん……」
茜が指さしたその先に、フレームが真っ二つに折れたクロスファイヤーがあった。
ボトムチューブは完全に破断しており、その負担を全部請け負うことになったトップチューブは大きく歪んでしまっている。フロントホイールは大きくひしゃげ、スポーク数本が折れて飛び出た状態だ。
既に使い物にならないことくらいは誰の目にも明らかだった。
「いったい、何があったんだ?」
本当に皆目見当もつかない暁は、茜に事の経緯を訊くしかない。
「……」
茜が言いたくないのも、恐らく尋常じゃない何かがあっただろうことも、すべて踏まえて、それでも訊くしかない。
「MTBに乗った高校生とダウンヒルでやり合ったぁ?」
「……うん」
話をまとめると、どうやらその高校生とやらに自転車を馬鹿にされたらしい。そのまま喧嘩になり、タイム計測で白黒つけることになったそうだ。
「で、オフロードを走っていたら、その衝撃で壊れたと?」
「……そうだ」
愛車を失ったショックからか、茜の口数は少ない。
(これは仕方ないな。寿命……なんてとっくに過ぎているだろうし)
と、暁は考察する。当然オフロードを走れるほどのスペックを持たない車両だったことも原因だろうが、それ以上に長年使いこんだことによる金属疲労の方が大きいだろう。
思えばこの4年間、茜は砂利道だろうが山道だろうが、雨が降ろうが風が吹こうが走り続けてきた。大往生である。
「で、その高校生は?」
「アタイより先に柵にぶつかって、そのまま崖の下に転げ落ちてった」
「いや、勝ったのかよ!」
高校生相手に勝利を収める小学生ってのもどうかと思う。誇らしいを通り越して呆れる。
(まあ、相手の心配はしないけどさ)
暁は心底そう思った。そも他人だろうし、仮に身内でも小学生相手に喧嘩を吹っ掛ける奴は擁護する気にならない。
まさかこれで、相手の高校生が報復してくるとは考えられない。仮に何らかの逆恨みによる嫌がらせがあった場合に限り、法治国家とは思えない自衛手段を取らせてもらう所存である。
「とりあえず、その自転車はダメだな。もう乗れそうにない」
「……」
茜もそれを解っていたのか、何も言わずに小さく頷く。
(そりゃ、ショックでかいよな……)
茜の自転車溺愛っぷりは、周囲の人たちをドン引きさせるほどだった。毎日の点検を怠らず、豪雨でも台風でも走り、暇さえあれば専門誌を読んで勉強する。そうして技術と知識を身に着け、成長するたびに次の目標を決める。
そうやって辛さも嬉しさも分かち合った車体と、別れの時なのである。愛する子を失った母のような心境……は言い過ぎにしても、ペットが死んだくらいの悲しさの中にいるのは間違いない。泣かないのは茜なりの矜持である。
「なあ、茜。自転車、続けたいか?」
「……」
「もう、終わりにするか?」
「……」
兄は真剣に、言葉を選ぶ。お兄ちゃんが新しい自転車を買ってやるよ。と言うのは簡単だ。いや金額的に簡単じゃないが、それでも言うだけならできる。
問題は、今の茜がどんな気持ちなのか。たかが自転車と思って侮ると大変だ。
「アタイは……」
茜が口を開いた。兄はそれを、なるべく真剣に、でもプレッシャーを与えないように聞く。
「どうした?言ってみろよ。無理に決める必要もないけどな」
態度だけはおどけて、でも茜の話以外を耳に入れない。テレビも付けない部屋で、じっくり茜だけを見る。
「アタイは……やっぱり」
「ああ、そうか」
ほどなくして、茜はMTBに乗るようになる。兄妹でお金を出し合ったので、手に入ったのはエントリークラスのハードテイルバイクだった。
それも数年後には使えなくなり、今のシクロクロスに乗り換えることになるのだが、また別の機会に話すことにしよう。
暁が目を覚ます。
どのくらい寝ていたのだろう。時間はすっかり夜中。つけっぱなしのテレビからは、先ほどのニュースと全く違う番組が流れている。見たこともないドラマだ。
「いけね。寝てたのか」
両親は帰ってきているようだった。それなら起こしてくれてもいいだろうし、せめてテレビくらい消してくれてもいいのに……
そう思いながら、身体を起こす。ソファに触れていたところが痒い。
「……久しぶりに、走ってこようかな」
そう思った暁は、家の裏に向かう。勝手口を出てすぐの軒下に、一台の黒い自転車が止めてあった。
「さあ、行こうぜ。バックファイア」
5年前、茜のために購入した車体、SENTURION BACKFIRE 50というMTBだ。茜がシクロクロスに乗り換えてから、兄が移動手段として使っている。
古い自転車だが、手入れの良さから錆などは浮いていない。もっとも、前輪のハブとBBは2回、後輪のハブは3回も交換した車両だ。いつ壊れてもおかしくないが。
こうしてたまに、眠れない夜に自転車に乗ることがある。すでに原チャリも持っているし、免許だってとっている暁だが、それとこれとはまた別だ。
原チャリでは味わえない爽快感と、心地よい疲労感を味わいたい。暁にとっての目標はそれがすべてだ。茜の壮大な夢と比べると非常に小さく見える。
(なにより、この辺の山道は原チャリよりMTBの方が走りやすいんだよな。車も入れない道が多いし)
こういう環境が、優れた自転車乗りを育成するのかもしれない。もっとも、自転車に乗っている人がいれば、の話である。
(普通、こんなところを自転車で走ることができないっていう偏見がある。だから日本では自転車選手もメーカーも育たないんだろうな)
そんな考えを頭に浮かべながら、街灯一つない山に走り出していく。そして、
「うぉあっ!あ、あ、あ、あーれぇえー!」
次の瞬間、段差に前輪をぶつけて停止した暁は、情けない声を出しながら転倒した。
もちろん、自分で買ったものではない。妹が買ってきたものだ。何が面白いのか、妹は定期的にこの手の本を買ってきたり、自転車の話をしている。
(こんな山奥で、しかも路面の悪いところに住んでいるのに、よく乗るよな)
と思っていた暁だったが、専門誌には自転車で階段を駆け下ったり、高い壁に飛び乗ったりする写真も載っていた。競技によっては当然のように使われるテクニックのようで、一般常識という素人の認識に囚われた暁には新鮮に映る。
(凄ぇな。よくやるよ)
驚き半分、呆れ半分でページをめくる。すると、スマホが振動した。
(誰だ?……って、茜か)
電話の相手は、現在レース中のはずの妹、諫早茜からだった。
「よぉ。どうした?お兄ちゃんが恋しくなったか?」
『んなわけねぇだろ。見たいテレビ番組があったから録画しておいてくれって頼みに電話したんだよ』
剣呑そうな声だが、実際にはキャラづくりだと知っている暁は気にしない。
「お兄ちゃんは寂しかったぞ。茜がチャリチャンに出てから、もう3日目じゃないか」
『いや、たった3日だろうが。アタイが高校に行くようになったらどうするんだよ?』
茜の声が少し柔らかくなる。暁が冗談を言ったり、甘えたことをするといつもこうなる。それが暁にとっては嬉しかった。
ただ、それはそれとして、
「高校、実家から通うのか?」
『う……まあ、それは……』
もう受験を来月に控えているという時期にもかかわらず、茜の第一志望校は絞り切れていなかった。それもそのはず。自転車部のある学校に通いたいと思う茜だが、そんなところは県外にしかない。しかも両親も反対しているのだ。
自転車部のある学校への入学を……だけではない。そもそも茜が自転車に乗り続けることも、プロを目指すことも、自転車競技に出ることも反対していた。今から説得するなら、何かしら実績がなくてはいけない。
(まあ、あの両親なら説得は出来るだろうな。何かの実績があれば、の話だが)
と、何やら訳ありな態度で暁が頭を掻く。
『ところで、兄貴。ホームステイの件はバレてないよな?』
当然、自転車レースのために3週間も学校を休んで家を空けていると、両親にバレたら一大事だ。イギリスに時季外れなホームステイに行っていると嘘をついている。これは少なくとも大会が終わるまで吐き通す必要のある嘘だ。
「ん?ああ、大丈夫だ。俺の方でうまく近況報告をでっちあげている。例えばさっきだって、今日の夕方に茜から電話があったって事にしているさ」
『なんて言ったんだ?』
「朝ごはんのマッシュポテトと焼きトマトが妙に美味しかった。と言っていたことにしてある。それから昨日の晩飯に出たニシンとベーコンのパイ包みは泣けた。ともな」
『なんで飯の話ばっかなんだよ』
「逆に訊こう。お前が飯の話以外を電話でわざわざ伝えるか?例えば本場のアイリッシュリールを聴いて感動した。フィドルとティンホイッスルの踊るような旋律が、ハーディ・ガーディとイリアンパイプスの伸びやかなハーモニーに共鳴して幻想的だった。とか電話で言ってくるか?」
『……ないな』
「だろう」
音楽については全く詳しくない茜は、
『そのイリアンナントカってアーティストも知らんし』
と、楽器の名前を歌手か何かと勘違いするレベルだった。苦笑した暁は、適当に話を切り上げる。
「まあ、うまくごまかしているから安心しろよ。それより、今日もご活躍の様子だったじゃないか。次郎なんちゃらの乗る100万円くらいのアメリカンバイクを抜いたって?」
『なんでそんなこと知っているんだよ?』
「そりゃ、ミスり実況を見ているからな。もちろん親にバレないように自室のパソコンで。いや、ミス・リード可愛いよな。そのうえエロいもんだから、すでにニコニコにMAD上がってんだぞ。人力ボカロとか」
チャリチャン当事者には分かりにくいかもしれないが、この大会は意外とネットやラジオでも大きく取り上げられている。テレビや新聞が動き出すのも時間の問題だろう。
つまり、茜の両親に知られるのも時間の問題かもしれない。
「大丈夫だよ。俺がうまく回避してやるさ。家のテレビは俺がチャンネル権を握っておくし、他のメディア機器も適当に避けてやる。だからお前は安心して、今日みたいな目立つ走りをガンガンしてこい。ああ、でも事故だけは起こすなよ。何だっけ?あの……」
『デスペナルティ、か?』
「そう、それ。そいつにはなるべく近づくな。茜に何かあったら、俺がそいつの住所と本名を特定してお礼参りに行ってやるからな」
『ははっ、ありがとよ。でも大丈夫だ。アタイはあんな奴にやられるライダーじゃない』
そう言う茜の声を聞いていると、本当に大丈夫な気がするから不思議だ。
「わかった。ところで、録画してほしい番組があるんだろう?何だ」
『え?ああ、そうだった。ええと――あー、やっぱいいわ。何を見たかったのか忘れた。明日は朝早い予定だから、もう切るぞ。じゃあな』
嘘のつき方が苦手な茜は、照れ隠しの仕方も下手だった。全てを察した暁。しかしそれ以上茜をからかおうと思った頃には、電話が切られていることに気づく。
「こいつ、切りやがったな。まあいいか。こっちも電話越しだと調子狂うから、からかいづらいし」
スマホがつながっていないことも承知で、茜に一言だけ
「おやすみ」
と、届きもしない声をかけて、ホーム画面を閉じる。ソファに寝そべって、テレビの興味ないニュースを耳に通す。
眠気に誘われながら、暁は茜との思い出を振り返る。茜が自転車に乗り始めたきっかけは、そもそも暁にあった。
今でも時々夢に見る。あの時と全く同じ夢……でないにしろ、忘れられない夢。
もう、十年も前。茜がまだ5歳のころで、暁も11歳だった。
「なあ、茜。これ、やるよ」
そう言って暁があげたのは、青い自転車だった。子供用の小さなフレームに、ダイナモライト。タイヤは24×1.75inのブロックタイヤ。ところどころに傷があり、プラスチック製の前かごは割れて原形をとどめていない。
Bridgestone クロスファイヤージュニア24inというジュニアMTBだった。マウンテンバイクと銘打っているが、この手の車体はスポーツ用ではなく、ママチャリをさらにデチューンしたような見掛け倒しの玩具だった。
要するに、変身ヒーローのベルトが本当に変身できる機能を持たなかったり、魔法少女のステッキが本当に魔法を使えるわけじゃなかったりするのと理屈は似ている。このマウンテンバイクは本当に山道を走れるわけではない玩具だ。
「まあ、俺には少し小さくなったからな。お下がりだ」
そう言って暁が自転車を差し出すと、茜は目をキラキラさせて喜んだ。
「ありがとう。おにいちゃん」
「そ、そんなに嬉しいか?俺のお古だし、補助輪も処分しちまったからついてないんだが……」
「嬉しい。だって、この自転車に乗っているときのおにいちゃん、かっこいいんだもん」
「か、かっこいいか?」
「うん。おにいちゃん、かめんらいだーみたい」
「か、仮面ライダーか!マジで?」
「まじでぇ」
男の子はいくつになっても、仮面ライダーに憧れるものである。憧れのヒーローみたいだと言われて喜ばない男の子はいないのだ。暁も例外ではなかった。
嬉しいけど恥ずかしいし、大人ぶりたい年頃も相まって複雑な表情を浮かべる暁。その顔を、茜は不思議そうに下からのぞき込んでいた。
「ねぇ。おにいちゃん。どうしたの?」
「え?いや、ああ、ちょっとな」
「へんなおにいちゃん」
ざっくりと言った茜は、続いてその自転車。クロスファイヤーに跨ろうとする。実は中学生になった茜が乗っているシクロクロスの名前もCROSSFIREというのだが、偶然の一致である。
「やっぱ補助輪買ってくるか?」
その日の夜。家の庭で暁は言った。茜は首を横に振る。
「乗れるまで頑張る」
「頑張るって、まだやるのか。もう暗いぞ」
季節は春。幸いにも気温は高かったが、夜は冷え込む予報が出ていた。何より大して明かりもない庭で、これ以上の練習は危険だった。
「つーか、お前もう擦り傷だらけじゃないか。家に戻れよ。もう天才てれびくん始まったぞ」
「や!」
茜は、転んだ自転車を起き上がらせて、もう一度跨る。皮肉にも車体は頑丈にできているので、何度転んでも壊れる心配はない。
とはいえ、家の庭は砂利敷き。近くの道も木の根が突き出たあぜ道だ。そこそこ自転車に乗れる人だって転ぶ道だし、5歳の少女が練習するには不向きである。
(本当に、自転車向きじゃないところに住んでいるよな)
どうせ乗るなら、やっぱりこんな玩具みたいなMTBじゃなく、もっと本格的な車体だ。いや、そもそも住むなら人里だ。こんな山奥じゃなくて、もっと町中の方。
(先祖代々守ってきた山だか知らんが、タケノコが採れるわけでもないんだから、丸ごと売って引っ越せばいいのに……)
と、子供ながらに思う。いや、子供だからこそ思うのだろうか。ちなみに、このころは山全体が実家の土地だと信じていたが、実際には山の一部が持ち土地だっただけだと知るのは数年後である。
「きゃっ!」
ガシャン!
音を立てて転んだ茜は、膝小僧から血を流しながら立ち上がって、嬉しそうに言った。
「今、見てた?」
「いや、見てなか……」
見てなかった。と言いかけた暁は、何かを察して嘘を吐く。
「ああ、見てたぞ。凄いじゃないか。結構乗れたな」
「え?えへへ……うん」
茜は嬉しそうに頷くと、もう一回自転車に跨りなおした。そこで母親が止めにかかる。
「あっくん。あかねちゃん。ごはんよ」
「あっくんはやめろ。ったく……茜、晩飯だってよ」
「え……でも……」
「そんなに乗りたいなら、飯食ってから乗ろうぜ。自転車は逃げないからさ」
「うん」
素直に頷いた茜は、まるで宝物を扱うような手つきで自転車を寝かせる。スタンドの使い方は難しかったらしく、いっそ使わないことになった。
ちなみに、そこらじゅう傷だらけの茜を見て母親がショックを受け、近くで見ていた暁が怒られたのは余談である。
いつしか中学生になった暁は、自転車に乗らなくなっていった。中学の校則で、自転車通学の場合はシティサイクルのみを許可するというルールがあったのだ。
他にもシャーペンの使用禁止。きれいな髪留めやアクセサリーの着用禁止。リップクリームや保湿クリーム、日焼け止め等の使用禁止。ポニーテールやツーテールの禁止。三つ編みのみを許可する。などの謎の多い校則があり、主に女子生徒から不評だった。
「そもそも、不平等を禁止するって事だろうな。例えば俺がMTBに乗って登校したら、ママチャリしか持ってない生徒が俺に嫉妬するだろう。だから不平等って事だ」
と、暁は納得した。一方で納得のいかない女子生徒たちは言う。
「でも、リップクリームはいいでしょ。使わないと唇ガサガサになるんだけど」
「っていうか、そんなこと言ったらブスに生まれた私たちは不平等じゃないの?次の校則に美人の入学禁止とか、巨乳は退学とか追加する気?」
「暁君はイケメンだから困らないかもしれないけど、私たちブスは辛いよ」
「私、三つ編みにするほど長くないけど、肩に届くから縛りなさいって言われているし」
確かに理不尽な話だが、世の中とは常に偏見と誤解の中で自分の立ち位置を探るゲームみたいなものだ。
子供だから理不尽にさらされているわけではない。ただ大人たちも国や政治から理不尽を受けているから、それを子供に当てつけているだけである。常に自分より立場の弱いものを探しているのは誰だって同じである。
その証拠に、この女子たちも部活では後輩にボール拾いだとかグラウンドの整備だとかを押し付けている。ちょっと早く生まれただけで先輩風吹かせて、下の学年に理不尽を押し付けているのだから汚い大人の仲間入りだ。人はこれを成長と呼ぶ。
「まあ、俺だって不条理だと思うぜ。なんせ俺の家は山の中だろう?ママチャリで走れないんだよ。本当に平等っていうのは、自分の住んでいる所に合わせて移動手段を選ぶことだと思うが、俺が思ったところで校則が変わるわけじゃないから仕方ないな」
まだ15歳という若さで達観しているあたり、暁はあきらめるのが早かった。早急に投げ出して、最初からすべてを受け入れるのが彼の処世術だ。
だから、将来の事もすべて、親の敷いたレールに任せていた。医学の道に進んで、父親の診療所を継ぐ。そのための後継ぎとして生まれ、後継ぎとして育てられたのだ。だから勉強以外に趣味などなかったし、仮にあっても熱中する気になれなかった。
こうして女子に囲まれていても、ちっとも嬉しくない。イケメンだろうがモテようが、中学生の本分は勉強にある。恋愛や不純異性交遊は校則で禁止されているし、そもそも父が許すわけがない。
そんな兄にまったく似なかったのが、あきらめの悪い妹がいた。
「よぉ。どこに行ってたんだ?こんな夜遅くまで」
20:00を回って、ようやく帰って来た9歳の茜は、泥だらけの顔で言った。
「みっちゃんち」
「みっちゃんち、じゃねぇよ。遠すぎだ」
一応、同じ小学校に通っているお友達らしいが、住所的には町の外れ同士。学区内と言えば校則違反ではないが、学区の端と端だ。距離は15kmほど離れている。
「遠くないもんね。クロスファイア」
小学生になった妹は、それでも兄のおさがりのジュニアMTBに乗り続けていた。この自転車も茜が乗り始めてから4年。兄が乗っていたころと合計して8年ほどになる。
フレームはいよいよ傷口が錆び始めて目立つようになり、青い塗装は日焼けしてグレーに近づいている。もともとはメタリックな色合いだったと言ったところで信じる人はいないだろう。メーカーロゴもポロポロ剥がれ落ちて判読しづらい。
そんな薄汚い自転車だが、茜の手入れによってチェーンは滑らかに動くし、タイヤの空気は抜けたのを見たことがない。この間なんてライトのクリプトン球を自分で交換していた。メーカーもここまで大切に乗ってもらったら感涙だろう。
「まあ、幸い今日も母さんがパートに出かけているから、バレやしないと思うが……毎回ごまかす俺の身にもなってくれ」
このころになると母親がよくパートに出かけているので、茜が夜になっても帰ってこなかったとしても、怒られることはなかった。
「それより兄貴。ごはん」
「お兄ちゃんって呼んでくれよ。まあ、いいや。何作る?」
「カレーチャーハン」
「まあ、その辺にしてもらえると俺も楽で助かる」
とりあえずカレー粉さえ入れておけば食えない出来にはならない。そのうえ金銭的にも助かるし、買い置きする品目も少なくて済む。カレーチャーハンはそういう意味で、中学生の暁が最も得意とする料理だった。
「できたぞ。今日のは激辛だ」
と、自信を持った兄の隠し味は、なんと追加のカイエンペッパー。この間デパートで偶然見つけたので、辛いもの好きの血が騒いで買ってみた。カレーをより辛くする調味料らしい。
(うん。辛い。これは満足だ)
と、暁は内心で自画自賛する。ただ、茜には辛すぎたかな。と思ってみると……
「もっと辛くても大丈夫だ」
「何?マジか」
「マジだ」
と、強気に発言された。どうも最近、茜が自分に変なところだけ似てきた。男言葉を使うようになったし、辛いもの好きになってきたし、遠くへ遊びに行くのが楽しいようだし――
(いや、最後のは似てないか)
暁も自転車に乗っていたころは、よく遠出しては両親に心配かけたものだ。それが今では家と学校を歩いて往復するだけで精一杯になり、暇さえあれば勉強を言い訳に引きこもっている。実際に勉強がはかどっているわけではないが、それ以外で自分のやることが思いつかない。
15歳で既にやりたいことを思いつかなくなった自分が、将来どんな大人になるか……それだけは少し不安だ。絶対につまらない大人になることは確かだが、目標を失った自分が体ばかり大きくなって、何も得ないまま生きていくのが予想できる。
「なあ、茜は、将来何になりたい?」
「ん?うーんとね……まだ決めてない」
「そうか。じゃあ、やりたい事とか、行きたいところとかは?」
暁が訊くと、茜は少し考えた。そして、
「自転車で、世界を見たい。アメリカとか、ハワイとか……あと、中国とか」
と、答えた。行きたい世界が微妙なチョイスなのは、一般的な小学生の知識の限界だろう。
「自転車じゃ海は渡れないだろう」
「あ、そっか……じゃ、日本。北海道から沖縄まで、日本中を自転車で回りたい」
「どうしても自転車なのか」
「どうしても自転車だな」
腕を組んで大仰に頷く茜。
「……そういえば、俺の友達が話していたんだが、世の中にはツール・ド・フランスとかっていう自転車レースがあるらしい」
ふと、暁はそんなことを思い出した。
「つーるど?」
「ああ、何でも、フランスって名前がついているけど、フランスだけ走るわけじゃないらしい。ヨーロッパの国々を自転車で走るレースなんだとさ」
「本当に?自転車で」
「ああ、本当だ……そうだ。俺もよく解らん」
こんな話をしたことを、まさかそのあと5年以上も引きずることになるとは、この時の二人には思いもよらなかった。
ちなみに、このやり取りを覚えているのは暁だけである。茜はそもそも、ツール・ド・フランスの存在をどこで知ったのか覚えていない。
ある日、茜がボロボロになって帰ってきたことがあった。体中が擦り傷だらけで、まるで崖から転げ落ちたような姿だ。
「どうした?誰とやり合った?」
誰にやられたか、ではなく誰とやり合ったかを訊くあたり、妹をよく知る兄である。
「ああ……兄貴。ごめんな」
茜はうつむいたまま、小さく呟いた。たとえインフルエンザにかかっていてももう少し元気であろう茜の態度に、暁は心配を深める。
「そういえば、自転車はどうした?」
「ん……」
茜が指さしたその先に、フレームが真っ二つに折れたクロスファイヤーがあった。
ボトムチューブは完全に破断しており、その負担を全部請け負うことになったトップチューブは大きく歪んでしまっている。フロントホイールは大きくひしゃげ、スポーク数本が折れて飛び出た状態だ。
既に使い物にならないことくらいは誰の目にも明らかだった。
「いったい、何があったんだ?」
本当に皆目見当もつかない暁は、茜に事の経緯を訊くしかない。
「……」
茜が言いたくないのも、恐らく尋常じゃない何かがあっただろうことも、すべて踏まえて、それでも訊くしかない。
「MTBに乗った高校生とダウンヒルでやり合ったぁ?」
「……うん」
話をまとめると、どうやらその高校生とやらに自転車を馬鹿にされたらしい。そのまま喧嘩になり、タイム計測で白黒つけることになったそうだ。
「で、オフロードを走っていたら、その衝撃で壊れたと?」
「……そうだ」
愛車を失ったショックからか、茜の口数は少ない。
(これは仕方ないな。寿命……なんてとっくに過ぎているだろうし)
と、暁は考察する。当然オフロードを走れるほどのスペックを持たない車両だったことも原因だろうが、それ以上に長年使いこんだことによる金属疲労の方が大きいだろう。
思えばこの4年間、茜は砂利道だろうが山道だろうが、雨が降ろうが風が吹こうが走り続けてきた。大往生である。
「で、その高校生は?」
「アタイより先に柵にぶつかって、そのまま崖の下に転げ落ちてった」
「いや、勝ったのかよ!」
高校生相手に勝利を収める小学生ってのもどうかと思う。誇らしいを通り越して呆れる。
(まあ、相手の心配はしないけどさ)
暁は心底そう思った。そも他人だろうし、仮に身内でも小学生相手に喧嘩を吹っ掛ける奴は擁護する気にならない。
まさかこれで、相手の高校生が報復してくるとは考えられない。仮に何らかの逆恨みによる嫌がらせがあった場合に限り、法治国家とは思えない自衛手段を取らせてもらう所存である。
「とりあえず、その自転車はダメだな。もう乗れそうにない」
「……」
茜もそれを解っていたのか、何も言わずに小さく頷く。
(そりゃ、ショックでかいよな……)
茜の自転車溺愛っぷりは、周囲の人たちをドン引きさせるほどだった。毎日の点検を怠らず、豪雨でも台風でも走り、暇さえあれば専門誌を読んで勉強する。そうして技術と知識を身に着け、成長するたびに次の目標を決める。
そうやって辛さも嬉しさも分かち合った車体と、別れの時なのである。愛する子を失った母のような心境……は言い過ぎにしても、ペットが死んだくらいの悲しさの中にいるのは間違いない。泣かないのは茜なりの矜持である。
「なあ、茜。自転車、続けたいか?」
「……」
「もう、終わりにするか?」
「……」
兄は真剣に、言葉を選ぶ。お兄ちゃんが新しい自転車を買ってやるよ。と言うのは簡単だ。いや金額的に簡単じゃないが、それでも言うだけならできる。
問題は、今の茜がどんな気持ちなのか。たかが自転車と思って侮ると大変だ。
「アタイは……」
茜が口を開いた。兄はそれを、なるべく真剣に、でもプレッシャーを与えないように聞く。
「どうした?言ってみろよ。無理に決める必要もないけどな」
態度だけはおどけて、でも茜の話以外を耳に入れない。テレビも付けない部屋で、じっくり茜だけを見る。
「アタイは……やっぱり」
「ああ、そうか」
ほどなくして、茜はMTBに乗るようになる。兄妹でお金を出し合ったので、手に入ったのはエントリークラスのハードテイルバイクだった。
それも数年後には使えなくなり、今のシクロクロスに乗り換えることになるのだが、また別の機会に話すことにしよう。
暁が目を覚ます。
どのくらい寝ていたのだろう。時間はすっかり夜中。つけっぱなしのテレビからは、先ほどのニュースと全く違う番組が流れている。見たこともないドラマだ。
「いけね。寝てたのか」
両親は帰ってきているようだった。それなら起こしてくれてもいいだろうし、せめてテレビくらい消してくれてもいいのに……
そう思いながら、身体を起こす。ソファに触れていたところが痒い。
「……久しぶりに、走ってこようかな」
そう思った暁は、家の裏に向かう。勝手口を出てすぐの軒下に、一台の黒い自転車が止めてあった。
「さあ、行こうぜ。バックファイア」
5年前、茜のために購入した車体、SENTURION BACKFIRE 50というMTBだ。茜がシクロクロスに乗り換えてから、兄が移動手段として使っている。
古い自転車だが、手入れの良さから錆などは浮いていない。もっとも、前輪のハブとBBは2回、後輪のハブは3回も交換した車両だ。いつ壊れてもおかしくないが。
こうしてたまに、眠れない夜に自転車に乗ることがある。すでに原チャリも持っているし、免許だってとっている暁だが、それとこれとはまた別だ。
原チャリでは味わえない爽快感と、心地よい疲労感を味わいたい。暁にとっての目標はそれがすべてだ。茜の壮大な夢と比べると非常に小さく見える。
(なにより、この辺の山道は原チャリよりMTBの方が走りやすいんだよな。車も入れない道が多いし)
こういう環境が、優れた自転車乗りを育成するのかもしれない。もっとも、自転車に乗っている人がいれば、の話である。
(普通、こんなところを自転車で走ることができないっていう偏見がある。だから日本では自転車選手もメーカーも育たないんだろうな)
そんな考えを頭に浮かべながら、街灯一つない山に走り出していく。そして、
「うぉあっ!あ、あ、あ、あーれぇえー!」
次の瞬間、段差に前輪をぶつけて停止した暁は、情けない声を出しながら転倒した。
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