ベランダから始まる恋

杏西モジコ

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ベランダから始まる恋

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 年が明けて数日が経った。世間のお正月が落ち着いた頃、年末年始を休みなく働いた折井司は久々の休日をベッドの中で過ごしていた。飲食店で働いている司は、今日もせっかくの休みだというのに、いつもの習慣で昼過ぎに目を覚ましてしまった。大きく伸びをして、枕元のスマホを手に取り、ベッドから足を下ろした。フローリングに素足を付けた司は眉間に皺を寄せる。スリッパはどうしてだか寝室のドアの前に転がっていた。
 そういえば、昨日はドライヤーして直ぐにベッドに飛び込んだんだっけ……。
 司は器用に片足でスリッパの向きを揃えると、足を通しリビングへ向かった。暖房のスイッチを入れ、キッチンのケトルに水を入れる。お湯が沸くまでの間、煙草とライターを持ち、寝巻きにカーディガンを羽織ってベランダで一服。一日の始まりはいつもこうで、それは休日も関係なかった。外は少し目を細めるほど陽が出ていて眩しいが、風は冷たい。カーディガンの隙間から入り込む空気に鳥肌が立った。
「さっむ……」
 両腕を数回さすり、煙草を取り出す。咥えた煙草に火を付けていると、マンションの下に一台のトラックが止まったのが見えた。よく目にする宅配業者のトラックより大きい。エンジン音が止まると、数人の作業員が出てきて、荷台から荷物を下ろし始めた。
 年始に引っ越しか……大変だなぁ。
 ゆっくりと煙を吐きながら司が引っ越し業者を眺めていると、少し遅れて原動付き自転車がトラックの横にやってきた。原付から降りてヘルメットを取った人物を見て、思わず司は目を凝らす。身長は作業員の人達の中に混ざると高い方で、着ていたアウターのせいか肩幅は広めに見えた。チラリと見えた横顔からして自分よりも若いのが分かった上に、綺麗な顔をしている。加えて、ヘルメットでボサボサになった髪を整える仕草が可愛いらしく見えた。
 うわ……めちゃくちゃタイプ。しかも着痩せしてるな。うん、絶対イイ。
 アウターを着たまま腕まくりをした青年を見て、司は思わず乗り出した。青年は原付きを駐輪場へ置きに行くと、駆け足で戻って来た。このマンションは駅から距離があるため、部屋が広いものの家賃が安い。最寄りのコンビニは歩いて約十分で、駅とは反対方向。その立地条件でここを選ぶとしたら足があるか、お金がないか、物好きかの三択で考えられる。見た目からからして学生の彼はたぶん、前者の二択だろうと司は勝手に考えていた。
 まぁ、どうでも良いか。知り合う可能性なんてほぼゼロだし。
 煙草の灰をベランダに置いている灰皿に軽く落とし、家の中に入る。期待するだけ無駄と言いながら、キッチンの方へ周り、煙草を口に咥えると棚からマグカップとインスタントコーヒーを取り出した。マグカップの中に適当にコーヒーの粉を入れ、お湯を注いでいる時だった。玄関の方で声がした。
 そういえば、空き部屋って……もしかして。
 苦笑いをしつつ、司が玄関の方に向かうと、やはり部屋の前で人の行き交う音や、荷物が降ろされる音が聞こえた。
「まさかのビンゴ」
 思わず笑みが溢れてしまい、一人きりの部屋の中で司は小さなガッツポーズをした。


 あれから数週間が経った。結局、司とあの青年は知り合うどころか鉢合わせる事がなかった。気にならないと言ったら嘘になるが、そもそも生活リズムが違う。あの引っ越しから数日後、隣人の青年が引っ越しの挨拶に来たのも、司が仕事に出た後だった。何度か来てくれたのだろう、小さなメモ紙と一緒にドアノブに引っ掛けられていた菓子折りを見て、司はかなり不貞腐れた。


「ふぁぁ……おはよー」
 欠伸混じりの気の抜けた挨拶を口にしながら司が更衣室からでて来ると、またかと言いたげな顔で従業員の横原之隆が予約帳を手渡して来た。
「司さん、寝不足?もしかしてまた朝方まで男遊びしてたんじゃ……」
「俺、そんなに体力無いってば」
 軽く蹴りを入れながら司は予約帳を受け取った。
「今日予約あるのか……バイト少ない日だったよなぁ」
「そう、俺と司さんとバイト君三人の五人体制。まぁ、年始明けだしこのグループぐらいしか来ないでしょ」
 之隆は少し長い襟足を髪ゴムで結い上げながら軽く言った。予約表には十五名前後の団体とだけ記載がある。カウンター席と出入口付近のテーブル二卓を除き、あとの席はこのグループだけで埋まりそうだ。
「なんで店長、時間帯貸し切りとかしないかなぁ……」
 面倒くさそうに司は予約帳を元の場所に戻し、テーブルのセッティングに向かう。
「あ、ねぇねぇ司さん。今日仕事終わりどう?」
 之隆は司が動かしているテーブルの椅子をテキパキと移動させながら言った。
「今日はパス」
「えー。やっぱり昨日遊んでたんじゃん」
 之隆はわざとらしく頬を膨らませる。その顔を見て司は溜息をついた。
「気分じゃないの。ユキ、あっちのテーブルよろしく」
「何だよそれ。姫はじめしようと思ったのにー」
 之隆は手を伸ばして司の腰に触れてきたが、その手はさらりと払われた。
「バイトが来てないからって調子に乗るな」
「分かりましたよ……」
 渋々と之隆は奥のテーブルを動かしに行った。二人の働くこの店はイタリアンダイニングバー。火曜日と水曜日が定休日のごく普通の小さな居酒屋である。新年会の時期でもあったが、一月の三週目ともなると財布の紐が硬くなる者が多いらしく、今週は予約があるのもこの日だけだった。


 店を開店してから一時間程経つと、予約の団体がぞろぞろと店内に入ってきた。私服姿の若い男達に数人の女性。合コンにしては微妙な比率で、誰もが大学のサークル新年会だとすぐに把握した。
「奥の先へどうぞ」
 司は先頭の学生を連れ、之隆がセッティングしたテーブルへと案内する。アウターを脱いだりと座るまでに時間が掛かりそうで、司は一度テーブルから離れた。落ち着いた頃を見計らい、再びおしぼりをトレーに人数分乗せて戻ってくると、一人の青年が立ち上がった。
「手伝います」
「えっ」
 ろくに顔を見ず返事をした司は、彼の顔を見てギョッとした。
マジで……。
 あの日以来姿を見ることがなかった、隣人の青年だったのだ。彼はにこりと笑って司の手に持つトレーからおしぼりを半分取ると、端のテーブルから順に配り始めた。
「あ、すみませんっ」
 一瞬手が止まった司も我に返り、顔を少し伏せながらおしぼりを配った。


「司さん、あのぅ」
 キッチンで皿洗いの手伝いをしている時だった。結局、何時間経ってもあの学生グループ以外の来客は殆ど来ないままが過ぎた。彼らも居心地が良いのか、一度二時間の飲み会を終えて会計を終わらせたのだが、数人が残って飲み直している状態だった。司は客足も少ないため、ホールを一人のアルバイトに任せキッチンの休憩を回していた。
「何、どうしたの?」
 水道の蛇口を締め、キッチンペーパーで手を拭きながら司が聞き返す。
「お客様が、眠っちゃってて」
「え、それだけ?どうせ帰る頃に起こされるでしょ」
「うーん、でも。周りがなんか盛り上がってて大丈夫かなぁって……」
 アルバイトの言いにくそうな表情が嫌な予感をさせる。
「ちょっと見てくるね」
 キッチンにいたもう二人のアルバイトに声をかけると、司はホールに出向いた。すると、ホールのアルバイトが言っていたように何脚かの椅子を使って寝転がっている青年が一人見えた。
「すみません、ちゃんと連れて帰るので!あと少しだけそのままにしておいてくださいっ!」
 こちらの様子に気が付いた連れの学生が大きな声で言った。
「ええ、他にお客様もいないので構いませんけど……」
 あーあ、量も加減も分からずワイン開けたな……。
 溜息を出したくなるのをぐっと堪えて、司はその様子を伺う。顔を覗くと、またこれが偶然にも隣人のあの青年だった。
「お客様、大丈夫ですか?」
「ぅう……」
 肩を軽く触り、声を掛ける。青年は真っ赤になった顔を歪ませて、少し苦しそうな声を漏らした。吐きたい程ではないが、どうしようもなく眠い……そんな所だろう。弱いからといって、先に潰されたのかもしれない。流石に気の毒に思った司は、ブランケットを取り出すために事務室に入って行った。
「ん、何かありました?」
 忙しなく入って来た司を見て、休憩中の之隆が声をかけた。
「ちょっとね。寝ちゃってる人いてさ」
「うわ……吐かれる前に外出してくださいよ」
「まあ、そうなんだけど」
 ロッカーからブランケットを出すと、そそくさと事務室から出ていき、ついでにキッチンからお冷とおしぼりを持って彼の元に戻った。司が青年にブランケットを掛けているその横で彼の仲間は楽しそうにワインの入ったグラスを煽っていた。
 近くで見るとやっばいな……。
 赤く火照ったその顔が色っぽく見え、司はブランケットを手早く彼に掛けると、水の入ったグラスをテーブルに置いてその場を去った。


 結局あの青年はあれからずっと寝こけてしまい、飲み会がお開きになると酔っ払った連れ、数人に抱えられる様にして店を出て行った。時刻も閉店時間が近く、彼らが出ていくと店に客はいなくなった。
「少し早いけど、もう誰も居ないし閉めようか」
「んじゃ、キッチンも締め作業始めまーす」
「よろしく」
 司が之隆に声をかけ、中に入るアルバイト達と清掃を開始した。テーブルに広がった食器を下げながら他のアルバイト達にも声をかける。ガチャガチャという食器のぶつかる音を背に、レジ締めをし始めた。レジの中の金種を数えていると、青年が赤ら顔のまま気持ち良さそうに眠っていた顔が浮かんだ。
 無事帰れたかなぁ……。ここからだともう終電も終わってるし、原付じゃないだろうし……。
 しかし、相手のことを勝手に知っているのは自分だけ。所詮部外者、ただの客と店員。そう自分に言い聞かせ、司が作業に集中しようと切り替えた時だった。
「ええっ」
 外の立て看板を回収に出たアルバイトが出入り口のドアを開けると大きな声を出した。
「何、どうした?」
 キッチンにいた者も顔を出す。司はレジを乱暴に閉め、アルバイトに続き外に出た。
「げっ…………マジかよ」
 司は思わず声を漏らす。この極寒の深夜帯にこんなものを目にするとは誰が思っただろうか。驚きのあまり司は眉をピクピクと動かして目の前の光景に唖然とした。
 外に並べていた待ち席に、先程帰ったと思っていたあの青年が座ったまま眠っていたのだった。



「俺は反対っ!」
 司が車の運転席に入り込もうとするのを之隆が止めた。その表情は真剣な顔というより、まるで駄々を捏ねる子供の様に見え、司は溜息を漏らす。
 つい今し方、司は外で眠っていた青年を車の後部座席にアルバイト達と運び出した。あのまま店で眠らせる訳にも放っておく事もできず、今日は『仕方なく』自分の部屋に泊めることに決めたのだ。途中だったレジ締めを之隆に任せた途端、文句を言いながら之隆は駐車場まで着いて来る始末。
「別に変なことしないって。ほら、後片付け任せたって言っただろ」
「俺の誘い断って、見ず知らず男拾うってどうかと思うんだけど!」
 車のドアを押さえ、司の顔を覗き込む。少し離れた所でその様子を見ていたアルバイト達は、寒さに負けて店内へと戻って行った様だった。
「人聞きの悪いこと言うなよ……このまま置いとくことも出来ないし……お前が寝てる人を運ぶのなんて無理だろ」
 司はすぐ近くに止めている之隆のバイクを顎で指した。
「じゃあ、俺も今日司さんの家に泊まる。終わったら絶対行く」
「ダメだ。お前俺の家で大人しかった事ないし。今日は我慢しろよ、また今度な」
 何か言いたげな顔をするが、司が自分を全く相手にする気がない事を理解したのか、舌打ちをしながら之隆はドアを押さえる手を離した。司はその隙に運転席に座り込んだ。
「んじゃ、また明日」
 エンジンをかけながら、少し開いた窓から声を掛ける。下唇を突き出し、思いっきり拗ねてるのが見えた。
普段からそうやって可愛い所見せてくれてりゃなぁ……。
 くすりと笑うと、司は之隆が車体から離れたのを確認して車を発進させた。



 マンションの自室前に着いたのは明け方近くだった。薄暗い廊下を自分より大きな身体の男を引き摺りながら歩くのは何故だか後ろめたい気分になる。彼の部屋の鍵を探そうとも思ったが、他人の鞄を勝手に探るのも気分が悪い。結局、自室の鍵を開けて彼を押し込んだ。こんなに重い荷物を持って部屋に帰ってきたのはいつぶりだろうか。そんな事を思いながら、司は自分と青年の靴を脱がし、リビングへともう一度彼を引き摺る。物は少ない方で運ぶには簡単な部屋だったが、壁には数回程足をぶつけた。カーペットの上にやっとこ身体を全部乗せると、寝室から毛布を取り出し掛けてやった。
「つっかれた……」
 司はその場に座り込む。真冬の外から帰ってきたというのに、変に汗をかいて着込んでいた服が肌に張り付いて気持ち悪い。
 シャワー、明日にしようと思ってたけど……こりゃ無理だな。
 着ていたコートを脱ぎ、ローテーブルに置いていたリモコンを使って暖房を付けた。
 しっかし、よく寝てるなぁ……。えらい太い神経してるんじゃ……。
 すやすやと眠る青年の顔を覗き込む。あれだけ色んな所にぶつけられながら引き摺られても起きない彼に、司は呆れを通り越して関心していた。
 それにしても、真面目君なんだろうな。店員の仕事手伝う客ってそんな居ないし……。まぁどうせノンケだ。歳下は可愛いけど、今回はきっと俺の一方通行。てか、幾つ離れてんだっつーの。
 司は今日何度目かの溜息をつくと、着替えを持って浴室に向かった。



 次の日の朝、大して眠れなかった司がリビングへ向かうとまだあの青年は毛布に包まって寝息を立てていた。
 本当、よく寝るな……。
 ケトルに水を入れ、お湯を沸かす。煙草とライターを持って彼の横を通りベランダへ向かうが、起きることはない。長いまつ毛と、無防備な寝顔に思わず足が止まる。
「眩しいな、本当に」
 司はこれ以上、見てはいけないと言い聞かせて、目を逸らした。
 起きたら何と言って説明をしようか。
 ベランダへ出て、煙草に火をつける。ゆっくりと煙草の煙を吸い込んだ。朝の冷たい空気が鼻に入り、つうんと奥が痛む。
「ん……んん」
 外の冷たい風は隙間風となってリビングに差し込み、青年の頬を撫でた。包まって動かなかった身体がもぞもぞと動く。司は手すりに背を預けてリビングで眠る彼の様子をぼうっと眺めていた。
「ん……さむ……。あれ……煙草……?」
 もごもごと何かを呟きながら、リビングの毛布が大きく揺れた。
「あ、起きた?」
 司は煙をゆっくり吐きながら声を掛けた。青年は額に手を当てながら重たそうに身体を起こし、状況を確認しようと辺りをゆっくり見渡す。
「あれ……ここは?」
 気の抜けた声で青年は言った。自分の部屋ではない事は分かるようで、何度も目を擦り、部屋の中を見渡す。すると、ベランダで自分を見つめる司と目が合った。
「……えっと、どなた……ですか?」
「あー。ちょっと待ってね」
 司はベランダの灰皿で煙草を消し、部屋の中に入った。司が近づいていくと、青年は若干の記憶を取り戻したのか、顔色が青くなっていく。
「あの、もしかして……。昨日の」
「うん、そう。俺はキミが昨日酔い潰れた店で働いてる従業員」
 司は青年の座る横に蹲み込んだ。
「ごめんね、床で寝かせて。俺ももう少し体力があったらベッドかソファー貸したんだけど」
 にこりと笑ってそう言う司に、青年は思いっきり首を横に振るう。
「あ、コーヒー飲む?それとも何か……って言っても俺料理ダメなんだけどさ」
「いや、俺すぐ帰るので」
 慌てて起き上がろうとする青年の肩を司は軽く叩いた。
「良いから。コーヒー飲も?」
「す……すみません……。ありがとう、ございます」
 しおらしくなった青年を見て、司はキッチンへ向かう。青年はその後姿を見ながら使っていた毛布をたたみ始めた。
「キミ、名前は?」
 ガチャガチャと棚を漁りながら司が声をかける。マグカップは二つすぐ見つかったが、ドリップコーヒーが見当たらないようだった。
「宮村大志です。昨日は本当に…」
「あぁ、それはもう良いって。俺は折井司。司で良いよ、あと本当に体調大丈夫?キミ、外の待ち椅子で寝てたんだよ」
「うぇっ!マ、マジですか」
「あはは。マジマジ。お友達に忘れられちゃったのか、置いていかれたのか」
「きっと、後者です……」
「あはは、残念」
 司はケラケラと笑いながら、やっと見つけたドリップコーヒーの期限を確認すると、マグカップにセットしてお湯を注ぎ始めた。
「本当に、ごめんなさい。お店の前で寝てしまって……しかも泊めて頂いて」
「あぁ、気にしないで。実は俺、キミのこと引っ越ししてくるの見かけてて」
 二人分のマグカップをローテーブルに運び、司はソファーに腰掛けた。
「えっと、見かけたって」
「キミ、この部屋の隣りに引っ越してきただろ?」
「へ?」
 また大志が間抜けな声を出したので、司はくすくすと笑った。ネタバラシにはまだ早かったか、と思いながら、顎でベランダの外を指す。大志はゆっくり立ち上がり、ベランダへ向かった。
「うわ……マジだ!」
 自分の部屋から見える景色と全く変わらないだろうその景色に目を丸くしている。
「見かけただけで、会うことはなかったからさ。話すきっかけもなかったんだけど、ほら、俺接客業だから人の顔を覚えるのやたらと得意で……。そういえばお菓子も貰ったきりでごめんね」
「あ、いぇ。その……すっごい偶然ですね……」
 興奮しているのか、大志の顔色が先程よりも赤みが増して見えた。
「夜のお仕事だから、すれ違ってたんですね。俺、てっきり女性の部屋かと思ってて……。なんか警戒されてるのかと。でも、良い人が隣りの部屋で良かったです」
 ほっとした様な顔で大志はソファー方へ戻る。
「あはは。ごめんね、綺麗なお姉さんじゃなくて」
 司は笑いながら座っているソファーを軽く叩いた。
「ここ、どうぞ」
「あ、いやでも」
 ハンガーに掛けられていた自分の上着を見つけた大志は、上着とソファーへ交互に視線を向ける。
「コーヒー飲んでからでも良いでしょ」
「これ以上長居はご迷惑に」
「良いから」
 そう言って司は大志の腕を引き、強引に座らせるとマグカップを手渡した。
「じゃあ……いただきます」
「うん、素直でいいね」
 司は大志ににこりと笑う。すると、大志の頬が少しだけ赤くなるのが分かった。
「前の住んでいた部屋、大家さんが変わるとかで条件変わっちゃって、仕方なく引っ越してきたんですけど……。司さんみたいな人が隣りの部屋で良かったです」
 にこにことそう言いながら、コーヒーを啜る。思わずどきりとし、司は緩む頬をどうにか誤魔化しながら彼に倣ってコーヒーを飲んだ。



「本当にありがとうございました」
 コーヒーを飲み終わると、大志は気不味そうに上着を着て、玄関へと向かった。
「どういたしまして。飲み過ぎには気をつけてね」
「あ、はぁ」
 大志は司の言葉に罰の悪そうな顔をして歯切れの悪い返事をした。
 可愛いな、やっぱり。
 司は頬が緩んだのが分からないよう、手で口元を隠した。靴に足を入れ、潰れた踵を直しながら、大志が口を開く。
「あの、何かお礼を」
「だから、気にしないで良いよ」
 律儀だなぁ。損するタイプってところだな、飲み過ぎて寝こけた挙句置いてかれちゃうのもそうだし……。
 何かしたいという大志の気持ちは有り難いが、彼の性格上きっとまた変な負担を背負ってしまうと考えた司は首を横に振る。
「でも……」
 しかし、残念そうに肩を落とす姿に胸が痛んだ。
「じゃあ……またお店に来てくれれば良いよ」
「え、そんな事で良いんですか?」
 曇りきっていた表情に明るさが戻り、思わず司は身体を後ろに引いた。
「う、うん。あ、でもここから距離あるから無理はしないでね」
「はい、わかりました。また行きます!」
 目をキラキラと輝かせながら、にこにこと笑顔を見せると、大志は「それじゃ、お世話になりました」と元気に挨拶をして隣の部屋へと帰って行った。



 明け方に仕事が終わって帰宅すると、マンションの部屋のドアノブに小さなトートバックが引っかかっていた。
「……なんだ?」
 欠伸をしながら引っかかっているバックを取り、鍵を開けて中に入ると玄関でその中身を確認した。タッパーの容器が二つと、スープジャーが一つ入っており、タッパーの蓋に付箋紙が貼られているのが見えた。暗い玄関から移動し、リビングの電気をつけてもう一度中身を確認する。
『料理、好きな方なので。美味くできたからお裾分けです。大志』
「……マジで」
 思わず声が出た。それと同時に頬が熱くなるのを感じた。胸のあたりがざわついて、外の寒かった外気を忘れれほど身体中が熱い。
 マジで、マジでマジで?嘘だろ?
 心臓がバクバクと煩く鳴る。嬉しいのと驚いたのが重なって指が震えた。その震える手で何とかタッパーの中を確認すると、きのこの沢山入ったクリーム煮込みのハンバーグに、トマトの香りがするチキンライス。そして、スープジャーにはゴロゴロと大きめに切られた野菜がたっぷり入ったスープが入っていた。司はゴクリと喉を鳴らす。仕事から帰ってきたら大抵は真っ直ぐ風呂に入り、ベッドへ向かう。食事は仕事に行く前に軽く食べるのが習慣だったが、こんなものを見てしまっては腹の虫が鳴かない訳ない。
一晩泊めただけでこんなご馳走を貰ってしまって良いのだろうか。そんな事を思いつつ、司は緩む頬を押さえながら、脱ぐのを忘れていた上着からやっと袖を抜いた。


 風呂上がりに大志の作った料理を食べた司が後片付けをしていると、隣の部屋がバタバタと忙しなく音を立て始めた。
 あ、起きたのかな……。
 キッチンからリビングの時計を覗くと、時刻は朝の六時だった。
 あぁ、学校か。
 そういえば彼は学生だった事を思い出し、司は苦笑いを浮かべる。
 だいぶ歳下の大志くんの方が、レベル高すぎだろ……。
 さっき食べた料理を思い出すだけで自分には無い能力の高さに脱帽した。一人暮らしを始めた頃は自炊を頑張ったのだが、全く成長の兆しが見えないまま諦めてしまった自分とは天と地程の差があると感じた。

 暫くすると、玄関の方で音がした。司は慌てて玄関から出ると、鍵を閉めようとしている隣人に声をかけた。
「大志くん」
「あっ。司さん、おはようございます」
 にこりと笑うその笑顔が眩しい。ガチャンと鍵を閉めた後、きちんと施錠されているのかドアノブを数回回して確認するところさえ、なんだか可愛いらしく見えた。
「お料理、ありがとう。すっごく美味しかったよ」
「あぁ、すみません勝手に。お口に合って良かったです」
「久々にちゃんとしたご飯、しっかり食べたからよく眠れそうだよ。ごちそうさまでした」
「えっ、久々って。ちゃんと食べてないんですか?」
 司の言葉を大袈裟に取ってしまった大志が、心配そうな表情で言った。
「確かに……司さん細いし」
「いや、食べるには食べてるんだけど。仕事の時間帯の問題で、睡眠優先にしちゃうところあるから……」
「そんな、ダメですよちゃんと食べないと」
 ハの字に寄せた眉を見て、司の胸がチクリと痛む。
「うん、その……善処します。それで、容器なんだけど」
「うわ、すみません。俺学校が少し遠いのでもう行かないと」
 腕時計を確認した大志は、さっきとは違って急に早口になった。
「えっ、呼び止めてごめん」
「いえ、俺もまた司さんと会いたかったので。容器、そのままここに引っ掛けておいてください!じゃあっ」
「い、いってらっしゃいっ」
 早口で言い切ると、大志は返事を返す代わりに、手を振りながらマンションの階段を駆け降りて行ってしまった。
朝から元気だ。呼び止めて申し訳なかったな……。
 そう思い反省をしながらも、司の頭の中では彼が『もう一度会いたかった』と言ったその言葉だけがこだまのように繰り返し響いていた。



「で、食ったんですか?」
「ユキ、下品」
 昨日シフトが被らなかった之隆が事務室で店長の手伝いをしている司に絡んできた。
「俺は心配だったんですけど。テキトーな連絡するし。」
「別になにもなかったから」
 ノートパソコンにアルバイトが提出した希望シフトを打ち込みながら素っ気なく答えた。昨日、心配して寄越した連絡も軽く返したのが悪かったのか、表情を見る限り全然納得をしていない様だった。
「ふぅん、本当に?」
「本当」
「じゃあ今日は良い?」
「今日も、ムリ」
「えーっ!」
「ユキ、うるさい」
「なんで今日もダメなの!やっぱあいつとヤったんじゃ」
「だから何もないよ」
 本当の事なのだが、否定をし続けなきゃいけない事に司はモヤついた。之隆と司は所謂先輩と後輩の関係であり、身体だけの関係でもある。もともと先に声をかけたのは之隆で、司はその話に乗っただけだった。
 当時は之隆には彼女もいたし、遊び相手も沢山いた。相手が男でも女でも彼の中では可愛かったり、綺麗だったら受け入れる所謂バイというやつで、司も遊び相手の一人だった。司も司で同性が好きな事を曝け出すタイプでもなく、恋人がいたのもだいぶ前の事だったし、ほんの出来心で誘いを受けていた。仕事の後や休日に声をかられ、何度か回数を重ねていくうちに、各々に執着する気持ちが現れていくようになった。
ある夜の事だった。
「俺、司さんだけでも良いかもなーなんて」
 恥ずかしそうに、ベッドの中で之隆が司の髪を掬いながら言った。
「それ、本気?」
「うん、多分」
「あはは。たぶんか……」
 二人きりの時は必ず自分だけを見てくれて、甘ったるい言葉も欲しい時に囁いてくれる。そんな之隆の態度に、喜ばないはずはなかった。だが、別の日に珍しく司から誘うと、彼は悪びれもなく「先約がある」と、そう言って司の誘いを断ったのだ。
 その日だけでなく、それは何日も続いた。ようやく予定が合ってホテルへ行っても、数日経ったらまた別の子と。そんな日々を繰り返す中でやっと我に返った。之隆には遊び相手を減らす気はない。司は、期待はしてはいけないと自分の気持ちそのまま塞いだ。 
 それ以来、之隆の誘いを断る事が増えた。その意地なのか、之隆は頻繁に夜の誘いを持ち込む様になった。
 どうせ、誰かの代わりだ。
 そう思って司は、最近は彼の誘いをきっぱり断って距離を取っていたのだ。
「司さん綺麗だから、心配なんだよ」
 パソコンの画面をぼうっと見ていると、司の顔を覗き込みながら之隆が言った。さらっとそんな事を言い、司の髪を触る。
「それに、こうやって隙も見せるから」
「ユキ、近い」
 最近は人目がつかないだけでスキンシップが増え、苛立ちが増す。
 隙がなんだ。誰にでも同じこと言うクセに。
「俺の前だけにしてよね、マジで」
そう真剣な顔をして耳元で囁くと、之隆は司の額にキスをして事務室から出て行った。
 一瞬、何が起きたのか分からず、触れられた額に手を当てたままフリーズしていたが数秒後店長が事務室に入って来ると我に返った。


 あの後、之隆からはいつものようにしつこく誘われる事はなく仕事が終わった。きっと、自分の代わりの誰かと約束を取り付けたのだろう。考えるだけで腹が立つが、以前よりもやきもきはしなくなっていた。
 マンションの部屋の鍵を回していると、隣の大志の部屋のドアにふと視線が動く。
 そういえば容器、返してないな。
 洗ってからベッドに潜り込んだのを思い出す。流石にもう水滴も消えて乾いているだろう。部屋の中に入り、暖房のスイッチをつけるとキッチンへ直行してタッパーとスープジャーが乾いているかを確認する。多少濡れていたが、キッチンペーパーで軽く拭き取れば問題もない。
 それにしても……。
「美味しかったなぁ……」
 思い出すだけで、口の中に唾液が広がる。煮込みハンバーグなんて久しぶりに食べたし、誰かの手作りってどんなに冷たくなっても温かくなる。それに、大志が出かけに言ったあの言葉も忘れられない。
 まぁ、また歳下のそんな風に考えてませんでした~ってやつかもしれないけど。
 司は自嘲しながら苦笑いを浮かべ、容器を大志が入れて寄越したトートバッグに戻した。
 さてと。明日は休みだし、シャワー浴びたら一旦寝て、起きたら洗濯でもしよう。
 来ていた上着を脱ぎながら、これからの予定を頭の中で組み立てる。ハンガーに上着を引っ掛けて、浴室へと向かう。
 大志くんにあれを返すのはやっぱり、直接が良いな……。
 着ていた服を乱暴に洗濯機へ放り込みながら、司はぼうっと大志の顔を見て思い浮かべていた。


 司が目を覚ましたのは昼前だった。眠い目を擦り、ベッドの中から這い出る。冷たいフローリングに素足を乗せ、ぴくんと跳ねた。
「あー。もう」
 スリッパをどこかに置いてくる癖はなかなか直らない。寝室には無いと分かった時点で、靴下を履いた。欠伸をしながら部屋を出ると、洗濯機のスイッチを押し、いつものようにケトルに水を入れてお湯を沸かす。その間はいつものように煙草を吸おうとベランダを開けた。
「あ、おはようございます」
「ふぇ?」
 煙草を咥えたまま司は気の抜けた返事を返した。隣の部屋のベランダとの敷居から大志が腕を伸ばして、こちらに手を振っている。手首から先しか見えないのに、大志がにこにこと笑っている様な気がして、寝ぼけていた司もだんだんと覚醒してきた。
「おはようって時間でもないですね」
「いや、今起きたし。俺にはそれで合ってるかな」
「そっか、ならいっか。あ、司さんもしかしてお休みですか?」
「え、あぁうん。よく分かったね」
 火を付けるタイミングが分からず、司は咥えていた煙草を一度口から離した。
「この間より遅い朝みたいだったので」
いえい、と言って大志は敷居の向こうから親指を立ててこちらにグッとポーズを決めた。
「今日明日は休みだよ。流石にね、老体労働はきついので」
「老体って。司さんそんなに俺と歳離れてないでしょう?」
「さぁ、どうかなぁ」
「勿体ぶるなぁ」
「ふふふ。それで、大志くんは学校ないの?」
 司は諦めて煙草を箱に戻した。起き抜けの一服は欠かせないルーティンだったが、今日はそんな気分だった。
「今日は授業取ってない日なんで、家のことやろうかなぁって」
「偉いねぇ」
 俺なんてかろうじて洗濯をしようと思ったぐらいだよ。
「あ、そうだ。司さん朝ごはん食べました?」
「いや、まだだけど」
「なら俺作るので一緒に食べませんか?」
「えっ?」
 驚いた司は手に持っていたライターを足元に落とす。
「あ、お忙しかったら無理にとは」
「い、忙しくないよ。良いの?」
 うわ、声がキョドった……。
 司は相手から見えないのを忘れて顔を隠すように手で押さえた。
「はい、是非」
 見えなくても返事だけで大志の笑顔が目に浮かぶ。それに加えてまた手を伸ばし、手首だけを見せて親指を立てたポーズをされた。
「じゃあ……あの、洗濯干したらお邪魔して良いかな」
「はい!待ってますね!」
 そう言うと大志はバタバタと忙しそうに部屋の中へ入っていった。
 なんだ、今の。何だ今の…この展開は。
 予想外の展開に頭の中が混乱する。ただ、お昼を誘われただけなのに心臓がうるさく鳴り、マンションの真下を通る車の音すらも耳に入ってこない。司は逃げるように部屋に入り、洗濯機の元へと向かった。表示された終了時間があと三十分前後なのを確認すると、その三十分が呪いのように長く感じた。


「めちゃくちゃ美味しかった……」
「良かった、またお口に合って」
 大志が出したのはいちごが沢山乗ったパンケーキだった。実家の近所がいちご農家をやっているだとかで、この時期になると送ってもらうらしい。
「今年は結構豊作らしくて、沢山届いたから半分ジャムにしたんですけどね。消費が追いつかなくて助かりました」
「いや、こっちこそ……甘酸っぱくて美味しかった。生クリームもそんなにしつこくないし、大志くんスイーツ作りも上手なんだね」
 食べ終わった皿をシンクに運び入れながら司が言った。
「ホットケーキミックスがあったので、大した事してないですけどね」
 少し頬を染めて笑い返す。司が皿洗いを買って出ると首を横に振った。
「俺の部屋なんで」
「タダ飯食らうわけにもいかないから。洗わせてくれないなら俺の部屋にもう一度泊めさせるけど」
「ええっ、隣なのに」
「って訳でやらせて」
 司の冗談に何故か顔を赤くする。その隙に大志の持っているスポンジを取り上げると、司は皿を洗い始めた。
「でも本当、この間のハンバーグとかもだけどさ。凄く美味しかった」
「大袈裟ですよ」
「だって本当だもん」
「じゃあ、また作りますよ。俺、作るの好きだし、褒められたら調子に乗るタイプです」
「本当?やった!じゃあ、今度は俺が食材買ってくるよ。車もあるし、買い出し必要ならいつでも言ってね」
 大志の『また作る』は社交辞令であって、その場に見合った答えだと思い、冗談のつもりで司は笑いながら答えた。
「なら、この後行きませんか?」
「え、この後?」
「司さん、用事ありますか?」
 司は顔を覗き込まれ、天然なのかわざとなのか分からない顔の近さに首をすくめる。
「い、いや無いけど」
「じゃあ、行きましょう。ね?」
「わ、わかった」
 悪気のない笑顔に司は思わず頷いた。相手はきっと気の良い隣の部屋のお兄さんとしか思っていないだろう。考え過ぎているのは自分だけだ。ただ、深い意味で好意を持っているのは自分だけ。そう、自分だけだ。
 何度も繰り返し頭の中で反芻させ、後片付けを終えた司は車の鍵を取りに部屋へ戻って行った。



 その日から毎週水曜日に大志と毎週車で買い出しに出掛けるようになった。原付しか足のない大志にとって車での買い出しは有り難いものだったし、司も大志と出掛けられる上に美味しい手料理を食べれる楽しみも合ってお互いに好都合な手段でもあった。更に買い物だけでなく、一緒に食事をする機会も増えていった。大志の作るものはどれも美味しくて、文字通り司は胃袋をがっつりと掴まれていく。お互いの部屋を行き来きする回数も増えて、日用品は似たものを買うようになり、だんだんと相手の好みも把握するようになっていった。


 ある水曜日のことだった。お昼を食べた二人は司の車に乗り込んでスーパーへと買い物に出掛けた。助手席に触った大志は、スマホのメモで作成した『今日買う物リスト』を眺めている。小声でリストを読み上げたため、その内容を聞いて今晩のメニューはカレーだとわかった。
「司さんって普段どこのカレールーでつくってますか?」
「え?ウーン、どこかなぁ……。一人でカレーって作らないし。母親が作ってたのもどれだったか覚えてないなぁ」
「そっかぁ……」
 残念そうに大志が言った。
「司さんのお気に入りが分かると思ったんだけどなぁ」
「お気に入り?」
「そう。カレールーって、コレって決めたら違うやつってなかなか買わない気がして」
 そう……なのか?
 分かるような分からないような事を言われ、曖昧に返事を返す。
「何を作ってもらっても文句なんて言わないし、美味しければそれがお気に入りになるよ」
「あぁ、俺が塗り替える的なね」
「……なんか、変な言い方するなぁ」
 クスクスと笑い、大志は運転中の司をじっと見つめる。
「変ではないですよ」
 ふふふ、と嬉しそうに笑って、軽いハミングをした。

 スーパーに到着した二人は、籠を二つ持ちカートに乗せる。一人暮らしの冷蔵庫に限界はあるが、二人で半分ずつ管理をすればなんとかなった。野菜と果物、肉を選び、飲み物や足りなくなっていた調味料をカートに入れていく。そのカートを引くのも、あれを探してと支持を出すのも大志だった。
「んじゃ、あとはカレーのルーだけです。ん~、どれが良いかなぁ」
「俺は別に何でも良いんだけど」
「少しでも司さんの口に合わせたいんです」
 そう言いながらカレールーの並ぶ棚へと向かう。
「ちなみに辛いのは好きですか?」
「普通……かな。激辛は勘弁して欲しいけど」
「俺も激辛は苦手なので作りませんよ」
 カートを止めてルーの箱が並ぶ棚の前で立ち止まった。手に取るのはだいたい中辛の箱で、これは少し辛いかもしれない……こっちは甘すぎる可能性があって、とブツブツと独り言を言いながら大志が吟味するのをじっと見ていた。たかがカレーのルーなのに、それが自分のために悩んでいると思うと、そんな姿に胸が熱くなる。
「そんなに悩まなくても」
「うーん、じゃあこれにしようかな」
 そう言って籠に入れようとするのだが、なかなか手を離そうとしない。
「大志くん?」
「あー。ううん、大丈夫。決めました!これにしますっ」
 手を離して箱を籠に入れた。納得してるようなしていないようなそんな表情が司には面白く見え、思わずくすりと笑った。
 その時だった。
「司さん?」
 聞き慣れた声がして、後ろを振り向くとそこに立っていたのは買い物籠を手に持った之隆と一人の女性だった。その女性と目が合い、眉を寄せた。
 見たことない女の人だ……。
 胸のあたりがギュッと締め付けられる。之隆に気は無かったはずなのに、四方八方から何かが刺さった感じがして、顔を顰めた。女の人はぺこりと一度だけこちらに会釈をすると、何食わぬ顔で棚の方に視線を向けた。
「あの……知り合いですか?」
 大志が司の顔を覗き込みながら聞いた。
「え、あぁ。同じ店で働いてて」
「どうも。横原之隆でーす」
 司を遮るように之隆が口を開いた。 
「俺の先輩がどうもお世話になってるようで」
「はあ」
「おい、ユキ」
 にこにこと嫌な笑顔で接する之隆から大志を離す。その態度にムッとした之隆はピクリと眉を動かして、小さく舌打ちをした。
「えっと、俺は」
「ちょっと之隆、早くして」
 大志が律儀に挨拶を返そうとした時、後ろから之隆の連れが声を掛ける。少し離れたところで腕を組んでこちらを見ていた。どうやらこの棚には目当ての物は無かったらしい。
「あー、すぐ行く。じゃあね司さん。また店で」
「あ、あぁ」
 嫌な笑顔をまた見せながら、之隆は二人から離れて行った。
「デートですかね」
「……多分ね」
 小さく笑ってそう答えた。何も知らない大志はカートをレジの方へ切り返す。
「司さん、会計に……。あの、大丈夫ですか?」
「え、あぁ。うん、大丈夫だよ。行こうか」
 司は情けない程に脱力していて、力無く笑うと、ポケットから財布を取りだして大志の押すカートを前から引っ張ってレジへと向かった。


 之隆に本気で好意を持っていたのはだいぶ前だったはずなのに、いざ異性といる瞬間を目の当たりにすると胸が痛い。今は大志へ気持ちが向いているはずだった。勝手な思い込みなのだろうか。見た目がタイプだから、好きだという信号を脳が適当に察知しただけなのかもしれない。それでも彼との時間は落ち着くし、煙草を吸わないで済む理由にもなる。いつも以上に優しくなれる気さえした。だから、この之隆への気持ちが自分でもよく分からない。分からなくて苦しい。
 司は大志の部屋のソファーの上で体育座りをしながら一点を見つめていた。夕飯の仕込みをしていた大志がキッチンから声をかけても、ぼんやりとしている。
「司さん、体調悪い?」
 痺れを切らした大志は、煮込み中の鍋の火力を落としてソファーの方へとやってきた。
「あ、ううん。なんでもないよ」
「何でもないようには見えないですけど」
「本当、なんでもないから」
 眉を寄せ、へらっと笑う。大志にはその顔が今にも泣きそうな顔に見えて仕方なかった。
「あの……すみません」
 そう一言断ると、大志は司の手首を掴み自分の胸へと引きこんだ。
「わっ、ちょっ」
「司さん、やっぱりおかしいですよ。あの人と喧嘩でもしたんですか?」
「いや、喧嘩じゃなくて……」
 そうさらっと簡単に言える話ではないため、司の歯切れが悪くなる。
「俺、何でも悩み聞きます。司さんのためなら本当に、何でも」
「あはは。大袈裟だってば」
「大袈裟じゃないですよ。だって俺、司さんが好きですし」
 大志の力が強くなった。司の耳が大志の胸に当たり、やたらと早い鼓動が耳奥で響く。
「それ……本気?」
「本気です。じゃなかったら、こんな事もしないし、毎週水曜日のために色んなこと頑張れないです」
「……俺、男だけど」
「……見ればわかりますけど」
「……あはは。何それ」
 胸がチリっと熱くて痛い。身体中からぶわっと汗が噴き出てくる。嬉しい上に、驚きが重なって言葉が上手く続かない。
「司さんは、俺のことどう思っていますか」
 そう聞かれ、司は黙り込んだ。
 一目見た時から忘れられないぐらい惹かれていたのは事実。でも、そんなあっさりと手にいれて良いのだろうか。大志の腕の中で、之隆の顔が一瞬過ぎる。未練があるのか、自分でもやっぱりよく分からない。だけど……。
「……好きだよ。でも、君とは付き合えない」
「え……」
 思いがけない答えが返ってきた大志は目を丸くして、腕の力を緩めた。
「何でダメなんですか」
「ダメではないよ。ダメじゃないんだけど……ごめんね。俺、欲張りだから……」
 そう言って司は大志の腕の中からすり抜けると、ソファーの近くに丸めていたカーディガンとスマホを拾い上げた。
「ごめん。今日はもう帰るね」
「えっ、司さん」
「カレー、また今度食べさせて」
 申し訳なさそうに、眉をハの字に寄せてそう言うと、呼び止める大志の方を一切見ることなく司は部屋を出て行った。



 いつの間にか眠っていた。目が覚めて、時計を見ると深夜を回っている。起き上がると変な頭痛がし、喉もカラカラに渇いていた。こめかみを押さえながら、キッチンへ行き、水を一杯飲んだ。
「あーあ。やっちゃったなぁ」
 司はその場に蹲み込んだ。
 何が欲張りだよ、我儘なだけだっつーの。
 あんな優しくて全力でぶつかってきそうな年下に、何を言ってんだ俺は。しかもあんな中途半端に、逃げて来て。本当は凄く嬉しかったクセに……っ。毎週水曜日が楽しみだったのは自分だってそうなのに。
 思い出して涙が溢れる。
 やっと分かった。ユキといた時に感じていた気持ちが、自分の気持ちを引き止めてしまっていたこと。
 俺はたぶん、いやずっと。
 誰かの一番になりたかったんだ……。




「司さん、おーい。開けてー」
 ゴンゴンという鈍い音と呼び鈴が玄関先から響き、大志は玄関のドアを開けて外の様子を伺うと、隣の部屋のドアの前に立っている男と目が合った。
「昼間の……」
「この間の酔っ払い学生….って、は?」
 司の部屋と大志の出て来た部屋を交互に見て、之隆は目をパチクリとさせる。
「あぁ。実は隣りの部屋でして」
「ふぅん。で、司さんはそっち?」
 之隆は大志の部屋を目を細めて覗き込む。
「いや、だいぶ前に帰ったので……。たぶん部屋の中にいるかと」
 あれから玄関のドアが開く音はしていない。そう思って答えたが、之隆の眉間の皺が一層深くなっただけだった。
「たぶんってなんだよ。さっきまで一緒に仲良く買い物してたんじゃないの?」
「……えぇ。そうだったんですけど」
「へぇ。もしかしてお前も司さんに言い寄ったクチだ?」
 お前も、と言われて大志が怪訝な顔をした。
「図星じゃん」
 表情で察した之隆は笑う。同時に昼間スーパーで見かけた際、女性と一緒にいた事と司のおかしな様子を思い出した。
「あの……司さんに言い寄ったって言いましたけど」
「そ。まぁ信用されてないからずっとあんな調子なんだけどね」
 眉を寄せ、お手上げだと言うように肩を落とす。信用されていない、その言葉に引っかかり、大志は微妙に開け放していた部屋のドアを閉めた。
「信用されてないって……いつも一緒に仕事をしている方ですよね」
「うん。同じ職場。そんで、身体だけの関係」
 大志は顔を顰めた。聞きたくない言葉が耳に入る。
「あー。でも、もうあちこちで遊ぶのやめたんだよ。やめたんだけどさ……俺が本気になった頃、司さんは俺のこと諦めてた。俺がそういう関係では信頼できない人間って分かったんだと思うよ」
「じゃあ何で」
「だから、誤解を解こうって思って」
「……は?」
 大志の眉がぴくんと動いた。それを見て之隆は力なく笑う。
「一緒にいた人、あれ俺の姉貴。司さんあんな顔するからもしかして変な勘繰り入れたかなって。そんで用事済ませて来たけど……。出てこないなら寝てるか、俺の事もう無理かどっちかだろ」
 大志はまだ眉を寄せたまま、之隆を見つめている。今更何を、と言いかけた。
「それに俺のせいであの人が色んなもの諦めて欲しくないし」
「……どういう」
「あの人の好意は分かってたのに、俺が裏切り続た」
 之隆の話を聞いて何となくさっきの司の態度が腑に落ちた。
『好きだけど、付き合えない……』
 そう言われた時は、まだ知り合ったばかりで、自分が年下だからとか同性だからだとか、そんなどうでも良い事を気にしているのだと思っていた。
 信じようと思って近づいた途端に離れていく、そんなのを繰り返していたら誰だって……。
「……あなたのせいで、司さんが」
「言いたい事は何となく分かるんだけど、俺お前と話すの初めてなんだよねぇ?」
「関係、ないです」
「……クソガキ」
 苦笑いを返した之隆は溜息をつくとマンションの階段の方へ向かって歩き出す。
「え、ちょっと」
「俺、お前嫌いだわ」
「はぁ?」
「んじゃあな。次は店の前で寝るなよ」
 そう言うと、之隆は大志の前から立ち去った。




 二度寝をした。重たい瞼を開けると、同時に額からこめかみにかけて刺さるような頭痛を感じる。泣き疲れたせいなのか、二度寝のせいなのかは分からず、司はこめかみに指を当てながらリビングへ向かった。いつもの習慣でケトルに水を入れ直し、スイッチを入れると煙草とライターを持ってベランダへ向かった。リビングの壁にかけている時計を見ると、時刻は昼過ぎを指している。
「寝過ぎた……」
 ぼんやりとそう呟きながらベランダへ出た。
 木曜日は大志も授業がある。いつもこの時間は家を出て原付に跨っている頃だ。万が一、ベランダに出ても会う事はない。

 謝らないと……せっかく、俺のためにカレー作ってくれたのに。

 煙草に火を付け、手摺りに寄り掛かった。大きなエンジン音がし、空を見上げると飛行機が飛んでいるのが見えた。
「近っ……」
 ぼうっとその機体を眺めていると、隣りの敷居から音がしているのに気が付いた。しかし、飛行機の音が大きくてはっきりと聞こえたわけではない。空耳だと思って、視線をすぐ側の道路に落とした。
「司さん、いますか?」
 飛行機が離れていくとだんだんと声が聞こえた。
「……え?」
 はっきりと聞こえたその声は、つい昨日一緒にいたあの青年の声だった。
「良かった。起きたら煙草、絶対ですもんね」
「大志くん……が、学校は?」
「俺、体調崩した時のために出席日数足らしてますから」
 にこりと笑って言っているのが目に浮かんだ。
「それ、サボりって言うんじゃ……」
「たまには良いんですよ。それに、今日はサークルがあって行ったら行ったで遅くなりそうだし」
 キミがサボった理由は俺のせいだろう。喉元にはそう出掛けて、司は言葉を煙と共に飲み込んだ。
「司さん、俺……本気ですよ」
 司は黙り込み、手摺りに寄り掛かりながらそのまましゃがんだ。
「俺、四六時中あなたの事しか考えてません。そりゃ、講義中はちゃんと集中してますけど……。でも、次の水曜日は何を作ろうかとか、今度はどんな物を作って差し入れてあげようとか。考えるのが楽しくて、司さんが喜んでくれると、もっと嬉しくて。水曜日じゃない日は会いたくて少し苦しくて、でもそれが何だか楽しくて」
「そんなの……一時の感情だよ……勘違いだってば。マイブーム的なの、あるじゃん?そう言うのってほら、知らない間に忘れたりとか、どうでも良くなったりとかさ、するでしょ」
 たぶん、彼は本気だ。そんな事は分かっていて、司の中でどす黒い渦を巻き、手を伸ばそうとしてはまた引っ込める。本当は縋りたいのを隠して、自分もいつかは忘れられるとばかり思っていた。
「……俺は忘れないし、司さんにも忘れさせないですよ」
「……え」
「俺、誰かをこんなに好きになって一緒にいたいって思ったの初めてなんですよ。昨日、あなたが飛び出して行ってから、苦しくて意味わからないぐらいやるせなくて……。本当ならその時点で少し距離をおくべきだって思うじゃないですか。そんなこと、考えつかないんですよ。俺、司さんがとんでもなく好きで、一週間離れるのすら苦しいのにこれ以上離れるのは嫌ですっ!」
 一気に話したせいで、呼吸が乱れているのが敷居の反対側からも分かった。司はゆっくりと立ち上がると、短くなった煙草の火を灰皿で潰す。心臓が苦しくて、身体中が熱い。顔から今にも火が出そうで、どうしていいか分からなかった。
「司さん、だから……その、カレー、一緒に食べませんか?」
 予想外のセリフが飛び、司の動きがぴたりと止まる。さっきまでバクバクにうるさかった心臓が変に落ち着き始めた。
「ふっ、ふふふっ。あはは、何それ」
 司は思わず吹き出して、ベランダで大きな笑い声を上げた。
「それ、そこで言う?」
「す、すみません……!あ、でも、俺は本気ですよ」
「カレー食べるって話が?」
 笑いすぎて出てきた涙を拭いながら、司が揶揄うように答える。
「ち、違くてっ!」
 慌てて否定し、敷居にどこかをぶつけた音がした。
「あはは。じゃあ、鍵開けて」
「え……?」
「すぐ、行くから」
「はいっ!」
 大志は返事をするのと同時に、バタバタと音を立てながらベランダから玄関へ向かう。司は部屋に入り、窓を閉めるとその場で蹲み込み、再び高揚し始めた身体の熱が冷めるよう何度も「落ち着け」と呟いた。


「司さーん、今日この後」
「今日も明日もその先もそのまたその先もずっとダメ」
「はぁ?何それっ」
 店の更衣室で肩を抱いてくる之隆にしれっと答えると、耳元で大きな声を出された。
「俺、彼氏できたの」
 嫌な顔を向けながら、脱力する之隆の腕をどかす。
「はぁ?聞いてねぇんだけど!」
「言ってないからね。お前より俺のこと構ってくれるから忘れてたわ」
 にやりと笑いながら、ロッカーを閉める。
「ならまた遊びでも良いじゃん」
「俺はもうそういうのやめたの」
「俺もアンタのためにやめたんだけど?」
 之隆が司の顔を覗き込む。視線がぶつかり、鼻先が触れそうになった。
「俺はお前をそういう意味では信用してない」
 司は顔を反き、之隆の横腹に肘を入れた。
「痛ッ!」
「自業自得だよ。ほら、仕事行くぞ」
 悶絶する之隆を背に、司は笑いながら先に更衣室から出て行った。
「……ったく俺のクソバカ野郎」



「おかえりなさい」
 仕事から帰り、部屋の鍵を開けていると隣りの部屋から大志が顔を出した。
「えっ、ちょ、なんでっ」
「ちょっと厄介なレポートがあって、キリが悪くてやってたらこんな時間に……。そしたら音がしたので」
「そうなの……?でも明日も学校じゃ」
「明日は大学入試日でお休みです。あの、うち来ません?」
「え?」
 ガチャン、と鍵が開く音が響く。
「それ、もう一度閉めて。俺の部屋どう……ですか?」
 暗がりで見えにくいのだが、大志の顔が少し赤くなっているのが見えた。
「ベッド、広めですよ。温かいスープもあるし……」
「……い、いいの?」
「一緒に、寝るだけ……ですけど」
 司は握っていた鍵を締め直す。
「本当に、それだけ?」
「まぁ……それはその時によりま」
 大志が言い切る前に司は大志に抱きついた。
「そこは強引に引いてくれても良いんだけど」
「ふふふ。じゃあ、お言葉に甘えます」
 そう言って、大志は司を部屋に引き込むと、玄関で冷たくなった頬を撫で、静かに優しいキスをした。
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