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弟子達のお使いと魔獣の決意

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 魔獣が拾われ三ヶ月が経った。もう右腕の骨折は完治し、最近では薪割りをこなせるほどに回復した。彼はナウラと名付けられ、毎日ビスカの後ろをついて歩いた。人間として生きるのは初めてなので、最初は色んなことを質問して不思議がられたが、記憶がないというあの嘘を信じた彼女を言いくるめるのは簡単だった。そんなナウラにビスカも色々なことを丁寧に教え込んだ。簡単な料理や掃除、お金の遣い方や植物の種類。庭の畑の手入れは特に念入りだった。
 しかし、細々と暮らすビスカとランプの食事に合わせているため、魔力の回復はまだ微量だった。ビスカ一人を食べたとしても半分もいかないだろう。だが、弟子となった今ではそのスローペースが有り難くもある。ビスカやランプに魔法を教わる度に少しずつ出来ることが増えているように見えて都合が良い。それに、魔獣として生きていた時は繊細な魔法を使わずにいたため、物を宙に浮かせたりするような魔法は、ビスカに習って初めて出来るようになった。知らないことを知り、出来なかったことが出来るようになる、それがなんだか面白くて、次第にビスカとランプを食べたいという気持ちよりも、もっと魔法の勉強をしたいという欲の方が大きくなっていた。また、ナウラが何か出来るようになると、ビスカが自分のことのように喜ぶので、その顔を見るのも楽しみの一つだった。
 ある日のことだった。全員で朝食を食べている時、ランプが言った。
「そういえば、もう小麦粉がないよ」
「あら、もう?」
 早いわね、と言いながらビスカが席を立つ。キッチンのすぐそばに袋のまま置いていた小麦粉を覗き込むと、確かに中身は半分もない。
「本当だわ。そろそろお買い物に行かなくちゃ」
 最後に買ったのは少し前のことだ。近くの村が焼けてしまったので、少し遠くの町に足を伸したのだ。
「またお出かけかぁ。今度は何日?」
「そうねぇ」
 ビスカはうーん、と難しい顔をする。チラリと窓の外を気にした。最近、庭先の木苺がたくさん実り、その世話を毎日の楽しみにしているようだった。
「お師匠様、僕が行って来ましょうか?」
 ナウラがそう提案すると、ランプはジト目を向けた。
「まだ箒を浮かせるのがやっとなくせに。ビスカが言った方が早く終わるよ」
 ランプが嫌味ったらしく言った。確かにナウラはまだ箒を浮かせられてもそれに跨って空を飛ぶことは出来ない。
「だけど、また一人で留守番はつまらないし……」
 それに、買い物はまだ一人で行ったことがない。いつもナウラを置いてビスカとランプが出かけてしまう。その間は、誰が来てもドアを開けてはいけない決まりだったし、外で薪割りも禁止されていた。暇つぶしに何度も読んだ呪文集や薬草図鑑は、暗記してしまうほど。だったら自分が言った方が退屈しのぎには丁度良いと思ったのだ。今までは一人で魔獣だらけの洞窟で暮らしていたし、何者かに襲われても回復した微量の魔力を調整して応対すればなんとかなるはずだ。それに、いつも自分の面倒を見てくれるビスカから楽しみを取り上げるのは、なんだか申し訳ないという気持ちもあった。
 しかし、目の前の黒猫はフン、と鼻をならすと「当たり前だろう?留守番なんだから」と偉そうに言った。そんな一人と一匹のやり取りを目の前で見ていたビスカは「そうだわ」と、目を輝かせた。ランプはこの一声に耳をぺしゃんと下ろすと面倒くさそうな顔をした。
「あなた達で行って来てくれる?」
「え!なんでよっ」
「そうです、どうせならお師匠様と二人が良いです!」
 ランプとナウラが同時に言った。お互いを見て眉を寄せる。その様子を見て、ビスカはくすりと笑った。
「弟子はいつか出て行かなきゃ行けないでしょう?それに、私がいなくてもお買い物ぐらい行けなくちゃ。ナウラはせっかくお金の遣い方を覚えたのだから、尚更ね」
 ビスカは二人の頭を交互に撫でて優しく言う。二人の頬がぷくっと膨れ、またビスカは笑った。
「さてと。そうと決まれば準備をしましょう。今から歩いて行けば、夜には着くわ」
 ビスカが指をパチンと鳴らすと、二階の部屋の奥から物音がし、暫くすると階段の方から肩掛けのバッグと小さなリュックが宙に浮いて降りてきた。
「お財布はナウラね」
 ビスカは片手でエプロンのポケットを軽く叩くと、中から小さながま口の財布が飛び出し、階段から降りてきたばかりのバッグの中にダイブした。バッグはそのままナウラ方へ一人でに飛び、膝の上で着地した。
「あとは町までの地図と二人分の水筒。それから、お腹が空いた時のパウンドケーキが二切れ入ってるわ」
 ビスカがにこりと笑う。ナウラも嬉しそうにバッグの中身を確認した。彼女の作る木の実たっぷりのパウンドケーキは、初めて食べた時からナウラの好物だった。
「ねぇ、ボクのは?ボクには何を持たせるの?」
 ランプは両手を広げて宙に浮かぶリュックを追いかける。
「あなたにはあなたの分のパウンドケーキを入れてあるわ。重い物は持てないでしょう?」
 ランプ用のリュックを捕まえると、ビスカはランプの前足に通してやった。背中にピッタリと合い、確かに他には何も持てなそうだった。
「小麦粉とミルク、あと卵を買って来て。お財布には宿代も入ってるから、町に着いたらまずは宿を探しなさい。一晩泊まって朝一番の市場で買い物をしたら、寄り道しないで帰ってくること。それから、絶対に町では魔法を使わないこと。約束よ」
 ビスカは念を押すように繰り返した。ナウラは「はい」と素直に返事をしたが、ランプはまだ口をへの字に曲げ「仕方ないなぁ」とぼやいた。だが、いつもランタンに変身しているせいか、背中のリュックは新鮮で気に入っているようだった。

 こうして、朝食を食べ終えた一人と一匹は隣町へと出掛けて行ったのだった。




 ナウラとランプが森を抜けて隣町に着いたのはビスカの読み通り、その日の晩だった。町が遠くに見えた頃は既に太陽は沈み、オレンジ色の空が深緑の空に飲み込まれ、町に着くとあっという間に真っ黒な色に混じっていた。町に入ると、地面は綺麗に舗装された煉瓦の道に変わった。木造の家や店がずらりと並び、玄関先に綺麗な草花が植えられている。夜なのにそれがはっきりと分かるのは、ガス灯が至る所に設置されていたからだった。ナウラは初めて目にしたガス灯をまじまじと見上げた。
「ナウラ、先に宿を見つけるんだろう?」
「そうだった。早く行こう」
 ランプの声で、はっと我に帰る。森ではもちろん、村や洞窟にはなかった文化が珍しく、ナウラはあたりをキョロキョロと見渡した。それに日が沈んだというのに出歩く人間も多い。ナウラは行き交う人の姿を見ては、ぐぅと大きな音を鳴らした。
「お腹が空いているなら尚更早く見つけなきゃ」
 ランプは小さな溜息を吐きながら言った。
「遅くなると野宿だよ。ボク、それだけは絶対に嫌だからね」
「それは僕も同じさ」
 答えると同時にナウラの腹の虫が再び盛大に鳴った。ビスカ以外の人間が目の前を行き交っているのだ、どうにも抑えようがない。
「仕方ないやつだなぁ」
 ランプはそう言うと、鼻をすんと鳴らし三角の耳をピンと立てた。
「何をするんだい?」
「たまには先輩らしくするのさ」
 ランプはニャオーゥ、と一声低く鳴くとまた耳を欹てる。耳の角度を器用にぴるぴるっと変え、数秒後にまた鳴いた。
「ナウラ、こっち」
 長い尻尾を横に振り、ランプは先を走った。ナウラはそれを見失わないよう追いかけた。小さな黒猫は夜の闇に溶けやすく、ビスカが巻いた黄色のスカーフがなければ見失ってしまいそうだった。そして何より、陸ドラゴンの足の速さでランプを抜かないよう調整して走るのは、やたらと神経を使った。
 三つほど角を曲がると、ランプは足を止めた。ナウラは態とらしく息を整える振りをしながらランプの方へと歩く。近付いてよく見ると、彼が立ち止まった目の前には宿屋と分かる看板が立て掛けてあった。驚いてランプの方を見ると、彼は身体を伸ばしながら得意げに言った。
「野良猫達から聞いたんだ。さ、宿を取るのは人間の仕事だよ」
「なるほど。じゃあ、ここからは任せてよ」
 ナウラはランプの頭を軽く撫でると、宿屋の玄関扉をゆっくりと開けた。軋む扉の音と共にベルが鳴り、カウンターの奥から店主らしき太った男性が出て来た。
「いらっしゃい」
 店主はにこやかに言った。人の良さそうなその表情にランプは安堵した。その横で肉付きの良い人間を目の当たりにしたナウラはゴクリと唾を飲んだ。そのまま固まって男性をじっと見ていると、急かすようにナウラのズボンの裾をランプがぐいっと引っ張った。
「あっ、あのう。一泊の宿を探していまして……こちらに空きはありますか?」
「えぇ、ありますよ。お一人ですか?」
 店主はナウラの足元にいるランプに気がつかないままそう答え、後ろの棚から台帳を取り出した。
「僕と猫が一匹。旅のお供なんです」
「猫?」
「えぇ」
 ナウラが足元に視線を移すと、店主はカウンターに両手をついて身体を乗り出した。そして、ランプの姿を確認するや否や、先程までにこやかに笑っていた表情を一気に曇らせる。
「あー……悪いね、今日の部屋は無しだ。悪いが他を当たってくれ」
「そんな、さっきはあるって言ったじゃないですか!」
 しっしっ、と追い払うように手を揺らす店主にナウラは食ってかかった。しかし、彼の態度は変わらない。さっきのにこにことした笑顔は綺麗さっぱり消え失せていた。
「一泊で良いんです、明日の朝出て行きますから!」
「いやいや、無理なものは無理だ。ましてや魔女と同じ黒猫なんて……。泊めたと知られたらこっちが町から追い出されちまう。お前さんもその知り合いとなっちゃ、悪いが泊めることはできないね」
 店主は眉を寄せ、汚い物を見るような目でランプを見下ろすと、店の入口に貼られた紙を指差した。そこには『嵐の魔女お断り。また、魔女と同じく黒猫を連れた者もお断り』と乱暴に書かれた貼り紙があった。
「隣の村みたいに襲われたら敵わんからな」
 店主が吐き捨てるように言った。ナウラは眉を寄せ、彼のを睨む。村がなぜ襲われたかは分からないが、分かっているのは魔女のせいではない。あの村に火を放っていたのは魔王の遣いであって、魔女ではないのだ。しかし、いくらナウラが凄んでも店主の態度は変わる様子はない。
「とにかくウチは面倒ごとはごめんだよ。お前さん達が魔女と関わりがなくても貼り紙通りやらせてもらう。さぁ、出てってくれ」
 今度はナウラに追い払うよう手を振る。何を言っても彼の考えは変わりそうにないため、仕方なしにナウラとランプは宿屋から出た。
「せっかく野良猫達に教えてもらった場所だったのに」
 小さく息を吐きながらランプは言った。
「少し歩こう。他にも宿屋はあるはずだ」
 ナウラはランプを励まし、次の宿を探した。
 先ほどの宿屋の近所だと同じように追い払われてしまう気がした二人は、なるべく遠くへ移動した。町の中央を過ぎ、入ってきた方角から真反対の方へと向かう。もう丸い月がはっきりと見えるほどに時間は進んでいた。
 次の宿屋を見つけたのはあれから結構時間が経ってからだった。看板は宿屋と謳っているが、所々がつぎはぎだらけで今にも触れば倒れてしまいそうな宿屋だった。しかし、もう背に腹はかえられない。ランプはもう立ち止まるたびに舟を漕いでしまうほど眠そうだったし、ナウラもそろそろ身体を休ませたかった。
「ランプ、ここだ。いや、もうここに泊まる。僕は決めたよ」
 するとナウラはランプにランタンに変身するよう言った。黒猫の姿さえ見つからなければきっと泊まれるという算段だった。
「大丈夫かな、人間って意外と鋭いんだよ」
「大丈夫。ランプだってふかふかのベッドで眠りたいだろ」
「……分かったよ。でも失敗したらビスカに怒られるだけじゃないんだ。それに、ビスカも二度とこの町に来れないと思わないとだよ……」
 ビスカから魔法を使うなと言われていることをランプは念を押して言った。
「大丈夫、上手くやるから」
 ランプは不安そうに長いヒゲを垂らすと、ランタンの姿に変身した。ナウラはそっとランタンを持ち上げると「灯りは消そう。不自然だから」と囁いた。ランプは「了解」の返事の代わりに、灯りを消すと静かにナウラに身を任せた。
 人間は案外簡単に騙せた。この宿屋の店主は、ナウラを見るなり快く出迎えてくれたのだ。ランタンを片手に持った旅の少年が疲れ果てたどり着いたとでも思ったのだろう。直ぐに二階の部屋へと案内された。先程の宿屋より古いせいか、歩く度に床が軋む音がしたが、この際どうでも良かった。
 部屋にはベッドと机がが一つずつあるだけのシンプルな部屋だった。店主は部屋の鍵をナウラに手渡すと、下の階へとまた降りて行った。
「ランプ、もう良いよ」
 ナウラの声を合図に、ランプは変身を解いた。床で大きく伸びをすると、ベッドへと飛び乗った。
「あぁ、良かった。一時はどうなるかと思ったよ」
「……そうだね」
「だけど魔法を使ったことはバレないようにしないとだ。ボクよりもビスカはたまに鼻が効くんだから」
 ランプはベッドに座ると背負っていたリュックを下ろし、中からビスカが持たせたパウンドケーキを一切れ分取り出した。
「ランプ、眠る前に聞かせてほしいことがあるんだけど」
「長話で夜更かしはごめんだよ」
 ランプはパウンドケーキにかぶりつきながら言った。ナウラは机に荷物を置くと、椅子に腰掛けた。
「嵐の魔女って、一体なんのことだい?」
 ナウラの問いにランプの耳がピクンと動く。パウンドケーキに混ぜ込まれた胡桃の欠片が、ポロリと落ちた。
「嘘だろ?西の国で生まれて、あの村の出身のくせに?知らないのか?」
 ナウラは眉を寄せながら頷いた。あの村の出身ではないことは伏せていたが、ずっと洞窟にいたナウラにはこの国の話など殆ど耳に入ってこない。
「あぁ、そうだナウラは記憶がないんだったね……。良いよ、話す。でもビスカにはボクから聞いたって絶対言わないでよ」
 ナウラは静かに頷いた。同時に記憶がないという嘘は、とても便利なものだとも実感した。ランプはパウンドケーキをもう一口食べると、口を開いた。
「昔の話だよ、本当に昔。ボクらが生まれるずーっと前さ。西の国で嵐の日に女の子が生まれたんだ……」
 ランプは西の国に伝わる昔話を話した。その昔話が本当か嘘かは分からないが、その話が語られるようになってから、西の国では嵐の日に生まれた子どもはみんな魔法の力を持っていた、と。そして魔王に見初められる厄災の子として扱われるようになった、と。
「ビスカも嵐の日に生まれた魔女なんだ。あの村の近くに捨てられていたところを一時は拾われたらしいよ。四歳ごろかな、庭の井戸から水を汲み上げるのに無意識に魔法を使ってしまったんだって。そしたらそれを見た家族の態度がガラッと変わって、その日の夜に森の奥に捨てられたんだってさ」
「そんな……」
 ナウラは思わず声を漏らした。ランプはふぅ、と息を吐くと悲しそうな顔をで続けた。
「みんな魔王や疫病が怖いんだ。ビスカも全部分かってる。分かっているから森で静かに暮らしてるんだ。だからボク思うんだ、時々生活に必要なものだけを買いに行くぐらい許してくれたって良いのにって……。まぁ、ボクが目印になってしまっていたとは思わなかったけどさ」
 ランプは食べかけのパウンドケーキを静かに見つめた。悲しそうな目が暗がりで揺れたように見えた。
「……話してくれてありがとう、ランプ」
 ナウラはランプの頭を優しく撫でた。ランプは首を横に振ると、ナウラに水筒を寄越せと言った。ナウラはランプに水筒を手渡すと、自分のバッグからビスカの手作りパウンドケーキを取り出した。静かな部屋でぐぅ、と腹の虫がまた鳴る。
「ナウラは本当に食いしん坊だね」
「ビスカのパウンドケーキが好きなだけだよ」
「ふふふ。それはボクも同じだ」
 ランプはくすりと笑うと、残りのパウンドケーキを平らげた。そして、そのままベッドに潜り込むとすやすやと寝息を立て始めた。ナウラはランプの横に腰掛け直すと、その背中をゆっくり撫でた。
 なるほどな……。いつも町へ出掛ける時にフードを目深に被っていたのはそういう訳か……。
 彼女が人里離れたところでひっそりと暮らしているのも、あの宿屋の店主の態度も。そして、あの村に火をつけたのが魔王の遣いであったことも……。ランプの話を聞いたら全部納得がいく。しかし、彼の話を聞いてから胸のあたりが騒がしく張り裂けそうに痛みが込み上げる。ナウラの中で真っ黒な感情が渦を巻いた。
 彼女を……守らなければ……。
 自分の魔力が戻ったら教えてもらった魔法を使い、二人を騙して自分の食料に変えて洞窟へ帰ろうと、そう思っていたはずだった。他でもなく望んだ人間の肉。そばに置いて食べることを我慢し、いつかは……と望んでいたことなのに、その欲がナウラの中で萎み始めた。
 彼女を守れる力を、早くつけなければ……!
 魔王があの村に遣いを寄越したとなれば、いよいよあの森も危ないだろう。ナウラは奥歯を噛み締め、ランプを起こさないようゆっくりと立ち上がった。
 そうだ、力だ……。力さえ手に入れるには、これしかない。
 ナウラは静かに部屋のドアを開き、音を立てないようゆっくりと鍵を閉める。歩く度に軋む床を息を殺して進み、カウンターで居眠りをし始めた店主に見つからないよう宿屋から出ると、自慢の足で暗い夜の町を走り出した。



「ふぁああ……。よく寝たぁ」
 ランプが大きな欠伸をし、ベッドの上でぐっと伸びをした。ゆっくりと目を開けるが、カーテンのない窓からは朝陽が差し込み、眩しくてもう一度目を細める。
「おはよう、ランプ。よく眠れたかい?」
「そりゃあ、もちろん。やっぱり眠るにはベッドが必要不可欠だね……って、あれ?」
 ランプはナウラを訝しげに見上げた。
「どうかしたかい?」
「どうかって……キミの方こそ、どうかしなかった?」
 ランプはナウラのつま先から頭までをもう一度ゆっくり見上げる。そして鼻をスンと動かし、ナウラの匂いを確認した。間違いなく昨日まで自分のそばに少年の匂いだと分かると、やはり不思議そうに首を捻る。どう考えても、昨日の今日で身長がぐんと伸びているのだ。声も若干昨日より低く、髪も昨晩より長い。
「あはは。無理もないな。僕も驚いたからね。お師匠様が作ったパウンドケーキを食べたらこの通りなんだ」
「そんなわけある?いつだって食べてきたじゃないか」
 ランプは疑り深い目を向ける。昨晩自分が
眠った後に何かおかしな魔法を使ったに違いないと、そういう目だった。
「嘘じゃないよ。食事の後、歯を磨こうと思って鏡を見たら、身長と髪が伸びていたんだ」
 ナウラは参ったよ、言いながらパウンドケーキの包みに使われていた麻紐で後ろ髪を器用にまとめ上げた。
「まぁ、ビスカのことだし少なからず魔法はかかってるだろうけどさ。時々やるんだ、無事に帰ってこれるようにっておまじないかけたりね」
「なるほど」
 ナウラはそれはそうかも知れない、と不思議そうな顔で頷いた。
「さぁ、ランプ。出かける準備だ。市場で買い物をしたらこの町を出よう」
「あまり仕切らないでよ、後輩のクセに」
 ランプは舌をペロリと出し、悪態をついた。


 朝食分のパウンドケーキを食べた二人は、町の市場へと出掛けて行った。昨晩同様にランプはランタンに姿を変え、ナウラはそのランタンを腰のベルトに引っ掛けた。少しでも早くこの町を出るため、事前に姿を変えようということになったのだ。
「やっぱりなぁ」
「こら、ランプ。静かにしてないか」
 しばらく歩くとランタンから声が漏れた。ナウラは慌ててランタンを指で軽く弾く。
「だって、ここの野良猫に黒猫いないもの。きっとみんな追い出されちゃったんだ」
「君も追い出されたくなきゃ今は黙っててほしいんだけど。ほら、市場が見えたよ。少し我慢しててくれ」
「まったく、黒猫もラクじゃないやい」
 そう言ってランプは黙り込む。大人しくなったランプを見て、ナウラはホッと胸を撫で下ろした。
 二人がやって来たのは麻布テントが並ぶ、小さな市場だ。ここではこの町で採れた野菜や果物、畜産物は勿論、魔物から出た素材や輸入品が並び、この近隣で暮らす人達の支えとなっていた。ナウラは近くのテントで小麦粉が売られているのを見つけた。
「とりあえず、小麦粉と卵とミルクを確保しよう」
 ナウラの呟きに答えるように、腰のランタンが小さく揺れた。
 十分もしないうちにビスカから頼まれたものを買い揃えた二人は、早々に町から出ようと市場から反対の町の入口へと向かう。ランタンに変身したランプが「あの宿屋の近くはやめよう」と小さな声で訴えたので、ナウラは来た時通った道とは別の道を選んだ。その道はガス灯の数も少なく、昼間だというのに薄暗かった。並んでいる店は全て閉じられていて、窓という窓にはカーテンがぴっちり閉められている。空は快晴で良い天気だったが、この通りに一切温かい日差しは入り込まないようで、ランプは身震いした。
「ここ、気味悪いね」
「そうかな、落ち着いていると思うけど」
 ナウラは洞窟に似ていると思ってそう答えたが、ランプは「どこがだよ。寧ろソワソワするでしょ、こんな所!」と呆れ口調で言い返した。
 ナウラが薄暗いその通りを曲がり、町の出口へと繋がる道へ出た時だった。一つ向こう側の宿屋のある道が騒がしいことに気がついた。
「なんだ?」
 気になってランプはランタンを揺らして騒ぎの方へ首を伸ばし、耳を欹てた。

「商品を配達したんだが、店主がいないんだ」
「おかしいな、どこへ行ったんだ?朝食を頼んでいたのに」
「貴重品を預けていたんだが……」
「私もよ、昨日の夜素材集めに行くから荷物を半分預けたの!」

「……何かわかったのかい?」
 ナウラはランプに尋ねた。ランプは小さくランタンを揺らした。
「さぁ。あの太っちょ店主が出掛けちゃったみたいだよ」
「そうか。なら今のうちに行った方が僕らには都合が良さそうだ」
「そうだね」
 ナウラに同意したランプはそう答えると、また黙って宿屋の方をじっと見る。ナウラに悟られないようクンと鼻を鳴らして、その一帯の匂いを吸い込んだ。
 う、わ…………。
 血と魔法の混ざり合った香りが鼻の奥をねっとりと這う。嗅いだことあるような複雑な魔法の匂いが特にきつく、咽そうになったが、喉の奥で飲み込んで無理矢理我慢した。町を抜けて黒猫の姿に戻ったランプだったが、気持ち悪さが喉元に残ってしまった。顔色の悪さに気がついたナウラは「ランタンの姿で身体を揺らしすぎたんだ」と言って、彼を肩に乗せビスカの待つ森へと急いだ。



 日が暮れる頃、ナウラとランプはビスカの待つ家に帰宅した。二人の無事を確認したビスカは、たった一泊の買い物だというのに大袈裟に喜んだ。そして身長と髪の伸びたナウラを見て「男の子の成長は突然だと言うものね」と、おかしな反応を見せ、大して不思議がることはなかった。そしてナウラは荷物をテーブルに置くなり、ビスカに言った。
「お師匠様、今度からあの町での買い物は僕一人でも大丈夫です。ランプには色々と不便をさせましたから」
 そう言われ、ビスカはランプを見た。ランプは珍しく素直に頷いた。ナウラの言う通り、黒猫の姿でずっとあそこにいることは叶わなかったし、何より自分が一緒にいるだけでナウラも不便をしたのだ。彼一人町へ行くだけならその辺のことは全てクリアするだろうと実感したのだ。それに、あそこまで嵐の魔女を嫌う人間達がいるのだから、ビスカ一人を行かせるより何千倍もマシだとも思った。
「そうねぇ……」
「そのうち、箒で飛んで行くこともできるようになりますから」
  ナウラがそう付け加えると、ビスカは眉をハの字に寄せた。
「わかったわ。次からはナウラにお願いする。頻繁にならないよう、みんなでやりくりしましょうね」
 困ったように笑ったビスカが、ナウラとランプの頭を撫でた。ナウラに関してはもうほぼ同じ身長の高さに伸びてしまったため、頭というよりも頬を撫でたようなものだった。そして、その温かくて優しいビスカの手のひらに、ナウラはキュッと心臓が苦しくなった。

 ナウラが庭先で薪を割っている時だった。夕食の準備をしようと、ビスカがエプロンを付けるとランプが駆け寄ってきた。
「ビスカ、もしやとは思うけど……キミって料理にかけるまじないの加減を知らないんじゃないかな」
「あら、そんなことないはずよ。いつもと同じに変わらないもの。それ以上でもそれ以下でもないわ」
 ビスカは自信満々に答えると、二人が出かけてる最中に作っておいた、干しぶどうがたっぷり入ったシチューを温め始めた。
「おかしいなぁ……。だってナウラの身長も髪もすごく伸びたじゃないか」
「そうねぇ。でもやっぱり男の子だもの。知らないうちに大きくなるのよ」
「そんなものなの?人間って怖いなぁ」
「ランプはまだ知らないことが多いわね」
 くすくすっと笑ってビスカが言うと、ランプは頬を膨らませた。
「仕方ないじゃないか。ボクは人間じゃないんだから」
 ムキになってそう答える声が、窓の外へと漏れた。ナウラは静かに笑い、握った斧を振り落とす。
 あぁ、そうか。人間はもう少し成長速度が遅いのか。知らなかった。でも次はきっと上手くやるさ。ビスカは分かってくれたし、ランプだって人の知識は僕と同等だ。まぁ、僕も人間じゃないからなぁ……ランプの言う、加減というものを知らないといけないなぁ。
 ナウラはもう一度斧を振ると、割った薪を数本抱えた。きっと薪割りも本当は容易く出来てはいけなかったのかもしれない。彼女を守ると決めた魔獣もまた、人間ではないのだった。
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