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怨念の黒い炎
1.
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黒い炎が蠢いて、あたりを囲んだ。熱く、煙が舞い息苦しい。
『早く、早く早く早く。思い出せ』
炎は大きくなり、揺れて自分を飲み込む。熱さは消えるが息苦しさは増した。ふわりと何かが肩や首、頭を飛んで移動していく。
重さは感じないが、跳ぶ拍子に軽く蹴られる感触がした。見えない何かを振り払おうと身体を動かすがまったく状況が変わらない。
耳元でクスクスと笑われる声が響き、脳内に声が入り込む。
『見つけたからね、肇……』
まだ寒さの残る春の朝。もう直ぐ桜が咲く季節だと言うのに、朝晩はコートを手放すにはまだ名残惜しい。今朝は会社よりも先に根津には立ち寄る場所があった。
通勤鞄でも軽減さを重視する彼の片手には大きな紙袋がぶら下がっている。上司には昨夜のうちに伝えていたし、通勤ラッシュの時間を避けてはみたが、まだ混雑は緩和されない。根津は押しつぶされそうになりながら踏ん張り、満員電車内で紙袋を早々に投げ捨てたいと思った。
「おはようございます。今朝は早いですねぇ。締切日ではないですが……何かありましたか?あぁ、もしかして私に会いたくなったとか」
「寒い」
玄関の引き戸を開けて、バタバタと靴を脱いでいると、家主の由依が大きな欠伸をしながら竜胆色の着流しに紺色のどてらを羽織ってやってきた。
「こたつへどうぞ」
にこにこと笑いながら言う。根津はコートを脱ぎながら由依の後ろを歩き、居間に向かった。長い廊下は彼らが歩くたびに軋む音を鳴らす。縁側から差し込む陽射しで外気との気温差に驚いた。
「本当……まだ仕舞ってないのかよ」
根津がこたつを見て悪態を吐いた。
「年中出してても罰は当たりませんよ」
「そりゃ、そうだが……」
荷物を下ろし、根津は足をこたつの中へ入れた。
「社に戻るのが怠くなりそうだ」
「ふふふ、私は居て頂いても構いませんよ」
「そうはいかねぇんだよ」
根津は持って来た紙袋を由依に渡した。
「おや、お土産ですか?」
「あの座敷わらしには入り用だろ」
由依が中身を覗くと、中には同じタイトルの本が二、三冊入っていた。
「あれ、発売日今月末でしたよね。少し早いのでは?」
「一番最初のやつ掻っ攫ってきた。出版社からそのうち残りの献本が届くはずだ」
「肇くんは相変わらずお優しいですねぇ」
由依はその本を一冊取り出し、根津の向かい側に座った。こたつに入りながらポットからお茶っ葉の入った急須にお湯を入れる。それを見ていた根津は手を伸ばして近くの戸棚から湯呑みを二つ取り出した。
「さやさんがいらしたら早速やりましょう」
湯呑みを二つ自分の方へ寄せると、急須を優しく揺らした。
「すぐやるんじゃねぇのか」
由依はお茶を湯呑みに淹れる。お茶の渋い香りがその一帯に広がった。
「咲さんは小説の登場人物ですから、さやさんが想像して作り上げた女性でなければ意味がないでしょうし、それに……」
由依はお茶を一口啜る。静かな居間に時計の音と冷蔵庫の音だけが響いた。
「あなたがここへ来る日は隠れてしまうようになりましたので」
「……は?」
由依は眉をハの字に寄せ、苦笑いを浮かべた。
「この間、うちに泊まったでしょう。あの時なんで私が強くあなたを引き止めたか……分かりますか」
強い眼力が根津を捉えて離さない。目をそらす事も出来ない力に、根津はゆっくりと息を吐いて答えた。
「さぁな……。ただの気まぐれだったとしか」
「夢に出てきた祠に見覚え、ありますね?」
どきっとして思わず目を泳がせた。由依の表情はまったく変わらない。
「なんでそれを」
「横で魘されるあなたの夢を覗かせて頂きました」
「覗き見なんて趣味悪いぞ」
「なんとでも。それで、あなたは何を思い出したのですか?」
ゴクリと生唾を飲んだ。根津は確信した、全部バレている、と。
「別に。見たことのある祠だった、ぐらい」
「本当に?」
「あぁ。本当に」
「……まぁ、肇くんが嘘をつくとは思いませんので信じますが……。私の目は誤魔化せませんよ」
にこりと笑う由依に何も言い返せない根津は湯呑みのお茶を一口飲み込んだ。
「ハッキリと覚えてねぇんだよ」
にこにこ顔に負けた根津は溜息交じりに片手で頬杖をつきながら答えた。腕時計をちらりと確認し、まだ大丈夫であることが分かると胡座をかいていた足を崩し、そのまま寝転んだ。
「覚えていない、とは」
「子どもの頃、って言っても中学生ぐらいのことだな、あの祠で何かあったのは確かだ。ただ、気がついたら祠の前で倒れてたってぐらいで」
「何故、祠に行ったのかは覚えてますか?」
「あー……」
うーん、と唸って頭の後ろで手を組む。
「肝試しをするとかであの祠のある裏山に行った。夏休みだったな……。そこまでは覚えている」
ぼんやりと違和感のある記憶が頭中で渦を巻く。当時もそうやって何度か思い出そうとした。学校の補講授業が終わってから、友人達と肝試しに行く約束をし、あの裏山へ行った筈だ。
「そこって、どんな山ですか」
「だだの学校の裏山だ。茂ってるような山でもなくて……結構木々の間から民家が見えていた気がする」
「へぇ」
湯呑みが置かれる小さな音がした。由依は以前引っ張り出してそのままこたつの近くに放っておいた、妖怪図鑑を開く。
「どうしてそこで妖になる」
ページのめくれる音が聞こえ、根津は寝転がっていた身体を中途半端に起こした。
「そりゃ、祠がひとりでに喋るわけがありませんからね。あなたも聞いたのでしょう、早くしろだなんだという子どもっぽいくせに嫌に禍々しさが残るあの声……。覗かせて頂いた私にもハッキリと聞こえました」
「その、覗いたっつーの、やめろよ」
「安心してください、涎は拭いておきましたよ」
「寝ている俺に触るな」
「まあまあ、恥ずかしがり屋さんですねぇ」
根津は舌打ちをしてまた寝っ転がる。くすくすと笑いながら由依はまたページをめくっていた。
「本当にただの裏山ですか?もしかして……入ってはいけないとかそういう言い伝えは、ありませんでしたか?」
由依は後半を強めに言った。時計と冷蔵庫の音が部屋の中で響くように聞こえる。
「寝ました?」
「起きてるよ」
「で、どうなんですか?」
根津はゆっくり肘をついて起き上がると、眉間に皺を寄せ、湯呑みのお茶を一口飲み込む。息を深く吐き、こたつの中で胡座をかき直した。
「どのぐらい昔なのかは知らないが、昔っから近づくなと言われていた場所があった」
「それが」
「あぁ、その裏山だ」
「言うこと聞かない悪い子だったんですねぇ」
「うるさい」
ふふふ、と笑って由依は分厚い図鑑をこたつから下ろした。
「そういうのであれば、少し危険な感じもします。少々ここで待ってください」
「なんかするのか」
「ええ。記憶をちょっと覗かせてもらいます」
数分後、どの部屋まで行ったのは分からないが普段根津が入らない部屋から戻ってきたのは確かだった。大きな綿埃を被り、鼻や頬、掌や着ている着流しの裾までが煤で黒くなって戻って来た由依は、「ありました、ありました~」と呑気に言った。しかし、根津はギョッとした。由依のその手に持っているのがだだの象の形をした、赤いじょうろと銭湯でよく見かけるあの黄色い桶にしか見えなかったのだ。
埃を被ったそれらは、由依が歩くたびに小さな塵を飛ばした。せっかく先日掃き掃除から雑巾掛けまで終えた長ったらしい廊下に、その塵が舞ってしまった。根津は肩を落とし、何を言っても無駄な男を睨む。
「肇くん。台所に積み上がってる古紙、取って来てもらえますか。こたつのテーブルに敷いて欲しいです」
何も気にしていないであろうこの男は、相変わらず根津に対してにこやかな表情を見せる。根津は黙って立ち上がり、回収前の古紙束から数枚ほど新聞紙を取り出すと、由依に言われた通りにこたつの上に広げた。
「ありがとうございます。あ、このじょうろにお水を入れて来てください」
「水道水で良いのか?」
「ええ、構いませんよ」
根津はまた言われた通りにじょうろに水を入れた。ぎょろりと大きな象の目が特徴なこのじょうろは、埃というより少しだけカビのようなものが付着しているようにも見える。
「入れたぞ」
「じゃあ、ここに座ってください。溢すといけませんので新聞紙の上に一度じょうろを置いて……はい、では失礼します」
すると、由依は根津の背後に回り、髪の毛を数本抜き取った。
「痛っっっ!」
チクっとした強い痛みが、帯を引くようにじわじわと根津の後頭部を駆け巡る。反射的に手で痛む場所を抑えたが、すぐに痛みが引くことはない。
「何すんだっ!」
「大丈夫ですよ。肇くんにはまだたくさんありますから」
「ったり前だ!」
頭をさすりながら根津は由依を睨む。何をするつもりなのか全く明かそうとしない由依は、相変わらずニコニコと笑いながら抜き取った髪の毛を半分にした。
片方を桶の前に置き、もう片方の髪の毛を少しだけじょうろの前に置いた。
「あとは……これです」
着流しの袖から小さな小瓶を取り出した。
中には綺麗な群青色の粉が半分程入っている。
「……なんだ、それ」
「思い出してミーナ、です」
無理やりダミ声を出し、某アニメの人気ロボットのモノマネをされ、根津は、舌打ちをした。
「ここは乗るところですよ」
「良いから、なんだっつーの」
「とある花を粒子にしたものです」
「花?」
「この粉を、じょうろの水に溶かしてください」
小瓶を根津の手に持たせた。
「俺がやんのか?」
「ええ。あなたの記憶ですから」
根津は小瓶の栓を抜き、由依がストップと声をかけるまでじょうろの中へ粉を流し込んだ。水が青く染まりかけた程で声をかけられ、小瓶にもう一度栓をする。次に由依は先ほど桶の前に置いていた根津の髪の毛を桶の中心へ入れ、もう半分に分けた髪の毛をじょうろの中に入れた。
「さて、これで完成です」
「気持ち悪い自由研究だな」
「まぁまぁ。さ、象さんのじょうろのお水を、ゆっくり円を書くように桶に入れてください」
うぇぇ、と舌を軽く噛みながら根津は言われた通りに水を桶へと入れた。黄色い桶に入っていく青い水はだんだんエメラルドグリーンへと色を変える。
「綺麗ですねぇ」
「俺の髪の毛入れてんのにか」
「肇くんの記憶を覗くのですから仕方ないじゃないですか。記憶を司る海馬の近くにある髪の毛を使うのが重要なんです」
「海馬って前の方だろ。アンタが抜いたのは後頭部の毛だ」
「もぅ。細かい男はモテませんよ」
ぷくっと頬を膨らませる。根津はまたうげぇ、と声を出した。
「で、これで何が見えるんだ?」
まだ少しじょうろには水が入っているが、溢れる前に一度入れるのをやめ、テーブルの上に置いた。
「まぁ、見ていてくださいな」
根津を退かした由依はいつの間にか羽織っていたどてらを脱いでいた。両腕の袖をくるくると捲り、二の腕のあたりまで袖を捲り上げると、落ちないように洗濯バサミで固定した。どっから出したんだ、と言わんばかりの目で彼を見ている根津を由依はクスクスと笑う。
「……何だよ」
「お静かに」
由依は膝立ちになり、両手を桶の中に入れると目を閉じた。すると、由依の手の平から光が溢れ、水の中から大きな眩しい青い光が放たれた。
「うわっ」
思わず根津は目を細めた。あまりにも目に刺さるような光に驚いて、身体も軽く仰け反ってしまう。一方で由依は先程と変わらない姿勢のまま、じっと光を見つめていた。
「肇くん、そろそろです。見えますよ……!」
由依は眩しく光る桶の中を見るように言った。根津が目を細めたまま、顔を桶に近づけるとと、その光が桶から溢れ出し帯状の光と変わった。
「なっ」
「痛くないので我慢ですっ」
「い、痛くないとかっ、そういう問題じゃないだろっ」
帯状の光は根津の頭に鉢巻のように巻きつく。目のすぐ上が光を放っているため、より目を開いているのが厳しい状態だった。
「目が痛いっ」
「我慢です、肇くん!夢で見た祠を一度思い出してください」
「あぁ?祠?」
「はい。そしてゆっくり目を閉じて……」
祠を頭の中に思い出す。日が落ちて暗くなった山の中、ポツンと寂しげに建つ古びた組み木で造られた祠。周りの石畳、木々の揺れ。風の強さ。祠を思い出すだけなのに、根津の頭の中には別の情景が浮かび上がってきた。
『早く、早く早く早く。思い出せ』
炎は大きくなり、揺れて自分を飲み込む。熱さは消えるが息苦しさは増した。ふわりと何かが肩や首、頭を飛んで移動していく。
重さは感じないが、跳ぶ拍子に軽く蹴られる感触がした。見えない何かを振り払おうと身体を動かすがまったく状況が変わらない。
耳元でクスクスと笑われる声が響き、脳内に声が入り込む。
『見つけたからね、肇……』
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通勤鞄でも軽減さを重視する彼の片手には大きな紙袋がぶら下がっている。上司には昨夜のうちに伝えていたし、通勤ラッシュの時間を避けてはみたが、まだ混雑は緩和されない。根津は押しつぶされそうになりながら踏ん張り、満員電車内で紙袋を早々に投げ捨てたいと思った。
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「こたつへどうぞ」
にこにこと笑いながら言う。根津はコートを脱ぎながら由依の後ろを歩き、居間に向かった。長い廊下は彼らが歩くたびに軋む音を鳴らす。縁側から差し込む陽射しで外気との気温差に驚いた。
「本当……まだ仕舞ってないのかよ」
根津がこたつを見て悪態を吐いた。
「年中出してても罰は当たりませんよ」
「そりゃ、そうだが……」
荷物を下ろし、根津は足をこたつの中へ入れた。
「社に戻るのが怠くなりそうだ」
「ふふふ、私は居て頂いても構いませんよ」
「そうはいかねぇんだよ」
根津は持って来た紙袋を由依に渡した。
「おや、お土産ですか?」
「あの座敷わらしには入り用だろ」
由依が中身を覗くと、中には同じタイトルの本が二、三冊入っていた。
「あれ、発売日今月末でしたよね。少し早いのでは?」
「一番最初のやつ掻っ攫ってきた。出版社からそのうち残りの献本が届くはずだ」
「肇くんは相変わらずお優しいですねぇ」
由依はその本を一冊取り出し、根津の向かい側に座った。こたつに入りながらポットからお茶っ葉の入った急須にお湯を入れる。それを見ていた根津は手を伸ばして近くの戸棚から湯呑みを二つ取り出した。
「さやさんがいらしたら早速やりましょう」
湯呑みを二つ自分の方へ寄せると、急須を優しく揺らした。
「すぐやるんじゃねぇのか」
由依はお茶を湯呑みに淹れる。お茶の渋い香りがその一帯に広がった。
「咲さんは小説の登場人物ですから、さやさんが想像して作り上げた女性でなければ意味がないでしょうし、それに……」
由依はお茶を一口啜る。静かな居間に時計の音と冷蔵庫の音だけが響いた。
「あなたがここへ来る日は隠れてしまうようになりましたので」
「……は?」
由依は眉をハの字に寄せ、苦笑いを浮かべた。
「この間、うちに泊まったでしょう。あの時なんで私が強くあなたを引き止めたか……分かりますか」
強い眼力が根津を捉えて離さない。目をそらす事も出来ない力に、根津はゆっくりと息を吐いて答えた。
「さぁな……。ただの気まぐれだったとしか」
「夢に出てきた祠に見覚え、ありますね?」
どきっとして思わず目を泳がせた。由依の表情はまったく変わらない。
「なんでそれを」
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「覗き見なんて趣味悪いぞ」
「なんとでも。それで、あなたは何を思い出したのですか?」
ゴクリと生唾を飲んだ。根津は確信した、全部バレている、と。
「別に。見たことのある祠だった、ぐらい」
「本当に?」
「あぁ。本当に」
「……まぁ、肇くんが嘘をつくとは思いませんので信じますが……。私の目は誤魔化せませんよ」
にこりと笑う由依に何も言い返せない根津は湯呑みのお茶を一口飲み込んだ。
「ハッキリと覚えてねぇんだよ」
にこにこ顔に負けた根津は溜息交じりに片手で頬杖をつきながら答えた。腕時計をちらりと確認し、まだ大丈夫であることが分かると胡座をかいていた足を崩し、そのまま寝転んだ。
「覚えていない、とは」
「子どもの頃、って言っても中学生ぐらいのことだな、あの祠で何かあったのは確かだ。ただ、気がついたら祠の前で倒れてたってぐらいで」
「何故、祠に行ったのかは覚えてますか?」
「あー……」
うーん、と唸って頭の後ろで手を組む。
「肝試しをするとかであの祠のある裏山に行った。夏休みだったな……。そこまでは覚えている」
ぼんやりと違和感のある記憶が頭中で渦を巻く。当時もそうやって何度か思い出そうとした。学校の補講授業が終わってから、友人達と肝試しに行く約束をし、あの裏山へ行った筈だ。
「そこって、どんな山ですか」
「だだの学校の裏山だ。茂ってるような山でもなくて……結構木々の間から民家が見えていた気がする」
「へぇ」
湯呑みが置かれる小さな音がした。由依は以前引っ張り出してそのままこたつの近くに放っておいた、妖怪図鑑を開く。
「どうしてそこで妖になる」
ページのめくれる音が聞こえ、根津は寝転がっていた身体を中途半端に起こした。
「そりゃ、祠がひとりでに喋るわけがありませんからね。あなたも聞いたのでしょう、早くしろだなんだという子どもっぽいくせに嫌に禍々しさが残るあの声……。覗かせて頂いた私にもハッキリと聞こえました」
「その、覗いたっつーの、やめろよ」
「安心してください、涎は拭いておきましたよ」
「寝ている俺に触るな」
「まあまあ、恥ずかしがり屋さんですねぇ」
根津は舌打ちをしてまた寝っ転がる。くすくすと笑いながら由依はまたページをめくっていた。
「本当にただの裏山ですか?もしかして……入ってはいけないとかそういう言い伝えは、ありませんでしたか?」
由依は後半を強めに言った。時計と冷蔵庫の音が部屋の中で響くように聞こえる。
「寝ました?」
「起きてるよ」
「で、どうなんですか?」
根津はゆっくり肘をついて起き上がると、眉間に皺を寄せ、湯呑みのお茶を一口飲み込む。息を深く吐き、こたつの中で胡座をかき直した。
「どのぐらい昔なのかは知らないが、昔っから近づくなと言われていた場所があった」
「それが」
「あぁ、その裏山だ」
「言うこと聞かない悪い子だったんですねぇ」
「うるさい」
ふふふ、と笑って由依は分厚い図鑑をこたつから下ろした。
「そういうのであれば、少し危険な感じもします。少々ここで待ってください」
「なんかするのか」
「ええ。記憶をちょっと覗かせてもらいます」
数分後、どの部屋まで行ったのは分からないが普段根津が入らない部屋から戻ってきたのは確かだった。大きな綿埃を被り、鼻や頬、掌や着ている着流しの裾までが煤で黒くなって戻って来た由依は、「ありました、ありました~」と呑気に言った。しかし、根津はギョッとした。由依のその手に持っているのがだだの象の形をした、赤いじょうろと銭湯でよく見かけるあの黄色い桶にしか見えなかったのだ。
埃を被ったそれらは、由依が歩くたびに小さな塵を飛ばした。せっかく先日掃き掃除から雑巾掛けまで終えた長ったらしい廊下に、その塵が舞ってしまった。根津は肩を落とし、何を言っても無駄な男を睨む。
「肇くん。台所に積み上がってる古紙、取って来てもらえますか。こたつのテーブルに敷いて欲しいです」
何も気にしていないであろうこの男は、相変わらず根津に対してにこやかな表情を見せる。根津は黙って立ち上がり、回収前の古紙束から数枚ほど新聞紙を取り出すと、由依に言われた通りにこたつの上に広げた。
「ありがとうございます。あ、このじょうろにお水を入れて来てください」
「水道水で良いのか?」
「ええ、構いませんよ」
根津はまた言われた通りにじょうろに水を入れた。ぎょろりと大きな象の目が特徴なこのじょうろは、埃というより少しだけカビのようなものが付着しているようにも見える。
「入れたぞ」
「じゃあ、ここに座ってください。溢すといけませんので新聞紙の上に一度じょうろを置いて……はい、では失礼します」
すると、由依は根津の背後に回り、髪の毛を数本抜き取った。
「痛っっっ!」
チクっとした強い痛みが、帯を引くようにじわじわと根津の後頭部を駆け巡る。反射的に手で痛む場所を抑えたが、すぐに痛みが引くことはない。
「何すんだっ!」
「大丈夫ですよ。肇くんにはまだたくさんありますから」
「ったり前だ!」
頭をさすりながら根津は由依を睨む。何をするつもりなのか全く明かそうとしない由依は、相変わらずニコニコと笑いながら抜き取った髪の毛を半分にした。
片方を桶の前に置き、もう片方の髪の毛を少しだけじょうろの前に置いた。
「あとは……これです」
着流しの袖から小さな小瓶を取り出した。
中には綺麗な群青色の粉が半分程入っている。
「……なんだ、それ」
「思い出してミーナ、です」
無理やりダミ声を出し、某アニメの人気ロボットのモノマネをされ、根津は、舌打ちをした。
「ここは乗るところですよ」
「良いから、なんだっつーの」
「とある花を粒子にしたものです」
「花?」
「この粉を、じょうろの水に溶かしてください」
小瓶を根津の手に持たせた。
「俺がやんのか?」
「ええ。あなたの記憶ですから」
根津は小瓶の栓を抜き、由依がストップと声をかけるまでじょうろの中へ粉を流し込んだ。水が青く染まりかけた程で声をかけられ、小瓶にもう一度栓をする。次に由依は先ほど桶の前に置いていた根津の髪の毛を桶の中心へ入れ、もう半分に分けた髪の毛をじょうろの中に入れた。
「さて、これで完成です」
「気持ち悪い自由研究だな」
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うぇぇ、と舌を軽く噛みながら根津は言われた通りに水を桶へと入れた。黄色い桶に入っていく青い水はだんだんエメラルドグリーンへと色を変える。
「綺麗ですねぇ」
「俺の髪の毛入れてんのにか」
「肇くんの記憶を覗くのですから仕方ないじゃないですか。記憶を司る海馬の近くにある髪の毛を使うのが重要なんです」
「海馬って前の方だろ。アンタが抜いたのは後頭部の毛だ」
「もぅ。細かい男はモテませんよ」
ぷくっと頬を膨らませる。根津はまたうげぇ、と声を出した。
「で、これで何が見えるんだ?」
まだ少しじょうろには水が入っているが、溢れる前に一度入れるのをやめ、テーブルの上に置いた。
「まぁ、見ていてくださいな」
根津を退かした由依はいつの間にか羽織っていたどてらを脱いでいた。両腕の袖をくるくると捲り、二の腕のあたりまで袖を捲り上げると、落ちないように洗濯バサミで固定した。どっから出したんだ、と言わんばかりの目で彼を見ている根津を由依はクスクスと笑う。
「……何だよ」
「お静かに」
由依は膝立ちになり、両手を桶の中に入れると目を閉じた。すると、由依の手の平から光が溢れ、水の中から大きな眩しい青い光が放たれた。
「うわっ」
思わず根津は目を細めた。あまりにも目に刺さるような光に驚いて、身体も軽く仰け反ってしまう。一方で由依は先程と変わらない姿勢のまま、じっと光を見つめていた。
「肇くん、そろそろです。見えますよ……!」
由依は眩しく光る桶の中を見るように言った。根津が目を細めたまま、顔を桶に近づけるとと、その光が桶から溢れ出し帯状の光と変わった。
「なっ」
「痛くないので我慢ですっ」
「い、痛くないとかっ、そういう問題じゃないだろっ」
帯状の光は根津の頭に鉢巻のように巻きつく。目のすぐ上が光を放っているため、より目を開いているのが厳しい状態だった。
「目が痛いっ」
「我慢です、肇くん!夢で見た祠を一度思い出してください」
「あぁ?祠?」
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怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
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