アミュレット・フォー・マイ・エンジェル

峰迫ケイト

文字の大きさ
1 / 8
第1章

帰郷



 樹希いつきは久しぶりに、第二の故郷である館山に帰って来た。
 
 東京生まれの彼は、十歳のとき母の郷里である館山へ連れてこられ、十五歳までの少年時代を母子おやこで過ごしたのだ。

 最初に足が向いたのは、通っていた中学校の裏手にある高台だった。小高い丘にあるその場所からは校庭を一望でき、かつて住んでいた街並みや、遠く春の陽気にぼんやりとかす鏡ヶ浦かがみがうらの海岸線までを見渡すことができる。

 中学を卒業後、東京の高校へ進学し寮生活を送った彼は、そのまま都内の私立大の経済学部に入学し、二回生になっていた。

 今日はゴールデンウィークの最終日。この地で親友になった光汰こうたに促され、ふらりと戻ってきた。かつてはいつも、この高台に続く急な坂を光汰と一緒に自転車で懸命にいで登り、ここからの景色を見ながら他愛もない会話をしたものだ。

 朝から長く電車に揺られた樹季は、両腕を頭上で組み、華奢きゃしゃな体を大きく伸ばした。五月の初めとはいえ、正午近くなると少し汗ばむほどの陽気で、急な坂を徒歩で登ってきた彼の白い肌はわずかに上気している。

 新緑の薫る瑞々みずみずしい大気を吸い込み、味わい、大きく深呼吸した。一陣の風がどうっと吹き渡り、柔らかく細い髪が、陽光にきらめきながらさらさらとなびく。

 まもなく二十歳はたちを迎えるにしては、樹季の顔だちはどこか少年ぽさを残していた。すっと通った鼻筋と、形のよい小さめの唇を、美しいカーブを描く細いあごのラインが縁取っている。目に埃が入った気がした彼は、くっきりとした二重の瞳をこすり、長い睫毛まつげしばたかせた。

 樹季は肌身につけているキーケースから、古い一セント硬貨を取り出し、見つめる。それは五年前、この場所で光汰に譲られたものだった。店でキーホルダーに加工してもらったとき、穴を開けないよう、なるべく傷つけないようにと頼んだ。

 店員は、銀を太い針金状に細工して枠を作ってから、硬貨をしっかりとはめ込み、上の部分にチェーンを通す部分を作ってくれた。硬貨そのものの価値に比べたら、純銀製のキーホルダーの値段の方が百倍もしただろう。だが、裸で持ち歩いて失くすことが何より怖かった彼は、東京に移るとすぐ専門店を探し、貯めていた小遣いをはたいた。

 樹季にとってこの一セント硬貨は、絶対に失くすことができないお守りだった。



 しばらく思い出にふけるようにたたずんだあと、ふと我に返ると携帯を取り出し、実家の工務店に電話をかけた。母はそこの代表の妻だが、事務員としても勤めている。店は定休日だった。気軽に帰っておいでとうながす母に、家よりも外で会いたいと遠慮がちに告げると、母は中学校の近くのファミリーレストランで会おうと提案した。

 樹季がレストランに着くと、母は先に着いて待っていた。ずいぶん急いで来たらしく、少し息を切らせて座っている。樹季に気が付くと、うれしそうに顔をほころばせた。

「樹季、こっちよ」

「母さん、ごめん。待った?」

 樹季は、実家に寄り付かなかった。年末年始や盆休みだけでも帰省するよう母に請われ応じていたが、最近はそれすら何かと理由をつけ断っていた。めったに帰って来ない息子にしびれを切らし、母は食料や衣料を抱え、ときおり彼の東京のアパートを訪ねてくる。最後に顔を合わせたのは、三月の末頃だろうか。

 気まずさをぬぐえないまま、向かいの席に座った。樹季とよく似た端正な顔立ちの母は、くせのないロングヘアを後ろでひとつにくくり、背中に流している。薄い化粧で穏やかに微笑むその顔に、若かった頃の華やかさはない。だが、少し老けたとはいえ、四十代半ばを過ぎても、彼女は未だ美しかった。

「樹季、変わりはない? 少し痩せたみたいだけど……。ちゃんと食事してる? 勉強やバイトで忙しいのは解るけど、せめてお盆やお正月には帰ってきてね。父さんも心待ちにしてるのよ」

 母が『父さん』と呼んだ男は、樹季にとっては義理の父……母の再婚相手だった。

 樹季がまだ東京に暮らしていた十歳の頃、実の父親は立ち上げた事業に失敗して自暴自棄になり、母や樹季に暴力を繰り返すようになった。たまりかねた母は樹季を連れ、着の身着のままで東京を去り館山に戻った。母子おやこ二人、小さなアパートで肩を寄せ合うように暮らしながら、事務員として働き、シングルマザーとして彼を育ててくれたのだった。

 そして五年前、勤務先の工務店の社長に望まれ、再婚した。二十歳近く年上の相手との結婚……。母は、自分のために望まない結婚をしたのではないかという思いが、ずっと樹季を苦しめていた。

「母さん、今、幸せ……?」

 猫舌の樹季は、湯気の立つシーフードドリアの皿をスプーンで突ついて冷ましながら、小さな声で聞いた。

「もちろんよ。母さん、本当に幸せ。父さんも大事にしてくれるし……樹季を大学に入れることも出来たんだもの」

 母はコーヒーをひと口すすると、成長した息子の姿を目を細めて嬉しそうに見つめた。

「ねぇ、今日はうちに泊まっていけるでしょう? ご馳走作るわよ」

「ごめん……そうしたいけど、今日は光汰の所に泊まることになってんだ。明日には講義始まるから、大学に戻らなきゃならないし」

「そう……残念ね。でも、夏休みにはきっと帰ってきて。約束よ」

 わざと連休の最終日に帰ったのは、実家に戻らずにすむ口実が作りやすかったからだ。うつむく母の寂しそうな顔を見ていられなくなり、樹季は舌を火傷しそうになりながら、ドリアを急いでき込んだ。




 樹季いつきは母と別れたあと、少年時代を過ごした街をあちこちぶらついて時間を潰した。ゆっくりと西へ傾く日差しを背に受けながら、光汰こうたのアルバイト先へ向かう。夕方には仕事が終わるので、そこで待ち合わせする約束だった。

 駅前の商店街から少し離れた光汰のバイト先は、酒類のディスカウントショップだった。周りにはシャッターを下ろし休業中の店舗が多く、少しさびれた印象の残る一角だが、週末に車でまとめ買いに来る客が多いらしく、繁盛していた。光汰は主に、週末や祝日にそこで働いていた。

「おう! 樹季! 久しぶり」



 よく響く、明るい声。光汰は、日に焼けた肌に無地の白いTシャツ一枚をまとい、タオルを首にかけていた。膝のところが少しほつれた洗いざらしのデニムパンツが、長い脚によく似合っている。重たいビールケースを楽々と抱え、トラックの荷台から降ろしていた。背は高いがひょろっとしていた身体に、いつの間にか均整のとれた筋肉がついていた。

「光汰、お前、また背延びたんじゃないか? ガキの頃なんて俺より低かったくせに……」

 樹季が少しねたように言うと、光汰は屈託くったくなく笑った。

「お前だって、まだこれから、ちょっとは伸びるかもしれねぇだろ。もう少しで終わるから、ちょっと待っててくれ」

 五年前、樹季は色々なものから逃げた。母からも。新しく父となった男からも。そして、目の前のこのまぶしい笑顔からも。

 樹季は、そのさらに昔、母と共に逃げるように館山に来た十歳の頃に思いをせていた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科 空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する 高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体 それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった 至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する 意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク” 消える教師 山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー

幼馴染がいじめるのは俺だ!

むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに... 「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」 「はっ...ぁ??」 好きな奴って俺じゃないの___!? ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子 ーーーーーー 主人公 いじめられっ子 小鳥遊洸人 タカナシ ヒロト 小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。 姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。 高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、 脳破壊。 千透星への恋心を自覚する。 幼馴染 いじめっ子 神宮寺 千透星 ジングウジ チトセ 小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。 美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている) 転校生の須藤千尋が初恋である

happy dead end

瑞原唯子
BL
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」 シルヴィオは幼いころに第一王子の遊び相手として抜擢され、初めて会ったときから彼の美しさに心を奪われた。そして彼もシルヴィオだけに心を開いていた。しかし中等部に上がると、彼はとある女子生徒に興味を示すようになり——。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

愛され方を教えて

あちゃーた
BL
主人公リハルトは自分を愛さなかった元婚約と家族のために無惨に死んだ…はずだった。 次に目が覚めた時、リハルトは過去に戻っていた。 そこは過去のはずなのにどこかおかしくて…

抱擁

月那
BL
中司和泉は妻子持ちの男と不倫関係にあった。 三年以上続いているその関係は、和泉にとって苦しくてたまらなくて。でも体だけでも繋がっていられる時間が幸せで、別れることなんてできなくて。 そんな切ない時間を過ごしている和泉の前に、和泉を好きだという男が現れて。

計画的ルームシェアの罠

高木凛
BL
両親の転居をきっかけに、幼馴染の一ノ瀬涼の家に居候することになった湊。 「学生のうちは勉強に専念しろ」なんて正論を吐く涼に反発しながらも、湊は心に決めていた。 しかし湊は知らない。一ノ瀬涼の罠に。 【初回3話は毎日更新! 以降は火・木19時更新予定】