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第1章
帰郷
しおりを挟む樹希は久しぶりに、第二の故郷である館山に帰って来た。
東京生まれの彼は、十歳のとき母の郷里である館山へ連れてこられ、十五歳までの少年時代を母子で過ごしたのだ。
最初に足が向いたのは、通っていた中学校の裏手にある高台だった。小高い丘にあるその場所からは校庭を一望でき、かつて住んでいた街並みや、遠く春の陽気にぼんやりと霞む鏡ヶ浦の海岸線までを見渡すことができる。
中学を卒業後、東京の高校へ進学し寮生活を送った彼は、そのまま都内の私立大の経済学部に入学し、二回生になっていた。
今日はゴールデンウィークの最終日。この地で親友になった光汰に促され、ふらりと戻ってきた。かつてはいつも、この高台に続く急な坂を光汰と一緒に自転車で懸命に漕いで登り、ここからの景色を見ながら他愛もない会話をしたものだ。
朝から長く電車に揺られた樹季は、両腕を頭上で組み、華奢な体を大きく伸ばした。五月の初めとはいえ、正午近くなると少し汗ばむほどの陽気で、急な坂を徒歩で登ってきた彼の白い肌はわずかに上気している。
新緑の薫る瑞々しい大気を吸い込み、味わい、大きく深呼吸した。一陣の風がどうっと吹き渡り、柔らかく細い髪が、陽光に煌きながらさらさらとなびく。
まもなく二十歳を迎えるにしては、樹季の顔だちはどこか少年ぽさを残していた。すっと通った鼻筋と、形のよい小さめの唇を、美しいカーブを描く細い顎のラインが縁取っている。目に埃が入った気がした彼は、くっきりとした二重の瞳をこすり、長い睫毛を瞬かせた。
樹季は肌身につけているキーケースから、古い一セント硬貨を取り出し、見つめる。それは五年前、この場所で光汰に譲られたものだった。店でキーホルダーに加工してもらったとき、穴を開けないよう、なるべく傷つけないようにと頼んだ。
店員は、銀を太い針金状に細工して枠を作ってから、硬貨をしっかりとはめ込み、上の部分にチェーンを通す部分を作ってくれた。硬貨そのものの価値に比べたら、純銀製のキーホルダーの値段の方が百倍もしただろう。だが、裸で持ち歩いて失くすことが何より怖かった彼は、東京に移るとすぐ専門店を探し、貯めていた小遣いをはたいた。
樹季にとってこの一セント硬貨は、絶対に失くすことができないお守りだった。
しばらく思い出に耽るように佇んだあと、ふと我に返ると携帯を取り出し、実家の工務店に電話をかけた。母はそこの代表の妻だが、事務員としても勤めている。店は定休日だった。気軽に帰っておいでと促す母に、家よりも外で会いたいと遠慮がちに告げると、母は中学校の近くのファミリーレストランで会おうと提案した。
樹季がレストランに着くと、母は先に着いて待っていた。ずいぶん急いで来たらしく、少し息を切らせて座っている。樹季に気が付くと、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「樹季、こっちよ」
「母さん、ごめん。待った?」
樹季は、実家に寄り付かなかった。年末年始や盆休みだけでも帰省するよう母に請われ応じていたが、最近はそれすら何かと理由をつけ断っていた。めったに帰って来ない息子に痺れを切らし、母は食料や衣料を抱え、ときおり彼の東京のアパートを訪ねてくる。最後に顔を合わせたのは、三月の末頃だろうか。
気まずさを拭えないまま、向かいの席に座った。樹季とよく似た端正な顔立ちの母は、癖のないロングヘアを後ろでひとつに括り、背中に流している。薄い化粧で穏やかに微笑むその顔に、若かった頃の華やかさはない。だが、少し老けたとはいえ、四十代半ばを過ぎても、彼女は未だ美しかった。
「樹季、変わりはない? 少し痩せたみたいだけど……。ちゃんと食事してる? 勉強やバイトで忙しいのは解るけど、せめてお盆やお正月には帰ってきてね。父さんも心待ちにしてるのよ」
母が『父さん』と呼んだ男は、樹季にとっては義理の父……母の再婚相手だった。
樹季がまだ東京に暮らしていた十歳の頃、実の父親は立ち上げた事業に失敗して自暴自棄になり、母や樹季に暴力を繰り返すようになった。堪りかねた母は樹季を連れ、着の身着のままで東京を去り館山に戻った。母子二人、小さなアパートで肩を寄せ合うように暮らしながら、事務員として働き、シングルマザーとして彼を育ててくれたのだった。
そして五年前、勤務先の工務店の社長に望まれ、再婚した。二十歳近く年上の相手との結婚……。母は、自分のために望まない結婚をしたのではないかという思いが、ずっと樹季を苦しめていた。
「母さん、今、幸せ……?」
猫舌の樹季は、湯気の立つシーフードドリアの皿をスプーンで突ついて冷ましながら、小さな声で聞いた。
「もちろんよ。母さん、本当に幸せ。父さんも大事にしてくれるし……樹季を大学に入れることも出来たんだもの」
母はコーヒーをひと口すすると、成長した息子の姿を目を細めて嬉しそうに見つめた。
「ねぇ、今日はうちに泊まっていけるでしょう? ご馳走作るわよ」
「ごめん……そうしたいけど、今日は光汰の所に泊まることになってんだ。明日には講義始まるから、大学に戻らなきゃならないし」
「そう……残念ね。でも、夏休みにはきっと帰ってきて。約束よ」
わざと連休の最終日に帰ったのは、実家に戻らずにすむ口実が作りやすかったからだ。俯く母の寂しそうな顔を見ていられなくなり、樹季は舌を火傷しそうになりながら、ドリアを急いで掻き込んだ。
樹季は母と別れたあと、少年時代を過ごした街をあちこちぶらついて時間を潰した。ゆっくりと西へ傾く日差しを背に受けながら、光汰のアルバイト先へ向かう。夕方には仕事が終わるので、そこで待ち合わせする約束だった。
駅前の商店街から少し離れた光汰のバイト先は、酒類のディスカウントショップだった。周りにはシャッターを下ろし休業中の店舗が多く、少し寂れた印象の残る一角だが、週末に車でまとめ買いに来る客が多いらしく、繁盛していた。光汰は主に、週末や祝日にそこで働いていた。
「おう! 樹季! 久しぶり」
よく響く、明るい声。光汰は、日に焼けた肌に無地の白いTシャツ一枚を纏い、タオルを首にかけていた。膝のところが少し解れた洗いざらしのデニムパンツが、長い脚によく似合っている。重たいビールケースを楽々と抱え、トラックの荷台から降ろしていた。背は高いがひょろっとしていた身体に、いつの間にか均整のとれた筋肉がついていた。
「光汰、お前、また背延びたんじゃないか? ガキの頃なんて俺より低かったくせに……」
樹季が少し拗ねたように言うと、光汰は屈託なく笑った。
「お前だって、まだこれから、ちょっとは伸びるかもしれねぇだろ。もう少しで終わるから、ちょっと待っててくれ」
五年前、樹季は色々なものから逃げた。母からも。新しく父となった男からも。そして、目の前のこの眩しい笑顔からも。
樹季は、そのさらに昔、母と共に逃げるように館山に来た十歳の頃に思いを馳せていた。
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