アミュレット・フォー・マイ・エンジェル

峰迫ケイト

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第4章

告白

 光汰こうたは屋上の手すりに背中をもたれさせ、低い声で電話の相手と話していた。月のない夜で周囲は暗く、階下の街灯から漏れたわずかな光だけが、光汰のシルエットを浮かび上がらせている。頭上には、東京のよどんだ空では見られない無数の星が煌めいていた。

 強くなだめるような口調で、光汰の声が次第に大きくなっていく。屋上に出るドアは僅かに開いていた。その内側に身を潜め、樹季いつきは息を殺して彼の言葉を聞き取ろうとした。

「ごめん。やっぱり、もう、二人きりでは会えない……。いや、違うよ。嫌いになったとかじゃないんだ。お前、ホントにいいやつだし……嫌うわけないだろ? だから、そんなに泣かないでくれよ、綾香」

 アヤカ……確かに女の名前が聞こえた。樹季は動揺したが、どうやら別れ話らしい話の内容に、どこかほっとしていた。だが、次の瞬間、心臓が凍りつくような言葉が聞こえた。

「ちゃんと話してなくて……ごめん。実はさ、俺……もの凄く好きな奴がいるんだ。ずっと告白する勇気なくて……片想いで、寂しくってさ……。そんなとき、お前が俺にこくってくれて、ついオッケーしちまったんだ。こんなクズと付き合うの……お前も止めた方がいい。俺ももう、自分に嘘つくの……止めようと思うんだ。許してもらえないだろうし、友達に戻るのも無理かもだけど……。ほんと、ごめんな……。ひどいこと、したよな……」

 樹季はそれ以上聞いていられなかった。思わず両手で耳を塞いで目を閉じ、その場に立ちすくんだ。

 当たり前じゃないか。光汰だって、付き合った女の一人や二人、いるに決まってる……。胸を締め付けられるように感じながら、樹季は自分にそう言い聞かせた。だが一番辛かったのは、光汰が長い間、一途に想い続けているという女性の存在だった。

 どんな子だろう。きっと、光汰にお似合いの美人で、性格も良くて……そんな邪推じゃすいを巡らせていると、光汰がこちらに近付いてくる足音が聞こえた。樹季は急いで階段を駆け下りようとした。しかし間に合わず、ドアを開け戻ってきた光汰に見つかってしまった。

「樹季……? 何してんだ、こんな所で」

 樹季は答えることが出来なかった。立ち聞きをした自分の最低さと、光汰におもびとがいるという事実にさいなまれ、たまらなくなって、彼を押し退けて屋上に走り出た。

 今は、こんな自分の顔を見られたくない。暗がりに逃げ出した樹季を光汰は追いかけてきて、その腕をつかんだ。

「待てよ! こんな暗いとこで走るな! 危ねぇだろ!」

 樹季は、情けなくて涙をこらえきれなくなっていた。人前で涙をこぼすのは、光汰にお守りの一セント硬貨をもらった、あの十四歳のとき以来かもしれない。

 東京での学生生活にも慣れて、自分では、それなりに強くなったつもりでいた。それなのに、光汰にまた涙を見られ、少年時代から全く成長していないと思われるのが、たまらなく恥ずかしかった。顔を背けたまま声を殺して泣いている樹季に気付くと、光汰はその肩を掴んでそっと自分の方を向かせた。

「おい……どうしたんだよ? 何かあったのか?」

「光汰……。ごめん。さっきの電話、立ち聞きしたんだ」

 樹季は、観念したように、小さな声で謝った。

 光汰は驚いたのか、しばらく何も言わなかった。やっと口を開くと、

「な……何だよ。そんなことで泣いてんのか? 十九にもなって、相変わらず泣き虫だなぁ。お前、ちょっと悪ふざけしただけなんだろ。聞かれてちょっと気恥ずかしいけど……。女に振られただけだよ。気にすんな。大したことねぇよ」

 優しい口調だった。いつも、光汰はこうやって、樹季が何をしても激しく怒ったり拒絶することはなかった。いつも許し、受け入れてくれる……。その優しさが、今は逆に樹季には辛かった。自分がとことん嫌になるばかりで、つい、光汰の怒りを買うようなことを口走ってしまった。

「なんで、嘘……つくんだ?」

「嘘って……」

「振られたんじゃない、お前が振ったんじゃないか! さっきだって、女には全然モテないなんて見え透いた嘘つきやがって……ずっと好きな女がいるってことも、俺には少しも話してくれなかったくせに……何でも話してくれると思ってた、俺がバカだったよ!」

 支離滅裂だ。自分はいったい何を言っているのだろう。逆ギレにも程がある……。光汰は自分の気持ちを知らない。こんな風に嫉妬をぶつけられても、訳が解らないに決まっているのに……。樹季は、我に返ってあおざめた。光汰も戸惑ったのか、少し声を荒げて言った。

「じゃあ、お前はどうなんだ? 好きな奴のこと、一度でも俺に話してくれたことあったってのか? お互い様だろ!」

 樹季はぐっと言葉に詰まった。

「それは……」

「だから……お前も、そこまで立ち入らないでくれ……!」

 樹季の肩を掴む光汰の手に、一瞬ぐっと力が入り、低く押し殺すような声で、そう告げられた。樹季は、光汰に突き放されたような気がした。光汰のこんな冷たい声音こわねを聞いたのは、初めてかもしれない。

 樹季は激しく後悔していた。何のために五年間、光汰のそばから離れたんだ……。こんな風に好きな気持ちが膨らんで、抑えきれなくなるのを防ぐためじゃなかったのか。光汰に嫌われたくない。いつまでも弟のように思っていて欲しい。寂しさに耐えながら大切につちかい、守ってきた関係を、今、自分からぶち壊そうとしている。

 光汰への想いは、少しもいでなどいない。胸の中でいっそう大きく、より激しくなって、自分を翻弄ほんろうし、呑み込もうとしている。

 来るべきじゃなかった。まだ、光汰のそばには戻れない。

 そう確信した樹季は、光汰の腕を振り払うと、彼から離れて力なく歩いていき、背を向けてたたずんだ。

「ごめん……俺、どうかしてる。言いがかりつけて悪かった。ちょっと、頭冷やしていくよ。ここで星でも見てさ。お前、先に降りて、休んでろよ」

 光汰は、暗がりに立つ樹季を見つめていた。樹季の後ろ姿ははかない影でしか見ることができない。光汰は樹季に近づいていって、後ろから肩をそっとつかんだ。

「やめとけよ。そんな格好で……。湯冷めしちまうぞ。もう戻ろう。風邪引いたらどうすんだ」

「いいからっ、放せよ……!」

 樹季は再び、その手を振り払おうとした。このまま光汰のそばにいれば、自分を抑えることなど出来なくなると思ったからだ。だが光汰は、こんどは強く樹季の腕をつかみ、引き寄せ、自分の方を向かせた。

「樹季、逃げないでくれ……。顔を見せろよ」

 少しずつ暗闇に慣れてきた光汰の目に、涙で汚れた樹季の顔が映った。そっとほおを撫でると、光汰の掌は樹季の涙で濡れた。ためらうように、光汰は小さな声で樹季に問いかけた。

「俺、ひょっとして…お前のこと傷付けちまった……?」

 樹季は涙を見られるのが嫌で、なにも答えられず顔を横に背けた。どう答えていいかも解らなかった。今はただ、この場から逃げ出したい……その一心だった。だが光汰は、樹季の両腕を強くつかんで放そうとしない。

 光汰はそれ以上、なにも問いかけてはこなかった。しばらくの間、静寂と闇が二人を包む。時間にすれば一分にも満たなかっただろうに、樹季には、それが耐えがたいような長さに感じられた。

 痛いほどに両腕を拘束していた力が、ふっと緩んだ。樹季は、光汰を本気で怒らせたのではないかと不安になり、背けていた顔を光汰の方に向ける。暗闇に徐々に慣れてきた樹季の視界が、光汰の表情をとらえた。

 光汰は、うつむいて瞳を伏せていた。なにかを言いたげに口を僅かに開いては、下唇を噛みそれを押し留める。ときおり眉根まゆねを寄せ、心を決めかねるように視線を彷徨さまよわせた。それは怒りというより、辛い選択を迫られているような、酷く苦しげで、切なげな表情だった。

 光汰はやがて、自らを納得させるように、一度、小さくうなずいた。それから顔を上げ、ためらいのない強い眼差しで、樹季をまっすぐに見つめながら言った。

「さっきさ……傷跡、見せてくれただろ? もしかして、今でも痛んだりするのか?」

 光汰に顔を近付けられ、鼓動が速まるのを感じた樹季は、なるべく平静を保とうとしながら、その問いに答えた。

「大丈夫だよ。ガラスの破片は手術ですっかり取ってもらったから、痛くなんてない……。ただ、跡が残っただけだ」

「そうか……。俺さ、ガキの頃思ったんだ。お前に、こんなひでぇケガさせた、お前の親父を許せねぇって……。もし追い駆けてきても、俺が絶対にお前に近寄らせねぇって。でも、亡くなる前に会えて、お前のこと凄く大切に思ってたのが解ったから、もう怒っちゃいねぇけど……」

 樹季は胸が熱くなった。光汰がそんな話をしてくれたのは、初めてだったからだ。

「もう誰にも、お前を傷つけさせないって決めた。俺がずっと守るって……なのに、お前がここを離れるって言い出したとき、止めることも出来なくてさ。ほんとは、お前が行っちまうのなんて…絶対に……絶対に嫌だった。縄で縛り付けてでも、止めたかったんだ。だけど、お前、新しい家で暮らすの、マジ辛そうだっただろ……。ガキの俺には、なにも出来なかったし……。せめて励まして、送り出してやるしかないって思ったんだ。お前が行っちまったあと……なんで引き止めなかったんだって…ずっと……ずっと、後悔してた」

 樹季の胸に、あの時、あの高台で見せた、 光汰の寂しそうな横顔がよみがえった。

「光汰…そんな風に思ってたのか……?」

 母を一人置いて家を離れる罪悪感と、光汰への想いを断ち切るため逃げる自分への嫌悪感。それらに苦しんでいた自分を救ってくれたのは、他ならぬ光汰だった。

「一人で行っちまうなんて、ずいぶん強い奴になっちまったなって……ほんとは寂しかった。俺がこんなに心配してんのに…もう俺なんか要らねぇのかなって……。遠くから見守るくらいしか、できねぇのかなって……。そう思って、ずっと我慢してきたのに……。なんで、そんなに泣いてるんだよ……? なにをそんなに、傷ついてんだよ……?」

「光汰……?」

 樹季は、びくっと身体を震わせた。光汰が背中に両腕をまわし、深く抱きしめたからだ。耳元で、懸命に言葉をつむぎながら、小さな声でささやく光汰の声が聞こえた。

「俺……樹季が笑ってくれるなら、なんでもする。傷がまだ、泣くほど痛いってんなら……俺に…治させてくれよ……。俺なんかじゃあ……駄目か……? 俺のこと…どうしても嫌だってんなら……すぐ、ここから消えるよ。だけど俺……せめてお前が泣き止むまで…こうしてお前のそばにいたい……駄目か……?」

 呆然ぼうぜんとする樹季のあごに親指と人差し指を添え、そっと上向かせてから、光汰は樹季の唇に、自分のそれをそっと押し当てた。熱い吐息が唇をかすめ、躊躇とまどうように離れては、繰り返し優しく触れてくる。

 樹季は混乱していた。どれほど、光汰に触れられたいと願っていたことだろう。光汰の腕のなかにいることを夢のように感じながら、まるで現実とは思えないでいた。酔った光汰の、一時の気の迷いではないのか。あるいは、これは夢で、明日になればかすみのように、この出来事は消え去ってしまうのではないか。

「まっ……待てっ! 光汰……」

 光汰は、再び樹季の唇に触れようとしていたが、押し戻され、動きを止められた。

「お前…ずっと好きだった子がいるって……さっき言ってたじゃないか。なのにどうして、男の俺にこんなことしてるんだ……? その子も光汰のことがもし好きだったら……きっと悲しむだろ!」

 光汰は、樹季を抱きしめる腕にぐっと力を込める。

「お前は…俺にこんなことされたら……嫌か? 俺のこと、気持ち悪いって…軽蔑しちまう……?」

 その声は、いつも光汰が樹季に向けるものとは違い、酷く不安げで、すがるような、哀願するような声だった。

 嫌なわけがない。軽蔑されたくなかったのは自分の方だ……。夢にまで見た光汰の腕の中にいながら、樹季には、本当の気持ちを答える勇気がどうしても起きなかった。光汰は、そんな彼のほおをそっと包み、再び小さく口付けた。

「嫌なら言ってくれ……俺はお前が嫌がったら、それ以上何もしないって約束する。だって……お前さえ悲しい思いをしないなら、何ひとつ、問題ねぇんだよ」

 樹季は息を呑んだ。その言葉の意味を考えるのに、混乱した頭はしばらく時を要した。

「樹季さえいてくれたら……俺は……」

「光汰……!」



 樹季は、両腕を光汰の背中に回してしがみついた。まだ信じられなかった。夢でないことを確かめるように、両手で強く光汰の白いTシャツをき抱く。重い扉で何重にも封印するように、胸の中に閉じ込め続けた年月があまりにも長すぎて、この想いを、すぐに軽々しく言葉になんて出来ない。でも今、どうしても伝えなければならないと思った。

「ごめん……黙っ…てて……。俺も、光汰の……こと、ずっと…ずっと…好…き…だった……」

 泣きじゃくりながら、自らの心の蓋をこじ開ける想いで、掻き集めた言葉を心の奥から押し出した。とぎれとぎれにつむいだ告白に、光汰はわずかに肩を震わせ、潤んだ瞳で微笑んだ。それから、樹季を愛おしむようにさらに力強く抱きしめた。

「俺こそ…ごめんな……。お前に嫌がられるんじゃないかって……ひょっとしたら、絶交されちまうんじゃないかって……怖くて、ずっと言えなかった……。でも、お前がもし……万一でも俺のことを同じように思ってくれてるなら、ちゃんと伝えねぇわけにはいかないって、覚悟したんだ……。これからは、誰がなんと言おうと、必ずお前のそばにいるからな。もうどっか逃げようなんて、絶対……思わないでくれ……頼むから」

「うん……約束するよ」

 いつまでも続く抱擁を、暗い夜空にまたたくく星たちが音もなく包んでいた。樹季は涙で霞む視界の端に、すうっと流星が映った気がした。このまま時が止まればいい……樹季は、心の底からそう願った。




 屋上からの階段を降り、ベッドのそばの小さなランプだけが暖かく灯る薄暗い部屋に戻ると、光汰こうたはどこか思いつめた様子で、後ろに立つ樹季いつきに目を合わさずに黙々とソファに枕と毛布を運んだ。小さく息を吐いてから、ようやく振り返り、樹季を真剣な眼差しで見つめた。

「樹季、やっぱり俺、ソファで寝る。お前はベッド使うんだ。いいな?」

 光汰の声には、樹季に有無を言わせない響きがあった。樹季は困惑し、光汰に近づくと腕をつかんで必死に訴えた。

「なんで……? い……嫌だ! お前と一緒にいたい」

 やっと想いが通じあったのだ。今はひと時も離れたくなかった。朝には東京に戻らなくてはならない。そうすれば、またしばらくは会えないのだ。今夜はどうしても、光汰の暖かい腕の中で眠り、お互いの想いを確かめていたい。樹季は、この幸せが、明日になれば全て幻のように消えてしまうのではと、未だに恐れていた。

 光汰は樹季にすがられ、なだめるように彼を抱きしめた。背中を優しくでながらしばらく沈黙したあと、小さな声で切り出した。

「ごめん……俺、実は結構遊んでたんだ。お前がいなくなってからヤケになって……。何人か告ってくれた彼女と付き合ったり、別れたりを繰り返してた……。でも、今は誰とも付き合ってない。さっき電話してきた子とも、ちゃんと別れてる。本当だ」

 樹季は改めて光汰にそう告げられ、解っていたつもりでもショックを受けた。抱き締められていた身体から顔だけを少し離され、じっと見つめられる。

「樹季のこと……大事にしたいんだ。いきなり押し倒すなんてしたくない。今まで好きになってくれた子には悪かったけど、お前は特別なんだ。お前には、遊びだなんて思われるの……絶対に嫌だ。けどよ、情けないけど……くっついて寝ればきっと我慢できなくなるからさ……解ってくれるよな……?」

 光汰のタイトなデニムパンツの下の中心は熱を帯び、大きく形を変え始めながら、パジャマの布地越しに樹季の身体に触れていた。切なく息づくように鼓動するそれから、樹季は光汰が興奮を抑えようと懸命になっていると悟る。やがて光汰はたまらなくなったように、キスを求めてきた。

「眠る前に…キスだけ……していいか?」

 樹季は大きな不安に襲われ、ぎゅっと目をつむり、一瞬だが身体をよじって光汰から顔を背けた。

 光汰は息を呑み、動きを止めた。瞳を伏せ、悲しげに顔を曇らせる。ゆっくりと、樹季の腰に廻していた腕を降ろした。

「俺……汚れてるよな。最低だ。マジでゲス野郎だろ……。女の子何人も泣かしてさ……。こんな、遊び慣れた奴に触られるの、やっぱり…嫌だよな……」

「違う!」

 樹季は驚いて否定し、再び光汰の腕にすがってその瞳を見据えた。一瞬だが拒んでしまったのは、光汰の過去の恋人たちが頭をよぎったからに違いないが、樹季がいだいた不安は嫉妬だけではなかった。

 男の自分が満たせない欲望が、光汰にはきっと沢山あるんだろう。柔らかな唇にほお綺麗きれいで傷ひとつない、白く滑らかな肌。膨らみのある豊かな胸、くびれた腰。艶のある長い髪……。そんな対象に触れてきた光汰が、自分などで満足するはずがない。光汰が一線を越えることをためらっているのは、本当はそのせいではないかと疑った。

「違うんだ……そんなんじゃない。俺だって、綺麗きれい身体からだじゃないよ。こんな…痩せっぽちで、きたない傷跡だらけの……」

「何言ってんだ! 二度とそんなこと言ったら許さねえぞ……! もう絶対、そんな風に思うな」

 光汰は怒気をはらんだ声で言った。両手で樹季の二の腕を強くつかみ、正面から見据える。

「光汰……」

綺麗きれいに決まってるだろうが! お前がどんだけ綺麗な奴かは、俺が一番解ってる……だから、俺みたいな奴が、簡単に汚しちまうの……怖いんだ。だから、焦るの……止めよう。な?」

 光汰に対する離れがたい愛しさが、ただ樹季の胸を締め付けていた。光汰の身体は明らかにたかぶっているのに、かたくなに理性で踏み止まろうとする。樹季は、光汰が本当に自分を好きなのか、再び自信を失いかけていた。

 優しい光汰は、同情から自分の気持ちを察し、酔った勢いにまかせ受け入れたあげく、本心では後悔しているのではないか。身体が熱くなっているのも、状況に流されているだけと気づき、我に返って踏み止まろうとしているのではないだろうか。

 そんな疑いばかりが頭に浮かんでくる樹季は、自分が嫌でたまらなくなる。光汰も勇気を振り絞って、想いを打ち明けてくれたはずだ。頭ではよく解っているのに、彼の言葉をどうしても信じられない自分がいる。

 幼い頃はひたすら、父の怒りに触れぬよう、母を悲しませないように振る舞うのに必死だった。常に周りの顔色を伺い、期待されているだろう自分を演じてきた。そうやって自らの感情を抑えてきたのだ。

 他者の言葉の裏にある本心に思いを巡らすのが普通になり、光汰が真心を込めて伝えてくれた言葉にさえ、素直に心を開くことができない。光汰の裏表のないまっすぐな性格は、誰よりもよく解っているはずなのに……。

 どうしてこんな風になってしまったのだろう。夢にまで見た、幸せなはずの光汰とのひとときが、どうしてこんなにも辛いのだろう……。傷跡の奥が、痛みに小さくうずいた気がする。押し寄せてくる様々な感情に翻弄ほんろうされ、樹季は自覚のないまま涙を溢れさせていた。

 光汰は、もう逃げないでくれと言った。樹季は、もう逃げたりしないと約束したのだ。我儘わがままだと呆れられるかも知れない。疑い深いやつだと失望され、本当に嫌われてしまうかも知れない……。それでも、これが今の自分の姿なのだ。樹季の受けた傷を治したいと言ってくれた光汰なら、きっと受け止めてくれるはずだ。信じよう。嗚咽おえつに震えそうになる声で、樹季は光汰に切り出した。

「俺はずっと…お前が振り向いてくれることなんか絶対無いって思って……すごく辛かったんだ……。やっと一緒にいられて夢みたいだと思ってるのに……。今夜は…少しでも離れたくないって……抱き締めていて欲しいって思ってるのに……お前は違うのか?」

 不安に押し潰されそうになり、樹季は立ち尽くしたまま顔をうつむけ、足元にぽたぽたと涙のしずくを落とす。

「俺を大切にしたいって言うけど…本当は、男同志なんて無理って…女の子じゃなきゃ駄目だって…光汰もまだ、迷ってるんじゃないのか……? お前こそ、考える時間が欲しいなら……そう言ってくれ。俺……ちゃんと受け止めるから。光汰の本当の気持ちが知りたいんだ」

 光汰は樹季と向き合ったまま、腕を伸ばせば届く距離で彼を黙って見つめていた。

 少年のころから、樹季が我を忘れて泣き始めると、光汰は落ち着くまで優しく見守ってから、その手を引いて家路に導いてくれた。

 だが今夜は、光汰は樹季が泣き止むのを待たなかった。彼はとうとう自分を抑えきれなくなったかのように、樹季に覆い被さり再び強く抱きすくめた。樹季は華奢きゃしゃな腰をらせ、耳元で光汰の熱い吐息を感じる。

 光汰は樹季の背中と膝裏に素早く腕を廻し、高々と抱き上げた。樹季は驚きながら、光汰の真剣な眼差しを受ける。

「俺……時間なんていらない。他の誰もいらない。樹季しか、欲しくない。覚えとけ」

 光汰はそう言いながら、迷いない歩みで樹季をベッドに運ぶと、そっと降ろして横たわらせた。ベッドのスプリングが軽くきしみ、樹季は、早まる鼓動に、心臓が破裂してしまいそうに感じる。光汰は、てのひらで樹季の涙を拭ってやりながら、ささやいた。

「樹季、お前……初めてなんだろ?」

 かぁっと顔が赤くなるのを感じた樹季は、ただうなずいて答えた。

「俺も男とするの……初めてなんだ。上手くできるか自信ないけど…もし、痛かったり、苦しかったら、我慢しないで言って……」
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