上 下
12 / 14

(12) 誘惑

しおりを挟む
 それから、三時間も経っただろうか。

 よく晴れた昼下がりにも関わらず、室内は薄暗かった。紘也が全ての窓を閉め、カーテンも閉め切ったからだった。ときおり、外から通行人の話し声などが小さくれ聞こえてくる。

 リビングの広いソファの上では、悠太郎が横になり、静かな寝息をたてていた。ソファの前のローテーブルの上には、悠太郎が腕に着けていた銀のバングルだけが置かれている。紘也は、L字型のコーナーソファの一人がけの方の座面に座り、悠太郎を足元から見降ろしていた。

 コーヒーに入れた睡眠導入剤の効きめは、すぐに表れた。睡魔に襲われた悠太郎を紘也は抱きかかえ、引きずるようにソファまで運んできて寝かせたのだった。

 仰向けになった悠太郎の頭の下にはクッションが当てがわれ、その両手首は、彼の頭の上で白いタオルにくくられている。そしてそれは、さらにソファのひじ掛けの上で動かないように固定されていた。タオルにはキャンプ用のロープがつながれ、二本のロープの先はそれぞれがソファの脚に結ばれている。

 突然、大きなエンジン音が外から響いてきた。隣の家の住人は、大型のデュカーティに乗っている。どうやら、その男性がガレージからバイクを発進させたようだ。その音に目を覚ましたのか、悠太郎がわずかに身じろぎし、うなり声をあげる。

「う……ん」

 作戦を実行に移す覚悟を決めかね、思い悩んでいた紘也は我に返った。悠太郎がゆっくりと目を開ける。

「紘也……?」

 足元に座っている紘也に気付いたが、まだ意識がぼんやりしているようだった。

「俺……なんだか……急に眠くなって」

 体を動かそうとして、悠太郎の顔色が変わった。腕を縛られていることに、気が付いたようだ。

「お前……何したんだよ? 悪い冗談は、よせ。これ、外せよ……!」

 薬のせいでまだ体が重たいのか、悠太郎は無理に拘束こうそくを外そうとはせず、ただ気だるそうに抗議する。

 もう、後戻りはできない。そう思った紘也は、悠太郎の瞳をじっと見つめ、静かに言った。

「嫌だ。一度くらい、楽しませてもらわないと……割に合わないからね」

 悠太郎は幾度かまばたきしたあと、眉根まゆねを寄せてたずねた。

「何……言ってるんだ?」

「悠、何か勘違いしてるみたいだけど……。別に俺は、お友達になりたくてお前に近付いたわけじゃない。お前の世話を焼いたのも、全部、下心さ。お前がゲイだってことは、初めて会ったときから見抜いてたし」

 嘘だった。そしてさらに、自らをあざむくかもしれない嘘を重ねた。

「俺も、ゲイだからさ」

 紘也は確信を持てぬまま、そう断言した。女性を嫌悪する気持ちはあるが、男子に興味を持ったことなど一度もなかった。ただ一人だけ、悠太郎を除いては。

「お前が……?」

 悠太郎は目を見開き、驚愕きょうがくの表情をうかべた。紘也は無理に唇の端をつり上げ、冷たく笑って見せた。

「ねぇ、悠。そんなに深刻に考えないでさ、俺と付き合ってみなよ。俺は、お前とエッチさえできれば、それで満足だからさ……。好きになってくれとか、そんな重たいこと言う気はぜんぜんないし。お前だって、誰かとマジな関係になるのは、しんどいんだろ? ほら、体だけの関係っていうか……ただのセフレってやつ? 気楽でいいじゃない」

 悠太郎は顔を曇らせ、そのまなざしはとまどいに揺れた。納得できないかのように、紘也に慎重に問いかける。

「お前……そういうキャラじゃないだろ?」

 そう問われ、紘也はつい、必死で張っている虚勢が崩れそうになる。セックスどころか、妹以外とは異性と手をつないだ経験すらない自分が、同性である悠太郎を誘惑など出来るのだろうか。不安が再び、頭をよぎる。

「そういうキャラだよ」

 そう吐き捨てるように言うと、ソファから立ち上がり、デニムパンツを履いた悠太郎の腰の上にまたがった。ソファのスプリングが、音を立ててきしむ。紘也は乱暴に、悠太郎の着ているTシャツの裾をまくりあげ、裸の胸に両手のひらを這わせた。

 服を着ていたときは解らなかった。うっすらと肋骨が浮き出るほど、悠太郎の体は痛々しく痩せている。確かめるように胸をそっとさすると、温かく、滑らかな白い肌から、紘也の右手に心臓の鼓動が伝わってきた。悠太郎は辛そうに、紘也の顔を見つめながら言った。

「俺を……どうしたいんだ? 一体どうしたら、気が済むんだよ」

 自分に言い聞かせるように、紘也は答えた。

「お前が、欲しいんだ……。それだけさ」

 もう迷いはなかった。異性だろうが、同性だろうが、関係ない。もっと、ずっと、悠太郎のそばにいたい。触れてみたい……。その気持ちに、本能に、ただ従ってみようと思った。

 紘也は悠太郎の上から体をずらし、ソファの背もたれの側に、自らも横になって寄り添った。瞳を閉じ、悠太郎の胸に腕をまわして、強く抱きしめる。あれほど触れてみたかった存在が、腕の中にあった。コロンか、シャンプーの香りだろうか。紘也が顔をうずめた彼の首筋からは、ほのかな汗の匂いに混じり、ふわりとベルガモットの香りがする。紘也は胸の高鳴りを感じながら、その香りを味わうように、悠太郎の首筋を鼻先でくすぐり、唇を押しあて、舌先を優しく這わせた。

「くすぐったいったら……! いいかげん、ふざけるの、止めろよ……!」

 悠太郎は、せめてもの抵抗とでもいうように、両足を弱々しく、だが懸命に動かした。もし睡眠薬の効果が切れれば、武術にけた彼はこんな拘束など、一瞬で解いてしまうかも知れない。紘也は焦りを感じた。出来るか出来ないかは、解らない。でも悠太郎を、一刻も早く誘惑しなければと思った。

 同性だから、どうすれば悠太郎の体がたかぶるかは解っている。片手だけで悠太郎のデニムパンツの前のボタンを器用に外すと、ジッパーを引き下げ、下着の中に手のひらを滑りこませた。

「バカ……やめろっ!」

「安心して。気持ちよくしてあげるだけだから……」

 まだ力を持たない、温かなそれにそっと触れただけで、紘也はもっと悠太郎を翻弄ほんろうしたいという欲望に駆られた。体を起こすと、今度は両手を使い、悠太郎のデニムパンツを下着ごと大胆に引き下ろす。紘也は悠太郎を大切に手のひらに受け止めると、優しく揉み込みながら、ときに上下に動かし始めた。

「い…いやだ……! 嫌だって…言ってんだろっ……? もう……っ、は…はな…せ……!」

 悠太郎の呼吸は荒くなり、その声は切なげに震える。

 次第に弾力を増し、熱く脈打つようになった悠太郎を手のひらに感じながら、紘也はゆっくりと彼に顔を近付けていった。

 悠太郎は急に与えられた強い快感に抗えないのか、ほおを紅潮させ甘い吐息を吐くばかりで、身動きできないでいる。早く、彼の唇に触れたい……紘也の心臓も早鐘を打つ。紘也の唇と悠太郎の唇が、重なり合いそうになった。そのとき、それまでわずかな抵抗しか出来なかった悠太郎が、初めて激しく身をよじらせた。

「ダメだ……! やめろ! 他に何をしてもいい! でも、口にキスするのだけは、絶対に止めてくれ……!」

 驚いた紘也は、動きを止めた。悠太郎は瞳を固く閉じたまま、怯えたように体を震わせている。顔を背け、自由のきかない体で必死に抵抗する悠太郎をなだめるように、紘也は優しく語りかけた。

「解った。唇には触れない。約束するよ。だから悠も、暴れないでくれるかい……?」

 悠太郎はうっすらと瞳を開けると、紘也の問いかけに、力なくうなずいた。



 紘也は手を緩めず、ひたむきに悠太郎の屹立を愛撫し続けた。悠太郎の吐息のひとつひとつ、切なげに悶えるその動きひとつひとつが、紘也の中心にも熱を集める。愛撫しているのは自分の方なのに、まるで、悠太郎に愛撫されているような錯覚に駆られた。

「あっ……! はぁ……っ」

 悠太郎はこらえ切れなかったのか、大きく背中を仰け反らせたあと、とうとう紘也の手のひらを濡らす。

 肩で大きく息をし、脱力したようにソファーに体を沈める悠太郎のほおに小さく口付けたあと、紘也は悠太郎のTシャツをたくし上げ、その胸に顔をうずめた。ほんのりと紅く色づき、硬さを増した小さな乳首に強く吸い付き、舌で転がし、ときおり歯で甘噛みしていく。キスの雨は、ゆっくりと下へ、下へと移動しながら、再びもっとも敏感な場所へとたどり着き、容赦なく降り注いだ。悠太郎の呼吸が再び荒くなる。ためらいなく紘也の唇に飲み込まれた中心が力を取り戻すのに、時間はそうかからなかった。

「紘也……苦しい……よ。逃げない……逃げないから、もう腕……外して……」

 悠太郎は、白い肌を上気させ、恍惚とした表情で、紘也に訴える。紘也はゆったりとこうべを動かし、喉の奥まで彼を迎え入れて、優しく愛しんでいた。再び熟して弾けそうになっているそれを、いったん口から引き出すと、両手で支えながら、裏側に舌を丁寧に這わせる。震えながら露を引き結ぶ先端に唇を押し当て、音を立てて何度もキスをした。

「い…痛いよ……。頼むから…も…もう……っ」

 紘也の執拗な愛撫で、悠太郎の屹立には暖かい血潮が集まり、限界にまで大きく昂ぶっている。熱くなりすぎた中心に、悠太郎は快感よりもむしろ痛みを感じているようだった。苦しげに腰を揺らし、歯を食いしばってそれに耐えている。だが、縛られた手首も痛いのかもしれない……。紘也は心配になり、焦らすような愛撫を止めて悠太郎の願いを聞き入れた。

「解ったよ。今、外してあげる……」

 顔をあげ、ゆっくりと立ち上がると、紘也は悠太郎の両手首を一つにくくったタオルやロープを解き始めた。全ての拘束を外すと、悠太郎の横に立ち、ぐったりと横たわったままの彼の顔をのぞき込む。その視線を避けるように、悠太郎は自由になった手でまぶたを覆った。

「これも…罰……なのかな……。いっそ…身も……心も、とことん汚しちまえっていう……。俺なんかに…あいつの思い出を守る資格なんて……ないっていう……」

 震える声で、顔を隠したまま悠太郎はつぶやく。

 悠太郎が口走った『あいつの思い出』という言葉が、紘也の胸に突き刺さる。悠太郎が愛してやまない存在が、他にいるに違いなかった。紘也は残酷だと感じながらも、嫉妬心から悠太郎の言葉を肯定する。

「そうだよ。これは、罰だ……。でもお前は、罰を望んでるんだろう? ほんとはそれで、楽になれるんじゃないのか?」

 悠太郎はまぶたから手を外すと、うつろな瞳で天井を見上げて言った。

「紘也……」

「……ん?」

「付き合っても、いいぜ」

「ほんとに?」

「これが、ただの罰ゲームだって割り切ってくれるなら……オーケーだよ。俺は……堕ちるところまで堕ちてやる。お前は、思う存分楽しめばいい……。ただ、約束してくれ。遊びのうちはいいけど……もし、俺か、お前のどっちかが本気になったりしたら、必ず……別れるって」

 紘也の胸が、切なく痛む。すでに紘也は悠太郎のことを、本気で好きに違いなかった。だが、それは隠し通すしかない。どんな形であれ、悠太郎とのつながりを断たずに済んだのだ。本当の気持ちとは裏腹なことを、紘也はやっとの思いで言ってのけた。

「言っただろ? 俺は、今が楽しかったらそれでいいんだ。マジになる心配なんてないけど、もしそうなったら約束は守るよ」

 紘也がそう答えたことで、契約が成立した。悠太郎は自由になった体をソファーから起こし、怖いような目をして紘也の腕を取った。やけになったかのように、そばに立っていた紘也の腰を、もう片方の手で強く自分の方に抱き寄せる。

「来いよ。お望み通り、とことん……汚れてやるから」

 悠太郎は低くそうつぶやいた。紘也の腕を強く引き、ソファの上に無理やり座らせてから、その体を押し倒す。ためらいなく紘也のスウェットのボトムをつかむと、下着とともに乱暴にはぎ取った。いったん立ち上がった悠太郎は、Tシャツも、紘也によって膝上まで下げられていたデニムパンツや下着も全て脱ぎ捨てる。再びソファの上にあがると、紘也の両ひざを裏から高く持ち上げながら、自らはその間にひざを折って座り、腰を進めてくる。秘められた場所をいきなり暴かれた紘也の体に、鋭い痛みが走った。

「ん…ああっ……」

 紘也はあごをのけぞらせ、こらえきれず小さな悲鳴をあげた。だが、まるで欲望にかられた獣のようになった悠太郎に、その叫びは届かなかった。まるで逃さないとでもいうように、紘也の細い腰を強く両手で押さえつけ、暖かいその体の中に、猛る自身を幾度も乱暴に押し入れる。まるで関を切ったかのようだった。

 悠太郎は、紘也の顔を見てはいなかった。瞳を固く閉じたまま、切なげに顔をゆがませ、唇をわずかに動かしていた。声にならない声で、誰かに呼びかけている……。紘也の目には、そう映った。やがて紘也は、体の中に熱いものを感じる。悠太郎が自らの中で達したことを悟っても、彼を受け止めるのに精一杯の紘也には、悦びを得るゆとりはなかった。悠太郎はぐったりとし、燃えるように熱くなった体で紘也を抱きしめていた。そしてまた、しばらくすると再び紘也を求め始めた。

 白昼の薄暗い部屋で、呼吸が苦しくなるほど激しく抱かれながら、紘也は思った。もしかしたら、誰かの身代わりかもしれない……。それでもいい。お前を抱きしめることが出来るのなら、身代わりだって、何だって構わない。たとえ、お前が悪魔だって、構わないんだ……。襲ってくる痛みに耐えながら、そう心の中で、幾度も、幾度も繰り返していた。
しおりを挟む

処理中です...