入れ替われるホテル

廣瀬純七

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このままでもいいかも

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 夜の空気は、昼間より少し柔らかかった。
 ビル街を抜け、マンションの灯りが点き始めるころ、達也の姿の結衣は小さく息を吐いた。
 長い一日だった。
 慣れないスーツの襟が少し窮屈で、革靴の音が足の裏に響く。
 それでも、どこか心は穏やかだった。

 「……今日も、ちゃんとやりきった」

 エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
 ボタンを押す指が細くて、少し不思議な気分になる。
 自分の体じゃないのに、すっかり“自分の一部”のように感じていた。

 部屋の前に立つと、ドアの向こうからカチャカチャと食器の音が聞こえた。
 鼻をくすぐるのは、出汁のいい香り。
 ——まさか。

 ドアを開けると、エプロン姿の“結衣”がキッチンに立っていた。
 いや、正確には達也——結衣の体に入った達也、である。

 「おかえりー!」
 振り返ったその声は、どこか明るく弾んでいた。
 「ただいま……って、なにこれ。夕飯、作ってくれてたの?」
 「うん! 味噌汁と焼き魚と、あとポテトサラダ!」

 結衣(達也)は、まるで子どもみたいに誇らしげだった。
 テーブルの上には、きちんと整えられた食卓。
 小鉢には煮物まで並んでいる。

 「すごい……完璧じゃない」
 「でしょ? 午前中は掃除して、午後はスーパー行って、洗濯もしたよ!」
 「主婦の一日を完全にマスターしてるわね、」

 「うん、やってみるとね、案外楽しいよ!」
 そう言って結衣(達也)は、照れくさそうに笑った。

 「最初は大変だったけど、料理も洗濯も、やってるうちに“家が整っていく”感じがして、すごく気持ちいい。
  それにね、結衣が帰ってきて『ただいま』って言ってくれるの、こんなに嬉しいことなんだって、今日初めてわかったよ、」

 達也(結衣)は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
 「……そうか。いつも“ありがとう”とか、ちゃんと言えてなかったかも」
 「いいよ。言葉じゃなくても、伝わってたから。
  でも、こうして立場が入れ替わるとね、見える景色が全然違うね」

 二人は食卓を挟んで座った。
 箸を手に取ると、味噌汁の湯気がふわりと立ち上る。
 口に含むと、少し塩気が強いが、それが妙に温かかった。
 「うん、美味しい。……いや、ほんとに美味しいわ、」
 「やった! レシピアプリで勉強した甲斐があった!」

 結衣(達也)は、頬を赤らめながら嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見て、結衣(達也)は心の中で思った。
 ——ああ、この笑顔、外から見たことなかったな。
 いつも見慣れていたはずなのに、いま初めて“この人の温かさ”をちゃんと見た気がする。

 食後、ふたりはソファに並んで座った。
 テレビをつけると、ニュースキャスターの声が流れる。
 けれど、どちらも画面を見てはいなかった。

 「ねえ、」
 「ん?」
 「今日、会社でさ。みんな、なんか優しかったわ。
  “優しい達也さん”って言われてるの、初めて知った。」
 「ふふ、それ中身が結衣だからじゃない?」
 「そうかも。でも、ちょっと嬉しかった。
  なんか、私の中に“あなたらしさ”が混じっていくのがいいなって思った」

 結衣は、少し照れくさそうに笑う。
 すると達也が、柔らかな声で言った。

 「ねえ、しばらくはこのままでもいいかもね」
 「え?」
 「だって、家事が楽しいんだ。
  掃除してると、会社から帰って来る結衣が気持ちよくなるようにって思うし、
  料理作ってると、自分も落ち着くんだよね!」

 「……そうか。でも、戻らなくていいの?」
 「もちろん、いつかは戻るよ。
  でも今は、相手の人生を借りて“見つめ直す時間”なんだと思う。
  こうして過ごしてると、いつも結衣がどれだけ頑張ってきたか、ちゃんとわかる気がする」

 その言葉に、部屋の空気が少しだけ静まった。
 外からは、遠くで電車の通る音が聞こえる。
 現実と夢の境目のような時間。

 「ねえ、達也」
 「うん?」
 「入れ替わってる間、あなたの手で作られたこのご飯を食べるの、けっこう幸せ!」
 「それ、なんか複雑だな」
 「ふふ、そう?」

 笑い合いながら、二人の間に小さな沈黙が落ちた。
 そして結衣は、ぽつりと呟いた。

 「私も、今の仕事を通して思ったの。
  アプリを作るのも、料理を作るのも、誰かが“使う”とか“食べる”っていう、その先を想像することが大事なんだなって。
  どっちも、人を想う仕事なんだね」

 達也はゆっくり頷いた。
 「うん。だから、どっちがどっちでもいいのかも。
  俺が結衣で、結衣が俺で——それでもちゃんと“夫婦”でいられる」

 ふたりの視線が重なり、自然と笑みがこぼれた。

 時計の針が夜の九時を指す。
 洗い物を終えたキッチンからは、柔らかな灯りが漏れている。
 テーブルの上には、空になった茶碗と湯呑み。
 その静けさの中で、ふたりは同じ言葉を同時に呟いた。

 「このままでも、悪くないね!」

 それは、奇跡のような一週間の中で芽生えた、
 小さくて確かな幸福の形だった。

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