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時計屋の兎(ラビット)
プロローグ
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――拾ってあげるよ、リトル・ラビット。
あの人は、真っ白な手袋をはめた手を差し出して、そう言った。
☆
王都プラハール。
大きな時計塔のあるデパートを中心に、十字を描くように伸びる大通りは、貴賤問わず人の集まる、王都一にぎやかな場所である。
大通り沿いには貴族をターゲットにした高級店が建ち並び、店と店との間の細い路地には客引きの娼婦や物乞い、スリを狙うたちがひっそりと息を殺して獲物を待っていた。
馬車の車輪の音や人の声が生み出す喧騒は、慣れないうちは頭が痛くなりそうだったが、二年もたった今では自然と気にならなくなっている。
慣れとは恐ろしいものだなと思いながら、ラビットは店のシャッターを開けて小さな手書きの看板を表に出した。
ウサギの時計屋。
看板にそう書かれている通り、時計の店である。
大通りの中でも一等地と呼ばれる場所にある、小さな時計屋を営むのは、十七歳のほっそりとした少女である。
十代の少女が持つにはいささかどころではない高い土地代を請求される一等地に店を持つ彼女は、さぞや裕福な家庭の令嬢なのかといえばそういうわけでもない。ではよほど人気の時計屋なのかと言われても、日々閑古鳥の鳴くような店だと答える。
そう、莫大な土地代を請求されるこの場所に店を持てているのは、ひとえに、彼女の「スポンサー」の財力のなせる業だった。
ウィルバード・ヴィラーゼル伯爵。それが彼女の酔狂なスポンサーの名前だった。
彼女がウィルバードからこの店を管理するように言われたのは、二年前。彼女が十五歳の時だ。
――ラビット、今日からここが君のお店だよ。
にこやかに微笑んでウィルバードが言ったとき、彼女は耳を疑ったものだ。
十年前、彼女をラビットと名付けた伯爵は、いったい何を考えてこの店をくれたのだろう。
(ま、あの人は昔から変な人だから、深く考えたって仕方ないよね)
あれから二年。まだウィルバードがこの店をくれた理由にはたどり着いていないが、きっとウィルバードのことだ、そこにまともな理由は存在しないだろう。きっと「気まぐれだよ」とでもいうに違いない。そう――、十年前に彼女を拾ってラビットと名付けたときのように。
ラビットはウィルバードに拾われなければ、間違いなく野垂れ死んでいただろうから、拾ってくれたことには感謝している。けれども、伯爵家の使用人の使う雑巾の方がまだましだろうと思われるようなボロボロの服を着た小汚い七歳程度の子供を、まるで捨て犬でも拾うかのように連れて帰ったあの人は本物の酔狂だ。
カラン――
いつものように、店の奥に座ってのんびりと本を開いたとき、店の扉につけられている鈴が音を立てた。
(客なんて珍しいな)
往来は多いが、壁という壁、棚という棚に所狭しと時計が並べられた、まるで雑多な倉庫のような店にはなかなか人は立ち寄らない。もう少し洒落たディスプレイにすれば、紳士の皆様が訪れるかもしれないのだが、生憎と、そういった商売センスはラビットには皆無と言っていい。
酔狂ウィルバードも、特にこの店で儲けるつもりはないようで、ただごろごろしていればいいよと言っていた。
本から顔を上げたラビットは、開けた扉の前に立ってひらひらと手を振っている一人の紳士を見ると、途端にため息をついた。
「ドルバー教授、お久しぶりです」
現れた紳士は、三十七歳という若さで王立大学で教授と呼ばれる地位にいる男である。
黒髪を丁寧になでつけ、フロックコートを羽織り、頭にシルクハットをかぶった彼は、一見したところ、貴族かそれに準ずる階級の貴族のように見える。実際にドルバー教授は、数代前までさかのぼれば、王家ともゆかりのある公爵家と縁のある子爵家の次男坊だ。しかし、父である子爵が多額の借金を作ったために、早々に家を出て大学の近くのアパルトマンで暮らしながら家に仕送りをしている苦労人であり――、ここまで聞くと、素晴らしい人物に思えるが、ラビットはこの男がかなりの変人であることを知っていた。
ドルバー教授はシルクハットを脱ぐと、懐中時計を並べているショーケースの上においた。
「今日はまた、どんなご用で?」
ドルバー教授はウィルバードの十年来の友人で、ヴィラーゼル伯爵家にもよく遊びに来ていたので、ヴィラーゼル伯爵家で生活するラビットもよく知っている人物である。
ドルバー伯爵はポケットから鈍い金色をした懐中時計を取り出した。
「今日はこれを見てほしくてね」
「これは教授の懐中時計じゃないですか」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
ドルバー教授は歯切れ悪く言ってラビットの手に懐中時計を乗せる。その瞬間、ラビットは教授が気まずそうにしている理由がわかった。
ラビットは懐中時計の蓋を開ける前に、じろりとドルバー教授を睨みつけた。
「……教授、時計を水につけましたね」
「さすがだよリトル・ラビット。よくわかったね」
ドルバー教授がわざとらしく手を叩くが、ラビットの視線は冷ややかなままだ。
懐中時計の表を撫でて、ため息交じりに言う。
「この子が水の入った容器の中に落とされたと言っています。また例の実験に使ったんですね」
「ふむ。そこまでわかるのか。素晴らしい!」
「素晴らしいじゃありませんよ!」
ラビットは昔から『時計の声』を聞くことができる。ここの酔狂な教授やウィルバードくらいしか信じてはくれないが、時計にも魂が宿るのである。このドルバー教授の懐中時計は、昨日、教授がわざと時計を水の中に落としたことを訴えていた。
ラビットは時計を持ったまま店の奥に引っ込むと、一枚の紙を持ってきた。
「この紙にサインを。『彼女』は死んでいないので、まだ直せると思いますが、一週間はお時間をいただきますよ」
「ありがとうラビット。恩に着るよ」
「いえ。それよりも、前々から言うように、わざと時計を壊すような真似はしないでください。あなただって、お風呂に頭を突っ込まれたら苦しいでしょう?」
「それはそうだが……」
ドルバー教授の研究は「魂」である。それは人体のみならず、動物、植物、果ては人形や家具などのものにまでその対象は及ぶが、ラビットが時計の声を聞けるという体質を知ってからはもっぱらその興味は時計に移ったらしい。
教授はどうにかして時計から魂を取り出したいらしく、日々、ラビットには到底理解できない意味不明な研究を続けていた。この懐中時計は、その研究の一環で水の中に沈められたようだ。
教授にとって時計はただの物かもしれないが、彼らの声を聞くことのできるラビットには大切な友人たちである。手荒に扱ってほしくない。
ドルバー教授はラビットに睨まれて、肩をすくめた。
「わかった。今度から水にはつけないと約束しよう」
「燃やしても落としても切り刻んでもだめですからね」
「それもダメなのか!」
「当たり前です!」
ドルバー教授はぽりぽりと頭をかいた。
「ううむ、それではしかし、私の研究が……」
「いっそ研究対象を変えてはどうですか」
「それは嫌だ!」
「……そうですか」
教授はどうしてか昔から「魂」と言うものに魅せられている。
東の国で信仰されている宗教で、死んだ後にほかのものに生まれ変わるという「輪廻転生」という言葉を覚えてから、教授はその「生まれ変わるもと」である魂魄に夢中なのだ。いつか輪廻転生がなんたるか、その原理を突き止めたいと言っているが、ラビットは一生かかっても結論は得られないだろうと思っている。
なぜなら、実際に「輪廻転生」を経験したラビット自身、その原理については理解が及ばないからだ。
そう――
ラビットは転生を経験した。
ラビットがこの体に生まれ変わる前、彼女は一個の懐中時計だった。
持ち主の記憶は朧気で、はっきりとは覚えていない。
ただ、彼女は前世が「懐中時計」であったことだけは、どうしてかしっかりと覚えていた。
(でも、僕は自分がどうやって生まれ変わったのかなんて、わからないし)
ラビットが懐中時計ではなく人間の「ラビット」として持っている記憶の最初は、スラム街の裏路地で空腹に膝を抱えてうずくまっていたことだった。
それ以前の記憶はない。
ラビットは自分がどこから来たのかもわからなかったし、どうして路地でうずくまっているのかもわからなかった。
わかっていたのは。ひどく空腹で、このままだと自分はもうじき「死ぬ」のだということだった。
(あの時、あの時計を拾わなければ、多分僕は死んでいた)
空腹で朦朧としかけていたラビットの視界に映った一つの懐中時計。
それを拾ったことで、ラビットの運命の輪は巡りはじめることになる。
その時計の持ち主こそが、ウィルバード・ヴィラーゼル。
当時十九歳だった、若き伯爵だった。
あの人は、真っ白な手袋をはめた手を差し出して、そう言った。
☆
王都プラハール。
大きな時計塔のあるデパートを中心に、十字を描くように伸びる大通りは、貴賤問わず人の集まる、王都一にぎやかな場所である。
大通り沿いには貴族をターゲットにした高級店が建ち並び、店と店との間の細い路地には客引きの娼婦や物乞い、スリを狙うたちがひっそりと息を殺して獲物を待っていた。
馬車の車輪の音や人の声が生み出す喧騒は、慣れないうちは頭が痛くなりそうだったが、二年もたった今では自然と気にならなくなっている。
慣れとは恐ろしいものだなと思いながら、ラビットは店のシャッターを開けて小さな手書きの看板を表に出した。
ウサギの時計屋。
看板にそう書かれている通り、時計の店である。
大通りの中でも一等地と呼ばれる場所にある、小さな時計屋を営むのは、十七歳のほっそりとした少女である。
十代の少女が持つにはいささかどころではない高い土地代を請求される一等地に店を持つ彼女は、さぞや裕福な家庭の令嬢なのかといえばそういうわけでもない。ではよほど人気の時計屋なのかと言われても、日々閑古鳥の鳴くような店だと答える。
そう、莫大な土地代を請求されるこの場所に店を持てているのは、ひとえに、彼女の「スポンサー」の財力のなせる業だった。
ウィルバード・ヴィラーゼル伯爵。それが彼女の酔狂なスポンサーの名前だった。
彼女がウィルバードからこの店を管理するように言われたのは、二年前。彼女が十五歳の時だ。
――ラビット、今日からここが君のお店だよ。
にこやかに微笑んでウィルバードが言ったとき、彼女は耳を疑ったものだ。
十年前、彼女をラビットと名付けた伯爵は、いったい何を考えてこの店をくれたのだろう。
(ま、あの人は昔から変な人だから、深く考えたって仕方ないよね)
あれから二年。まだウィルバードがこの店をくれた理由にはたどり着いていないが、きっとウィルバードのことだ、そこにまともな理由は存在しないだろう。きっと「気まぐれだよ」とでもいうに違いない。そう――、十年前に彼女を拾ってラビットと名付けたときのように。
ラビットはウィルバードに拾われなければ、間違いなく野垂れ死んでいただろうから、拾ってくれたことには感謝している。けれども、伯爵家の使用人の使う雑巾の方がまだましだろうと思われるようなボロボロの服を着た小汚い七歳程度の子供を、まるで捨て犬でも拾うかのように連れて帰ったあの人は本物の酔狂だ。
カラン――
いつものように、店の奥に座ってのんびりと本を開いたとき、店の扉につけられている鈴が音を立てた。
(客なんて珍しいな)
往来は多いが、壁という壁、棚という棚に所狭しと時計が並べられた、まるで雑多な倉庫のような店にはなかなか人は立ち寄らない。もう少し洒落たディスプレイにすれば、紳士の皆様が訪れるかもしれないのだが、生憎と、そういった商売センスはラビットには皆無と言っていい。
酔狂ウィルバードも、特にこの店で儲けるつもりはないようで、ただごろごろしていればいいよと言っていた。
本から顔を上げたラビットは、開けた扉の前に立ってひらひらと手を振っている一人の紳士を見ると、途端にため息をついた。
「ドルバー教授、お久しぶりです」
現れた紳士は、三十七歳という若さで王立大学で教授と呼ばれる地位にいる男である。
黒髪を丁寧になでつけ、フロックコートを羽織り、頭にシルクハットをかぶった彼は、一見したところ、貴族かそれに準ずる階級の貴族のように見える。実際にドルバー教授は、数代前までさかのぼれば、王家ともゆかりのある公爵家と縁のある子爵家の次男坊だ。しかし、父である子爵が多額の借金を作ったために、早々に家を出て大学の近くのアパルトマンで暮らしながら家に仕送りをしている苦労人であり――、ここまで聞くと、素晴らしい人物に思えるが、ラビットはこの男がかなりの変人であることを知っていた。
ドルバー教授はシルクハットを脱ぐと、懐中時計を並べているショーケースの上においた。
「今日はまた、どんなご用で?」
ドルバー教授はウィルバードの十年来の友人で、ヴィラーゼル伯爵家にもよく遊びに来ていたので、ヴィラーゼル伯爵家で生活するラビットもよく知っている人物である。
ドルバー伯爵はポケットから鈍い金色をした懐中時計を取り出した。
「今日はこれを見てほしくてね」
「これは教授の懐中時計じゃないですか」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
ドルバー教授は歯切れ悪く言ってラビットの手に懐中時計を乗せる。その瞬間、ラビットは教授が気まずそうにしている理由がわかった。
ラビットは懐中時計の蓋を開ける前に、じろりとドルバー教授を睨みつけた。
「……教授、時計を水につけましたね」
「さすがだよリトル・ラビット。よくわかったね」
ドルバー教授がわざとらしく手を叩くが、ラビットの視線は冷ややかなままだ。
懐中時計の表を撫でて、ため息交じりに言う。
「この子が水の入った容器の中に落とされたと言っています。また例の実験に使ったんですね」
「ふむ。そこまでわかるのか。素晴らしい!」
「素晴らしいじゃありませんよ!」
ラビットは昔から『時計の声』を聞くことができる。ここの酔狂な教授やウィルバードくらいしか信じてはくれないが、時計にも魂が宿るのである。このドルバー教授の懐中時計は、昨日、教授がわざと時計を水の中に落としたことを訴えていた。
ラビットは時計を持ったまま店の奥に引っ込むと、一枚の紙を持ってきた。
「この紙にサインを。『彼女』は死んでいないので、まだ直せると思いますが、一週間はお時間をいただきますよ」
「ありがとうラビット。恩に着るよ」
「いえ。それよりも、前々から言うように、わざと時計を壊すような真似はしないでください。あなただって、お風呂に頭を突っ込まれたら苦しいでしょう?」
「それはそうだが……」
ドルバー教授の研究は「魂」である。それは人体のみならず、動物、植物、果ては人形や家具などのものにまでその対象は及ぶが、ラビットが時計の声を聞けるという体質を知ってからはもっぱらその興味は時計に移ったらしい。
教授はどうにかして時計から魂を取り出したいらしく、日々、ラビットには到底理解できない意味不明な研究を続けていた。この懐中時計は、その研究の一環で水の中に沈められたようだ。
教授にとって時計はただの物かもしれないが、彼らの声を聞くことのできるラビットには大切な友人たちである。手荒に扱ってほしくない。
ドルバー教授はラビットに睨まれて、肩をすくめた。
「わかった。今度から水にはつけないと約束しよう」
「燃やしても落としても切り刻んでもだめですからね」
「それもダメなのか!」
「当たり前です!」
ドルバー教授はぽりぽりと頭をかいた。
「ううむ、それではしかし、私の研究が……」
「いっそ研究対象を変えてはどうですか」
「それは嫌だ!」
「……そうですか」
教授はどうしてか昔から「魂」と言うものに魅せられている。
東の国で信仰されている宗教で、死んだ後にほかのものに生まれ変わるという「輪廻転生」という言葉を覚えてから、教授はその「生まれ変わるもと」である魂魄に夢中なのだ。いつか輪廻転生がなんたるか、その原理を突き止めたいと言っているが、ラビットは一生かかっても結論は得られないだろうと思っている。
なぜなら、実際に「輪廻転生」を経験したラビット自身、その原理については理解が及ばないからだ。
そう――
ラビットは転生を経験した。
ラビットがこの体に生まれ変わる前、彼女は一個の懐中時計だった。
持ち主の記憶は朧気で、はっきりとは覚えていない。
ただ、彼女は前世が「懐中時計」であったことだけは、どうしてかしっかりと覚えていた。
(でも、僕は自分がどうやって生まれ変わったのかなんて、わからないし)
ラビットが懐中時計ではなく人間の「ラビット」として持っている記憶の最初は、スラム街の裏路地で空腹に膝を抱えてうずくまっていたことだった。
それ以前の記憶はない。
ラビットは自分がどこから来たのかもわからなかったし、どうして路地でうずくまっているのかもわからなかった。
わかっていたのは。ひどく空腹で、このままだと自分はもうじき「死ぬ」のだということだった。
(あの時、あの時計を拾わなければ、多分僕は死んでいた)
空腹で朦朧としかけていたラビットの視界に映った一つの懐中時計。
それを拾ったことで、ラビットの運命の輪は巡りはじめることになる。
その時計の持ち主こそが、ウィルバード・ヴィラーゼル。
当時十九歳だった、若き伯爵だった。
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