瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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庶子の帰還

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 燕の北方に盤踞ばんきょし、跳梁する東胡とうこに対する備えとして、秦開が北に派遣されると、間もなく、姫平は子之の謀によって、斉へと送還された。

 姫平の助言通り、秦開は難を逃れて、北方へと逃れた。だが、北は東胡の本拠。支援を受けることのできない、秦開軍は来る日も来る日も、東胡の襲撃に晒された。むことのない襲撃に、一万の兵は半数以下となった。壊滅を前に、秦開は兵の命を守る為、降伏し、自らの首を差し出す決意をした。

東胡は降伏を受け入れ、秦開に兵の身の安全を保障することを約束した。東胡王の前に引き出された、秦開は意外にも、首を打たれることはなく、虜囚とされた。そして、捕縛された兵達は、奴隷とされることもなく、東胡の監視下の元であるが、最低限の生活を送ることを許された。

東胡王の寛典かんてんに俗する秦開。だが、之には蛮族とされる、遊牧民族独特の思潮がある。彼等は何よりも強きを尊ぶ。遊牧民族は繫文縟礼を厭い、文字を持たず、文化としては遥かに中原諸国より劣るが、壮大で厳しい自然で培われてきた彊力きょうりょくがある。彼等は不羈であるが故に、敵味方の概念に囚われず、強き戦士に敬意を表する。燕の援助なく、孤軍で獅子奮迅との戦いをした、秦開に東胡王は一人の戦士として、畏敬の念を抱いたのである。東胡王は虜囚である秦開を、頻繁に自身の帷幕に召喚し、彼の戦士としての人柄と、有する無限の軍略に触れ、友誼を交わした。

更に東胡王は、秦開を虜囚としてではなく、参謀として傍に置いた。北方で逼塞するように生きる東胡王には、秦開から清廉され淘汰されてきた中華の息吹を感じたのかもしれない。東胡王は秦開に全幅の信頼を置き、来たるべき時、彼と兵を解放し、加えて一万の兵を貸し与えることを約束した。

 そして、秦開は副官である夏雲に伝える。

「斉へ行き、若をお救いせよ。塗炭とたんの苦しみの中にある、燕の民を救えるのは、あの御方しかおらぬ」
 夏雲は諾と頷き、斉へと潜入した。都である臨淄りんしで、薛にある田文の館に姫平が囚われていることを知ると、夏雲はみすぼらしい老人の姿を装い、薛へと潜入した。

 だが、薛に潜入し、姫平救出手立てを思案していると、潜んでいる宿に、数人の手練れが押し入り、夏雲は捕縛される。連行されたのは、宰相田嬰でんえいの息子田文が所有する館であった。
 桎梏しつこくに繋がれた夏雲の前に、現れた田文は私兵に下がるように命じ、陰湿とした部屋の中に、二人きりとなった。

「軍人としては凡愚ではないようだが、間諜としての技倆は低いようだな。夏雲」
 田文は夏雲が名乗るより前に、彼の名を知っていた。勿論、夏雲が薛に潜んでいる間、本名は使用せず、偽名で通していた。
 
 薛だけでなく、斉には田文が抱える耳目が数百人といる。彼は夏雲が、薛に入る前より動向は捕捉していた。夏雲は死を覚悟した。事実、陰湿とした暗い部屋の壁の至る所には、拷問器具が掛っている。どれほどの苦痛を与えられても、口を割らない自信はあった。だが、這い寄る恐怖がない訳ではない。のみ込んだ唾は、まるで鉛のように喉を通らない。

「夏雲。確実に姫平を燕に逃がす自信が、お前にはあるか?」
 突拍子もない問いに、夏雲は瞬いた。

「今、燕は燕王が宰相子之に禅譲したことで、凋落の一途を辿っている。いずれ、子之の専横を良しとせぬ者が蹶起し、燕は更に荒れる」
 端正な田文の横顔に、濃い翳が差す。

「燕の頽廃たいはいを見過ごすほど、叔父上は甘くはない。間違いなく燕の騒擾に乗じて、攻略に乗り出す」

「斉と燕には講和条約がある」

「最早、抗う力も持たない国と講和して何の意味があると云うのだ。講和とは利害の一致で成り立つもの。講和条約が締結した当時は、燕には少なくとも、斉の軍を脅かす力はあった。だが、内乱で傷つき、疲弊した燕の軍は、脅威ではない」

「斉王は漁夫の利を得ようとしているのか」
 胸の暗渠が凄まじい速度で拡がっていく。

「叔父上は自身の代で、燕土を手中におさめようとしておられる。燕土を手に入れることが叶えば、飛ぶ鳥を落とす勢いで国力を高める秦に対抗することもできる」

「何故、そのようなことを燕の間諜である、己に語る」
 若き貴公子の思惑は未だはきとしない。何が目的で、叔父である斉王の宿願を語るのか。

「私は友である、姫平を救いたい」

「なっ」思わず驚愕の声が漏れた。
 田文は瞬きもせず、一心に囚われの己に視線を注いでいる。
 
 つまらない冗談だと思った。だが、若者の双眸に嘘はなく、はっとするほどの綺麗な光が明滅している。姫平と田文は、敵味方の垣根を越えた友情で結ばれていることは、彼の真摯な眼差しで理解できた。そして、彼に満ち満ちている友を想う心に賭けてみようと思った。

「俺も姫平様をお救いしたい。その為に俺は斉に来たのだ。姫平様をお助けできるのならば、我が命などくれてやる。姫平様は燕に必要な御方だ」
 田文が眼許にだけ笑みを浮かべる。だが、直ぐに眼許から感情が引いていく。

「本格的に叔父上が、燕の攻略を見据えれば、姫平殿は幽閉されることになるだろう。そして、燕が斉の版図となれば、姫平殿は不要な存在となる」

「ならば幽閉される前に、姫平様をお助けしなくては」
 夏雲が昂奮で四肢に力を込める、桎梏が乾いた音を立てる。
 
 田文は頭を振るう。

「姫平をお救いしたいならば、時を待て。その時は必ず来る。今は、まだ姫平は父上の監視下に置かれている。父上は私以上に、多くの耳目を抱えている。耳目を掻い潜って、姫平を連れ出すことは不可能に近い」
 嘆息交じりに告げた、田文に苛立ちを覚えた。

「ならば、どうしろと」

「姫平が幽閉された時こそ好機。檻にさえ放り込んでしまえば、父上の気も緩む。姫平の監視の為に、張り付けていた耳目も散っていく。それまで、お前には家宰として私の館に潜んでもらう」
 言うと、田文は剣で四肢を繋いでいた縄を断ち斬った。躰が自由になる。小柄な青年を見上げる。今ならば、力づくで彼を殺し、逃げることもできる。だが、軍人としての直感で強く訴えかけてくる。彼を信じてみよと。

「それと夏雲。間諜としての技を磨いた方がいい。お前を私の傍で置くのは、父上の目を欺く為だが」
 言葉を切り、田文は大仰なまでに眉尻を下げ、つらつらと夏雲の容貌を眺めた。

「変装、尾行、気配の消し方―。その全てがあまりにもお粗末だ。幾ら商人の姿に身を窶しても、軍人独特の血腥ちなまぐさい気配が隠しきれていない。私の目を欺けないようでは、父上など到底欺くことはできない」
 夏雲は思わず赤面した。自身は徹頭徹尾、軍人としての殻を脱ぎさり、しがない商人に身を窶したつもりであった。
 
 唐突に田文は噴き出した。からからとした笑い声を上げる。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。奇妙なことだが、この僅かな刻で、夏雲は田文という青年のことが好きになり始めていた。

「私が抱える耳目の頭領に引き合わせよう。間諜の術を傍で学ぶといい」
 
 その後、夏雲は田文の館の家宰となり、間諜の技を学んだ。そして、息を潜め、虎視眈々と来たる時に備え続けてきたのである。
 
 語り終えた時、夏雲は遠い眼で、東の空を見上げていた。父の燕王が子之に禅譲したのが一年前。とすると、夏雲は一年近く薛に潜み、田文の庇護下に置かれ、同じ時を過ごしてきたことになる。夏雲から田文に対する敬意を感じる。主君への想いに近いものを抱いているのかもしれない。

「そうか。田文は俺を逃がす為に、お前を生かしたのか」
 巨きな男だとつくづく思った。決して立派な体躯を持っているとは言えない。だが、小さき躰の裡には尽きぬ機略と烈火の如き熱い侠気がある。

「馬鹿野郎」
 姫平はぐっと指の腹で瞼を抑えた。
 
 田文は事が起こる一年前より、来たる大局を見据えていた。器量としては、己などより遥かに田文の方が上だ。

(あいつはきっと父親を越える)
 姫平には確信がある。そして、その時、己達は敵として向かい合うことになる。

「俺が生きていればな」
 と独りごちて苦笑した。
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