32 / 47
破燕
一
しおりを挟む
薊の外壁の外側には、負郭窮巷と呼ばれる区画がある。世間のはみだし者が暮らす、貧民街である。其処は癩病患者、戦争孤児、流民の巣窟となっている。
負郭はかつて、姫平の母が暮らした邑だった。母は朽ちた家屋が立ち並ぶ、この邑と人を愛していた。亡き母の想いに応えるように、母の姓である利、そして、字である星を名乗り、庶子ではなく一人の侠人、利星として、市井に降り、出来る限りの陰助を続けた。
だが、その日食べる物にもまともにありつけない孤児達は、栄養失調により、毎日のように死んでいった。救える命もあった。しかし、宮中と違い、医者が負郭には居ない。掌から幾百もの命が零れ落ちて行った。利星となり、彼と誼を交わすことで、喪失感は大きいものになっていった。
姫平は貴族、平民から蔑みを受けながら、逞しく生きる彼等を心から愛していた。負郭内には、所狭しと、朽ちかけている襤褸の家屋が並ぶ。更にまともな下水処理も成されていない為、外れには糞尿の溜まり場があり、酷く臭う。
姫平は莚で作られた、俄作りの門を潜り、負郭の地を踏みしめると、かつての想い出が走馬灯のように蘇ってきた。この悪臭でさえ、懐かしく思える。
(母上。俺は帰ってきました)
この地の近くに母の墓があった。母は妃妾の一人として、父の墳墓の近くで眠ることを拒否し、故郷に埋葬された。
「旦那!!」
「利星殿!!」
と大手を振って、向かえてくれる民の姿があるはずだった。
「之はー」
言葉に窮する。
至る所に屍が散乱している。蠅が飛び交い、糞尿の匂いに混ざって、強烈な腐臭が後から来る。商人の姿に身を窶した、姫平と市被。そして、麾下の三十人は絶句する。
転がる屍の間を縫うように歩く。
「酷い」
鼻を布巾で覆った市被が悲痛な声を漏らす。
「屍は女と子供、老人だけだ。何があった?」
どの屍も幽鬼のように痩せ細っていた。検めた屍は、十歳ほどの少年のものだった。まるで、何かに助けを求めるように手を伸ばしたまま、絶命している。酸鼻を極める様相に、ある者は涙を流している。
「男がいない。もしや、子之は男を兵として徴兵し、女、子供、老人を見殺しにしたのではありませんか」
告げた市被の唇は怒りで血が滲んでいる。
言葉もなかった。総身を巡る血が燃ゆる。見開いた双眼からは、紅涙が零れ落ちる。
「鐘鴻…丁…石鵲」
その名が意思を介さず口から衝いた。
全身を焼くほどの焦燥に駆られ、姫平は駆けだした。外れにひっそりと佇む、娼館がある。負郭内にある娼館なので、立派なものとは云えないが、それでも立ち並ぶ家屋と比べると、外観は幾らかましに見える。
しかし、茅葺きの屋根からは無造作に雑草が伸びている。嫌な予感がした。娼館に近付く事に、心臓が口からまろび出そうなほど強く鼓動を打つ。
戸は開かれていた。人の気配はない。踏み入れると埃が雪のように舞った。板の廊下を進み、開け放たれた室内を順々に覗き込む。踏み締める度に板の廊下が不気味に鳴く。
「なっ」
覗き込んだ室内に、梁に縄を括りつけ、首を括った女の屍がある。その数三人。皆、この娼館の娼婦であった。腐敗は進んでいるが、容貌に見覚えはある。
「すまない」
噛み締めた奥歯が鳴り、血の味が口腔内に拡がる。
剣で縄を断ち斬り、床にそっと寝かしてやる。隣の部屋を覗き込んだ時、姫平は膝から崩れ落ちた。
「鐘鴻」
壁に凭れかかるように、鐘鴻は絶命していた。
「そんなー」
這い寄る。手を握りしめる。痩せ細った手。あまりに冷たく細い。
彼女の唇には、微かに紅の後が残っている。掌に彼女は何かを握りしめていた。
「簪…」
朱色の簪である。
「俺が贈ったものだ」
(まさか)
待っていたのか。俺の帰りを。最期の最期まで。
彼女は己に抱かれることを望んでいた。だが、己は終ぞ彼女を抱くことはしなかった。彼女を愛していなかった訳ではない。彼女を愛していたからこそ、娼婦としての彼女を抱かなかった。己の中で彼女は、他の女と違った。彼女を単なる欲望の捌け口として捉えたくはなかったのだ。そして、己は腐っても公族に連なる者である。彼女を娶り、あの権謀術数渦巻く宮中に放り込むことはしたくはなかった。
しかし、己の想いは強引な押し付けだった。証左に、彼女は己が贈った簪を握りしめ、最期の時まで、己が帰って来ることを信じて逝った。骸と化した、彼女を抱きしめ、慟哭する。人の姿が消えた、この邑で姫平の慟哭は、虚しく谺した。
負郭はかつて、姫平の母が暮らした邑だった。母は朽ちた家屋が立ち並ぶ、この邑と人を愛していた。亡き母の想いに応えるように、母の姓である利、そして、字である星を名乗り、庶子ではなく一人の侠人、利星として、市井に降り、出来る限りの陰助を続けた。
だが、その日食べる物にもまともにありつけない孤児達は、栄養失調により、毎日のように死んでいった。救える命もあった。しかし、宮中と違い、医者が負郭には居ない。掌から幾百もの命が零れ落ちて行った。利星となり、彼と誼を交わすことで、喪失感は大きいものになっていった。
姫平は貴族、平民から蔑みを受けながら、逞しく生きる彼等を心から愛していた。負郭内には、所狭しと、朽ちかけている襤褸の家屋が並ぶ。更にまともな下水処理も成されていない為、外れには糞尿の溜まり場があり、酷く臭う。
姫平は莚で作られた、俄作りの門を潜り、負郭の地を踏みしめると、かつての想い出が走馬灯のように蘇ってきた。この悪臭でさえ、懐かしく思える。
(母上。俺は帰ってきました)
この地の近くに母の墓があった。母は妃妾の一人として、父の墳墓の近くで眠ることを拒否し、故郷に埋葬された。
「旦那!!」
「利星殿!!」
と大手を振って、向かえてくれる民の姿があるはずだった。
「之はー」
言葉に窮する。
至る所に屍が散乱している。蠅が飛び交い、糞尿の匂いに混ざって、強烈な腐臭が後から来る。商人の姿に身を窶した、姫平と市被。そして、麾下の三十人は絶句する。
転がる屍の間を縫うように歩く。
「酷い」
鼻を布巾で覆った市被が悲痛な声を漏らす。
「屍は女と子供、老人だけだ。何があった?」
どの屍も幽鬼のように痩せ細っていた。検めた屍は、十歳ほどの少年のものだった。まるで、何かに助けを求めるように手を伸ばしたまま、絶命している。酸鼻を極める様相に、ある者は涙を流している。
「男がいない。もしや、子之は男を兵として徴兵し、女、子供、老人を見殺しにしたのではありませんか」
告げた市被の唇は怒りで血が滲んでいる。
言葉もなかった。総身を巡る血が燃ゆる。見開いた双眼からは、紅涙が零れ落ちる。
「鐘鴻…丁…石鵲」
その名が意思を介さず口から衝いた。
全身を焼くほどの焦燥に駆られ、姫平は駆けだした。外れにひっそりと佇む、娼館がある。負郭内にある娼館なので、立派なものとは云えないが、それでも立ち並ぶ家屋と比べると、外観は幾らかましに見える。
しかし、茅葺きの屋根からは無造作に雑草が伸びている。嫌な予感がした。娼館に近付く事に、心臓が口からまろび出そうなほど強く鼓動を打つ。
戸は開かれていた。人の気配はない。踏み入れると埃が雪のように舞った。板の廊下を進み、開け放たれた室内を順々に覗き込む。踏み締める度に板の廊下が不気味に鳴く。
「なっ」
覗き込んだ室内に、梁に縄を括りつけ、首を括った女の屍がある。その数三人。皆、この娼館の娼婦であった。腐敗は進んでいるが、容貌に見覚えはある。
「すまない」
噛み締めた奥歯が鳴り、血の味が口腔内に拡がる。
剣で縄を断ち斬り、床にそっと寝かしてやる。隣の部屋を覗き込んだ時、姫平は膝から崩れ落ちた。
「鐘鴻」
壁に凭れかかるように、鐘鴻は絶命していた。
「そんなー」
這い寄る。手を握りしめる。痩せ細った手。あまりに冷たく細い。
彼女の唇には、微かに紅の後が残っている。掌に彼女は何かを握りしめていた。
「簪…」
朱色の簪である。
「俺が贈ったものだ」
(まさか)
待っていたのか。俺の帰りを。最期の最期まで。
彼女は己に抱かれることを望んでいた。だが、己は終ぞ彼女を抱くことはしなかった。彼女を愛していなかった訳ではない。彼女を愛していたからこそ、娼婦としての彼女を抱かなかった。己の中で彼女は、他の女と違った。彼女を単なる欲望の捌け口として捉えたくはなかったのだ。そして、己は腐っても公族に連なる者である。彼女を娶り、あの権謀術数渦巻く宮中に放り込むことはしたくはなかった。
しかし、己の想いは強引な押し付けだった。証左に、彼女は己が贈った簪を握りしめ、最期の時まで、己が帰って来ることを信じて逝った。骸と化した、彼女を抱きしめ、慟哭する。人の姿が消えた、この邑で姫平の慟哭は、虚しく谺した。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる