瓦礫の国の王~破燕~

松井暁彦

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破燕

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 けいの外壁の外側には、負郭窮巷ふかくきゅうこうと呼ばれる区画がある。世間のはみだし者が暮らす、貧民街である。其処は癩病患者らいびょうかんじゃ、戦争孤児、流民の巣窟となっている。

負郭はかつて、姫平きへいの母が暮らした邑だった。母は朽ちた家屋が立ち並ぶ、この邑と人を愛していた。亡き母の想いに応えるように、母の姓である利、そして、あざなである星を名乗り、庶子ではなく一人の侠人、利星りせいとして、市井に降り、出来る限りの陰助を続けた。
 だが、その日食べる物にもまともにありつけない孤児達は、栄養失調により、毎日のように死んでいった。救える命もあった。しかし、宮中と違い、医者が負郭には居ない。掌から幾百もの命が零れ落ちて行った。利星となり、彼と誼を交わすことで、喪失感は大きいものになっていった。

姫平は貴族、平民から蔑みを受けながら、逞しく生きる彼等を心から愛していた。負郭内には、所狭しと、朽ちかけている襤褸ぼろの家屋が並ぶ。更にまともな下水処理も成されていない為、外れには糞尿の溜まり場があり、酷く臭う。

 姫平は莚で作られた、俄作にわかつくりの門を潜り、負郭の地を踏みしめると、かつての想い出が走馬灯のように蘇ってきた。この悪臭でさえ、懐かしく思える。

(母上。俺は帰ってきました)
 この地の近くに母の墓があった。母は妃妾の一人として、父の墳墓の近くで眠ることを拒否し、故郷に埋葬された。

「旦那!!」

「利星殿!!」
 と大手を振って、向かえてくれる民の姿があるはずだった。

「之はー」
 言葉に窮する。
 
 至る所に屍が散乱している。蠅が飛び交い、糞尿の匂いに混ざって、強烈な腐臭が後から来る。商人の姿に身を窶した、姫平と市被しひ。そして、麾下の三十人は絶句する。

 転がる屍の間を縫うように歩く。

「酷い」
 鼻を布巾で覆った市被が悲痛な声を漏らす。

「屍は女と子供、老人だけだ。何があった?」
 どの屍も幽鬼のように痩せ細っていた。検めた屍は、十歳ほどの少年のものだった。まるで、何かに助けを求めるように手を伸ばしたまま、絶命している。酸鼻を極める様相に、ある者は涙を流している。

「男がいない。もしや、子之は男を兵として徴兵し、女、子供、老人を見殺しにしたのではありませんか」
 告げた市被の唇は怒りで血が滲んでいる。
 
 言葉もなかった。総身を巡る血が燃ゆる。見開いた双眼からは、紅涙が零れ落ちる。

鐘鴻しょうこうてい石鵲せきじゃく
 その名が意思を介さず口から衝いた。
 
 全身を焼くほどの焦燥に駆られ、姫平は駆けだした。外れにひっそりと佇む、娼館がある。負郭内にある娼館なので、立派なものとは云えないが、それでも立ち並ぶ家屋と比べると、外観は幾らかましに見える。
 
しかし、茅葺かやぶきの屋根からは無造作に雑草が伸びている。嫌な予感がした。娼館に近付く事に、心臓が口からまろび出そうなほど強く鼓動を打つ。

戸は開かれていた。人の気配はない。踏み入れると埃が雪のように舞った。板の廊下を進み、開け放たれた室内を順々に覗き込む。踏み締める度に板の廊下が不気味に鳴く。

「なっ」
 覗き込んだ室内に、梁に縄を括りつけ、首を括った女の屍がある。その数三人。皆、この娼館の娼婦であった。腐敗は進んでいるが、容貌に見覚えはある。

「すまない」
 噛み締めた奥歯が鳴り、血の味が口腔内に拡がる。
 
 剣で縄を断ち斬り、床にそっと寝かしてやる。隣の部屋を覗き込んだ時、姫平は膝から崩れ落ちた。

「鐘鴻」
 壁に凭れかかるように、鐘鴻は絶命していた。

「そんなー」
 這い寄る。手を握りしめる。痩せ細った手。あまりに冷たく細い。
 彼女の唇には、微かに紅の後が残っている。掌に彼女は何かを握りしめていた。

「簪…」
 朱色の簪である。

「俺が贈ったものだ」

(まさか)
 待っていたのか。俺の帰りを。最期の最期まで。
 
 彼女は己に抱かれることを望んでいた。だが、己は終ぞ彼女を抱くことはしなかった。彼女を愛していなかった訳ではない。彼女を愛していたからこそ、娼婦としての彼女を抱かなかった。己の中で彼女は、他の女と違った。彼女を単なる欲望の捌け口として捉えたくはなかったのだ。そして、己は腐っても公族に連なる者である。彼女を娶り、あの権謀術数渦巻く宮中に放り込むことはしたくはなかった。

しかし、己の想いは強引な押し付けだった。証左に、彼女は己が贈った簪を握りしめ、最期の時まで、己が帰って来ることを信じて逝った。骸と化した、彼女を抱きしめ、慟哭する。人の姿が消えた、この邑で姫平の慟哭は、虚しくこだました。
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