1 / 1
僕論
しおりを挟む
突然だけど僕の理屈を話そうと思う。
僕は道徳が好きだ。
道徳というと皆は一歩ひいてしまうだろうか?
でも、一応聞いて欲しい。
僕の理屈ではこうなる。いや、理屈よりも僕は人生経験でわかるけど、皆に理解できるように理屈を話そうと思う。
「今」、「現時点」で損をしても、「近い未来」を見据えて得を取れ。
どういう事か?
若いうちの苦労は買ってでもしろ、というだろう。
それを歳老いてもすればいい。それもいつかではなく、「今」という瞬間に。
未来は変えられる。でも、未来は不確かだ。どうしても人は「今」を生きるしかない。
でも、道徳を信じれば「未来」をかなり確かなものとして、「幸せを得られる未来」に変える事ができる。未来への投資、というワケだ。
お金だろうが、心の上であろうが、色々なものが手に入る。いや、手に入ってきた。僕の貴重な財産だ。
具体的に話そう。
では、人に元気をあげたくて、「今」何か具体的にアクションを起こしている、としよう。僕はその「今」を積み重ねている、実際に。ボランティアという形として。作詩をしたり、詩にAIのイラストを付けたり、お金を使ったり、時間を惜しみなく使ったりしている。さて、僕は損をしているだろうか?
正直なところ、僕は楽しみながらやっているから、損とは思わない。自分のやれる範囲でやっているだけだ。
大金を注ぎ込んでいるワケでもない。時間をいたずらに消費しているワケでもない。なんでもボチボチだ。
僕は僕の時間とお金を「今」使って投資しているだけだ。し続けているだけだ。
一見、時間とお金を損しているように見えるかもしれない。実際に損したとしても、ほんのちょっとの損でしかない。
では、見返りとしては、どうかな?
結果として、他人の元気に繋がる。詩にしろ、イラストにしろ、その他に感動にしろ、他人の為になるなら僕はそれで充分である。充分にそれだけで自己肯定感が上がる。
社会の為になり、自分の為でもある。
別の言葉に変えよう。
他人の笑顔の為になり、その後自分の笑顔に繋がる。
ほんのちょっと投資するだけで、かなりの投資効果を得られる。
「今」ほんのちょっと損をしても、「近い未来」を見据えたら、効果絶大な事を、「今」痛感している。
どうだろう?
充分にボランティアするだけの価値もあるだろう。
それを継続するだけで、「今」という瞬間にも幸せが広がる。
どういう事か?
ほとんどの場合、「近い未来」に得をする事を見据えられる。ドキドキワクワクして、たった「今」にも喜びに繋がらないだろうか?
そんな風に、「今」ほんのちょっと損しながらも幸せを得られて、「近い未来」にも得と「徳」の両方が得られる。
こんなにも美味しい投資はないだろう。
そして、ほとんどそれが誰も損のしない形で、実現可能なのだ。
統合失調症を患っていてもできる事であり、僕にもできる事だ。
当然、昼間はまともに仕事をしている。
仕事を終えたら、遊びをしつつ作詩活動をし、ほんのちょっと時間とお金を投資して、ボランティアという形で道徳をしているワケだ。
人はどんなに行動しようとも、1日24時間しかない。限られた時間で他人の為にボランティアしようとすれば、体力的な問題で、自然と行動できる範囲も決まってくる。
当然ではあるけど、可能な範囲でしか人は動けない。空を飛ぶような事は不可能だ。時間を効率的に使おうとできるし、と同時に、他人が僕の為に時間を使ってくれる事のありがたみもわかる。
ほんのちょっと時間とお金を使うだけで、貴重な経験を積む事ができる。
その「貴重な今」を楽しみながら、経験できて、ほんのわずかな間に「未来」へのドキドキワクワクを経験する事もでき、そして「近い未来」への投資の効果も期待できる、こうした楽しみは経験してみればわかるけど、ゲームをしたりする経験では、手に入らないものが得られる。幸福である。
その幸福を味わったら、もうやみつきだ。
僕はよく、障がい者の苦しみを考える。僕が統合失調症という事もあり、全部はわからなくても、鬱の苦しみや統合失調症の苦しみなどを考える。
苦しみのさなかで、「楽しむ」「楽しんでもらう」為にはどうすればいいのか?考える。
鬱も統合失調症も、過去に楽しかった事が「今」では楽しめなくなる、という経験をする。
「人生を楽しめない」状態。これはかなり苦痛だし、不幸だし、自己肯定感もだだ下がりになり、生きる希望を失ってしまう。
そして、それは何も障がい者に限った事ではない。健常者でも「人生を楽しめない」状態になりうるから、「一緒に楽しむ」には、どうすればいいか?を考える。
詩を読んでもらうにあたって、そもそも一緒に、とは言い難いが、僕は作詩活動を楽しみ、詩を読んでもらって楽しんでもらえたら、それだけで充分だよ、としている。
さて、僕は損をしているだろうか?
損という程の損はしていない。
「今」満ち足りた時間を過ごしているし、「近い未来」にも、さらにその先の「未来」にも、楽しみはたくさんある。
さて、人はとかく損得勘定で動くが、僕が言うところの損得勘定はあまりしていないように見える。「今」楽しければいい、という発想である。
そもそも投資をしていないから、その楽しみは限定的だ。「今」楽しむしかない。だから、短絡的な快楽しか生まず、何度も経験したくて、「未来」を見据えるという行動ができなくなる。
「今」も「未来」も、限りない楽しみがありながら、多くの人が「今」の楽しみしか選ばない。
この優先順位の違いを考えてみて欲しい。
「未来」の為にただ「今」の経験を繰り返し続け投資をしていなかったら?→つまり、楽しい事にかまけて「今」の連続をし続けるのか?
あるいは、人の為を思い、人の為に行動し続け、その行動そのものを楽しみ続け、なおかつ投資という「未来への可能性」を広げて行ったら?
その違いは全然違う。「今」の繰り返しは同じなのに、行動そのものが変わる。
前者は行動は固定。同じ事の繰り返しだが、後者は行動を変える事ができる。そもそも人の為の行動だから、人の為なら、全く別の行動をしてもいい、とできる、というワケだ。
「今」の行動を変えたら、「未来への可能性」も変える事ができる。
同じ楽しいでも、前者と後者では決定的に違うのはわかってもらえたかな?
こんな風に理屈を組み立ててもわかるけど、「徳」を積む、「今」を惜しみなく使って投資する、人の為の行動、をなぜ他人はとれないのか?働くとは別次元の話だ。
まぁいい。僕は僕の信念を貫きたい。
他人の行動は変えられないけど、自分の行動はいくらでも変える事はできるなら、僕はボランティアが別の形に変わってもいいと思う。作詩家から変わり、小説家になってもいい。全く違う行動に変わっても「今」を楽しむ事はできる。いや、していきたい。色々チャレンジして、アプローチを変えたい。
何に対するアプローチか?
夢へのアプローチである。
皆が平等の世界。それを作りたい。
皆がそれぞれ違う行動を取りながら、別々の仕事なりをしながらでも、人生を楽しむ事そのものができるように。
不幸を味わう人が少なくてすむように。
理想論ではある。
でも、実現が不可能というワケでもない、と思う。
僕だけの夢ではないから。
推し様や他にも同じ夢を見ている人もいるから、仲間がもっと増えたり、色々と行動を変えたりしながら、アプローチも変えたり、やれる事はたくさんある。
どうだろう?
「今」をいたずらに楽しむような行動は取れないだろう。「今」だけ良し、ではダメだろう。
より多くの人と共に、一緒に楽しみたい、一緒に幸せになりたい。
限られた仲間意識も必要ない。
より多くの人と、より大きな楽しみを!
ただ、それだけだ。
とはいえ、単なる楽しみを案に否定しているワケでもない。
人を騙したり、裏切ったり。いとも容易くそんな行動をとるよりも、1人の世界に閉じこもってる方がマシな場合も多々ある。
まぁ、話を戻そう。
さて、とある人が僕に言った。
「笑ってるかい?楽しみを苦行にしなくていいと思うよ?」と。
僕はちょっと考えた。別に苦しんでいるつもりもない。でも、尊敬する人の言葉だから、よく考えてみた。
先にも言ったように「今」確かに損はしているけど、幸せであり、楽しく過ごしている事に違いはない。一応なりとも笑ってもいる。気晴らしもしている。
先にも言ったように、ボチボチである。
でも、とあるコミュニティに戻りたい、戻れる日は来るだろうか?とも愚痴った。
その愚痴に対する言葉が、尊敬する人の「笑ってるかい?……」である。
さて、話を繋げよう。「今」あまり笑ってなくても、「近い未来」を見据えれば他人も僕も、笑っていられる現実になりうる。
「今」損をしても、「近い未来」に笑っていられる僕たちでいられる、というワケだ。
だから、コミュニティには戻れないし、仲間内だけで笑っている自分が嫌でもあるから、より多くの人達と笑っていられる「未来」を選んだ。
「今」をそれなりに楽しみつつ、苦行にするワケでもなく、「皆と笑える未来」を作る事を選び、「今」格闘中、というワケだ。
尊敬する人は単に僕を心配しているだけだとわかっている。
でも、僕自身も成長する為の選択でもある。
親からの自立と共に、推し様に甘え、推し活だけをする自分に嫌気がさし、推し様からの自立をする為に、自分でやれるだけの事をしたいと思う。
立派に自立したら、また推し活をちょっと楽しんでもいいかと思う。もちろん、ボランティアは続けながら。
僕は推し様と共に、できる限り平等、できる限り皆で笑える世界、未来を選び、理想を実現しようとしている。
だから、僕は遊び呆ける「今」を選べなかった。
「今」苦しんでいる人の為にも、「人生を楽しめない」人達の為にも、僕が「今」怠けるワケにはいかない。
かつて、別の推しが、僕の存在を認めてくれるだけで救われたように、僕も「人生を楽しめない」人達、全てというワケにはいかないけど、少しでも元気をあげたり、存在を認めたりできたら……。「居てくれるだけで良いんだよ」と言ってあげれたら。それでちょっとでも、自分で自分を認められるような人が増えたら……。
そう言ってあげれる僕でありたい。
その上で、皆と笑っていられる世界で「楽しい今」を過ごせたら、最高の幸せだと思う。
これが僕だけではムリだろう。1人ではないから、僕も夢を追いかけれる。
だから、
「欲しがりません。あなたが笑うまでは」
という詩を作った。
理想論だろうか?
わからない。わからないままでも、わからない事を楽しみつつ、「無限の可能性」を信じてる。
僕だけの「無限の可能性」ではなく、僕も含めての、皆の上に等しくある「無限の可能性」を信じてる。
さて、冒頭に戻ろう。
若いうちの苦労……、としなくても、歳を重ねても行動し続ける、「今」を繰り返し続ける事に意味はないだろうか?
幸せを、何度も経験しながら、「今」もなお楽しみ続け、「未来」にも思いを馳せる事ができている現実は、読者には何を思わせるだろうか?
ムダな事に見える?
やっぱり理想論に思えるかな?
でもね、これは経験してみなくてはわからないかもしれない。
「徳」を積み、「得」を得て、それでも「欲しがらない」僕は、他人が羨む幸運を、繰り返し得ている。体験している。
それでも僕は、その幸運を「単なるラッキー」くらいに位置づけて、努力もしている。欲張ってないのだ。
僕だけが幸せではいられない。「楽しい」と同じように、「皆が幸せ」を求めてる。
よく某配信アプリにて、「よくそんなにコイン当たるね」なんて言われる。先にも言ったように、単なるラッキーでしかない。あまり嬉しいとも思わないかな?
もちろん還元もする。ほどほどにアプリを楽しみつつ、作詩活動の糧に変えている。
わかるかな?僕も遊びをしないワケでもない。遊びながら、作詩というボランティアをし続けているだけだ。
さて、ではここまで話を読んでみて、読者は何を思うかな?
僕に訪れる幸運は単なる偶然かな?まぁそうかもしれない。
「徳」なのか?「得」なのか?わからないまでも、神様仏様も信じられる程の幸運である。
僕は別に宗教によりすがっているワケでもない。神様仏様に頼りきりではないワケだ。
特に「困った時の神頼み」はしない。困っている時だけに「助けて」では、神様も救わないだろう。
まぁ、本当に神様に頼るなら、普段から神様に拝み、仏壇に手を合わせ、お酒を捧げて……。色々やる事はあるだろう。
僕はそんなご都合主義ではない。
とはいえ、祈りを捧げないワケでもない。
僕の好きなゲームでは、こう言っている。
「人の為の祈りは悪いものではない。そして、俺たちはこの世界を正しく導く義務がある。」と。
子供ならまだしも、大人としての責務を果たしつつ、神様に頼りきるワケでもなく、努力をし続けて、結果を出す事をし続けないといけない。
その結果が目には見えないものだとしても。
では、改めて、損得勘定に戻ろうか。
自分や友達だけが幸せなら、それを良し、とできるかな?
僕は最近よく思う。自分達だけ楽しんでて良いのか?と。
僕が爆笑している裏で、悲しんでる人がいる。その事実を無視する事はできない。
だから、世界全員とできなくても、少しでも多くの人の幸せと楽しみの上で笑っていたいと思う。
僕に本当に幸運があるのだとしたら、皆と分かち合いたい。
僕は本当の欲張りかもしれない。
コインが当たる程度では満足できないのだ。もちろん、仲間内だけで幸運を喜ぶ事も良しとはできない。
世界平和も望みながら、皆平等を求めてる。
うん、贅沢だ。
でも、正直「今」の日本であっても、足の引っ張り合いだと思う。
他人の足を引っ張っても仕方ないのに、なぜか引っ張っている。
もっと正直に言おう。他人を引きずり下ろして何が楽しい?そんな事で自分のレベルが上がるワケでもなければ、自分で自分の心を磨き、レベルアップしなければ何も変わらない。
変える事ができるのは、自分自身だけだ。他人は自分の為に変わってくれない。自分磨きも成長も、し続けて、自分を更新しなければならないのに、他人と楽しみ合い、助け合い、幸せを分かち合わなければならないのに、逆の行動しているから、そもそも幸せが訪れないだけだ、と思う。
神様仏様を信じるよりも、祈りを捧げるよりも、他人が居てくれる事に喜び、友達や身内を大事にするのと同じように、できる限りより多くの他人を大事にしなければならないのに、なぜか足の引っ張り合いを続けているように見える。
どこまで行っても繰り返される、その、足の引っ張り合いは、楽しいのだろうか?
何度も言うけど、他人を蹴落としても自分の価値は上がらない。
幸せになりもしない事を、繰り返し続けているようだ。
かつて、幻聴もそうだった。
根本的に僕を不幸にしたいだけだ!と本音をさらけ出し、僕を嘲笑っていたけど、僕はすぐに気づいた。
何をそんなにマウントを取っているの?と。
要するに幻聴は、単純に僕を見下したくて、嘲笑いたくて、本音をさらけ出したけど、単なる自爆行為でしかなかった。
醜い本音をさらけ出しただけで、とてもではないがマウントを取れる状態ではないにも関わらず、マヌケにも勝ち誇ったのだ。
そもそもそれ、勝ち誇れる代物なの?
長い月日をかけて、僕を痛ぶり、マウントを取り続けた挙句が、僕から見下される人生を丸出しにした自爆野郎が、幻聴の正体である。
そして、幻聴がマウントを取った次の瞬間には、僕がマウントを取れてしまったのだ。
幻聴は「見下すな!」と叫んだ。後の祭りである。ものの見事な自爆である。
さて、幻聴が「今」どうなっているかを教えよう。
散々僕を痛ぶり続け、足を引っ張った挙句が、「今」では連続して、無限に自爆し続けて、地獄の中で暮らしている。
もう僕は苦しみの中にはいない。
相も変わらず僕は病人ではあるけど、幻聴のようなマヌケで惨め人生を、自分で選ばないように、自分の意思で自分の為の人生を選べば、「皆と一緒に幸せになりたい」である。
現実の世界で、生きてる人間が、幻聴と同じように足の引っ張り合いをしているのを見ていると、ただ呆れるばかりだ。
僕は幻聴にこう言った。
「幸せになりもしない事を突き詰めるな」と。
もちろん、幻聴にとっては、後の祭りである。後悔しても悔やみきれない過ちだとわかっている。
僕は幻聴に何も求めなかった。
反省しても、後悔しても、たとえ仮に罰が与えられようと、僕が失った時間も、苦しみも、報われないとわかっているからだ。
それほどまでに幻聴はバカであり、ただ一時的に嘲笑いたくてマウントを取り、勝手に負け犬に成り下がった、邪悪な存在なのだ。
では、改めて問う必要もないけど、幻聴と同じように、足の引っ張り合いをしている「今」を変えようと思わないかな?
足の引っ張り合いではなく、助け合いに変われば、皆幸せになれる、という当たり前があるだけだけど?
それでも時間をムダにしたいなら、勝手に自爆すればいい。人は自由だ。自分で自分を幸せにできるのに、誰も幸せにならない事を、勝手に続け、見上げ続け、羨ましがり、それでもマウントを取りたがり、1人で勝手に自爆すればいい。
どうだろうか?
心が醜い幻聴を見ても、誰でもわかるけど、心を貧しくしては他人を幸せにしないし、自分も幸せにできないし、働く所の騒ぎではないワケだ。
健常者でありながら、心を醜くさせた人間を、僕は知っている。
実在する人間であり、幻聴とはまた別の、不幸な人生を丸出しにして、それでもまだなお生き続けなければならない、マヌケな人間である。人生の途中で、自分で自分の人生を詰んだ代物にした、哀れな人間だ。
そんな人間の、僕と接点のあった時間を思い出してみると、なるほどな、と頷ける。読者はどうだろうか?
かつて学生時代に、ヤンキーみたいな、ヤクザみたいな姿で自惚れて、強がり、いきがっていたソイツは、ただの心の弱い人間にすぎなかった。
どれだけ強いと言っても、ただの1人きりでは、何もできない事を自覚しないバカである。
そんなヤツが実在している事に、僕も驚きだが、しかし健常者なのだ。
強きをくじかず、弱きをくじき、社会貢献さえ意味を理解しないソイツは、僕が思い出してみても、社会に放逐されれば、ストレス社会で自分の胃に穴を空けながら、それでも仕事に明け暮れる毎日しかなかった。その頃にはとっくに、弱い心をさらけ出した、ヤンキーでもヤクザでも何でもない、ピエロの方がまだマシなくらいに惨めだった。
その後のソイツは知らない。車に乗っている姿は見た事があるが、まぁ生き地獄を歩いているのだろう。
障がい者の僕の方が、なぜか幸せであり、道徳を大事にしながら、他にも大事なものをたくさん抱え、そして、より多くの人と幸せと楽しみを共有したいと願い、「今」を過ごせている。
ずいぶん長くなってしまったけど、「心」というものが、どれだけ体や人生に影響を与えるか?わかってもらえたと思う。
だからこそ、自分の心も他人の心も大切であり、道徳とは「心」であると位置づけて、たくさんのものを大事にできている「今」を大事にしたいと思う。
人間でも何でもないものに、成り下がりたくない。むしろレベルアップしたい。
レベルアップするとはどういう事か?
心を磨くとはどういう事か?
より良く考えて、自分が成長できたなら、足を引っ張るではなく、むしろ手を差し伸べたい。
何をするにも皆と一緒の方が、断然楽しいに決まっている。
最後に、もう一度この言葉を振り返って欲しい。
「人の為の祈りは悪いものではない。そして、俺たちはこの世界を正しく導く義務がある。」
曲がりなりにも成人した男として、この世界を、「今」の子供たちの為にも、正しく導いて生きたい。
最後まで読んで下さりありがとうございます。
~完~
僕は道徳が好きだ。
道徳というと皆は一歩ひいてしまうだろうか?
でも、一応聞いて欲しい。
僕の理屈ではこうなる。いや、理屈よりも僕は人生経験でわかるけど、皆に理解できるように理屈を話そうと思う。
「今」、「現時点」で損をしても、「近い未来」を見据えて得を取れ。
どういう事か?
若いうちの苦労は買ってでもしろ、というだろう。
それを歳老いてもすればいい。それもいつかではなく、「今」という瞬間に。
未来は変えられる。でも、未来は不確かだ。どうしても人は「今」を生きるしかない。
でも、道徳を信じれば「未来」をかなり確かなものとして、「幸せを得られる未来」に変える事ができる。未来への投資、というワケだ。
お金だろうが、心の上であろうが、色々なものが手に入る。いや、手に入ってきた。僕の貴重な財産だ。
具体的に話そう。
では、人に元気をあげたくて、「今」何か具体的にアクションを起こしている、としよう。僕はその「今」を積み重ねている、実際に。ボランティアという形として。作詩をしたり、詩にAIのイラストを付けたり、お金を使ったり、時間を惜しみなく使ったりしている。さて、僕は損をしているだろうか?
正直なところ、僕は楽しみながらやっているから、損とは思わない。自分のやれる範囲でやっているだけだ。
大金を注ぎ込んでいるワケでもない。時間をいたずらに消費しているワケでもない。なんでもボチボチだ。
僕は僕の時間とお金を「今」使って投資しているだけだ。し続けているだけだ。
一見、時間とお金を損しているように見えるかもしれない。実際に損したとしても、ほんのちょっとの損でしかない。
では、見返りとしては、どうかな?
結果として、他人の元気に繋がる。詩にしろ、イラストにしろ、その他に感動にしろ、他人の為になるなら僕はそれで充分である。充分にそれだけで自己肯定感が上がる。
社会の為になり、自分の為でもある。
別の言葉に変えよう。
他人の笑顔の為になり、その後自分の笑顔に繋がる。
ほんのちょっと投資するだけで、かなりの投資効果を得られる。
「今」ほんのちょっと損をしても、「近い未来」を見据えたら、効果絶大な事を、「今」痛感している。
どうだろう?
充分にボランティアするだけの価値もあるだろう。
それを継続するだけで、「今」という瞬間にも幸せが広がる。
どういう事か?
ほとんどの場合、「近い未来」に得をする事を見据えられる。ドキドキワクワクして、たった「今」にも喜びに繋がらないだろうか?
そんな風に、「今」ほんのちょっと損しながらも幸せを得られて、「近い未来」にも得と「徳」の両方が得られる。
こんなにも美味しい投資はないだろう。
そして、ほとんどそれが誰も損のしない形で、実現可能なのだ。
統合失調症を患っていてもできる事であり、僕にもできる事だ。
当然、昼間はまともに仕事をしている。
仕事を終えたら、遊びをしつつ作詩活動をし、ほんのちょっと時間とお金を投資して、ボランティアという形で道徳をしているワケだ。
人はどんなに行動しようとも、1日24時間しかない。限られた時間で他人の為にボランティアしようとすれば、体力的な問題で、自然と行動できる範囲も決まってくる。
当然ではあるけど、可能な範囲でしか人は動けない。空を飛ぶような事は不可能だ。時間を効率的に使おうとできるし、と同時に、他人が僕の為に時間を使ってくれる事のありがたみもわかる。
ほんのちょっと時間とお金を使うだけで、貴重な経験を積む事ができる。
その「貴重な今」を楽しみながら、経験できて、ほんのわずかな間に「未来」へのドキドキワクワクを経験する事もでき、そして「近い未来」への投資の効果も期待できる、こうした楽しみは経験してみればわかるけど、ゲームをしたりする経験では、手に入らないものが得られる。幸福である。
その幸福を味わったら、もうやみつきだ。
僕はよく、障がい者の苦しみを考える。僕が統合失調症という事もあり、全部はわからなくても、鬱の苦しみや統合失調症の苦しみなどを考える。
苦しみのさなかで、「楽しむ」「楽しんでもらう」為にはどうすればいいのか?考える。
鬱も統合失調症も、過去に楽しかった事が「今」では楽しめなくなる、という経験をする。
「人生を楽しめない」状態。これはかなり苦痛だし、不幸だし、自己肯定感もだだ下がりになり、生きる希望を失ってしまう。
そして、それは何も障がい者に限った事ではない。健常者でも「人生を楽しめない」状態になりうるから、「一緒に楽しむ」には、どうすればいいか?を考える。
詩を読んでもらうにあたって、そもそも一緒に、とは言い難いが、僕は作詩活動を楽しみ、詩を読んでもらって楽しんでもらえたら、それだけで充分だよ、としている。
さて、僕は損をしているだろうか?
損という程の損はしていない。
「今」満ち足りた時間を過ごしているし、「近い未来」にも、さらにその先の「未来」にも、楽しみはたくさんある。
さて、人はとかく損得勘定で動くが、僕が言うところの損得勘定はあまりしていないように見える。「今」楽しければいい、という発想である。
そもそも投資をしていないから、その楽しみは限定的だ。「今」楽しむしかない。だから、短絡的な快楽しか生まず、何度も経験したくて、「未来」を見据えるという行動ができなくなる。
「今」も「未来」も、限りない楽しみがありながら、多くの人が「今」の楽しみしか選ばない。
この優先順位の違いを考えてみて欲しい。
「未来」の為にただ「今」の経験を繰り返し続け投資をしていなかったら?→つまり、楽しい事にかまけて「今」の連続をし続けるのか?
あるいは、人の為を思い、人の為に行動し続け、その行動そのものを楽しみ続け、なおかつ投資という「未来への可能性」を広げて行ったら?
その違いは全然違う。「今」の繰り返しは同じなのに、行動そのものが変わる。
前者は行動は固定。同じ事の繰り返しだが、後者は行動を変える事ができる。そもそも人の為の行動だから、人の為なら、全く別の行動をしてもいい、とできる、というワケだ。
「今」の行動を変えたら、「未来への可能性」も変える事ができる。
同じ楽しいでも、前者と後者では決定的に違うのはわかってもらえたかな?
こんな風に理屈を組み立ててもわかるけど、「徳」を積む、「今」を惜しみなく使って投資する、人の為の行動、をなぜ他人はとれないのか?働くとは別次元の話だ。
まぁいい。僕は僕の信念を貫きたい。
他人の行動は変えられないけど、自分の行動はいくらでも変える事はできるなら、僕はボランティアが別の形に変わってもいいと思う。作詩家から変わり、小説家になってもいい。全く違う行動に変わっても「今」を楽しむ事はできる。いや、していきたい。色々チャレンジして、アプローチを変えたい。
何に対するアプローチか?
夢へのアプローチである。
皆が平等の世界。それを作りたい。
皆がそれぞれ違う行動を取りながら、別々の仕事なりをしながらでも、人生を楽しむ事そのものができるように。
不幸を味わう人が少なくてすむように。
理想論ではある。
でも、実現が不可能というワケでもない、と思う。
僕だけの夢ではないから。
推し様や他にも同じ夢を見ている人もいるから、仲間がもっと増えたり、色々と行動を変えたりしながら、アプローチも変えたり、やれる事はたくさんある。
どうだろう?
「今」をいたずらに楽しむような行動は取れないだろう。「今」だけ良し、ではダメだろう。
より多くの人と共に、一緒に楽しみたい、一緒に幸せになりたい。
限られた仲間意識も必要ない。
より多くの人と、より大きな楽しみを!
ただ、それだけだ。
とはいえ、単なる楽しみを案に否定しているワケでもない。
人を騙したり、裏切ったり。いとも容易くそんな行動をとるよりも、1人の世界に閉じこもってる方がマシな場合も多々ある。
まぁ、話を戻そう。
さて、とある人が僕に言った。
「笑ってるかい?楽しみを苦行にしなくていいと思うよ?」と。
僕はちょっと考えた。別に苦しんでいるつもりもない。でも、尊敬する人の言葉だから、よく考えてみた。
先にも言ったように「今」確かに損はしているけど、幸せであり、楽しく過ごしている事に違いはない。一応なりとも笑ってもいる。気晴らしもしている。
先にも言ったように、ボチボチである。
でも、とあるコミュニティに戻りたい、戻れる日は来るだろうか?とも愚痴った。
その愚痴に対する言葉が、尊敬する人の「笑ってるかい?……」である。
さて、話を繋げよう。「今」あまり笑ってなくても、「近い未来」を見据えれば他人も僕も、笑っていられる現実になりうる。
「今」損をしても、「近い未来」に笑っていられる僕たちでいられる、というワケだ。
だから、コミュニティには戻れないし、仲間内だけで笑っている自分が嫌でもあるから、より多くの人達と笑っていられる「未来」を選んだ。
「今」をそれなりに楽しみつつ、苦行にするワケでもなく、「皆と笑える未来」を作る事を選び、「今」格闘中、というワケだ。
尊敬する人は単に僕を心配しているだけだとわかっている。
でも、僕自身も成長する為の選択でもある。
親からの自立と共に、推し様に甘え、推し活だけをする自分に嫌気がさし、推し様からの自立をする為に、自分でやれるだけの事をしたいと思う。
立派に自立したら、また推し活をちょっと楽しんでもいいかと思う。もちろん、ボランティアは続けながら。
僕は推し様と共に、できる限り平等、できる限り皆で笑える世界、未来を選び、理想を実現しようとしている。
だから、僕は遊び呆ける「今」を選べなかった。
「今」苦しんでいる人の為にも、「人生を楽しめない」人達の為にも、僕が「今」怠けるワケにはいかない。
かつて、別の推しが、僕の存在を認めてくれるだけで救われたように、僕も「人生を楽しめない」人達、全てというワケにはいかないけど、少しでも元気をあげたり、存在を認めたりできたら……。「居てくれるだけで良いんだよ」と言ってあげれたら。それでちょっとでも、自分で自分を認められるような人が増えたら……。
そう言ってあげれる僕でありたい。
その上で、皆と笑っていられる世界で「楽しい今」を過ごせたら、最高の幸せだと思う。
これが僕だけではムリだろう。1人ではないから、僕も夢を追いかけれる。
だから、
「欲しがりません。あなたが笑うまでは」
という詩を作った。
理想論だろうか?
わからない。わからないままでも、わからない事を楽しみつつ、「無限の可能性」を信じてる。
僕だけの「無限の可能性」ではなく、僕も含めての、皆の上に等しくある「無限の可能性」を信じてる。
さて、冒頭に戻ろう。
若いうちの苦労……、としなくても、歳を重ねても行動し続ける、「今」を繰り返し続ける事に意味はないだろうか?
幸せを、何度も経験しながら、「今」もなお楽しみ続け、「未来」にも思いを馳せる事ができている現実は、読者には何を思わせるだろうか?
ムダな事に見える?
やっぱり理想論に思えるかな?
でもね、これは経験してみなくてはわからないかもしれない。
「徳」を積み、「得」を得て、それでも「欲しがらない」僕は、他人が羨む幸運を、繰り返し得ている。体験している。
それでも僕は、その幸運を「単なるラッキー」くらいに位置づけて、努力もしている。欲張ってないのだ。
僕だけが幸せではいられない。「楽しい」と同じように、「皆が幸せ」を求めてる。
よく某配信アプリにて、「よくそんなにコイン当たるね」なんて言われる。先にも言ったように、単なるラッキーでしかない。あまり嬉しいとも思わないかな?
もちろん還元もする。ほどほどにアプリを楽しみつつ、作詩活動の糧に変えている。
わかるかな?僕も遊びをしないワケでもない。遊びながら、作詩というボランティアをし続けているだけだ。
さて、ではここまで話を読んでみて、読者は何を思うかな?
僕に訪れる幸運は単なる偶然かな?まぁそうかもしれない。
「徳」なのか?「得」なのか?わからないまでも、神様仏様も信じられる程の幸運である。
僕は別に宗教によりすがっているワケでもない。神様仏様に頼りきりではないワケだ。
特に「困った時の神頼み」はしない。困っている時だけに「助けて」では、神様も救わないだろう。
まぁ、本当に神様に頼るなら、普段から神様に拝み、仏壇に手を合わせ、お酒を捧げて……。色々やる事はあるだろう。
僕はそんなご都合主義ではない。
とはいえ、祈りを捧げないワケでもない。
僕の好きなゲームでは、こう言っている。
「人の為の祈りは悪いものではない。そして、俺たちはこの世界を正しく導く義務がある。」と。
子供ならまだしも、大人としての責務を果たしつつ、神様に頼りきるワケでもなく、努力をし続けて、結果を出す事をし続けないといけない。
その結果が目には見えないものだとしても。
では、改めて、損得勘定に戻ろうか。
自分や友達だけが幸せなら、それを良し、とできるかな?
僕は最近よく思う。自分達だけ楽しんでて良いのか?と。
僕が爆笑している裏で、悲しんでる人がいる。その事実を無視する事はできない。
だから、世界全員とできなくても、少しでも多くの人の幸せと楽しみの上で笑っていたいと思う。
僕に本当に幸運があるのだとしたら、皆と分かち合いたい。
僕は本当の欲張りかもしれない。
コインが当たる程度では満足できないのだ。もちろん、仲間内だけで幸運を喜ぶ事も良しとはできない。
世界平和も望みながら、皆平等を求めてる。
うん、贅沢だ。
でも、正直「今」の日本であっても、足の引っ張り合いだと思う。
他人の足を引っ張っても仕方ないのに、なぜか引っ張っている。
もっと正直に言おう。他人を引きずり下ろして何が楽しい?そんな事で自分のレベルが上がるワケでもなければ、自分で自分の心を磨き、レベルアップしなければ何も変わらない。
変える事ができるのは、自分自身だけだ。他人は自分の為に変わってくれない。自分磨きも成長も、し続けて、自分を更新しなければならないのに、他人と楽しみ合い、助け合い、幸せを分かち合わなければならないのに、逆の行動しているから、そもそも幸せが訪れないだけだ、と思う。
神様仏様を信じるよりも、祈りを捧げるよりも、他人が居てくれる事に喜び、友達や身内を大事にするのと同じように、できる限りより多くの他人を大事にしなければならないのに、なぜか足の引っ張り合いを続けているように見える。
どこまで行っても繰り返される、その、足の引っ張り合いは、楽しいのだろうか?
何度も言うけど、他人を蹴落としても自分の価値は上がらない。
幸せになりもしない事を、繰り返し続けているようだ。
かつて、幻聴もそうだった。
根本的に僕を不幸にしたいだけだ!と本音をさらけ出し、僕を嘲笑っていたけど、僕はすぐに気づいた。
何をそんなにマウントを取っているの?と。
要するに幻聴は、単純に僕を見下したくて、嘲笑いたくて、本音をさらけ出したけど、単なる自爆行為でしかなかった。
醜い本音をさらけ出しただけで、とてもではないがマウントを取れる状態ではないにも関わらず、マヌケにも勝ち誇ったのだ。
そもそもそれ、勝ち誇れる代物なの?
長い月日をかけて、僕を痛ぶり、マウントを取り続けた挙句が、僕から見下される人生を丸出しにした自爆野郎が、幻聴の正体である。
そして、幻聴がマウントを取った次の瞬間には、僕がマウントを取れてしまったのだ。
幻聴は「見下すな!」と叫んだ。後の祭りである。ものの見事な自爆である。
さて、幻聴が「今」どうなっているかを教えよう。
散々僕を痛ぶり続け、足を引っ張った挙句が、「今」では連続して、無限に自爆し続けて、地獄の中で暮らしている。
もう僕は苦しみの中にはいない。
相も変わらず僕は病人ではあるけど、幻聴のようなマヌケで惨め人生を、自分で選ばないように、自分の意思で自分の為の人生を選べば、「皆と一緒に幸せになりたい」である。
現実の世界で、生きてる人間が、幻聴と同じように足の引っ張り合いをしているのを見ていると、ただ呆れるばかりだ。
僕は幻聴にこう言った。
「幸せになりもしない事を突き詰めるな」と。
もちろん、幻聴にとっては、後の祭りである。後悔しても悔やみきれない過ちだとわかっている。
僕は幻聴に何も求めなかった。
反省しても、後悔しても、たとえ仮に罰が与えられようと、僕が失った時間も、苦しみも、報われないとわかっているからだ。
それほどまでに幻聴はバカであり、ただ一時的に嘲笑いたくてマウントを取り、勝手に負け犬に成り下がった、邪悪な存在なのだ。
では、改めて問う必要もないけど、幻聴と同じように、足の引っ張り合いをしている「今」を変えようと思わないかな?
足の引っ張り合いではなく、助け合いに変われば、皆幸せになれる、という当たり前があるだけだけど?
それでも時間をムダにしたいなら、勝手に自爆すればいい。人は自由だ。自分で自分を幸せにできるのに、誰も幸せにならない事を、勝手に続け、見上げ続け、羨ましがり、それでもマウントを取りたがり、1人で勝手に自爆すればいい。
どうだろうか?
心が醜い幻聴を見ても、誰でもわかるけど、心を貧しくしては他人を幸せにしないし、自分も幸せにできないし、働く所の騒ぎではないワケだ。
健常者でありながら、心を醜くさせた人間を、僕は知っている。
実在する人間であり、幻聴とはまた別の、不幸な人生を丸出しにして、それでもまだなお生き続けなければならない、マヌケな人間である。人生の途中で、自分で自分の人生を詰んだ代物にした、哀れな人間だ。
そんな人間の、僕と接点のあった時間を思い出してみると、なるほどな、と頷ける。読者はどうだろうか?
かつて学生時代に、ヤンキーみたいな、ヤクザみたいな姿で自惚れて、強がり、いきがっていたソイツは、ただの心の弱い人間にすぎなかった。
どれだけ強いと言っても、ただの1人きりでは、何もできない事を自覚しないバカである。
そんなヤツが実在している事に、僕も驚きだが、しかし健常者なのだ。
強きをくじかず、弱きをくじき、社会貢献さえ意味を理解しないソイツは、僕が思い出してみても、社会に放逐されれば、ストレス社会で自分の胃に穴を空けながら、それでも仕事に明け暮れる毎日しかなかった。その頃にはとっくに、弱い心をさらけ出した、ヤンキーでもヤクザでも何でもない、ピエロの方がまだマシなくらいに惨めだった。
その後のソイツは知らない。車に乗っている姿は見た事があるが、まぁ生き地獄を歩いているのだろう。
障がい者の僕の方が、なぜか幸せであり、道徳を大事にしながら、他にも大事なものをたくさん抱え、そして、より多くの人と幸せと楽しみを共有したいと願い、「今」を過ごせている。
ずいぶん長くなってしまったけど、「心」というものが、どれだけ体や人生に影響を与えるか?わかってもらえたと思う。
だからこそ、自分の心も他人の心も大切であり、道徳とは「心」であると位置づけて、たくさんのものを大事にできている「今」を大事にしたいと思う。
人間でも何でもないものに、成り下がりたくない。むしろレベルアップしたい。
レベルアップするとはどういう事か?
心を磨くとはどういう事か?
より良く考えて、自分が成長できたなら、足を引っ張るではなく、むしろ手を差し伸べたい。
何をするにも皆と一緒の方が、断然楽しいに決まっている。
最後に、もう一度この言葉を振り返って欲しい。
「人の為の祈りは悪いものではない。そして、俺たちはこの世界を正しく導く義務がある。」
曲がりなりにも成人した男として、この世界を、「今」の子供たちの為にも、正しく導いて生きたい。
最後まで読んで下さりありがとうございます。
~完~
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
包帯妻の素顔は。
サイコちゃん
恋愛
顔を包帯でぐるぐる巻きにした妻アデラインは夫ベイジルから離縁を突きつける手紙を受け取る。手柄を立てた夫は戦地で出会った聖女見習いのミアと結婚したいらしく、妻の悪評をでっち上げて離縁を突きつけたのだ。一方、アデラインは離縁を受け入れて、包帯を取って見せた。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
悪役令嬢は手加減無しに復讐する
田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。
理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。
婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる