僕論

ひまじんアルム

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僕論

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突然だけど僕の理屈を話そうと思う。

僕は道徳が好きだ。

道徳というと皆は一歩ひいてしまうだろうか?
でも、一応聞いて欲しい。
僕の理屈ではこうなる。いや、理屈よりも僕は人生経験でわかるけど、皆に理解できるように理屈を話そうと思う。

「今」、「現時点」で損をしても、「近い未来」を見据えて得を取れ。

どういう事か?

若いうちの苦労は買ってでもしろ、というだろう。

それを歳老いてもすればいい。それもいつかではなく、「今」という瞬間に。

未来は変えられる。でも、未来は不確かだ。どうしても人は「今」を生きるしかない。

でも、道徳を信じれば「未来」をかなり確かなものとして、「幸せを得られる未来」に変える事ができる。未来への投資、というワケだ。

お金だろうが、心の上であろうが、色々なものが手に入る。いや、手に入ってきた。僕の貴重な財産だ。

具体的に話そう。

では、人に元気をあげたくて、「今」何か具体的にアクションを起こしている、としよう。僕はその「今」を積み重ねている、実際に。ボランティアという形として。作詩をしたり、詩にAIのイラストを付けたり、お金を使ったり、時間を惜しみなく使ったりしている。さて、僕は損をしているだろうか?
正直なところ、僕は楽しみながらやっているから、損とは思わない。自分のやれる範囲でやっているだけだ。
大金を注ぎ込んでいるワケでもない。時間をいたずらに消費しているワケでもない。なんでもボチボチだ。

僕は僕の時間とお金を「今」使って投資しているだけだ。し続けているだけだ。

一見、時間とお金を損しているように見えるかもしれない。実際に損したとしても、ほんのちょっとの損でしかない。

では、見返りとしては、どうかな?

結果として、他人の元気に繋がる。詩にしろ、イラストにしろ、その他に感動にしろ、他人の為になるなら僕はそれで充分である。充分にそれだけで自己肯定感が上がる。
社会の為になり、自分の為でもある。
別の言葉に変えよう。
他人の笑顔の為になり、その後自分の笑顔に繋がる。

ほんのちょっと投資するだけで、かなりの投資効果を得られる。
「今」ほんのちょっと損をしても、「近い未来」を見据えたら、効果絶大な事を、「今」痛感している。

どうだろう?

充分にボランティアするだけの価値もあるだろう。

それを継続するだけで、「今」という瞬間にも幸せが広がる。

どういう事か?

ほとんどの場合、「近い未来」に得をする事を見据えられる。ドキドキワクワクして、たった「今」にも喜びに繋がらないだろうか?

そんな風に、「今」ほんのちょっと損しながらも幸せを得られて、「近い未来」にも得と「徳」の両方が得られる。

こんなにも美味しい投資はないだろう。

そして、ほとんどそれが誰も損のしない形で、実現可能なのだ。

統合失調症を患っていてもできる事であり、僕にもできる事だ。
当然、昼間はまともに仕事をしている。
仕事を終えたら、遊びをしつつ作詩活動をし、ほんのちょっと時間とお金を投資して、ボランティアという形で道徳をしているワケだ。
人はどんなに行動しようとも、1日24時間しかない。限られた時間で他人の為にボランティアしようとすれば、体力的な問題で、自然と行動できる範囲も決まってくる。
当然ではあるけど、可能な範囲でしか人は動けない。空を飛ぶような事は不可能だ。時間を効率的に使おうとできるし、と同時に、他人が僕の為に時間を使ってくれる事のありがたみもわかる。

ほんのちょっと時間とお金を使うだけで、貴重な経験を積む事ができる。

その「貴重な今」を楽しみながら、経験できて、ほんのわずかな間に「未来」へのドキドキワクワクを経験する事もでき、そして「近い未来」への投資の効果も期待できる、こうした楽しみは経験してみればわかるけど、ゲームをしたりする経験では、手に入らないものが得られる。幸福である。

その幸福を味わったら、もうやみつきだ。

僕はよく、障がい者の苦しみを考える。僕が統合失調症という事もあり、全部はわからなくても、鬱の苦しみや統合失調症の苦しみなどを考える。

苦しみのさなかで、「楽しむ」「楽しんでもらう」為にはどうすればいいのか?考える。

鬱も統合失調症も、過去に楽しかった事が「今」では楽しめなくなる、という経験をする。

「人生を楽しめない」状態。これはかなり苦痛だし、不幸だし、自己肯定感もだだ下がりになり、生きる希望を失ってしまう。

そして、それは何も障がい者に限った事ではない。健常者でも「人生を楽しめない」状態になりうるから、「一緒に楽しむ」には、どうすればいいか?を考える。

詩を読んでもらうにあたって、そもそも一緒に、とは言い難いが、僕は作詩活動を楽しみ、詩を読んでもらって楽しんでもらえたら、それだけで充分だよ、としている。

さて、僕は損をしているだろうか?

損という程の損はしていない。
「今」満ち足りた時間を過ごしているし、「近い未来」にも、さらにその先の「未来」にも、楽しみはたくさんある。

さて、人はとかく損得勘定で動くが、僕が言うところの損得勘定はあまりしていないように見える。「今」楽しければいい、という発想である。

そもそも投資をしていないから、その楽しみは限定的だ。「今」楽しむしかない。だから、短絡的な快楽しか生まず、何度も経験したくて、「未来」を見据えるという行動ができなくなる。

「今」も「未来」も、限りない楽しみがありながら、多くの人が「今」の楽しみしか選ばない。

この優先順位の違いを考えてみて欲しい。
「未来」の為にただ「今」の経験を繰り返し続け投資をしていなかったら?→つまり、楽しい事にかまけて「今」の連続をし続けるのか?

あるいは、人の為を思い、人の為に行動し続け、その行動そのものを楽しみ続け、なおかつ投資という「未来への可能性」を広げて行ったら?

その違いは全然違う。「今」の繰り返しは同じなのに、行動そのものが変わる。

前者は行動は固定。同じ事の繰り返しだが、後者は行動を変える事ができる。そもそも人の為の行動だから、人の為なら、全く別の行動をしてもいい、とできる、というワケだ。
「今」の行動を変えたら、「未来への可能性」も変える事ができる。

同じ楽しいでも、前者と後者では決定的に違うのはわかってもらえたかな?

こんな風に理屈を組み立ててもわかるけど、「徳」を積む、「今」を惜しみなく使って投資する、人の為の行動、をなぜ他人はとれないのか?働くとは別次元の話だ。

まぁいい。僕は僕の信念を貫きたい。
他人の行動は変えられないけど、自分の行動はいくらでも変える事はできるなら、僕はボランティアが別の形に変わってもいいと思う。作詩家から変わり、小説家になってもいい。全く違う行動に変わっても「今」を楽しむ事はできる。いや、していきたい。色々チャレンジして、アプローチを変えたい。

何に対するアプローチか?

夢へのアプローチである。
皆が平等の世界。それを作りたい。
皆がそれぞれ違う行動を取りながら、別々の仕事なりをしながらでも、人生を楽しむ事そのものができるように。

不幸を味わう人が少なくてすむように。

理想論ではある。
でも、実現が不可能というワケでもない、と思う。
僕だけの夢ではないから。
推し様や他にも同じ夢を見ている人もいるから、仲間がもっと増えたり、色々と行動を変えたりしながら、アプローチも変えたり、やれる事はたくさんある。

どうだろう?

「今」をいたずらに楽しむような行動は取れないだろう。「今」だけ良し、ではダメだろう。
より多くの人と共に、一緒に楽しみたい、一緒に幸せになりたい。
限られた仲間意識も必要ない。

より多くの人と、より大きな楽しみを!

ただ、それだけだ。

とはいえ、単なる楽しみを案に否定しているワケでもない。

人を騙したり、裏切ったり。いとも容易くそんな行動をとるよりも、1人の世界に閉じこもってる方がマシな場合も多々ある。

まぁ、話を戻そう。


さて、とある人が僕に言った。
「笑ってるかい?楽しみを苦行にしなくていいと思うよ?」と。

僕はちょっと考えた。別に苦しんでいるつもりもない。でも、尊敬する人の言葉だから、よく考えてみた。

先にも言ったように「今」確かに損はしているけど、幸せであり、楽しく過ごしている事に違いはない。一応なりとも笑ってもいる。気晴らしもしている。
先にも言ったように、ボチボチである。

でも、とあるコミュニティに戻りたい、戻れる日は来るだろうか?とも愚痴った。

その愚痴に対する言葉が、尊敬する人の「笑ってるかい?……」である。

さて、話を繋げよう。「今」あまり笑ってなくても、「近い未来」を見据えれば他人も僕も、笑っていられる現実になりうる。

「今」損をしても、「近い未来」に笑っていられる僕たちでいられる、というワケだ。

だから、コミュニティには戻れないし、仲間内だけで笑っている自分が嫌でもあるから、より多くの人達と笑っていられる「未来」を選んだ。

「今」をそれなりに楽しみつつ、苦行にするワケでもなく、「皆と笑える未来」を作る事を選び、「今」格闘中、というワケだ。

尊敬する人は単に僕を心配しているだけだとわかっている。
でも、僕自身も成長する為の選択でもある。

親からの自立と共に、推し様に甘え、推し活だけをする自分に嫌気がさし、推し様からの自立をする為に、自分でやれるだけの事をしたいと思う。

立派に自立したら、また推し活をちょっと楽しんでもいいかと思う。もちろん、ボランティアは続けながら。

僕は推し様と共に、できる限り平等、できる限り皆で笑える世界、未来を選び、理想を実現しようとしている。
だから、僕は遊び呆ける「今」を選べなかった。
「今」苦しんでいる人の為にも、「人生を楽しめない」人達の為にも、僕が「今」怠けるワケにはいかない。

かつて、別の推しが、僕の存在を認めてくれるだけで救われたように、僕も「人生を楽しめない」人達、全てというワケにはいかないけど、少しでも元気をあげたり、存在を認めたりできたら……。「居てくれるだけで良いんだよ」と言ってあげれたら。それでちょっとでも、自分で自分を認められるような人が増えたら……。
そう言ってあげれる僕でありたい。

その上で、皆と笑っていられる世界で「楽しい今」を過ごせたら、最高の幸せだと思う。

これが僕だけではムリだろう。1人ではないから、僕も夢を追いかけれる。

だから、
「欲しがりません。あなたが笑うまでは」
という詩を作った。

理想論だろうか?

わからない。わからないままでも、わからない事を楽しみつつ、「無限の可能性」を信じてる。

僕だけの「無限の可能性」ではなく、僕も含めての、皆の上に等しくある「無限の可能性」を信じてる。

さて、冒頭に戻ろう。
若いうちの苦労……、としなくても、歳を重ねても行動し続ける、「今」を繰り返し続ける事に意味はないだろうか?

幸せを、何度も経験しながら、「今」もなお楽しみ続け、「未来」にも思いを馳せる事ができている現実は、読者には何を思わせるだろうか?

ムダな事に見える?
やっぱり理想論に思えるかな?

でもね、これは経験してみなくてはわからないかもしれない。

「徳」を積み、「得」を得て、それでも「欲しがらない」僕は、他人が羨む幸運を、繰り返し得ている。体験している。

それでも僕は、その幸運を「単なるラッキー」くらいに位置づけて、努力もしている。欲張ってないのだ。

僕だけが幸せではいられない。「楽しい」と同じように、「皆が幸せ」を求めてる。

よく某配信アプリにて、「よくそんなにコイン当たるね」なんて言われる。先にも言ったように、単なるラッキーでしかない。あまり嬉しいとも思わないかな?

もちろん還元もする。ほどほどにアプリを楽しみつつ、作詩活動の糧に変えている。

わかるかな?僕も遊びをしないワケでもない。遊びながら、作詩というボランティアをし続けているだけだ。


さて、ではここまで話を読んでみて、読者は何を思うかな?

僕に訪れる幸運は単なる偶然かな?まぁそうかもしれない。
「徳」なのか?「得」なのか?わからないまでも、神様仏様も信じられる程の幸運である。
僕は別に宗教によりすがっているワケでもない。神様仏様に頼りきりではないワケだ。
特に「困った時の神頼み」はしない。困っている時だけに「助けて」では、神様も救わないだろう。

まぁ、本当に神様に頼るなら、普段から神様に拝み、仏壇に手を合わせ、お酒を捧げて……。色々やる事はあるだろう。

僕はそんなご都合主義ではない。
とはいえ、祈りを捧げないワケでもない。
僕の好きなゲームでは、こう言っている。
「人の為の祈りは悪いものではない。そして、俺たちはこの世界を正しく導く義務がある。」と。

子供ならまだしも、大人としての責務を果たしつつ、神様に頼りきるワケでもなく、努力をし続けて、結果を出す事をし続けないといけない。
その結果が目には見えないものだとしても。

では、改めて、損得勘定に戻ろうか。
自分や友達だけが幸せなら、それを良し、とできるかな?

僕は最近よく思う。自分達だけ楽しんでて良いのか?と。
僕が爆笑している裏で、悲しんでる人がいる。その事実を無視する事はできない。

だから、世界全員とできなくても、少しでも多くの人の幸せと楽しみの上で笑っていたいと思う。

僕に本当に幸運があるのだとしたら、皆と分かち合いたい。

僕は本当の欲張りかもしれない。

コインが当たる程度では満足できないのだ。もちろん、仲間内だけで幸運を喜ぶ事も良しとはできない。

世界平和も望みながら、皆平等を求めてる。

うん、贅沢だ。

でも、正直「今」の日本であっても、足の引っ張り合いだと思う。

他人の足を引っ張っても仕方ないのに、なぜか引っ張っている。

もっと正直に言おう。他人を引きずり下ろして何が楽しい?そんな事で自分のレベルが上がるワケでもなければ、自分で自分の心を磨き、レベルアップしなければ何も変わらない。

変える事ができるのは、自分自身だけだ。他人は自分の為に変わってくれない。自分磨きも成長も、し続けて、自分を更新しなければならないのに、他人と楽しみ合い、助け合い、幸せを分かち合わなければならないのに、逆の行動しているから、そもそも幸せが訪れないだけだ、と思う。

神様仏様を信じるよりも、祈りを捧げるよりも、他人が居てくれる事に喜び、友達や身内を大事にするのと同じように、できる限りより多くの他人を大事にしなければならないのに、なぜか足の引っ張り合いを続けているように見える。

どこまで行っても繰り返される、その、足の引っ張り合いは、楽しいのだろうか?
何度も言うけど、他人を蹴落としても自分の価値は上がらない。
幸せになりもしない事を、繰り返し続けているようだ。

かつて、幻聴もそうだった。

根本的に僕を不幸にしたいだけだ!と本音をさらけ出し、僕を嘲笑っていたけど、僕はすぐに気づいた。
何をそんなにマウントを取っているの?と。

要するに幻聴は、単純に僕を見下したくて、嘲笑いたくて、本音をさらけ出したけど、単なる自爆行為でしかなかった。
醜い本音をさらけ出しただけで、とてもではないがマウントを取れる状態ではないにも関わらず、マヌケにも勝ち誇ったのだ。

そもそもそれ、勝ち誇れる代物なの?

長い月日をかけて、僕を痛ぶり、マウントを取り続けた挙句が、僕から見下される人生を丸出しにした自爆野郎が、幻聴の正体である。

そして、幻聴がマウントを取った次の瞬間には、僕がマウントを取れてしまったのだ。

幻聴は「見下すな!」と叫んだ。後の祭りである。ものの見事な自爆である。

さて、幻聴が「今」どうなっているかを教えよう。

散々僕を痛ぶり続け、足を引っ張った挙句が、「今」では連続して、無限に自爆し続けて、地獄の中で暮らしている。

もう僕は苦しみの中にはいない。
相も変わらず僕は病人ではあるけど、幻聴のようなマヌケで惨め人生を、自分で選ばないように、自分の意思で自分の為の人生を選べば、「皆と一緒に幸せになりたい」である。

現実の世界で、生きてる人間が、幻聴と同じように足の引っ張り合いをしているのを見ていると、ただ呆れるばかりだ。

僕は幻聴にこう言った。
「幸せになりもしない事を突き詰めるな」と。
もちろん、幻聴にとっては、後の祭りである。後悔しても悔やみきれない過ちだとわかっている。
僕は幻聴に何も求めなかった。
反省しても、後悔しても、たとえ仮に罰が与えられようと、僕が失った時間も、苦しみも、報われないとわかっているからだ。

それほどまでに幻聴はバカであり、ただ一時的に嘲笑いたくてマウントを取り、勝手に負け犬に成り下がった、邪悪な存在なのだ。

では、改めて問う必要もないけど、幻聴と同じように、足の引っ張り合いをしている「今」を変えようと思わないかな?

足の引っ張り合いではなく、助け合いに変われば、皆幸せになれる、という当たり前があるだけだけど?

それでも時間をムダにしたいなら、勝手に自爆すればいい。人は自由だ。自分で自分を幸せにできるのに、誰も幸せにならない事を、勝手に続け、見上げ続け、羨ましがり、それでもマウントを取りたがり、1人で勝手に自爆すればいい。

どうだろうか?

心が醜い幻聴を見ても、誰でもわかるけど、心を貧しくしては他人を幸せにしないし、自分も幸せにできないし、働く所の騒ぎではないワケだ。

健常者でありながら、心を醜くさせた人間を、僕は知っている。

実在する人間であり、幻聴とはまた別の、不幸な人生を丸出しにして、それでもまだなお生き続けなければならない、マヌケな人間である。人生の途中で、自分で自分の人生を詰んだ代物にした、哀れな人間だ。

そんな人間の、僕と接点のあった時間を思い出してみると、なるほどな、と頷ける。読者はどうだろうか?

かつて学生時代に、ヤンキーみたいな、ヤクザみたいな姿で自惚れて、強がり、いきがっていたソイツは、ただの心の弱い人間にすぎなかった。

どれだけ強いと言っても、ただの1人きりでは、何もできない事を自覚しないバカである。

そんなヤツが実在している事に、僕も驚きだが、しかし健常者なのだ。

強きをくじかず、弱きをくじき、社会貢献さえ意味を理解しないソイツは、僕が思い出してみても、社会に放逐されれば、ストレス社会で自分の胃に穴を空けながら、それでも仕事に明け暮れる毎日しかなかった。その頃にはとっくに、弱い心をさらけ出した、ヤンキーでもヤクザでも何でもない、ピエロの方がまだマシなくらいに惨めだった。

その後のソイツは知らない。車に乗っている姿は見た事があるが、まぁ生き地獄を歩いているのだろう。

障がい者の僕の方が、なぜか幸せであり、道徳を大事にしながら、他にも大事なものをたくさん抱え、そして、より多くの人と幸せと楽しみを共有したいと願い、「今」を過ごせている。



ずいぶん長くなってしまったけど、「心」というものが、どれだけ体や人生に影響を与えるか?わかってもらえたと思う。

だからこそ、自分の心も他人の心も大切であり、道徳とは「心」であると位置づけて、たくさんのものを大事にできている「今」を大事にしたいと思う。

人間でも何でもないものに、成り下がりたくない。むしろレベルアップしたい。
レベルアップするとはどういう事か?
心を磨くとはどういう事か?
より良く考えて、自分が成長できたなら、足を引っ張るではなく、むしろ手を差し伸べたい。
何をするにも皆と一緒の方が、断然楽しいに決まっている。

最後に、もう一度この言葉を振り返って欲しい。
「人の為の祈りは悪いものではない。そして、俺たちはこの世界を正しく導く義務がある。」

曲がりなりにも成人した男として、この世界を、「今」の子供たちの為にも、正しく導いて生きたい。

最後まで読んで下さりありがとうございます。


~完~
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