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第1部「灰の路」 第1章「焼け残り」
第25話「雨の底で」➆
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夜は、妙に静かだった。
外の世界がどこか遠くに置き去りにされたような、閉ざされた静けさ。
窓を半分開けた六畳間に、雨上がりの湿った風がゆっくりと流れ込む。
濡れたアスファルトの匂いが、畳の上をすべるように漂っていた。
蛍光灯の白が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
木製の机の上には、飲みかけのプロテインシェイカー。
横に置かれたバスタオルには、ついさっきまで拭っていた汗の跡が残る。
蓮司はベッドの端に腰を下ろし、指先でタオルの端を無意識に弄んでいた。
シャワーを浴びてから、すでに一時間ほど。
湯の熱がまだ体の奥に籠っているような感覚が残る。
静寂の中で、呼吸だけが規則正しく続いていた。
外では、遠くで車のクラクションの音。
その合間に、風のざわめきと犬の遠吠え。
どこかでテレビの笑い声が一瞬漏れ、それがすぐに途切れた。
――明日は距離をもう少し伸ばすか。
――ステップの感覚、まだ鈍い。
そんな思考が、習慣のように頭をかすめる。
パンチの精度でも、筋力でもない。
感覚そのものが曇っていた。
体ではなく、心のどこかが拒んでいる。
何かが空白のまま、埋まらないまま動いている。
それでも動きを止めれば、崩れてしまう。
その恐れだけが、蓮司を走らせていた。
机の上のスマートフォンが、突然震えた。
ブゥゥ……ブゥゥ……。
低くくぐもった振動音が、部屋の空気を震わせる。
蓮司は顔を上げずに、わずかに息を吸い込んだ。
表示された番号を見なくても分かった。
――あの人だ。
何度も、似たような夜があった。
そしてそのすべての夜に、“面倒ごと”が待っていた。
それでも、手は自然に伸びた。
画面をタップし、耳に当てる。
短く息を整えて、声を出す。
「……もしもし、奏姐」
『あぁ、やっぱり起きてた? あんた、寝るの早いタイプじゃないもんね。
あと今は仕事中だから“奏”じゃなくて“蘭華”ね』
「すまない、蘭華。それで一体どうした」
『仕事を頼みたいの、今すぐに』
「仕事? SNS見てねぇのか? 今日は雨だから殴られ屋は休みだぞ」
『違う、殴られ屋の仕事じゃないの』
「……てことは、用心棒の方か。トラブルか」
蘭華の艶のある声の向こうから、わずかな騒音が混じる。
笑い声、グラスの割れる音、誰かの罵声。
その全部が、湿った夜の空気を伝って耳に刺さった。
『うん、そんな感じ。Avalonでちょっと揉めてる。
まだ手は出てないけど、空気がヤバい』
「店の誰か、怪我してるのか」
『してない。けど、このままだと時間の問題かも』
「警察は?」
『呼んでない。呼べないの、わかるでしょ?』
蛍光灯がじり、と微かに唸る。
部屋の空気が一段、重くなる。
蘭華の声には焦燥と怒りが混じっていた。
けれど、芯の強さは変わらない。
泣きながら笑う女。七年前から、ずっとそうだった。
――あの夜、橋の下で倒れていた俺を拾った女。
――見ず知らずのガキを家に入れて、飯を出してくれた女。
――血の匂いが充満した部屋で、泣きながら「ありがとう」と呟いた声。
その記憶が、雨上がりの匂いとともに蘇る。
蘭華という名前を聞くたび、胸の奥のどこかが軋む。
それは痛みではなく、“目覚め”に似ていた。
『……ねぇレン。行ける?』
問いかけに、答えは要らなかった。
蓮司は静かに立ち上がり、机の端に掛けていた黒いパーカーを手に取る。
袖口の糸が少しほつれている。
その小さな現実が、妙に冷たく感じた。
「……十分で着く」
『助かる。ほんと、ごめんね』
通話が切れる。
静寂が戻る。
だが、先ほどまでのそれとは違っていた。
部屋の空気がわずかに動き出す。
夜が息を潜め、何かを待っている。
蓮司は机の下に手を伸ばし、古びたスニーカーを引き寄せる。
つま先の汚れを親指で拭い、紐を結ぶ。
黒いジャージのズボンを穿き、リュックを背負う。
中には黒いセカンドバッグ。
それは殴られ屋ではなく、“用心棒”としての装備。
一つひとつの動作が儀式のようだった。
息を整え、肩の力を抜く。
拳を軽く握り、開く。
呼吸のリズムで感情を殺す。
戦うためのスイッチが、静かに入る。
――考えるな。終わらせろ。
玄関のドアノブに触れる。
金属の冷たさが指先を刺す。
ドアを開けると、夜の湿気と街灯の光が流れ込んだ。
タバコとアスファルトの匂い。
遠くでパトカーのサイレンが一瞬だけ鳴り、すぐに遠ざかる。
蓮司は視線を前に向けた。
木屋町――“蘭華の店”がある場所。
七年前と何も変わらない。
終わらせたいと思いながら、結局そこへ戻る。
それが呪いであろうと、救いであろうと。
「行くしかない」
その言葉を、声には出さなかった。
けれど胸の奥で、確かに響いていた。
濡れたアスファルトを踏みしめ、蓮司は夜の街へと歩き出す。
足音が水たまりを叩き、微かな波紋を残して消える。
街の光が水面に揺れ、影が歪む。
――息を吐け、冷静に。
――誰かが悲しむのは、もうごめんだ。
その思いだけを胸に、
黒い影がひとつ、夜の街に溶けていった。
外の世界がどこか遠くに置き去りにされたような、閉ざされた静けさ。
窓を半分開けた六畳間に、雨上がりの湿った風がゆっくりと流れ込む。
濡れたアスファルトの匂いが、畳の上をすべるように漂っていた。
蛍光灯の白が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
木製の机の上には、飲みかけのプロテインシェイカー。
横に置かれたバスタオルには、ついさっきまで拭っていた汗の跡が残る。
蓮司はベッドの端に腰を下ろし、指先でタオルの端を無意識に弄んでいた。
シャワーを浴びてから、すでに一時間ほど。
湯の熱がまだ体の奥に籠っているような感覚が残る。
静寂の中で、呼吸だけが規則正しく続いていた。
外では、遠くで車のクラクションの音。
その合間に、風のざわめきと犬の遠吠え。
どこかでテレビの笑い声が一瞬漏れ、それがすぐに途切れた。
――明日は距離をもう少し伸ばすか。
――ステップの感覚、まだ鈍い。
そんな思考が、習慣のように頭をかすめる。
パンチの精度でも、筋力でもない。
感覚そのものが曇っていた。
体ではなく、心のどこかが拒んでいる。
何かが空白のまま、埋まらないまま動いている。
それでも動きを止めれば、崩れてしまう。
その恐れだけが、蓮司を走らせていた。
机の上のスマートフォンが、突然震えた。
ブゥゥ……ブゥゥ……。
低くくぐもった振動音が、部屋の空気を震わせる。
蓮司は顔を上げずに、わずかに息を吸い込んだ。
表示された番号を見なくても分かった。
――あの人だ。
何度も、似たような夜があった。
そしてそのすべての夜に、“面倒ごと”が待っていた。
それでも、手は自然に伸びた。
画面をタップし、耳に当てる。
短く息を整えて、声を出す。
「……もしもし、奏姐」
『あぁ、やっぱり起きてた? あんた、寝るの早いタイプじゃないもんね。
あと今は仕事中だから“奏”じゃなくて“蘭華”ね』
「すまない、蘭華。それで一体どうした」
『仕事を頼みたいの、今すぐに』
「仕事? SNS見てねぇのか? 今日は雨だから殴られ屋は休みだぞ」
『違う、殴られ屋の仕事じゃないの』
「……てことは、用心棒の方か。トラブルか」
蘭華の艶のある声の向こうから、わずかな騒音が混じる。
笑い声、グラスの割れる音、誰かの罵声。
その全部が、湿った夜の空気を伝って耳に刺さった。
『うん、そんな感じ。Avalonでちょっと揉めてる。
まだ手は出てないけど、空気がヤバい』
「店の誰か、怪我してるのか」
『してない。けど、このままだと時間の問題かも』
「警察は?」
『呼んでない。呼べないの、わかるでしょ?』
蛍光灯がじり、と微かに唸る。
部屋の空気が一段、重くなる。
蘭華の声には焦燥と怒りが混じっていた。
けれど、芯の強さは変わらない。
泣きながら笑う女。七年前から、ずっとそうだった。
――あの夜、橋の下で倒れていた俺を拾った女。
――見ず知らずのガキを家に入れて、飯を出してくれた女。
――血の匂いが充満した部屋で、泣きながら「ありがとう」と呟いた声。
その記憶が、雨上がりの匂いとともに蘇る。
蘭華という名前を聞くたび、胸の奥のどこかが軋む。
それは痛みではなく、“目覚め”に似ていた。
『……ねぇレン。行ける?』
問いかけに、答えは要らなかった。
蓮司は静かに立ち上がり、机の端に掛けていた黒いパーカーを手に取る。
袖口の糸が少しほつれている。
その小さな現実が、妙に冷たく感じた。
「……十分で着く」
『助かる。ほんと、ごめんね』
通話が切れる。
静寂が戻る。
だが、先ほどまでのそれとは違っていた。
部屋の空気がわずかに動き出す。
夜が息を潜め、何かを待っている。
蓮司は机の下に手を伸ばし、古びたスニーカーを引き寄せる。
つま先の汚れを親指で拭い、紐を結ぶ。
黒いジャージのズボンを穿き、リュックを背負う。
中には黒いセカンドバッグ。
それは殴られ屋ではなく、“用心棒”としての装備。
一つひとつの動作が儀式のようだった。
息を整え、肩の力を抜く。
拳を軽く握り、開く。
呼吸のリズムで感情を殺す。
戦うためのスイッチが、静かに入る。
――考えるな。終わらせろ。
玄関のドアノブに触れる。
金属の冷たさが指先を刺す。
ドアを開けると、夜の湿気と街灯の光が流れ込んだ。
タバコとアスファルトの匂い。
遠くでパトカーのサイレンが一瞬だけ鳴り、すぐに遠ざかる。
蓮司は視線を前に向けた。
木屋町――“蘭華の店”がある場所。
七年前と何も変わらない。
終わらせたいと思いながら、結局そこへ戻る。
それが呪いであろうと、救いであろうと。
「行くしかない」
その言葉を、声には出さなかった。
けれど胸の奥で、確かに響いていた。
濡れたアスファルトを踏みしめ、蓮司は夜の街へと歩き出す。
足音が水たまりを叩き、微かな波紋を残して消える。
街の光が水面に揺れ、影が歪む。
――息を吐け、冷静に。
――誰かが悲しむのは、もうごめんだ。
その思いだけを胸に、
黒い影がひとつ、夜の街に溶けていった。
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