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第21話 遠い式典の知らせ
料理大会の余韻に浸っていた数日後、館にまた王都からの早馬が駆け込んできた。伝令が持参した封筒は重々しい蝋で封じられ、王家の紋章が刻まれている。執事クラウスが恭しく受け取り、広間で読み上げると、そこに書かれていたのは――聖女、美咲が王都の式典でさらに脚光を浴びているという知らせだった。
「……聖女カンザキ・ミサキ殿、王都にて病を癒す奇跡を示され、多くの人々を救済。国王陛下の御前で称えられ、貴族たちからも厚き賛辞を受ける」
淡々としたクラウスの声なのに、私の耳には鋭い刃のように突き刺さった。
美咲はさらに人々に必要とされ、王都の輝かしい舞台の中心に立っている。片や私は、辺境の片隅で守られ、庇護され、ようやく料理や裁縫で小さな役に立てただけ……。胸の奥でちりちりと痛みが広がり、息が詰まる。
広間を辞したあと、私は庭のベンチに腰を下ろした。春の風が花壇の花を揺らすのに、心は重く沈んでいた。
「……あの子は、やっぱりすごいんだ」
王都で同じ日に召喚されたのに、差は歴然としている。私がおまけで呼ばれた存在だと、また突きつけられたようで涙がにじむ。
「私なんて……」
思わず口からこぼれた言葉は、自分を一層惨めにする。目の奥が熱くなり、俯いた視界に花の赤が滲んだ。
「君はまた自分を責めているな」
低く落ち着いた声に顔を上げると、アルフォンスが立っていた。いつからそこにいたのか、静かにこちらを見つめている。
「……聞いていたんですか」
「少しだけな」
彼はゆっくりと歩み寄り、隣に腰を下ろした。大きな体が近くにあるだけで、不思議と心が落ち着いていく。それでも胸の痛みは消えず、唇を噛んだ。
「美咲は……本当に聖女なんです。人を癒し、称えられて、皆に必要とされて……。私は何もできないまま……」
アルフォンスはしばし黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「必要とされる形は人それぞれだ。君は王都の舞台には立たないかもしれない。だが、昨日の料理大会で見ただろう? 君の料理一つで、村人がどれだけ笑顔になったか」
「……でも、それは……」
「小さなことだと、また言うつもりか」
真剣な眼差しに射抜かれ、私は言葉を失った。
「君の一皿が、この地で生きる者の心を支えた。王都の光に比べればかすんで見えるかもしれないが、それは確かな力だ。誰にでもできることではない」
彼の声は低く温かく、心の奥に深く届いた。
「……アルフォンス様」
震える声で名を呼ぶと、彼は少しだけ口元を緩めた。
「君がここにいることで、私は救われている。冷徹と呼ばれた私に、笑顔を思い出させてくれるのは君だけだ」
その言葉に胸が強く揺れた。涙がこぼれそうで、必死に瞬きを繰り返す。王都で聞いたどんな華やかな讃辞よりも、その一言が私の心を支えてくれた。
沈黙の中、庭を渡る風が二人の間を柔らかく撫でていった。花の香りと鳥のさえずりが、遠い王都の喧噪とはまるで違う世界を作り出している。
「……私、この場所で頑張ります。美咲と比べるんじゃなくて、私にできることを」
「それでいい。いや、それがいい」
アルフォンスの眼差しはまっすぐで、揺るぎなかった。
夕陽が庭を茜色に染める。私は深く息を吸い込み、胸の奥で静かに呟いた。
「私にも……私の光がある」
その言葉は小さかったけれど、確かに心に響き、消えることなく残った。
第22話 看病の夜
その日、朝からアルフォンスの顔色が冴えなかった。いつもなら誰よりも早く起きて執務に向かう彼が、広間に姿を見せたときには既に額にうっすらと汗を浮かべていた。執事クラウスが心配そうに声をかける。
「アルフォンス様、少しお休みになられた方がよろしいのでは……」
「大丈夫だ。まだやることが残っている」
低い声でそう言い切ったものの、その足取りは重く、普段の威厳ある姿からは程遠かった。私は胸騒ぎを覚え、思わず彼の後を追った。
午後になり、館の執務室の扉を開けると、机に向かったまま彼が項垂れているのが目に入った。書類の上に力なく手を置き、肩が上下している。
「アルフォンス様!」
駆け寄って声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。普段は鋭い灰色の瞳が、熱に霞んで揺れている。
「……すまない。少し熱があるようだ」
そう言いながら立ち上がろうとするが、足元がふらつき、私は慌てて腕を支えた。
「無理です! 休んでください!」
強い口調で叫んだ自分に驚きつつも、彼の体温の高さに胸がぎゅっと締め付けられる。
急いでリディアを呼び、寝室に運び込む。厚い毛布を掛けると、アルフォンスは浅い息を繰り返しながら目を閉じた。
「水と冷たい布を! あと体を冷やすために桶も!」
私が指示を出すと、侍女たちが慌ただしく動く。王都では誰の役にも立てなかった私が、今は彼のためにできることがある。それだけで体が勝手に動いた。
冷やした布を額に乗せると、彼の眉がわずかに緩む。その表情を見て、胸がじんと熱くなる。
「大丈夫……きっと大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように呟きながら、手を握った。熱に浮かされた彼の手は信じられないほど熱く、それでも離したくなかった。
夕暮れになると、外はしとしとと雨が降り始めた。蝋燭の炎が揺れる薄暗い部屋で、私は彼の寝顔を見守り続けた。強く、冷徹だと呼ばれる彼が、今はこんなにも弱々しく見える。その姿に胸が痛み、涙がこぼれそうになる。
「どうしてこんなに無理をするの……」
彼の人柄を思えば答えはわかっていた。領主として、人々の不安を背負い、自分の弱さを見せまいとしているのだ。そんな彼を少しでも支えたい。その思いが胸いっぱいに溢れた。
やがて彼がうっすらと目を開けた。
「……君が、そばにいるのか」
「ええ。ずっといます」
かすれた声に即座に答えると、彼はわずかに微笑んだ。その微笑みは弱々しくも、どこか安心しているようだった。
「……不思議だな。熱にうなされているのに、心は静かだ」
「だったら、眠ってください。私が見ていますから」
そう告げて手を握り直すと、彼は力を抜いて目を閉じた。
長い夜、私は一度も眠らずに看病を続けた。額の布を取り替え、水を口に含ませ、何度も体温を確かめた。やがて夜明けが近づいたころ、彼の熱は少しずつ下がり、呼吸も穏やかになっていった。
東の空が白み始める頃、私はようやく深く息を吐いた。
「よかった……」
安堵と共に、熱い涙が頬を伝った。
そのとき、寝台の上で彼が小さく呟いた。
「……ありがとう」
眠っているのか起きているのかわからないほどのかすかな声だったが、確かに私の胸に届いた。
「こちらこそ……どうか、もう無理をしないで」
私は静かに答え、朝の光が差し込む窓を見上げた。新しい一日の始まりが、私たちの間に小さな絆を刻んだように感じられた。
第23話 感謝の散歩
夜通しの看病から数日が過ぎ、アルフォンスの顔色はすっかり戻っていた。館に漂っていた張り詰めた空気も和らぎ、使用人たちの表情に安堵の笑みが浮かぶ。私も胸をなで下ろしたものの、あの夜の光景はまだ鮮明に残っていた。普段は冷徹と呼ばれる彼が、熱にうなされ弱々しく横たわる姿。そして、かすかに「ありがとう」と告げた声。思い出すだけで胸が熱くなる。
その日の午後、私は裁縫部屋で子供の服の修繕をしていた。針の音が小さく響く中、扉が軽く叩かれる。
「入っていいか」
低い声に驚いて顔を上げると、そこにはアルフォンスが立っていた。すっかり体調は回復したようで、背筋は凛と伸び、瞳にも力が戻っている。
「アルフォンス様……もう大丈夫なんですか?」
「ああ。世話になったな」
そう言って彼は歩み寄り、私の前で立ち止まった。
「君に礼をしたい。少し、散歩に付き合ってくれないか」
「えっ、私が……ですか?」
思わず針を取り落としそうになる。彼に直接誘われるなんて初めてで、心臓が早鐘のように打ち始めた。
「館の外の林は、今の季節が一番美しい。君にも見せたい」
真剣な眼差しに逆らえるはずもなく、私は小さく頷いた。
林へ向かう小道は、柔らかな陽射しに包まれていた。木々の若葉が風に揺れ、鳥たちが枝から枝へと舞う。足元には小さな花が群れ咲き、草の匂いが漂っている。
「……本当に綺麗ですね」
思わず声を漏らすと、アルフォンスはゆっくりと歩みを緩めた。
「この景色を見ると、生きていることを実感する。戦場にいた頃は、ただ勝利だけを追い、何も見えていなかった。君と歩いていると、ようやく取り戻せる気がする」
普段の彼からは想像できないほど穏やかな言葉に、胸が熱くなる。私は黙って隣を歩きながら、木漏れ日に照らされる彼の横顔を盗み見た。
やがて小さな泉に辿り着いた。透き通る水面には空が映り、鳥が羽ばたくと波紋が広がる。アルフォンスは水辺に腰を下ろし、手にした小石を投げた。
「私は領主として、常に強くあらねばならないと思ってきた。だが、君の前では不思議と弱さを見せられる。あの夜もそうだった」
「……私なんて、ただ布を替えて、水を飲ませただけです」
「それがどれほど大きな支えだったか、君にはわからないだろう」
彼の灰色の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。心臓が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
沈黙が流れる。泉のせせらぎと鳥の声だけが響く中、私は意を決して口を開いた。
「私も……アルフォンス様の力になりたいです。小さなことしかできなくても、そばにいて支えたい」
頬が熱くなり、視線を落とした。すると彼はゆっくりと立ち上がり、私の肩に大きな手を置いた。
「それだけで十分だ。君の存在が、私を強くする」
その言葉に胸が震え、目頭が熱くなる。
帰り道、夕陽が差し込み、二人の影が長く伸びて並んでいた。重なり合う影を見つめながら、私は小さく呟いた。
「……この時間が、ずっと続けばいいのに」
もちろん彼には聞こえないほどの小さな声だった。だが、アルフォンスが隣で微かに微笑んだ気がして、心臓がさらに速く打ち始めた。
第24話 夫婦みたいだね
その日は市場の日で、私はリディアと一緒に買い物籠を抱えて村を歩いていた。初夏の陽射しは強いけれど、風は涼やかで心地よく、畑からは麦の青い香りが漂ってくる。市場の広場には野菜や果物が山のように並び、村人たちの笑い声があふれていた。
「お嬢様、今日はカブがよく採れましたよ!」
「焼き菓子もできたてだよ、味見してって!」
声をかけてくれる村人たちに頭を下げるたび、胸がじんわりと温かくなる。王都では居場所もなく“無能”と呼ばれた私が、ここでは自然に受け入れられている。その違いに、今でも不思議な感覚を覚える。
荷物が増えて腕が疲れてきたとき、後ろから大きな影が差した。振り返れば、アルフォンスが静かに歩み寄ってくる。
「随分と買い込んだな。持とう」
「えっ……でも」
彼は有無を言わせず籠を片手で持ち上げた。私にはずっしり重かった籠を、彼はまるで羽のように軽々と抱えてしまう。
「……ありがとうございます」
頬が熱くなり、俯いた私の耳元で村人たちの囁きが聞こえてきた。
「見ろよ、領主様とお嬢様、並んで歩いて……まるで夫婦だな」
「ほんとほんと。お似合いだよ」
「ふ、夫婦!?」
思わず大声を上げてしまい、周囲の笑い声が一斉に広がる。私は顔から火が出そうになり、慌てて両手を振った。
「そ、そんなことありません! 全然違いますから!」
必死の否定に、老人たちは目を細めてにやにやと笑う。
「照れなくてもいいさ。わしらも若い頃はそうだったんだ」
「領主様もお嬢様も、いつも一緒におるからなあ」
まるで孫をからかうような声音に、胸がどくどくと脈打つ。言葉を失って赤面する私の隣で、アルフォンスは静かに息を吐いた。
「……そう見えるなら、それでいい」
「えっ!?」
低く落ち着いた声が耳に届き、私は目を見開いた。彼の横顔は相変わらず冷静で、揺るぎない。それでも瞳の奥に柔らかな光が宿っているのを見て、心臓が跳ねた。
「人が何を言おうと、私は気にしない。ただ……君と歩くのは悪くない」
その一言で足が止まりそうになる。村人たちのからかいよりも、彼の真剣な言葉の方がずっと強く胸を揺さぶった。
「アルフォンス様……」
名前を呼ぶだけで声が震え、視界が滲んだ。
市場の喧噪に紛れ、私の鼓動だけがやけに大きく響く。周囲の笑い声はもう耳に入らず、隣を歩く彼の存在だけがすべてだった。
夕暮れ、帰り道の並木道で、私は思わず胸の奥で呟く。
「……もし本当に夫婦だったら、私は幸せなんだろうな」
誰にも聞こえない小さな声。それでも自分自身にははっきりと届き、頬をさらに赤く染めた。
第25話 野外の昼餉
朝から空はよく晴れ、青の下に白い雲がゆったりと流れていた。館の窓を開けると、心地よい風が頬を撫で、野に咲く花の甘い香りが漂ってくる。今日は市場も祭りもない静かな日。ふと、私は小さな挑戦を思いついた。
「アルフォンス様に……お弁当を作ってみよう」
声に出した瞬間、胸がどきんと鳴った。看病の夜や散歩の時間を思い出し、もっと彼に感謝を伝えたいと強く思ったのだ。
厨房を借り、リディアと一緒に準備を始める。籠いっぱいの野菜、焼いた肉、村で手に入れた新鮮なチーズ。包丁を握ると緊張で手が震えたが、深呼吸して心を落ち着けた。
「ここをこう切るといいですわ」
「ありがとう……えっと、こうかな」
リディアに助けられながら、色とりどりの野菜を詰め、パンを切り分ける。小さな工夫を凝らして、形よく並べていくと、まるで日本で作っていたお弁当のようになっていった。
「できた……!」
籠に布をかけ、完成したお弁当を抱きしめると、不思議と胸が高鳴った。
昼前、アルフォンスの執務室を訪ねた。彼は書類に目を通していたが、私を見ると軽く眉を上げる。
「どうした?」
「えっと……その……一緒に外で食事をしませんか?」
言葉に詰まりながら差し出した籠を見て、彼は目を瞬いた。
「これは……君が?」
「はい。慣れないですけど、頑張って作ってみました」
しばしの沈黙の後、彼の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「行こう。いい天気だ」
館の裏手にある丘へ向かうと、風に揺れる草原が広がっていた。遠くには森が連なり、小川のせせらぎが耳に届く。二人で木陰に腰を下ろし、籠を開くと、色とりどりのお弁当が姿を現した。
「……美しいな」
アルフォンスが感嘆の声を漏らし、私は耳まで熱くなる。
「見た目だけです。味は……どうかわかりませんけど」
恐る恐る差し出すと、彼は迷わず口にした。咀嚼し、飲み込んだ後、ゆっくりと頷く。
「旨い。素朴だが心がこもっている。……こんな味は初めてだ」
「本当ですか……?」
「ああ。君の手から生まれたものだからこそだろう」
その言葉に胸が震え、思わず視線を逸らした。
二人で弁当を分け合いながら、鳥のさえずりを聞き、風の匂いを感じる。彼の隣にいるだけで、こんなにも穏やかな気持ちになれるのだと実感した。
「アルフォンス様は、こうして外で食事することはありますか?」
「いや、ほとんどない。領主としては常に館に縛られる。……だが、今日のような昼餉なら悪くない」
彼は空を仰ぎ、柔らかく笑った。その表情は王都で冷徹と呼ばれた男とは思えないほど優しかった。
食後、そよ風に吹かれながらしばし沈黙が続いた。私の胸は高鳴り続け、どうしても言葉を飲み込んでしまう。そんなとき、アルフォンスがふいに口を開いた。
「……こうして共にいる時間が、私にとっては何よりの贈り物だ」
穏やかな声が心に深く響き、私は顔を赤くしながら小さく頷いた。
「私も……幸せです」
言葉にした瞬間、頬が熱くなり、視界が滲む。それでも胸の奥に確かな温もりが広がっていった。
丘を吹き抜ける風が、二人の間を優しく撫でていく。伸びた影が重なり、まるで寄り添っているように見えた。私はその光景を胸に焼き付けながら、心の奥でそっと願った。
「この時間が、どうか長く続きますように」
第26話 王都からの招待状
その日の朝、館に一通の封書が届けられた。厚手の羊皮紙に金色の紋章が押され、封蝋は王家の紋。誰の目にも、ただの書状ではないとわかるほどの威厳が漂っていた。執事クラウスが慎重にそれを広間へ運び、アルフォンスの前に差し出す。
「王都からの正式な招待状にございます」
その言葉に、広間の空気が張り詰めた。私は胸がざわつき、思わず息を呑んだ。
アルフォンスが封を切り、朗々とした声で内容を読み上げる。
「――聖女カンザキ・ミサキ殿の功績を称え、王都にて盛大なる式典を催す。ゆえに、辺境伯アルフォンス・ヴァルター並びに同行者は、出席を願う」
広間に沈黙が落ちる。心臓が嫌な音を立てて跳ね、足がすくむ。招待状にははっきりと「同行者」と記されていた。つまり、私も――。
「……私が行く必要はないのでは」
思わず声に出していた。王都は、私を「無能」と決めつけ、追い出した場所。再びそこへ戻るなんて、想像するだけで胸が苦しくなる。
アルフォンスは静かに私を見つめた。その灰色の瞳は揺るぎなく、淡々と告げる。
「君は私の客人であり、この地の一員だ。招待状が示す“同行者”とは、君以外にあり得ない」
「でも……王都の人たちは、きっとまた私を笑います。聖女の陰に隠れた無能だって」
唇が震え、視界が滲む。あの日、冷たい石畳に背を向けられた記憶が蘇る。
「私は……怖いんです」
沈黙ののち、アルフォンスが立ち上がり、ゆっくりと私の前まで歩み寄った。
「君は恐れる必要はない」
低く落ち着いた声が、広間に響いた。
「王都の誰が何を言おうと、私は否定しない。君がこの地でどれだけ人々に必要とされているか、私が知っている。……君の価値を証明するのは王都ではなく、君と共に歩む私だ」
その眼差しに射抜かれ、胸が熱くなる。息が詰まり、涙が溢れそうになった。
「……アルフォンス様」
震える声で名を呼ぶと、彼の手がそっと私の肩に触れた。温かな掌の重みが、不安を溶かすように広がっていく。
「行こう。王都に。君を笑った者たちに、今の君を見せてやればいい」
強い言葉に胸が震えた。王都に戻ることは怖い。それでも、彼の隣にいるなら――そう思える自分がいた。
その夜、自室に戻っても胸の鼓動は収まらなかった。窓の外には満月が昇り、銀の光が静かに広がっている。
「王都へ……」
呟いた声は夜に吸い込まれる。それは不安と同時に、まだ見ぬ未来への扉のように思えた。
そして心の奥で小さく願った。
「どうか、彼と一緒に歩めますように」
第27話 出立の準備
王都からの正式な招待状が届いてから、館の空気は目に見えて慌ただしくなった。馬車の整備、道中の食料や水の準備、護衛兵の配置。使用人たちが廊下を行き交い、荷物を運ぶ音が絶えない。私はその中心でただ立ち尽くし、胸の奥に重い塊を抱えていた。
久しぶりに戻る王都。そこは、私が「無能」と罵られ、追放された場所。美咲が聖女として脚光を浴びるその舞台に、私は再び足を踏み入れるのだ。想像するだけで足が震える。
「お嬢様、こちらの荷物はいかがいたしましょうか?」
リディアが声をかけてくれる。私の荷物はといえば、裁縫道具と少しの衣服、それに最近作った刺繍入りのハンカチくらい。豪華なドレスなど一つも持っていない。
「……これだけで大丈夫です」
小さな声で答えると、リディアは眉を下げた。
「王都の式典では華やかな衣装が求められるでしょう。辺境伯様もその点を考慮なさって……」
言葉の先を想像しただけで心臓が締め付けられる。美咲のような光り輝く存在と比べられるのは、もう嫌だ。
その晩、荷造りを終えても眠れなかった。窓の外に広がる星空を見つめ、布団の上で膝を抱える。
「……また笑われるんじゃないかな。場違いだって」
胸がぎゅっと痛む。王都の記憶は、私にとって今も傷のままだ。
そのとき、扉が静かにノックされた。
「入っていいか」
アルフォンスの声だ。慌てて立ち上がり、扉を開けると、彼はいつも通りの落ち着いた表情で立っていた。
「顔色が悪い。眠れていないな」
「……はい」
視線を落とすと、彼は部屋に入り、窓辺に視線を向けた。
「君が不安に思うのは当然だ。王都は華やかで残酷な場所だ。私もかつて、そこに居場所を見つけられなかった」
「え……?」
「冷徹と呼ばれ、追いやられたのだ。だが辺境で人々と共に生きることで、ようやく自分の道を見つけた。君も同じだ。王都で否定されても、ここで役割を得ただろう?」
灰色の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。胸の奥が震え、呼吸が浅くなる。
「けれど……私が王都に行ったら、また何もできない自分を思い知らされる気がして」
かすかな声で吐き出すと、アルフォンスはゆっくりと首を振った。
「君が何もできない? それは違う。村人たちが君を慕い、子供たちが君に笑顔を向けるのは、何よりの証拠だ」
彼は一歩近づき、私の手をそっと取った。温かな掌が指先に広がり、胸の奥の不安が少しずつほどけていく。
「王都の舞台に立つのは、君が誰かと比べられるためではない。君がここで得たものを胸に、私と共に歩くためだ」
「……アルフォンス様」
名前を呼ぶだけで涙が滲みそうになった。
しばしの沈黙。彼は手を離さずに静かに続けた。
「安心しろ。どれほど人の目が冷たくても、私は君を守る」
その言葉は、どんな宝石よりも重く尊く響いた。私は必死で頷き、握られた手をぎゅっと返した。
「……はい。私も、隣で頑張ります」
不安はまだ消えない。それでも、彼と共になら王都へ行ける――そう思えた。
翌朝、空は澄み渡るように晴れていた。館の前に整えられた馬車が並び、使用人たちが荷物を積み込んでいる。村人たちも見送りに集まり、温かな声をかけてくれた。
「お嬢様、気をつけて!」
「戻ったらまた料理を教えてくださいね!」
その声に背を押されながら、私はアルフォンスと共に馬車へ乗り込んだ。
車輪が石畳を踏み、ゆっくりと館を離れていく。揺れる窓の外に広がる青空を見上げ、胸の奥でそっと呟いた。
「……私、逃げない」
小さな決意が、確かな力となって体を支えていた。
第28話 王都への道中
馬車の車輪が石畳を抜け、やがて草原の道へと入った。春を過ぎ初夏に向かう風は爽やかで、窓から差し込む光が緑をきらめかせている。遠くで小鳥がさえずり、馬の蹄の音が一定のリズムで響く。私は窓辺に寄りかかりながら、少し緊張した面持ちでその景色を眺めていた。
王都へ向かう道のりは長い。だからこそ、胸の奥の不安は否応なく膨らんでいく。再びあの冷たい視線を浴びることになるのだろうか――そう思うたび、指先が冷たくなる。
「顔色が優れないな」
隣に座るアルフォンスの声に、肩が跳ねた。灰色の瞳が静かに私を見つめている。
「……大丈夫です。ただ、少し……怖くて」
言葉を絞り出すと、彼は一瞬だけ視線を前に向け、そしてまた私に戻した。
「正直なところを言おう。私も王都は好きではない」
「え……?」
「冷徹と呼ばれ、疎まれ、最後には辺境へ追いやられた。王都に残したものは、名誉よりもむしろ傷の方が多い」
低い声が揺れもなく響く。その告白に私は驚き、目を見張った。完璧に見える彼にも、そんな過去があったなんて。
「それでも今は、怖れよりも楽しみの方が勝っている」
「どうして……?」
「君と一緒に行けるからだ」
短い言葉が胸に突き刺さり、心臓が大きく跳ねた。
「……私なんかが隣にいて、本当にいいんでしょうか」
不安が口から零れると、彼は少し眉を寄せて、きっぱりと言った。
「君だからいいのだ。私は戦場で数多の兵に囲まれても孤独だった。だが、君と過ごす時間は不思議と孤独を忘れさせてくれる」
強い声に息を呑む。視界が滲み、喉の奥が熱くなる。
「私……何も特別な力なんてないのに」
「力がなくて何が悪い。君の言葉一つ、笑顔一つがどれほどの力を持つか、私が誰よりも知っている」
アルフォンスの瞳はまっすぐで、曇りがなかった。
馬車は川沿いの道へと差し掛かり、水面がきらきらと光を反射する。外の景色は美しいのに、私の胸はそれ以上に熱く震えていた。
「……アルフォンス様」
名前を呼ぶだけで涙が溢れそうになり、必死に瞬きを繰り返す。
「私は、ここに来てから何度も思いました。皆さんに受け入れてもらえて、支えてもらえて……。でも一番は、アルフォンス様のおかげです。私が今ここにいるのは」
彼はしばし黙り、そして静かに言った。
「ならば、これからも共に在れ。王都でも、ここでも、その先でも」
短い言葉だったが、その重みは私の胸を深く揺らした。
しばらく沈黙が続いた。車輪の音と馬の蹄の響きだけが耳に届く。けれどその沈黙は気まずさではなく、穏やかで心地よいものだった。
やがてアルフォンスが窓の外を見ながら小さく笑った。
「……王都で誰が何を言おうと、私は君を誇る」
その横顔を見た瞬間、込み上げる想いを抑えきれず、私は小さく頷いた。
「私も……アルフォンス様と一緒なら、怖くありません」
胸の奥から自然に零れた言葉は、まるで誓いのように自分自身を包み込んだ。
夕暮れが近づき、馬車は宿場町へ向かう道へと入った。西の空が茜色に染まり、二人の影を長く伸ばしていく。
重なり合う影を見つめながら、私は静かに思った。
「私はもう、一人じゃない」
その確信が、不安に揺れていた心を確かなものへと変えていった。
第29話 宿場町の一夜
夕暮れと共に馬車は宿場町へと入った。石畳の道には灯りがともり始め、行き交う人々の声があたりを賑やかにする。旅人や商人が集まるこの町は、辺境の静かな村とは違い、華やかで活気に満ちていた。
宿に着くと、従業員たちが慌ただしく迎えに出てきた。辺境伯であるアルフォンスが訪れたと知ると、皆が深く頭を下げる。その中で私は小さく身を縮めた。豪奢な馬車に彼と並んで降り立ったことで、まるで特別な存在のように見られてしまう。
「……場違いな気がする」
心の中で呟いたが、アルフォンスは隣に立ち、揺るぎない態度で周囲の視線を受け止めていた。その背中の頼もしさに、少しだけ心が和らぐ。
用意された食堂には温かい灯りが満ちていた。大きな暖炉が燃え、木のテーブルには焼き立てのパンや煮込み料理が並ぶ。旅人たちが笑い声を上げ、歌を口ずさむ。そんな喧騒の中で、私とアルフォンスも席に着いた。
料理を口にすると、素朴ながらも滋味深い味が広がる。けれど、どうしても周囲の視線が気になった。ちらちらとこちらを見ては、囁き合う声が聞こえてくる。
「見ろよ、領主様とあの娘さん……」
「まるで夫婦みたいだな」
その一言に顔が真っ赤になった。私は慌てて俯き、パンをちぎる手を震わせる。
「気にするな」
低い声が耳元に届く。顔を上げると、アルフォンスが淡々とした表情でこちらを見ていた。
「皆が何を言おうと、私にとっては心地よい言葉だ」
「……そ、そんな……」
心臓が跳ね、視線を逸らす。だが周囲の人々は微笑ましげにこちらを見て、さらに囁きを続けた。
「お似合いだわ」
「羨ましいくらいだな」
耳まで熱くなり、食事どころではなくなってしまう。私は俯いたまま必死でスープを口に運んだ。
夕食を終えると、二人分の部屋が用意されていた。廊下を歩くときも、宿の従業員や客たちが好奇の視線を向けてくる。
「……なんだか、本当に夫婦旅行みたいですね」
思わず口にしてしまい、直後に顔が熱くなる。アルフォンスは足を止め、私を見下ろした。
「悪くない比喩だ」
平然とした声に、余計に胸がざわめく。彼はそのまま扉の前に立ち、短く言った。
「休め。明日は早い」
「……はい」
返事をした声はかすれていた。
部屋に入ると、窓から月明かりが差し込んでいた。外ではまだ酒場の笑い声が響き、宿場町の夜の活気が伝わってくる。けれど私の心はそれどころではなかった。
「夫婦みたい……」
周囲の何気ない言葉が、頭から離れない。アルフォンスの隣にいるときの安心感。彼が放つ穏やかな笑み。それを思い出すだけで胸が苦しくなり、頬が熱くなる。
「私……どうしてこんなに……」
答えは出ないまま、月明かりの下で胸を抱え、眠れぬ夜を過ごした。
第30話 王都の城門
旅路は長く、宿場町をいくつも越え、やがて馬車は見覚えのある景色へと差し掛かった。広がる平野の向こうに、白い石造りの巨大な城壁がそびえ立っている。王都――私が一度は追放された場所。胸の奥がきゅっと縮み、指先が冷たくなった。
城門前は行き交う人々で賑わっていた。商人の馬車、兵士の巡回、そして貴族らしい一団。人々のざわめきと車輪の軋む音が混ざり合い、耳が痛いほどに響く。王都に近づくほどに、あの日の光景が甦った。
「……ここは、お前には必要ない」
冷たい視線と嘲笑。背を向けられた石畳の広間。私を守るものは誰もなく、ただ美咲の輝きだけが称えられていた。心臓が苦しくなり、思わず目を閉じる。
「大丈夫か」
隣から落ち着いた声が響いた。目を開ければ、アルフォンスの灰色の瞳がこちらを見ている。その視線は静かで力強く、揺るぎなかった。
「……怖いです。またあの時のように、笑われてしまうんじゃないかって」
絞り出すような声に、彼は短く首を振った。
「笑わせておけばいい。君がどれほどここで価値を得たか、私は知っている」
そう言って、彼はそっと私の手を取った。大きく温かな掌が包み込み、緊張で冷たくなっていた指先に熱が広がる。
「今度は一人ではない。私が隣にいる」
その一言に胸が震え、視界が滲む。
やがて馬車は城門に差し掛かった。高くそびえる鉄の門扉は威圧感に満ち、兵士たちが鋭い視線を向けている。けれどアルフォンスが姿を現すと、彼らは一斉に敬礼し、道を開けた。
「辺境伯閣下、お待ちしておりました」
低い声が響く。人々の視線が集まる中、私は息を詰めて俯いた。ざわめきの中に「誰だ?」「あの女性は?」という囁きが混ざる。背筋が凍りつきそうになったその時――。
「彼女は私の同行者だ。不審な目を向けるな」
アルフォンスの低い声が鋭く響き、周囲の空気が一瞬で張り詰めた。兵士たちは慌てて頭を下げ、それ以上何も言わなくなった。
馬車が再び動き出し、城内へと進んでいく。石畳の街並み、華やかな建物、そして人々の喧騒――かつて自分が居場所を失った舞台が、再び目の前に広がる。胸はまだ痛い。けれど隣に座るアルフォンスの存在が、その痛みを和らげてくれる。
「……一人じゃない」
小さく呟いた声は、馬車の揺れにかき消された。それでも確かに、自分の中に力として残った。
夕陽が城壁を赤く染め、王都の塔が金色に輝いている。その光景を見つめながら、私は強く心に誓った。
「今度こそ、逃げない。彼と一緒に……」
胸の奥でその言葉を繰り返しながら、馬車は王宮へと近づいていった。
料理大会の余韻に浸っていた数日後、館にまた王都からの早馬が駆け込んできた。伝令が持参した封筒は重々しい蝋で封じられ、王家の紋章が刻まれている。執事クラウスが恭しく受け取り、広間で読み上げると、そこに書かれていたのは――聖女、美咲が王都の式典でさらに脚光を浴びているという知らせだった。
「……聖女カンザキ・ミサキ殿、王都にて病を癒す奇跡を示され、多くの人々を救済。国王陛下の御前で称えられ、貴族たちからも厚き賛辞を受ける」
淡々としたクラウスの声なのに、私の耳には鋭い刃のように突き刺さった。
美咲はさらに人々に必要とされ、王都の輝かしい舞台の中心に立っている。片や私は、辺境の片隅で守られ、庇護され、ようやく料理や裁縫で小さな役に立てただけ……。胸の奥でちりちりと痛みが広がり、息が詰まる。
広間を辞したあと、私は庭のベンチに腰を下ろした。春の風が花壇の花を揺らすのに、心は重く沈んでいた。
「……あの子は、やっぱりすごいんだ」
王都で同じ日に召喚されたのに、差は歴然としている。私がおまけで呼ばれた存在だと、また突きつけられたようで涙がにじむ。
「私なんて……」
思わず口からこぼれた言葉は、自分を一層惨めにする。目の奥が熱くなり、俯いた視界に花の赤が滲んだ。
「君はまた自分を責めているな」
低く落ち着いた声に顔を上げると、アルフォンスが立っていた。いつからそこにいたのか、静かにこちらを見つめている。
「……聞いていたんですか」
「少しだけな」
彼はゆっくりと歩み寄り、隣に腰を下ろした。大きな体が近くにあるだけで、不思議と心が落ち着いていく。それでも胸の痛みは消えず、唇を噛んだ。
「美咲は……本当に聖女なんです。人を癒し、称えられて、皆に必要とされて……。私は何もできないまま……」
アルフォンスはしばし黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「必要とされる形は人それぞれだ。君は王都の舞台には立たないかもしれない。だが、昨日の料理大会で見ただろう? 君の料理一つで、村人がどれだけ笑顔になったか」
「……でも、それは……」
「小さなことだと、また言うつもりか」
真剣な眼差しに射抜かれ、私は言葉を失った。
「君の一皿が、この地で生きる者の心を支えた。王都の光に比べればかすんで見えるかもしれないが、それは確かな力だ。誰にでもできることではない」
彼の声は低く温かく、心の奥に深く届いた。
「……アルフォンス様」
震える声で名を呼ぶと、彼は少しだけ口元を緩めた。
「君がここにいることで、私は救われている。冷徹と呼ばれた私に、笑顔を思い出させてくれるのは君だけだ」
その言葉に胸が強く揺れた。涙がこぼれそうで、必死に瞬きを繰り返す。王都で聞いたどんな華やかな讃辞よりも、その一言が私の心を支えてくれた。
沈黙の中、庭を渡る風が二人の間を柔らかく撫でていった。花の香りと鳥のさえずりが、遠い王都の喧噪とはまるで違う世界を作り出している。
「……私、この場所で頑張ります。美咲と比べるんじゃなくて、私にできることを」
「それでいい。いや、それがいい」
アルフォンスの眼差しはまっすぐで、揺るぎなかった。
夕陽が庭を茜色に染める。私は深く息を吸い込み、胸の奥で静かに呟いた。
「私にも……私の光がある」
その言葉は小さかったけれど、確かに心に響き、消えることなく残った。
第22話 看病の夜
その日、朝からアルフォンスの顔色が冴えなかった。いつもなら誰よりも早く起きて執務に向かう彼が、広間に姿を見せたときには既に額にうっすらと汗を浮かべていた。執事クラウスが心配そうに声をかける。
「アルフォンス様、少しお休みになられた方がよろしいのでは……」
「大丈夫だ。まだやることが残っている」
低い声でそう言い切ったものの、その足取りは重く、普段の威厳ある姿からは程遠かった。私は胸騒ぎを覚え、思わず彼の後を追った。
午後になり、館の執務室の扉を開けると、机に向かったまま彼が項垂れているのが目に入った。書類の上に力なく手を置き、肩が上下している。
「アルフォンス様!」
駆け寄って声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。普段は鋭い灰色の瞳が、熱に霞んで揺れている。
「……すまない。少し熱があるようだ」
そう言いながら立ち上がろうとするが、足元がふらつき、私は慌てて腕を支えた。
「無理です! 休んでください!」
強い口調で叫んだ自分に驚きつつも、彼の体温の高さに胸がぎゅっと締め付けられる。
急いでリディアを呼び、寝室に運び込む。厚い毛布を掛けると、アルフォンスは浅い息を繰り返しながら目を閉じた。
「水と冷たい布を! あと体を冷やすために桶も!」
私が指示を出すと、侍女たちが慌ただしく動く。王都では誰の役にも立てなかった私が、今は彼のためにできることがある。それだけで体が勝手に動いた。
冷やした布を額に乗せると、彼の眉がわずかに緩む。その表情を見て、胸がじんと熱くなる。
「大丈夫……きっと大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように呟きながら、手を握った。熱に浮かされた彼の手は信じられないほど熱く、それでも離したくなかった。
夕暮れになると、外はしとしとと雨が降り始めた。蝋燭の炎が揺れる薄暗い部屋で、私は彼の寝顔を見守り続けた。強く、冷徹だと呼ばれる彼が、今はこんなにも弱々しく見える。その姿に胸が痛み、涙がこぼれそうになる。
「どうしてこんなに無理をするの……」
彼の人柄を思えば答えはわかっていた。領主として、人々の不安を背負い、自分の弱さを見せまいとしているのだ。そんな彼を少しでも支えたい。その思いが胸いっぱいに溢れた。
やがて彼がうっすらと目を開けた。
「……君が、そばにいるのか」
「ええ。ずっといます」
かすれた声に即座に答えると、彼はわずかに微笑んだ。その微笑みは弱々しくも、どこか安心しているようだった。
「……不思議だな。熱にうなされているのに、心は静かだ」
「だったら、眠ってください。私が見ていますから」
そう告げて手を握り直すと、彼は力を抜いて目を閉じた。
長い夜、私は一度も眠らずに看病を続けた。額の布を取り替え、水を口に含ませ、何度も体温を確かめた。やがて夜明けが近づいたころ、彼の熱は少しずつ下がり、呼吸も穏やかになっていった。
東の空が白み始める頃、私はようやく深く息を吐いた。
「よかった……」
安堵と共に、熱い涙が頬を伝った。
そのとき、寝台の上で彼が小さく呟いた。
「……ありがとう」
眠っているのか起きているのかわからないほどのかすかな声だったが、確かに私の胸に届いた。
「こちらこそ……どうか、もう無理をしないで」
私は静かに答え、朝の光が差し込む窓を見上げた。新しい一日の始まりが、私たちの間に小さな絆を刻んだように感じられた。
第23話 感謝の散歩
夜通しの看病から数日が過ぎ、アルフォンスの顔色はすっかり戻っていた。館に漂っていた張り詰めた空気も和らぎ、使用人たちの表情に安堵の笑みが浮かぶ。私も胸をなで下ろしたものの、あの夜の光景はまだ鮮明に残っていた。普段は冷徹と呼ばれる彼が、熱にうなされ弱々しく横たわる姿。そして、かすかに「ありがとう」と告げた声。思い出すだけで胸が熱くなる。
その日の午後、私は裁縫部屋で子供の服の修繕をしていた。針の音が小さく響く中、扉が軽く叩かれる。
「入っていいか」
低い声に驚いて顔を上げると、そこにはアルフォンスが立っていた。すっかり体調は回復したようで、背筋は凛と伸び、瞳にも力が戻っている。
「アルフォンス様……もう大丈夫なんですか?」
「ああ。世話になったな」
そう言って彼は歩み寄り、私の前で立ち止まった。
「君に礼をしたい。少し、散歩に付き合ってくれないか」
「えっ、私が……ですか?」
思わず針を取り落としそうになる。彼に直接誘われるなんて初めてで、心臓が早鐘のように打ち始めた。
「館の外の林は、今の季節が一番美しい。君にも見せたい」
真剣な眼差しに逆らえるはずもなく、私は小さく頷いた。
林へ向かう小道は、柔らかな陽射しに包まれていた。木々の若葉が風に揺れ、鳥たちが枝から枝へと舞う。足元には小さな花が群れ咲き、草の匂いが漂っている。
「……本当に綺麗ですね」
思わず声を漏らすと、アルフォンスはゆっくりと歩みを緩めた。
「この景色を見ると、生きていることを実感する。戦場にいた頃は、ただ勝利だけを追い、何も見えていなかった。君と歩いていると、ようやく取り戻せる気がする」
普段の彼からは想像できないほど穏やかな言葉に、胸が熱くなる。私は黙って隣を歩きながら、木漏れ日に照らされる彼の横顔を盗み見た。
やがて小さな泉に辿り着いた。透き通る水面には空が映り、鳥が羽ばたくと波紋が広がる。アルフォンスは水辺に腰を下ろし、手にした小石を投げた。
「私は領主として、常に強くあらねばならないと思ってきた。だが、君の前では不思議と弱さを見せられる。あの夜もそうだった」
「……私なんて、ただ布を替えて、水を飲ませただけです」
「それがどれほど大きな支えだったか、君にはわからないだろう」
彼の灰色の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。心臓が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
沈黙が流れる。泉のせせらぎと鳥の声だけが響く中、私は意を決して口を開いた。
「私も……アルフォンス様の力になりたいです。小さなことしかできなくても、そばにいて支えたい」
頬が熱くなり、視線を落とした。すると彼はゆっくりと立ち上がり、私の肩に大きな手を置いた。
「それだけで十分だ。君の存在が、私を強くする」
その言葉に胸が震え、目頭が熱くなる。
帰り道、夕陽が差し込み、二人の影が長く伸びて並んでいた。重なり合う影を見つめながら、私は小さく呟いた。
「……この時間が、ずっと続けばいいのに」
もちろん彼には聞こえないほどの小さな声だった。だが、アルフォンスが隣で微かに微笑んだ気がして、心臓がさらに速く打ち始めた。
第24話 夫婦みたいだね
その日は市場の日で、私はリディアと一緒に買い物籠を抱えて村を歩いていた。初夏の陽射しは強いけれど、風は涼やかで心地よく、畑からは麦の青い香りが漂ってくる。市場の広場には野菜や果物が山のように並び、村人たちの笑い声があふれていた。
「お嬢様、今日はカブがよく採れましたよ!」
「焼き菓子もできたてだよ、味見してって!」
声をかけてくれる村人たちに頭を下げるたび、胸がじんわりと温かくなる。王都では居場所もなく“無能”と呼ばれた私が、ここでは自然に受け入れられている。その違いに、今でも不思議な感覚を覚える。
荷物が増えて腕が疲れてきたとき、後ろから大きな影が差した。振り返れば、アルフォンスが静かに歩み寄ってくる。
「随分と買い込んだな。持とう」
「えっ……でも」
彼は有無を言わせず籠を片手で持ち上げた。私にはずっしり重かった籠を、彼はまるで羽のように軽々と抱えてしまう。
「……ありがとうございます」
頬が熱くなり、俯いた私の耳元で村人たちの囁きが聞こえてきた。
「見ろよ、領主様とお嬢様、並んで歩いて……まるで夫婦だな」
「ほんとほんと。お似合いだよ」
「ふ、夫婦!?」
思わず大声を上げてしまい、周囲の笑い声が一斉に広がる。私は顔から火が出そうになり、慌てて両手を振った。
「そ、そんなことありません! 全然違いますから!」
必死の否定に、老人たちは目を細めてにやにやと笑う。
「照れなくてもいいさ。わしらも若い頃はそうだったんだ」
「領主様もお嬢様も、いつも一緒におるからなあ」
まるで孫をからかうような声音に、胸がどくどくと脈打つ。言葉を失って赤面する私の隣で、アルフォンスは静かに息を吐いた。
「……そう見えるなら、それでいい」
「えっ!?」
低く落ち着いた声が耳に届き、私は目を見開いた。彼の横顔は相変わらず冷静で、揺るぎない。それでも瞳の奥に柔らかな光が宿っているのを見て、心臓が跳ねた。
「人が何を言おうと、私は気にしない。ただ……君と歩くのは悪くない」
その一言で足が止まりそうになる。村人たちのからかいよりも、彼の真剣な言葉の方がずっと強く胸を揺さぶった。
「アルフォンス様……」
名前を呼ぶだけで声が震え、視界が滲んだ。
市場の喧噪に紛れ、私の鼓動だけがやけに大きく響く。周囲の笑い声はもう耳に入らず、隣を歩く彼の存在だけがすべてだった。
夕暮れ、帰り道の並木道で、私は思わず胸の奥で呟く。
「……もし本当に夫婦だったら、私は幸せなんだろうな」
誰にも聞こえない小さな声。それでも自分自身にははっきりと届き、頬をさらに赤く染めた。
第25話 野外の昼餉
朝から空はよく晴れ、青の下に白い雲がゆったりと流れていた。館の窓を開けると、心地よい風が頬を撫で、野に咲く花の甘い香りが漂ってくる。今日は市場も祭りもない静かな日。ふと、私は小さな挑戦を思いついた。
「アルフォンス様に……お弁当を作ってみよう」
声に出した瞬間、胸がどきんと鳴った。看病の夜や散歩の時間を思い出し、もっと彼に感謝を伝えたいと強く思ったのだ。
厨房を借り、リディアと一緒に準備を始める。籠いっぱいの野菜、焼いた肉、村で手に入れた新鮮なチーズ。包丁を握ると緊張で手が震えたが、深呼吸して心を落ち着けた。
「ここをこう切るといいですわ」
「ありがとう……えっと、こうかな」
リディアに助けられながら、色とりどりの野菜を詰め、パンを切り分ける。小さな工夫を凝らして、形よく並べていくと、まるで日本で作っていたお弁当のようになっていった。
「できた……!」
籠に布をかけ、完成したお弁当を抱きしめると、不思議と胸が高鳴った。
昼前、アルフォンスの執務室を訪ねた。彼は書類に目を通していたが、私を見ると軽く眉を上げる。
「どうした?」
「えっと……その……一緒に外で食事をしませんか?」
言葉に詰まりながら差し出した籠を見て、彼は目を瞬いた。
「これは……君が?」
「はい。慣れないですけど、頑張って作ってみました」
しばしの沈黙の後、彼の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「行こう。いい天気だ」
館の裏手にある丘へ向かうと、風に揺れる草原が広がっていた。遠くには森が連なり、小川のせせらぎが耳に届く。二人で木陰に腰を下ろし、籠を開くと、色とりどりのお弁当が姿を現した。
「……美しいな」
アルフォンスが感嘆の声を漏らし、私は耳まで熱くなる。
「見た目だけです。味は……どうかわかりませんけど」
恐る恐る差し出すと、彼は迷わず口にした。咀嚼し、飲み込んだ後、ゆっくりと頷く。
「旨い。素朴だが心がこもっている。……こんな味は初めてだ」
「本当ですか……?」
「ああ。君の手から生まれたものだからこそだろう」
その言葉に胸が震え、思わず視線を逸らした。
二人で弁当を分け合いながら、鳥のさえずりを聞き、風の匂いを感じる。彼の隣にいるだけで、こんなにも穏やかな気持ちになれるのだと実感した。
「アルフォンス様は、こうして外で食事することはありますか?」
「いや、ほとんどない。領主としては常に館に縛られる。……だが、今日のような昼餉なら悪くない」
彼は空を仰ぎ、柔らかく笑った。その表情は王都で冷徹と呼ばれた男とは思えないほど優しかった。
食後、そよ風に吹かれながらしばし沈黙が続いた。私の胸は高鳴り続け、どうしても言葉を飲み込んでしまう。そんなとき、アルフォンスがふいに口を開いた。
「……こうして共にいる時間が、私にとっては何よりの贈り物だ」
穏やかな声が心に深く響き、私は顔を赤くしながら小さく頷いた。
「私も……幸せです」
言葉にした瞬間、頬が熱くなり、視界が滲む。それでも胸の奥に確かな温もりが広がっていった。
丘を吹き抜ける風が、二人の間を優しく撫でていく。伸びた影が重なり、まるで寄り添っているように見えた。私はその光景を胸に焼き付けながら、心の奥でそっと願った。
「この時間が、どうか長く続きますように」
第26話 王都からの招待状
その日の朝、館に一通の封書が届けられた。厚手の羊皮紙に金色の紋章が押され、封蝋は王家の紋。誰の目にも、ただの書状ではないとわかるほどの威厳が漂っていた。執事クラウスが慎重にそれを広間へ運び、アルフォンスの前に差し出す。
「王都からの正式な招待状にございます」
その言葉に、広間の空気が張り詰めた。私は胸がざわつき、思わず息を呑んだ。
アルフォンスが封を切り、朗々とした声で内容を読み上げる。
「――聖女カンザキ・ミサキ殿の功績を称え、王都にて盛大なる式典を催す。ゆえに、辺境伯アルフォンス・ヴァルター並びに同行者は、出席を願う」
広間に沈黙が落ちる。心臓が嫌な音を立てて跳ね、足がすくむ。招待状にははっきりと「同行者」と記されていた。つまり、私も――。
「……私が行く必要はないのでは」
思わず声に出していた。王都は、私を「無能」と決めつけ、追い出した場所。再びそこへ戻るなんて、想像するだけで胸が苦しくなる。
アルフォンスは静かに私を見つめた。その灰色の瞳は揺るぎなく、淡々と告げる。
「君は私の客人であり、この地の一員だ。招待状が示す“同行者”とは、君以外にあり得ない」
「でも……王都の人たちは、きっとまた私を笑います。聖女の陰に隠れた無能だって」
唇が震え、視界が滲む。あの日、冷たい石畳に背を向けられた記憶が蘇る。
「私は……怖いんです」
沈黙ののち、アルフォンスが立ち上がり、ゆっくりと私の前まで歩み寄った。
「君は恐れる必要はない」
低く落ち着いた声が、広間に響いた。
「王都の誰が何を言おうと、私は否定しない。君がこの地でどれだけ人々に必要とされているか、私が知っている。……君の価値を証明するのは王都ではなく、君と共に歩む私だ」
その眼差しに射抜かれ、胸が熱くなる。息が詰まり、涙が溢れそうになった。
「……アルフォンス様」
震える声で名を呼ぶと、彼の手がそっと私の肩に触れた。温かな掌の重みが、不安を溶かすように広がっていく。
「行こう。王都に。君を笑った者たちに、今の君を見せてやればいい」
強い言葉に胸が震えた。王都に戻ることは怖い。それでも、彼の隣にいるなら――そう思える自分がいた。
その夜、自室に戻っても胸の鼓動は収まらなかった。窓の外には満月が昇り、銀の光が静かに広がっている。
「王都へ……」
呟いた声は夜に吸い込まれる。それは不安と同時に、まだ見ぬ未来への扉のように思えた。
そして心の奥で小さく願った。
「どうか、彼と一緒に歩めますように」
第27話 出立の準備
王都からの正式な招待状が届いてから、館の空気は目に見えて慌ただしくなった。馬車の整備、道中の食料や水の準備、護衛兵の配置。使用人たちが廊下を行き交い、荷物を運ぶ音が絶えない。私はその中心でただ立ち尽くし、胸の奥に重い塊を抱えていた。
久しぶりに戻る王都。そこは、私が「無能」と罵られ、追放された場所。美咲が聖女として脚光を浴びるその舞台に、私は再び足を踏み入れるのだ。想像するだけで足が震える。
「お嬢様、こちらの荷物はいかがいたしましょうか?」
リディアが声をかけてくれる。私の荷物はといえば、裁縫道具と少しの衣服、それに最近作った刺繍入りのハンカチくらい。豪華なドレスなど一つも持っていない。
「……これだけで大丈夫です」
小さな声で答えると、リディアは眉を下げた。
「王都の式典では華やかな衣装が求められるでしょう。辺境伯様もその点を考慮なさって……」
言葉の先を想像しただけで心臓が締め付けられる。美咲のような光り輝く存在と比べられるのは、もう嫌だ。
その晩、荷造りを終えても眠れなかった。窓の外に広がる星空を見つめ、布団の上で膝を抱える。
「……また笑われるんじゃないかな。場違いだって」
胸がぎゅっと痛む。王都の記憶は、私にとって今も傷のままだ。
そのとき、扉が静かにノックされた。
「入っていいか」
アルフォンスの声だ。慌てて立ち上がり、扉を開けると、彼はいつも通りの落ち着いた表情で立っていた。
「顔色が悪い。眠れていないな」
「……はい」
視線を落とすと、彼は部屋に入り、窓辺に視線を向けた。
「君が不安に思うのは当然だ。王都は華やかで残酷な場所だ。私もかつて、そこに居場所を見つけられなかった」
「え……?」
「冷徹と呼ばれ、追いやられたのだ。だが辺境で人々と共に生きることで、ようやく自分の道を見つけた。君も同じだ。王都で否定されても、ここで役割を得ただろう?」
灰色の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。胸の奥が震え、呼吸が浅くなる。
「けれど……私が王都に行ったら、また何もできない自分を思い知らされる気がして」
かすかな声で吐き出すと、アルフォンスはゆっくりと首を振った。
「君が何もできない? それは違う。村人たちが君を慕い、子供たちが君に笑顔を向けるのは、何よりの証拠だ」
彼は一歩近づき、私の手をそっと取った。温かな掌が指先に広がり、胸の奥の不安が少しずつほどけていく。
「王都の舞台に立つのは、君が誰かと比べられるためではない。君がここで得たものを胸に、私と共に歩くためだ」
「……アルフォンス様」
名前を呼ぶだけで涙が滲みそうになった。
しばしの沈黙。彼は手を離さずに静かに続けた。
「安心しろ。どれほど人の目が冷たくても、私は君を守る」
その言葉は、どんな宝石よりも重く尊く響いた。私は必死で頷き、握られた手をぎゅっと返した。
「……はい。私も、隣で頑張ります」
不安はまだ消えない。それでも、彼と共になら王都へ行ける――そう思えた。
翌朝、空は澄み渡るように晴れていた。館の前に整えられた馬車が並び、使用人たちが荷物を積み込んでいる。村人たちも見送りに集まり、温かな声をかけてくれた。
「お嬢様、気をつけて!」
「戻ったらまた料理を教えてくださいね!」
その声に背を押されながら、私はアルフォンスと共に馬車へ乗り込んだ。
車輪が石畳を踏み、ゆっくりと館を離れていく。揺れる窓の外に広がる青空を見上げ、胸の奥でそっと呟いた。
「……私、逃げない」
小さな決意が、確かな力となって体を支えていた。
第28話 王都への道中
馬車の車輪が石畳を抜け、やがて草原の道へと入った。春を過ぎ初夏に向かう風は爽やかで、窓から差し込む光が緑をきらめかせている。遠くで小鳥がさえずり、馬の蹄の音が一定のリズムで響く。私は窓辺に寄りかかりながら、少し緊張した面持ちでその景色を眺めていた。
王都へ向かう道のりは長い。だからこそ、胸の奥の不安は否応なく膨らんでいく。再びあの冷たい視線を浴びることになるのだろうか――そう思うたび、指先が冷たくなる。
「顔色が優れないな」
隣に座るアルフォンスの声に、肩が跳ねた。灰色の瞳が静かに私を見つめている。
「……大丈夫です。ただ、少し……怖くて」
言葉を絞り出すと、彼は一瞬だけ視線を前に向け、そしてまた私に戻した。
「正直なところを言おう。私も王都は好きではない」
「え……?」
「冷徹と呼ばれ、疎まれ、最後には辺境へ追いやられた。王都に残したものは、名誉よりもむしろ傷の方が多い」
低い声が揺れもなく響く。その告白に私は驚き、目を見張った。完璧に見える彼にも、そんな過去があったなんて。
「それでも今は、怖れよりも楽しみの方が勝っている」
「どうして……?」
「君と一緒に行けるからだ」
短い言葉が胸に突き刺さり、心臓が大きく跳ねた。
「……私なんかが隣にいて、本当にいいんでしょうか」
不安が口から零れると、彼は少し眉を寄せて、きっぱりと言った。
「君だからいいのだ。私は戦場で数多の兵に囲まれても孤独だった。だが、君と過ごす時間は不思議と孤独を忘れさせてくれる」
強い声に息を呑む。視界が滲み、喉の奥が熱くなる。
「私……何も特別な力なんてないのに」
「力がなくて何が悪い。君の言葉一つ、笑顔一つがどれほどの力を持つか、私が誰よりも知っている」
アルフォンスの瞳はまっすぐで、曇りがなかった。
馬車は川沿いの道へと差し掛かり、水面がきらきらと光を反射する。外の景色は美しいのに、私の胸はそれ以上に熱く震えていた。
「……アルフォンス様」
名前を呼ぶだけで涙が溢れそうになり、必死に瞬きを繰り返す。
「私は、ここに来てから何度も思いました。皆さんに受け入れてもらえて、支えてもらえて……。でも一番は、アルフォンス様のおかげです。私が今ここにいるのは」
彼はしばし黙り、そして静かに言った。
「ならば、これからも共に在れ。王都でも、ここでも、その先でも」
短い言葉だったが、その重みは私の胸を深く揺らした。
しばらく沈黙が続いた。車輪の音と馬の蹄の響きだけが耳に届く。けれどその沈黙は気まずさではなく、穏やかで心地よいものだった。
やがてアルフォンスが窓の外を見ながら小さく笑った。
「……王都で誰が何を言おうと、私は君を誇る」
その横顔を見た瞬間、込み上げる想いを抑えきれず、私は小さく頷いた。
「私も……アルフォンス様と一緒なら、怖くありません」
胸の奥から自然に零れた言葉は、まるで誓いのように自分自身を包み込んだ。
夕暮れが近づき、馬車は宿場町へ向かう道へと入った。西の空が茜色に染まり、二人の影を長く伸ばしていく。
重なり合う影を見つめながら、私は静かに思った。
「私はもう、一人じゃない」
その確信が、不安に揺れていた心を確かなものへと変えていった。
第29話 宿場町の一夜
夕暮れと共に馬車は宿場町へと入った。石畳の道には灯りがともり始め、行き交う人々の声があたりを賑やかにする。旅人や商人が集まるこの町は、辺境の静かな村とは違い、華やかで活気に満ちていた。
宿に着くと、従業員たちが慌ただしく迎えに出てきた。辺境伯であるアルフォンスが訪れたと知ると、皆が深く頭を下げる。その中で私は小さく身を縮めた。豪奢な馬車に彼と並んで降り立ったことで、まるで特別な存在のように見られてしまう。
「……場違いな気がする」
心の中で呟いたが、アルフォンスは隣に立ち、揺るぎない態度で周囲の視線を受け止めていた。その背中の頼もしさに、少しだけ心が和らぐ。
用意された食堂には温かい灯りが満ちていた。大きな暖炉が燃え、木のテーブルには焼き立てのパンや煮込み料理が並ぶ。旅人たちが笑い声を上げ、歌を口ずさむ。そんな喧騒の中で、私とアルフォンスも席に着いた。
料理を口にすると、素朴ながらも滋味深い味が広がる。けれど、どうしても周囲の視線が気になった。ちらちらとこちらを見ては、囁き合う声が聞こえてくる。
「見ろよ、領主様とあの娘さん……」
「まるで夫婦みたいだな」
その一言に顔が真っ赤になった。私は慌てて俯き、パンをちぎる手を震わせる。
「気にするな」
低い声が耳元に届く。顔を上げると、アルフォンスが淡々とした表情でこちらを見ていた。
「皆が何を言おうと、私にとっては心地よい言葉だ」
「……そ、そんな……」
心臓が跳ね、視線を逸らす。だが周囲の人々は微笑ましげにこちらを見て、さらに囁きを続けた。
「お似合いだわ」
「羨ましいくらいだな」
耳まで熱くなり、食事どころではなくなってしまう。私は俯いたまま必死でスープを口に運んだ。
夕食を終えると、二人分の部屋が用意されていた。廊下を歩くときも、宿の従業員や客たちが好奇の視線を向けてくる。
「……なんだか、本当に夫婦旅行みたいですね」
思わず口にしてしまい、直後に顔が熱くなる。アルフォンスは足を止め、私を見下ろした。
「悪くない比喩だ」
平然とした声に、余計に胸がざわめく。彼はそのまま扉の前に立ち、短く言った。
「休め。明日は早い」
「……はい」
返事をした声はかすれていた。
部屋に入ると、窓から月明かりが差し込んでいた。外ではまだ酒場の笑い声が響き、宿場町の夜の活気が伝わってくる。けれど私の心はそれどころではなかった。
「夫婦みたい……」
周囲の何気ない言葉が、頭から離れない。アルフォンスの隣にいるときの安心感。彼が放つ穏やかな笑み。それを思い出すだけで胸が苦しくなり、頬が熱くなる。
「私……どうしてこんなに……」
答えは出ないまま、月明かりの下で胸を抱え、眠れぬ夜を過ごした。
第30話 王都の城門
旅路は長く、宿場町をいくつも越え、やがて馬車は見覚えのある景色へと差し掛かった。広がる平野の向こうに、白い石造りの巨大な城壁がそびえ立っている。王都――私が一度は追放された場所。胸の奥がきゅっと縮み、指先が冷たくなった。
城門前は行き交う人々で賑わっていた。商人の馬車、兵士の巡回、そして貴族らしい一団。人々のざわめきと車輪の軋む音が混ざり合い、耳が痛いほどに響く。王都に近づくほどに、あの日の光景が甦った。
「……ここは、お前には必要ない」
冷たい視線と嘲笑。背を向けられた石畳の広間。私を守るものは誰もなく、ただ美咲の輝きだけが称えられていた。心臓が苦しくなり、思わず目を閉じる。
「大丈夫か」
隣から落ち着いた声が響いた。目を開ければ、アルフォンスの灰色の瞳がこちらを見ている。その視線は静かで力強く、揺るぎなかった。
「……怖いです。またあの時のように、笑われてしまうんじゃないかって」
絞り出すような声に、彼は短く首を振った。
「笑わせておけばいい。君がどれほどここで価値を得たか、私は知っている」
そう言って、彼はそっと私の手を取った。大きく温かな掌が包み込み、緊張で冷たくなっていた指先に熱が広がる。
「今度は一人ではない。私が隣にいる」
その一言に胸が震え、視界が滲む。
やがて馬車は城門に差し掛かった。高くそびえる鉄の門扉は威圧感に満ち、兵士たちが鋭い視線を向けている。けれどアルフォンスが姿を現すと、彼らは一斉に敬礼し、道を開けた。
「辺境伯閣下、お待ちしておりました」
低い声が響く。人々の視線が集まる中、私は息を詰めて俯いた。ざわめきの中に「誰だ?」「あの女性は?」という囁きが混ざる。背筋が凍りつきそうになったその時――。
「彼女は私の同行者だ。不審な目を向けるな」
アルフォンスの低い声が鋭く響き、周囲の空気が一瞬で張り詰めた。兵士たちは慌てて頭を下げ、それ以上何も言わなくなった。
馬車が再び動き出し、城内へと進んでいく。石畳の街並み、華やかな建物、そして人々の喧騒――かつて自分が居場所を失った舞台が、再び目の前に広がる。胸はまだ痛い。けれど隣に座るアルフォンスの存在が、その痛みを和らげてくれる。
「……一人じゃない」
小さく呟いた声は、馬車の揺れにかき消された。それでも確かに、自分の中に力として残った。
夕陽が城壁を赤く染め、王都の塔が金色に輝いている。その光景を見つめながら、私は強く心に誓った。
「今度こそ、逃げない。彼と一緒に……」
胸の奥でその言葉を繰り返しながら、馬車は王宮へと近づいていった。
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