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呻き
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その夜、部屋で待っていても都は訪れなかった。自ら屋敷の主の部屋を訪れていいはずもないとアヤは寝ることにした。
忙しいのかもしれない。急用が出来たのかもしれない。
忘れられてしまったと何故か思いたくなくて自分をなだめすかした。
行動を起こそうにももう夜更けだ。話をするにも遅すぎる。諦めて寝てしまおうとアヤが布団に入り、横になった時だった。
ざり、ざり、と外から妙な音が聞こえてくる。アヤは動きを止め、耳をすませた。
――足音と人の声……いえ、呻きにも聞こえる。こんな夜遅くにおかしいわ。
風が吹いているわけでもない。戸を揺らし、隙間風が甲高い音を鳴らすのとはわけが違う。
これは、苦しそうな男の呻きだ。足を引きずるような重たい音が外から響いてくる。
――泥棒だったら、なんてことは考えたくはないけれど。
嫌な汗が背を伝う。この屋敷を囲う壁は高く、普通の人間であればよじ登ることは出来ないだろう。はしごや道具があれば可能かもしれないが、そもそも外の人間がこの屋敷に近づくことが出来るのだろうか。
口数の少ない使用人たちを観察していてアヤは気づいたことがある。夜は全員どこかへ帰っていくのだ。おそらくは屋敷の周りに何軒か家がある。この近辺は全てこの家の私有地であるのだろう。
ましてや門は固く閉じられている。夜に鍵を持っているのは都だけであるはずだ。
では、外にいる音の正体は一体誰だというのだろう。アヤは月灯りが部屋へと差し込んでいることを確認し、静かに障子へ近づいた。薄っすらと開いた隙間から外の様子を伺う。どうやらアヤの部屋を通り過ぎたところだったらしく、後ろ姿が見えた。
――都さん?
足取りも重く、とても痛々しい。怪我をしている様子はなく、ただ熱に浮かされたように歩いているのだ。
何やら風呂敷を抱えており、そのまま振り返ることもなく裏門へと向かっていた。
――呼び止めるべきかしら。でも、こんな時間に外出だなんて私に気づかれたくないからに決まってる。
アヤは自問自答した。ここで一歩を踏み出したらもう元の生活には戻れないかもしれない。
しかし、今にも倒れそうな都を放っておくことは出来なかった。
「み、都さんっ!」
声が震えていたかもしれない。戸を開ける手に力が籠り、勢いよく開けてしまった。突然名を呼ばれた都も驚いたのか。歩みを止めた。
「どこに行くのですか」
「……っ」
返事はない。ただ振り向くこともなく、都は背を向けている。
「怪我でもされているんじゃないですか」
幸いにも散歩に出るときに使っていた草履が踏石に置いてある。草履をはき、急いで都に駆け寄ると、思っていた通り尋常ではない汗をかいていた。
「具合が悪いなら出て行ってはダメです。戻りましょう」
「……起こしてしまったか」
普段よりも随分と低い声に気圧される。ゆっくりとこちらに向き直り、苦しそうに眉を寄せて都は言った。
「頼むから、私に構わないでくれ」
「今からでも部屋にお戻りになってください。もし苦しいのであれば、私が一緒におりますから」
「それが、良くないと言っている」
何故でしょうか、と疑問を口にすると普段は温厚な都が苛立ちを滲ませた。それほどまでに具合が悪いのだろうとアヤは食い下がる。
今は都とアヤ以外に誰もいない。ならば、自分が看病する他あるまいと決意し、都を説得しにかかる。
「どうしてこんな夜更けに出ていこうとするのです。もしかしてお医者様が近くにお住まいなのですか」
都は首を横に振った。
「医者にはどうすることもできないのだ。必要ない」
明らかに苦しそうにしているのに、とアヤは思ったが、今は都をこの屋敷に留めるのが優先だ。
「では、落ち着くまで部屋にいましょう。さあ、都さん。一緒に戻りましょう」
そう言って都の肩に手を置いた時だった。都が腹の底から絞り出したような声でこう言ったのだ。
「私はアヤに嫌われたくはない」
こんなことで嫌うはずもないとアヤは優しく背を撫でる。
「何を仰っているのです。苦しんでいる姿を見て嫌うなんて、そんなことはありません」
「違うんだ。君が側にいるのが一番危ない。私も油断していた。つい一週間前に来たばかりだったからな」
苦しそうに息を吐く都は今にも崩れ落ちそうだ。
「お話は部屋に戻ってからにしましょう。私がお邪魔してもよろしいですか」
「ああ、君が良いのであれば。しかし、止めた方がいい」
「まだ言ってるんですか。やはり、熱があるのでしょうね」
「私は……忠告した。すまない、これ以上はどうなるか。もう分からない。さっさとあの小屋へ籠っていればよかったものを。君と約束していたのが気がかりでこんなになるまで屋敷に留まってしまった」
ぶつぶつと何やら呟く都の袖を引き、抱えていた荷物を奪い取る。ずしりと重みのあるそれはどうやら食料であるようだった。
――まさか本当に一人で籠る気だったの。いえ、あの話ぶりだと、もしかして。
アヤは息も絶え絶えな都に肩を貸し、ゆっくりと歩く。都が住む離れの入り口までやってきていた。
忙しいのかもしれない。急用が出来たのかもしれない。
忘れられてしまったと何故か思いたくなくて自分をなだめすかした。
行動を起こそうにももう夜更けだ。話をするにも遅すぎる。諦めて寝てしまおうとアヤが布団に入り、横になった時だった。
ざり、ざり、と外から妙な音が聞こえてくる。アヤは動きを止め、耳をすませた。
――足音と人の声……いえ、呻きにも聞こえる。こんな夜遅くにおかしいわ。
風が吹いているわけでもない。戸を揺らし、隙間風が甲高い音を鳴らすのとはわけが違う。
これは、苦しそうな男の呻きだ。足を引きずるような重たい音が外から響いてくる。
――泥棒だったら、なんてことは考えたくはないけれど。
嫌な汗が背を伝う。この屋敷を囲う壁は高く、普通の人間であればよじ登ることは出来ないだろう。はしごや道具があれば可能かもしれないが、そもそも外の人間がこの屋敷に近づくことが出来るのだろうか。
口数の少ない使用人たちを観察していてアヤは気づいたことがある。夜は全員どこかへ帰っていくのだ。おそらくは屋敷の周りに何軒か家がある。この近辺は全てこの家の私有地であるのだろう。
ましてや門は固く閉じられている。夜に鍵を持っているのは都だけであるはずだ。
では、外にいる音の正体は一体誰だというのだろう。アヤは月灯りが部屋へと差し込んでいることを確認し、静かに障子へ近づいた。薄っすらと開いた隙間から外の様子を伺う。どうやらアヤの部屋を通り過ぎたところだったらしく、後ろ姿が見えた。
――都さん?
足取りも重く、とても痛々しい。怪我をしている様子はなく、ただ熱に浮かされたように歩いているのだ。
何やら風呂敷を抱えており、そのまま振り返ることもなく裏門へと向かっていた。
――呼び止めるべきかしら。でも、こんな時間に外出だなんて私に気づかれたくないからに決まってる。
アヤは自問自答した。ここで一歩を踏み出したらもう元の生活には戻れないかもしれない。
しかし、今にも倒れそうな都を放っておくことは出来なかった。
「み、都さんっ!」
声が震えていたかもしれない。戸を開ける手に力が籠り、勢いよく開けてしまった。突然名を呼ばれた都も驚いたのか。歩みを止めた。
「どこに行くのですか」
「……っ」
返事はない。ただ振り向くこともなく、都は背を向けている。
「怪我でもされているんじゃないですか」
幸いにも散歩に出るときに使っていた草履が踏石に置いてある。草履をはき、急いで都に駆け寄ると、思っていた通り尋常ではない汗をかいていた。
「具合が悪いなら出て行ってはダメです。戻りましょう」
「……起こしてしまったか」
普段よりも随分と低い声に気圧される。ゆっくりとこちらに向き直り、苦しそうに眉を寄せて都は言った。
「頼むから、私に構わないでくれ」
「今からでも部屋にお戻りになってください。もし苦しいのであれば、私が一緒におりますから」
「それが、良くないと言っている」
何故でしょうか、と疑問を口にすると普段は温厚な都が苛立ちを滲ませた。それほどまでに具合が悪いのだろうとアヤは食い下がる。
今は都とアヤ以外に誰もいない。ならば、自分が看病する他あるまいと決意し、都を説得しにかかる。
「どうしてこんな夜更けに出ていこうとするのです。もしかしてお医者様が近くにお住まいなのですか」
都は首を横に振った。
「医者にはどうすることもできないのだ。必要ない」
明らかに苦しそうにしているのに、とアヤは思ったが、今は都をこの屋敷に留めるのが優先だ。
「では、落ち着くまで部屋にいましょう。さあ、都さん。一緒に戻りましょう」
そう言って都の肩に手を置いた時だった。都が腹の底から絞り出したような声でこう言ったのだ。
「私はアヤに嫌われたくはない」
こんなことで嫌うはずもないとアヤは優しく背を撫でる。
「何を仰っているのです。苦しんでいる姿を見て嫌うなんて、そんなことはありません」
「違うんだ。君が側にいるのが一番危ない。私も油断していた。つい一週間前に来たばかりだったからな」
苦しそうに息を吐く都は今にも崩れ落ちそうだ。
「お話は部屋に戻ってからにしましょう。私がお邪魔してもよろしいですか」
「ああ、君が良いのであれば。しかし、止めた方がいい」
「まだ言ってるんですか。やはり、熱があるのでしょうね」
「私は……忠告した。すまない、これ以上はどうなるか。もう分からない。さっさとあの小屋へ籠っていればよかったものを。君と約束していたのが気がかりでこんなになるまで屋敷に留まってしまった」
ぶつぶつと何やら呟く都の袖を引き、抱えていた荷物を奪い取る。ずしりと重みのあるそれはどうやら食料であるようだった。
――まさか本当に一人で籠る気だったの。いえ、あの話ぶりだと、もしかして。
アヤは息も絶え絶えな都に肩を貸し、ゆっくりと歩く。都が住む離れの入り口までやってきていた。
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