無字の後宮 ―復讐の美姫は紅蓮の苑に嗤う―

葦原とよ

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第1章 獣の檻

第1話  凶行

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 その白い肌に飛び散った血は、さながら紅い蓮の花のように咲きひろがった。

公燕こうえん様ああっ!」

 どこか遠くに自分の叫び声を聞きながら、翠蓮すいれんは今まさに生きた人間から虚ろな瞳のむくろへと変わりゆく愛しい婚約者の体に縋りついた。

 翠蓮を優しく甘く見つめてくれた瞳は、見開いているだけで二人の未来を二度と映しはしない。
 いつもとろけるような声音で名前を呼んでくれた唇からは、翠蓮という呼び名の代わりにごぷりと鮮血が溢れでる。
 しっかりと抱きしめてくれていた腕はあらぬ方向に曲がり、翠蓮がよく顔を埋めていた首筋はその生々しい断面を晒し、皮一枚でようやく体に結びつけられている有様だった。

 飛び散った公燕の血が、翠蓮の胸元をまるで花鈿かでんのように彩る。公燕が贈ってくれた長春花色ちょうしゅんかいろの柔らかな被帛ひはくは、石畳に広がる贈り主の血を吸いあげて見る間に月季紅げっきこうに染まっていった。

 その白い谷間に一筋の血が伝いおちたとき、全身を舐め回すような視線を感じて翠蓮はキッと目の前にいる男を睨みつけた。

「公燕様がなにをしたというのです!」

 相手の身分は分かっていたが、翠蓮はそう言わずにはいられなかった。

「……すでに言うたであろう。こやつは愚かにも皇上陛下に弓を引いた大罪人であると」

 煩わしそうにそう言った男は、かなりの美丈夫である。均整の取れた体つきのすらりとした長身を、傷一つなく磨きあげられた白銀に輝く甲冑で包み軍装している。
 艶めく淡い雪灰色せっかいしょくの髪は幾重にも編みこまれたあと、鎧と同じく白銀の冠でまとめられて背に長く垂れていた。
 翠蓮を値踏みするように見下す眼差しはわずかにみどりがかっていたが、いくぶんか興奮しているようにも見える。

 しかし翠蓮はそれらに気後れすることも見惚れることもなく、激昂のままに言葉を返した。

「公燕様がそんなことをなさるはずがありません!」
「だが妓楼の娼妓からは、幾夜も謀議を重ねていたと証言を得ておる。 ――婚約中の男が足繁く妓楼に通っていたとは信じたくないのかもしれんがな」
「そんな、ことっ……!」

 あざけるように目を細める男を、翠蓮は涙目で睨んだ。

 公燕が妓楼へ行っていたことは翠蓮も知っている。けれども公燕は酒も弱かったし、つきあいで仕方なく行くのだと常日頃から愚痴っていた。

 その証拠に公燕は他の女の白粉おしろいの匂いをさせて翠蓮の目の前に現れたためしがない。
 妓楼に行っても、顔馴染みの娼妓に金を渡してなにもせず、同行者の「コト」が終わるまで書を読みふけったり、まどろんだりしているのだと苦笑していた。

 公燕は翠蓮に対してもひどく真摯しんしで、正式に婚儀を挙げるまでは貞節を貫いていた。だから翠蓮は公燕に手を握られたり、そっと抱きしめられたりするだけでも心の臓が早鐘のように打って、落ち着かなくなるのが常だった。

 そんな公燕だったから、翠蓮は婚約を決めたのだ。

 翠蓮は州都督しゅうととくだった父の下、何不自由することなく育ったが、一つだけ翠蓮の自由を制限するものがあった。
 それは、翠蓮の美しさが成長するにつれて、類を見ないほどのものとなったことだ。

 透きとおるような雪のごとき白い肌に潤んだ紅い唇、桃色に染まる柔らかな頬。黒目の大きなはっきりとした眼差しは密な睫毛に縁取られて、見るものを魅了する。
 すらりと長い手足と、細い体には不似合いなほどこぼれ落ちんばかりの豊かな胸。臀部は優美な曲線を抱き、そこには艶やかな黒髪が彩りを添えた。

 十五歳を迎える頃には、まだ成人には三年もあるというのに縁談話が殺到した。外出する際は護衛を伴わねばならなかったほどだ。

 翠蓮の美貌の噂は徐々に広まり、ついには父の任地を視察に訪れた第十一皇子である公燕の目にとまった。

 はじめ、翠蓮の父は自分の娘が皇子の妃になるなどあまりに恐れ多いと、縁談を辞退しようとした。
 けれども諦めきれなかった公燕はひそかに翠蓮の家を訪れ、翠蓮と何度も言葉を交わした。結婚するまでは清い関係を貫くと公燕は誓い、そんな真面目で優しい人柄に翠蓮も恋に落ちた。

 そうして翠蓮は今年の正月に十八歳となって成人し、一月の終わりの吉日には婚礼を挙げて公燕の正室に迎えられるはずだったのだ。その日まであとわずか、片手で数えられるほどになり、毎日指を折って心待ちにしていた。

 けれどもそれらはたった今、すべてが夢物語の泡沫となって消えた。
 公燕の死によって。

 公燕が謀反などという大それたことを企むわけがないと翠蓮は思っている。公燕はたしかに横暴なふるまいの目立つ皇族への批判を口にすることはあったが、だからといってそれに歯向かって改革しようとするほどの権力も気概もない、ある意味で凡庸な人物だと翠蓮は知っていた。

 だが目の前の男はそんなことはどうでもいいと言うように、冷めた目線で公燕の亡骸を一瞥すると翠蓮にむかって言った。

「……下手に庇いだてすると、お前も同罪とみなすぞ」
「公燕様とともに死ねるなら本望です!」

 愛しい人を失った今、翠蓮にとっては今後の生など無意味に等しかった。他の男に嫁ぐくらいなら、ここで殺されたほうがましだった。

 けれども男はそんな翠蓮の決心を揺らがせるようなことを言った。

「……こやつが殺された理由を知りたくはないか」
「……っ!」

 公燕がなぜ殺されなければいけなかったのか、それは翠蓮の心の隅に棘のように刺さっていた。
 男の口ぶりは、公燕が殺害された理由が叛意を抱いたからではない、と暗に言っていた。わざわざこの男が出向いてきて殺すだけの事情があったことは間違いない。

 翠蓮はぐっと肚に力をこめると、男を見据えて言った。



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