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第2章 蠱毒の頂
第2話 懊悩する皇后
しおりを挟む掖庭宮。
そこは時の皇帝の後宮である。宮城の西南に設けられたその区画の中には、いくつもの宮殿が軒をつらね、毛細血管のように紅い回廊が張りめぐらされている。
一際高い紅い壁に囲まれたそこは、男子禁制の苑。
ただ一人の男である皇帝に気に入られるためだけに、後宮の佳麗三千人と謳われる女性がそこで姸を競う。
その女たちの頂点に立つのが皇后。
世継ぎたる男児を儲ければ「国母」とも言われるその存在は、今、激しく頭を悩ませていた。
彼女の名は劉皇后。琰単の正妻である。
孫前皇后の血縁にあたり、この国を興した北族の貴顕の裔であるということを誇りにしていた。孫皇后に倣おうと形式ばった生活を好み、夫を律さんとする気概が強く、琰単には煙たがられていた。全体的に痩せぎすで、ひっつめた髪が余計にそれを強調する。
だが彼女を真に悩ませていたのは、夫の堕落ではなかった。
ひとえに、子供ができないのである。
夫である琰単がいくら欲にまみれた生活を送っていようが、皇帝であることには変わらない。しかし皇后である自分が世継ぎを産めなければ、その地位は取って代わられるかもしれない。
子供のいない彼女は、苦し紛れに下級の婕妤が産んだ男児を養子にしてその地位を保った。そしてこれでひとまずは安泰だと思っていた矢先のことである。
四妃の一人、荘淑妃がよりによって男児を産み、琰単はそちらにかかりきりになったのだ。
荘淑妃は南朝の皇族の血をひく、婀娜っぽくふくよかな美女で、酒池肉林を地で行くような淫靡な生活を好んでいた。そのため、劉皇后とはなにもかも反りが合わなかった。
荘淑妃は子供を産んでからは、まるで後宮の主人は自分だとでもいうように振る舞っている。このままでは後宮を牛耳られる、そう皇后は悩んでいた。
***
皇后の住まいである儲春殿の豪華な寝椅子の上で、宦官に足を揉ませながらも、皇后は浮かない顔でいた。その表情を読み取ったのだろう、白髪まじりの初老の宦官は控え目に言った。
「……なにかお悩みでございますか」
「悩みも悩んでおるわ。なんぞ面白う話はないものかえ」
「そうですね……」
初老の宦官は少し考えて言った。
「……やつがれの甥が米の運送業者をやっておりまして、休祥坊の道徳寺という尼寺に出入りしておるそうですが、最近その寺に皇上陛下がお忍びで頻繁に来られるそうです」
「それのどこが面白いのじゃ。休祥坊の寺といえばさきの皇后陛下が寄進して建てた寺であろう? 陛下がお母上の寺を詣でてなにがおかしい」
「どうもそれが、そうではないようなのでございます……」
初老の宦官は、失礼いたしまする、と断って皇后の耳のそばで囁いた。
「……皇上陛下は道徳寺の隣に女を囲っているそうなのでございます」
「なんじゃと⁉︎」
皇后は激昂して、宦官の胸ぐらを掴んだ。落ち着いて下さりませ、と宦官は何度も懇願する。皇后は怒りが覚めやらぬ様子で、肩をいからせ、鼻から息を吹き出した。
「……しかもその女はどうも妊娠しているようなのです。道徳寺に安産祈願の名目で寄進する米を届けた、と甥が申しておりました」
「許せぬ‼︎」
皇后は立ち上がり、近くの卓にあった茶碗を宦官に投げつける。宦官は這いつくばって跪き、「お許しくださいませ」と憐れな様子で言うが、皇后は構わずその宦官の背を何度も踏みつけた。
「あの忌々しい荘淑妃だけでは飽き足らず、さらに外で子種をばら撒くとは……! ええぃ、いったいその女は何者なのじゃ⁉︎」
「……やつがれが調べましたところによれば、皇上陛下の御子を身籠っているのは、先帝である順宗陛下の後宮に才人としてあがっていた「呉翠蓮」という女にござりまする」
「……なんと! 先帝陛下の後宮にあった者が、その息子である陛下の子を宿したと申すのか⁉︎ なんたる不道徳な……!」
「さようにござりまする。外聞が悪いにも程があるので、皇上陛下も表立って後宮に入れられないのでござりましょう」
皇后は苛々と部屋の中を歩き回ると、飾り棚に置かれていたみごとな装飾の白い花瓶を薙ぎ払った。がちゃん、と音をたてて砕け散った破片が飛び、初老の宦官の頬に当たって赤い筋ができる。
「……先帝陛下の時代にそのような噂があったが、畜生にも劣ると一笑にふしておった……よもや真実だったとは……ええぃ、汚らわしい!」
宦官は這いつくばって皇后の足元にひれ伏すと、「卑しいやつがれが申し上げます」と皇后を見つめる。
「どうでしょう、呉翠蓮を後宮に入れられるように皇上に進言されては?」
「そんなことをして妾になんの得があるのじゃ! 厄介者を増やすだけではないか! この愚か者めが‼︎」
宦官は皇后の足に縋りつき、囁きかけた。
「毒をもって毒を制すのです」
「……どういうことじゃ」
「皇上陛下は実のところ、呉翠蓮を召し上げたいと思っておられる、これは間違いございません。ですから皇后様が呉翠蓮を推挙することで、皇上陛下に貸しをお作りになるのです」
「……ふむ」
「呉翠蓮が後宮に入れば、皇上陛下はしばらくは呉翠蓮に夢中になられるでしょうなぁ。 ……荘淑妃様のことなどお忘れになられて」
「……なるほどな」
「しかし呉翠蓮は元は日陰の身。皇后様のお力添えで後宮入り、ということになれば皇后様に逆らいはしますまい。荘淑妃のように大きく出られる立場でもございませぬ」
「そうじゃのぅ……それに後ろ盾のない女など、逆らったら逆らったで方法はいくらでもある。金婕妤のようにな」
皇后が意味ありげに笑うと、宦官はさようにござりまする、と頭を床に擦りつけた。皇后はにわかに上機嫌になり、どかりと長椅子に腰を下ろす。
「陛下にお伝えしたきことがあると、伝言を」
「……御意に」
皇后の前を辞した初老の宦官は、隣室の衣装部屋に置いてある衣装櫃から皇后の髪紐を一本抜きさった。その足で太極宮へ向かい、太極宮付きの宦官の袖にするりと金子を差し入れ、皇后からの伝言を伝える。
また掖庭宮へ戻ると、今度は皇后の宮殿を素通りして、宦官を統括する部署である内侍省へ向かった。内侍省の中の書庫に入ると、何食わぬ顔で書を探しはじめる。
何冊か冊子本を抜き取ったところで、後ろを一人の宦官が通りかかり、肩が当たったはずみに持っていた本を取り落とした。
「失礼」
そう謝った通りすがりの青年宦官は、かがんで本を拾うのを手伝う。
「……お求めのものはありましたか?」
宦官にしては体格のよい青年宦官は、真っ黒な眼差しで問うてきた。
「ええ、希望通りのものが」
「それは良かったですね」
「貴殿のほうは?」
「私も大体は……そうですね、書が多いのでまとめる紐が欲しいところですね」
「ではこれをお使いください」
そう言うと初老の宦官は懐から髪紐を取り出し、手渡した。
「これはこれは助かります」
「いえいえ、困ったときはお互い様ですから」
それだけ会話を交わすと、初老の宦官は軽く会釈をして、書庫を出た。
書庫にはもう一人の宦官――渓青が残された。
皇后付きの宦官は、多かれ少なかれ皇后を嫌っている者が多い。それは皇后が宦官に対して異常に厳しく、ささいな失敗でも鞭打ちなどの罰を与えるからだ。また一度怒り始めると火がついたようになり、誰も止められない。
あの宦官も以前、頭の下げ方が気に入らないという理由だけで厳しく叱責され、何度も鞭打たれて背中をみみず腫れだらけにしていた。
寒空の中、井戸で体を清めていた時にたまたまそれを見た渓青が実家の膏薬を塗ってやると大層喜び、初老の身には今の主人は辛いとこぼしていた。
そんな縁で知己になり、有事の際は翠蓮へ口利きをするのもやぶさかではない、と渓青が言うと、皇后の宮でなにかと役に立ってくれることになった。
「さて、またここで忙しくなりそうですね」
曇天の下、渓青は微笑み、皇后宮を蔑んだまなざしでみやった。
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