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第19話 逃げる
しおりを挟むスハの里は今や大混乱に襲われていた。
八つの嶺は空を揺るがすような咆哮を上げ、噴煙が天高く立ち上っている。流石に噴石が降り注ぐことこそなかったが、火の粉が飛来して茅葺の屋根を焦がし、あちらこちらで火の手が上がり始めていた。
夜だというのに空は夕焼けのように赤い。湖は噴煙が巻き起こす風で海のように波立ち、空の色を反射して不気味に赤く染まっていた。
シャグジはいち早く逃げ出した。彼らのねぐらのある四つ根の樫まで行けば火の手からは逃れられるだろう。けれども空からはまるで雪のように、けれども雪と違って熱さを持った灰が降り出している。
ミナカタも混乱の中、トオミの指示に従って持てるものだけを持ち出し、スハのうみの方へと逃げ始めていた。
「ヤシュカ! 逃げるぞ!」
呆然としていたヤシュカはモレヤの声で我に返った。慌ててモレヤの背に飛び乗り、首筋に必死に縋り付くとモレヤは全速力で駆け出した。
「モレヤ⁉︎ どこへ行くの⁉︎」
皆と一緒にスハのうみの方へ逃げるのかと思われたモレヤは、反対方向――つまり火を噴く八つの嶺の方角へと向かい始めた。
「うみのほとりへ行く道は人が多すぎる! それに……このまま逃げる‼︎」
ヤシュカは息を飲んだ。モレヤの言う「逃げる」はこのスハの里を焼き尽くそうとしている火の手からではなくて――全てから、シャグジからも、ミナカタからも、二人を縛りつける世界からの逃亡だということをヤシュカは理解した。
急速に遠ざかるスハの里の方をちらりと見やると、湖岸に立ち尽くす若い雌鹿――ミサハと目が合った気がした。
(……ミサハ、無事で)
礼も言えないまま来てしまった。これからミナカタを襲う更なる試練と、残されたミサハのことを思うと胸が締めつけられる。けれども今は、自分が逃げることで精一杯だった。
一度、スハの里に近い方の「巣」に立ち寄ったモレヤは、持てるだけのものを背中に括り付けた。これから逃亡生活を送るのに、何も持たずに逃げるのは自殺行為だ。
元々逃げるつもりで準備をしていたモレヤの支度は早かった。ヤシュカも慌てて必要そうなものをまとめる。時間はあまりなかった。そうしてまとめた荷物を括り付け、獣形になろうとしたところでふと気づく。小さな麻袋を荷物の中に突っ込むと、今度こそ二人で駆け出した。
巣を出ると既にこの辺りにも火の手が迫っていた。熱さと煙が立ち込める中をヤシュカは懸命に駆ける。地形を熟知したモレヤが先導し、出来るだけ安全な道を探し出してくれていた。
噴火は断続的に発生していて、何度も地が揺れて足を取られる。
やっとの思いで湖の東岸近くまで達した時、後ろから轟音が空に響いて二人は歩みを止めた。振り向くと、スハの里の北側にあった山の斜面が大きく崩れ出している。
「あ……あ、ああ……‼︎」
ヤシュカは愕然とした。既に大火に巻かれていたスハの里の一番象徴的な五つ根の樫の木と、ヤシュカの暮らした社が土砂に飲まれていく。
地滑りが起きて、北の斜面から大木がそのままスハの里――だったところに押し寄せる。社のあったところにはまるで墓標のように四本の樅の木が押し流されて立ち尽くしていた。
そうしてその樅さえもとどまることを知らない火によって焼かれていく。
「……ミナカタは、ミナカタはもう終わりだわ……」
元よりヒトとの戦いで数を減らしていたのだ。ようやく蓄えた冬備えも、寒さをしのぐ住まいも、来年へと繋ぐための稲田も全て失った。
老いた者や弱い者はきっと冬を越せないに違いない。
もしかしたら北のアマズミ族を今度こそ頼ることになるかもしれない。けれどもヒトもすぐそこまで差し迫っている。ミナカタという鹿族が、ツクシジマで滅んでいった他の獣人と同じように消えて、ヒトと同化していくのは時間の問題だった。
「……シャグジも同じだ」
モレヤが向いた方向をヤシュカも見て、再び息を飲んだ。湖の対岸、四つ根の樫があった辺りも同じように山崩れが起きて、もう樫の木の姿はなかった。滑り落ちた樅の木が、弔いの炎のように燃え盛っている。
「……灰が降れば森は駄目になる。そうなったら動物たちもこの地には居つかない。獲物がなくなり、シャグジは数を減らし……きっとミナカタと同じようにヒトに飲み込まれていく」
スハの地に息づいていた、獣人の営みが終焉を迎えようとしている。ヤシュカにはそんな予感がした。
「……だとしても、私たちは生きよう、モレヤ。きっとまだ獣人が住める土地がどこかにある」
赤々とした夜空の色を反射して、ヤシュカの瞳と同じように赤く染まったモレヤの瞳を見つめる。
「ああ。行こう、ヤシュカ」
二人で南の方角を見つめる。
今は見えないけれど、二人で見たあの山が脳裏に鮮明に浮かぶ。
あの山の、不二《フジ》の山の向こうへ。
***
湖のほとりでミサハは懸命に走り回っていた。ほとんどの者がどこかしらに火傷を負っている。煙を吸い込んでぐったりとしている者もいた。湖から水を汲んできて布を浸し、少しでもとミサハは必死に手当をした。
そんなミサハの後ろからざっざっと足音がする。振り向くと兄のトオミが人形に戻り、険しい表情で立っていた。
「兄様……」
「ヤシュカは何処へ行った」
「姉様は……逃げたわ。あの山犬と一緒に」
「ちっ……この非常時に雄のことしか考えん役立たずが」
吐き捨てるように言う兄に、ミサハは生まれて初めて苛立ちを覚えた。確かに姉は一族の危機に一族を見捨てて、番と逃げた。それは巫女姫の責任放棄と言われても仕方ないだろう。
けれども、姉が逃げるような――逃げたくなるような状況に追い込んだのは誰なのだとミサハは思う。愛する番がいるのに無理矢理手篭めにしようとした。獣人の間では、雌が雄を選ぶのだ。雄が強制する権利はない。
母や兄には色々と考えがあるのかもしれないけれど、あんなに幸せそうに笑う姉をミサハは初めて見た。今まで感情のない人形のようだった姉が、初めて見せた心からの笑顔だったのだ。
だからミサハはそれを守ろうとした。
ただそれだけだ。
そう思って兄を見つめると、ミサハの反抗的な心が伝わったのかもしれない。トオミは再び短くチッ、と舌打ちをした。
「……ヤシュカのことを、あの野良犬に教えたのはお前だな」
「なっ……」
「あんな時刻に外から獣形で帰ってくるなど、他にどんな理由がある」
「ひっ……!」
じりじりと兄に詰め寄られて、ミサハは恐怖のあまりぺたんと尻餅をついた。兄が心底恐ろしい。
こんな兄と、番になりたいなどと思っていた昔の自分を後悔した。ミサハには表面しか見えていなかった。兄は雌に媚びてくる他の雄たちとは違うと思って憧れていたが、それは間違いだった。
「ミサハ」
「は、はい……っ」
「お前は今日から、ヤシュカだ」
「……え…………?」
「人前には出るな。ヤシュカの真似をしろ」
「で、でも私、姉様みたいに祖神様とお話しする力なんて……」
「そんなものヤシュカも持っとらん。あれはただ白いだけだ」
「…………‼︎」
ミサハの全身を衝撃が襲った。
では姉の、あの何もかもが制限された生活はなんだったのだ。
ミサハは密かにヤシュカに同情していた。いつも社に一人きりで、祈りを捧げるか、機を織るかしかしてはいけないと言われ、滅多に話すこともない。外に出ても皆は遠巻きにして腫れ物に触れるように扱う。
けれどもそれも、姉には特別な力があるから仕方ないと思っていた。
それが役目なのだから、と。
信じていたものが全て崩れ落ちていくような感覚をミサハは味わった。
「……ミサハ、来い」
兄にぐいと手首を捕まれ、ミサハは無理やり立ち上がらされた。そのまま湖のほとりを少し離れ、焼け残った木立の中へと連れて来られる。
「兄様、なに……?」
「ミサハ、獣形になれ」
有無を言わせぬトオミの迫力に気圧され、ミサハは一度木の後ろに回り込むと衣服を脱ぎ落として獣形になる。
元の場所へ戻ると兄もまた獣形になっていた。
「なに? 兄様……」
「混乱に乗じてヤシュカのようになると面倒だ。今、匂いをつける」
「えっ⁉︎ やっ! 嫌! いやああああっ!」
背後から雄鹿に押さえ込まれて、ミサハは絶望の淵に叩き落とされた。
獣形で交尾をするのは、獣人にとって酷く即物的な――生殖という目的以外のものが削ぎ落とされた行為だ。
見つめ合って愛しさを眼差しで伝えることもない。
互いに抱き締めて触れ合い、大切さを言葉にせずとも感じることもない。
ただ獣のように、犯し、犯され、そして孕む。
それだけだ。
だからよっぽど子供が欲しい時でもなければ、獣形で交わることは滅多にない。
種族が異なれば体格的に難しいこともあるし、雌が一方的に犯されることを嫌うせいもある。
ミサハはようやく理解した。
兄にとっては、姉も自分も、番などではなく、道具に過ぎないのだと。
だから雌が雄を選ぶとか、雄に選ぶ権利はないとかいったことは関係ない。
ただ道具を使っているだけなのだから。
そしてそれを理解した時には、全てが遅過ぎた。
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