36 / 81
色は匂へど
5
じんわりと目の奥からこみ上げてくるものを必死に押し留める。ここで泣いたら、相手を悪者にしてしまう。翠とマネージャーが不仲になるのは、翠の仕事の妨げになるのは、嫌だった。
「陽?」
「来たか。ほら、行くぞ」
鞄を持って戻ってきた翠は僕の顔を見ると、表情を一変させた。鋭い眼光を向けられたマネージャーは、先を急ごうとする。
「お前、陽に何言ったんだよ」
「sui、ここで押し問答してる暇はない。一分刻みのスケジュールだって、分かってるだろ」
そう言ったマネージャーは、逃げるようにして玄関を出て行く。ずっと張り詰めていた糸が弛んで、僕はほっと息を吐いた。
「陽、ごめん」
「ううん、僕なら平気。お仕事、頑張ってね」
「うん……、それは頑張るけど」
問題になるようなことは、何も無かった。そう思ってもらえるように作り笑いで誤魔化そうとするけれど、翠は訝しんだまま何か言いたげだ。
悩んだのは一瞬だった。翠の着ているシャツを掴んで、背伸びをする。なんとか届いて、触れ合う唇。すぐに離したそこから、ちゅとかわいらしいリップ音が鳴って恥ずかしくなる。目を見開いた翠がぼっと一気に赤くなるのを新鮮に思いながら、柔らかな笑みを浮かべる。
「行ってらっしゃい」
この期に及んでまだ手を出すのか、とまた責められそうだけど、翠の気を引くのはこれしかないと思った。僕の目論見通り、ふうと大きく息を吐き出した翠は「夜、覚悟しててね」と囁くとそのまま家を出て行った。
よかった、バレなかった。ガチャンとドアが閉まるのと同時に、力が抜けてずるずるとその場に座り込む。
――覚悟、しておかないと。
いつ捨てられてもいいように、翠から離れてひとりで生きていく覚悟を。
ぎゅっと抱え込んだシャツから翠の香りがして、涙がぽろりと零れ落ちた。
◇◇
一頻り涙を流した後、ふらふらと立ち上がって、ウォークインクローゼットまで歩く。無意識にそこを開けた僕は、たくさんの宝物を前に悩み始める。
(これがいい……)
(駄目、あそこに置くのは別のがいい)
何のために選んでいるのか、自分でもよく分かっていない。選んだ基準も理由もうまく説明できないまま、僕はいくつかの服を拝借して腕に抱え込んだ。
向かったのは、昨夜翠と交わったベッド。残り香がまだ漂っているそこはぴったりだ。この香りに包まれているだけで、自然と落ち着く。
こだわって選んだ服を理想通りに並べていく。数ミリのズレも許されないから、丁寧に。やがて、長い時間をかけて出来上がった服の山に潜り込めば、世界で一番安心できる場所にほっと息を吐いた。
翠に散らかしたって、怒られたらどうしよう。僕はただの家政夫だから、掃除をしたり片付けたりするのが仕事なのに。そんな不安が襲ってくるけれど、元に戻そうとは思わなかった。この中なら、あの人の意地悪だって遮断できる気がした。
「陽?」
「来たか。ほら、行くぞ」
鞄を持って戻ってきた翠は僕の顔を見ると、表情を一変させた。鋭い眼光を向けられたマネージャーは、先を急ごうとする。
「お前、陽に何言ったんだよ」
「sui、ここで押し問答してる暇はない。一分刻みのスケジュールだって、分かってるだろ」
そう言ったマネージャーは、逃げるようにして玄関を出て行く。ずっと張り詰めていた糸が弛んで、僕はほっと息を吐いた。
「陽、ごめん」
「ううん、僕なら平気。お仕事、頑張ってね」
「うん……、それは頑張るけど」
問題になるようなことは、何も無かった。そう思ってもらえるように作り笑いで誤魔化そうとするけれど、翠は訝しんだまま何か言いたげだ。
悩んだのは一瞬だった。翠の着ているシャツを掴んで、背伸びをする。なんとか届いて、触れ合う唇。すぐに離したそこから、ちゅとかわいらしいリップ音が鳴って恥ずかしくなる。目を見開いた翠がぼっと一気に赤くなるのを新鮮に思いながら、柔らかな笑みを浮かべる。
「行ってらっしゃい」
この期に及んでまだ手を出すのか、とまた責められそうだけど、翠の気を引くのはこれしかないと思った。僕の目論見通り、ふうと大きく息を吐き出した翠は「夜、覚悟しててね」と囁くとそのまま家を出て行った。
よかった、バレなかった。ガチャンとドアが閉まるのと同時に、力が抜けてずるずるとその場に座り込む。
――覚悟、しておかないと。
いつ捨てられてもいいように、翠から離れてひとりで生きていく覚悟を。
ぎゅっと抱え込んだシャツから翠の香りがして、涙がぽろりと零れ落ちた。
◇◇
一頻り涙を流した後、ふらふらと立ち上がって、ウォークインクローゼットまで歩く。無意識にそこを開けた僕は、たくさんの宝物を前に悩み始める。
(これがいい……)
(駄目、あそこに置くのは別のがいい)
何のために選んでいるのか、自分でもよく分かっていない。選んだ基準も理由もうまく説明できないまま、僕はいくつかの服を拝借して腕に抱え込んだ。
向かったのは、昨夜翠と交わったベッド。残り香がまだ漂っているそこはぴったりだ。この香りに包まれているだけで、自然と落ち着く。
こだわって選んだ服を理想通りに並べていく。数ミリのズレも許されないから、丁寧に。やがて、長い時間をかけて出来上がった服の山に潜り込めば、世界で一番安心できる場所にほっと息を吐いた。
翠に散らかしたって、怒られたらどうしよう。僕はただの家政夫だから、掃除をしたり片付けたりするのが仕事なのに。そんな不安が襲ってくるけれど、元に戻そうとは思わなかった。この中なら、あの人の意地悪だって遮断できる気がした。
あなたにおすすめの小説
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学時代後輩から逃げたのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
【完結済】極上アルファを嵌めた俺の話
降魔 鬼灯
BL
ピアニスト志望の悠理は子供の頃、仲の良かったアルファの東郷司にコンクールで敗北した。
両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。
しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。
コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。
親に虐げられてきたβが、Ωと偽ってαと婚約してしまった話
さるやま
BL
◆瑞希(受け)語り
□アキ(攻め)語り
攻め→→→→←←受け
眞鍋秋人(攻め)
優秀なα。真鍋家の次期当主。本質は狡くて狡猾だが、それを上手く隠して好青年を演じている。瑞希にはアキさんと呼ばれている。
高宮瑞希(受け)
Ωと偽っている平凡なβ。幼少期の経験からか自己肯定感が低く、自分に自信がない。自己犠牲的。
有栖蕾
花の精のように美しいと名高い美少年のΩ。アキさんの元婚約者(と言っても、正式な婚約関係になく、幼少期の口約束程度)であり、アキさんのことをまだ好いている。瑞希のことを秋人の婚約者として紹介され、許せない相手になった。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
俺以外美形なバンドメンバー、なぜか全員俺のことが好き
toki
BL
美形揃いのバンドメンバーの中で唯一平凡な主人公・神崎。しかし突然メンバー全員から告白されてしまった!
※美形×平凡、総受けものです。激重美形バンドマン3人に平凡くんが愛されまくるお話。
pixiv/ムーンライトノベルズでも同タイトルで投稿しています。
もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿
感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!
https://www.pixiv.net/artworks/100148872
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。