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癒えない古疵
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しおりを挟む嗚呼、目眩がする。
あのアカウントが自分のものじゃないと世間に向けて否定する術を持たない僕はどうすることもできない。
次に何が投稿されるのか見当もつかず、ただ指をくわえて見ていることしかできない。そんな現状が更に苛立たしさを増幅させる。
最近はオーディション番組に出演したというのもみんなの頭から抜け落ちて、注目も落ち着いてきたのに。これじゃ、また逆戻り。数ヶ月前よりも遠慮のない視線が僕を貫く。
「まだ投稿をするようなら、弁護士に相談しよう。俺もいろいろ調べておくから」
「うん……」
アカウントを作ったひとは、カラオケの動画の他に僕の動画でも持っているのだろうか。
頼りになる幼なじみの言葉を聞きながら、新たな不安が芽生えてくる。だけど無理に笑顔を作って、家まで送ってくれた奏を見送った。
――パタン。
ドアを閉じて、僕はずるずるとその場にしゃがみこんだ。
もうこれだけ広まってしまったのだ。
いっそ、カラオケ動画だけで終わるならいい。
なりすましの犯人は、僕を貶めるようなことをするつもりなのだろうか。
顔を埋めていれば、玄関に着信音が鳴り響く。体がびくりと過剰に反応して、恐る恐る鞄からスマホを取り出した。
画面を見て、一気に緊張の糸が弛んだ。
どうして貴方はこんな時に。
落ち込んでいるのを見透かされているみたい。
いつもなら躊躇ってしまうけれど、今はただその声に癒されたくて、僕は立ち上がって靴を脱ぎながら電話に出た。
「もしもし」
『もしもし、紡?』
いつもと変わらない、甘いキャラメルを溶かしたような優しい声にほっとしてなんだか泣きそうになった。
「りつ……」
『落ち込んでるかなぁと思ってさ。まぁ俺が声聞きたかったっていうのも勿論あるけど』
「…………」
『あのアカウント、紡じゃないんでしょ?』
神さまは耳が早い。
単刀直入に切り出された話題が現実を突きつけてきて、胃の中に重たいものが積み上げられる。
だけど、律の確信めいた口調がそれを少しずつ取り除いていく。
『紡はそういうことするタイプじゃないと思ったから』
「誰かが勝手に作ったみたい」
『やっぱりそうか……』
律が僕のことを分かってくれている。
ただそれだけで無限に勇気が湧いてきて、僕は前を向ける。
『紡』
「ん?」
『全部が嫌になってどうしようもなくなった時は俺のところに逃げてきていいからね』
見ず知らずの人に一方的に存在を知られているというのは僕にとっては恐怖でしかなくて、今まであった居場所がどんどん失われていく感覚に陥っていた。
そんな暗闇を裂いて、神さまは光を導く。
春の陽気のような、ぽかぽかして心地良い陽だまりのよう。
じーんと熱いものがこみ上げてくる。
泣いているのがバレないよう、僕は声を抑えることに必死だった。
『本当はすぐ傍で守ってあげたいけど、それはできないから……。ちゃんと周りに気をつけるんだよ。夜道は特に』
「うん」
『俺はいつでも紡の味方だからね』
「……っ」
耐えきれなくて漏れてしまった嗚咽が律に届いていなければいい。
そんなことを考えながら、通話の切れた電話を枕の横に置いて、僕はごろんとベッドに横になった。
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