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「永遠にこんな風に過ごせたらいいなってたまーに思うよ」
 三村くんのそんな一言がなんの脈絡もなく発せられた。
「こんな風にって何を指しているわけ?」
「こうやってのんびり友人と話し合ったりして毎日を消費していくことさ」
「一応俺たちはみんな夢をもってここで過ごしているはずなんだけどね」
「でも、俺たち別に何かになれるような努力をしているとはいえないだろ?それぞれ目標にむかってある程度頑張ってはいるのはわかってるけどさ。きっと本当に叶える人はこんなもんじゃないって思うんだよ」
「それを言われちゃあ痛いな」
佐藤くんは笑いながらそう言った。
「たしかに俺は今の生活に何の不満もないね。ほどほどに夢を叶えるための努力に時間を使って、ほどほどにアルバイトに行って、ほどほどに遊んでいる。そんな状況に不満がある人はこの場にはいなさそうだな」
「そうそう。だからさ、このままずっと続いてもいいと思うんだ。誰も何者にもならないままさ」
ぼくはシチューの下準備を終え、具材に熱を通し始めた。
「ああ。天国ってそういうことなのかな。天国がみんな幸せな場所だとしたら、誰もが平等な世界ってことかな。それって誰も何者でもないっていえそうだし」
「おお!いいこというね。なるほど天国かー。何も持たず、ただそこにいるだけで幸せって最高だな。しかもずーっとだ」
 ぼくはいつもよりも牛乳を入れすぎてクリーム色というには少し白くなりすぎてしまったシチューを皿に盛りつけた。
「わかっていると思うけど今日はシチューだよ。話していないでたべるよ」
話に興味はあったけれど、どうも入れそうな話ではなかったので、ここで止めてしまっていいような気がした。
「食べよう食べよう」
 食べ始めるまではあんなにも話が盛り上がっていたのに、いまのぼくの前には黙ってシチューをすくいあげる姿しか見えない。話を止めてしまってもよかったんだろうか。この話はもしかしたら思っているよりも人生に関わるものかもしれない。ぼく達のこれからの指針になるかもしれない。生きる上での根幹になるかもしれない。それでもぼく達は黙ってシチューを食べ続けた。
「シチューってパンでも米でも食べられる最強のおかずだよな!」
「たしかになー。まあ俺は断然米派だけどね」
「えー、結構気分によらない?」
「そもそもパンよりも米のほうが格が上だからな。パンの気分ってのがあったとしても米が勝つのよ」
「なんだよそれ」
その場でちょっとした笑いが起きる。三村くんのなんだかふりきったような感性を羨ましく感じる。ぼくの感性は迷子になってばっかりで何も定まらない。きっと彼のような人が何かを創り、誰かを救い、何者かになれるのではないか。ぼくも彼の言葉で笑っていた。
「カレーとシチューならどっちがいいと思う?」
ぼくは三村くんがどんなふうに答えるのか気になってありきたりな問いを投げかけてみた。
「うーん、それこそ気分によるなあ。今日はシチューかな!」
「それはいまシチュー食べているからでしょ」
シチューを食べ終わるとぼくはテレビをつけた。何度か見たことのあるバラエティー番組だった。その番組が面白いかどうかはわからないけれど、ぼくにはそれが、ストレスを感じることなく見ることができればそれ以外はどうでもよかった。目新しいことだとか、時代に逆行するような番組はどうもストレスがたまる。それで笑えるとしても、疲れるような気持ちになるのが嫌だった。こういうどこにでもあるような番組は何が起こるかわかるし、どんなふうに笑えるか予想できるから楽だ。
その番組がおわると、二人はおしゃべりを始めていた。テレビからは昭和のヒット曲を紹介する音楽番組が流れている。もう昭和は変動しないのだから、何回も何回も同じような昭和のヒット曲を紹介したって意味がないじゃないか。テレビはつまらないし、彼らの話にも入れそうになかったから自室に戻ることにした。共有スペースは楽しくて夢みたいだけれど、ぼく達には一人の時間も必要だった。
部屋に戻ってからストックしているチョコレートが切れていることに気がついた。ぼくはしょうがないとため息をつきながら部屋を出て、コンビニへむかうことにした。

9月の夜風はぼうっとしていたぼくの頭の中をクリアにしてくれた。コンビニで袋詰のチョコを買うと、セルフレジの楽さと寂しさが身にしみるように感じた。1円玉が二枚出てきて、ぼくはそれを黒いトレーからすくい取った。機械化され、合理化されていく社会で人間に求められることはなんだろうか。なんて、自分らしくもないことを考えてしまった。ぼくには合理化されていくことがどうもしっくりこなくて、その流れに逆らうように帰り道からUターンして適当に歩くことにした。こうやって無駄を楽しもうというときになにか珍しいことが起こらないかなあなんて思ってしまうのだけれど、夜中の道にはそもそも人が通らない。ぼくは何にも出会えないまま15分くらい無駄に家から離れるように歩いてしまった。いまさら何をしているのだろうなんて思ってしまうのだけれど、本当になにをしているのだろう。無駄を楽しむにしても、本当にこんな無駄なことがあるか?自分に問いかける。きっと無駄を求めるぼくは無駄の中の輝くものを探している。無駄そのものを求めているわけではないのだろう。
「ぼくの手には余るな」
独り言を漏らしていた。15分くらい歩いただけなのに、帰り道がわからなくなっていた。夜だからかな。スマートフォンのマップアプリを立ち上げて、自宅までの道のりを案内してもらう。アプリのマップはぼくが向いている方向に合わせて角度を変えてくれるものだから、特に何も考えずに画面を見ているだけで家に戻ることができた。あれ、10分くらいで戻ってこられた。
「ただいまー」
特に返事はかえってこなかった。一応このルームシェアにはルールがいくつかあって、共有スペースに居るときは挨拶をするけど、それ以外では挨拶をしてはいけないことになっている。
ぼくが共有スペースに戻るとやっぱり誰もいない。もう寝たのだろうか。
ぼくは自室に戻ってデスク前の椅子に座り、買ってきたチョコを開封する。そのチョコはなんの工夫もされていないプレーンなチョコで、ぼくのお気に入り。癖になるほど美味しいわけじゃないから、食べすぎてしまうことがない。体が本当に甘いものを求めるときだけ食べるのがちょうどいい気がして、ずっとこのチョコを買っている。いまは別に気分じゃない。ぼくはせっかく買ってきたのだからという気持ちで、一つだけ食べることにした。個包装されたチョコを開封すると、中身はデスクの上に落ちてしまった。

「昨日の五月雨つららの配信見たー?」
ぼくがバイトに向かうときに必ず聞こえてくる声だった。
「みたみたー。ホラーゲームやってるときの絶叫やばすぎるって!」
彼女たちは笑いながらおそらくYouTuberであろう人について話している。この時間帯に制服を着て歩いているのだからきっと登校中なのだろうな。
「でも、ふと出る声が低くてかっこいいんだよねー。なんか情けない声とのギャップが推せるというか、かっこかわいいんだよね」
彼女たちがずっとそのYouTuberについて話しているのを聞いてふと思った。今の中高生はもうテレビの話とかよりもYouTuberの話をするほうが多かったりするのかな。彼女たちが坂道を登りきって、道のつきあたりを右に曲がる。
ぼくはそのつきあたりを数秒後に左に曲がった。
彼女たちは二年前から同じ時間にだいたいぼくの前を歩いている。きっと彼女たちは二年前に高校に入学したのだろう。ぼくにとって彼女たちは通勤のときにいつもいる人でしかありえないし、そうでないと辻褄が合わないのだけれど、ぼくはここ最近、彼女たちの話を聞くために通勤しているような気がした。これじゃあ一歩間違えたらストーカーじゃないか。いま万が一ぼくのもとに警察が来て「女子高生につきまとっていますよね」なんていわれたらぼくはなんて答えたら嘘をつかずに捕まらないで済むのかな。こんな自覚をしてしまったからにはもう通勤の時間を変えるか、あるいは道を変えるしかないな。寂しいような気がしつつ、それもまた新しいことへの挑戦のようでわくわくした。

去年の何月だったか。父と久しぶりにお酒を飲む機会があったのだけれど、そのときに父の趣味が散歩と知った。聞いてみると、歩くことで最低限の運動量を確保しながら、景色を楽しむらしい。だから父の散歩は毎回違う道を選ぶのだという。その多くは自分の住んでいる数キロの範囲内で済むのだから新しい発見なんてないように思えたが、どうやら毎回新たな発見があるらしい。こんなところに小さなカフェがあったのかとかなんとか。景色を楽しみながら、身近にある隠れた名店を探しているらしい。それを聞いてぼくも散歩をするようになったのだけれど、毎日同じ道しか歩けなかった。飽きてすぐにやめてしまった。

 スタッフルームにつくと、店長がおはようございますと声にする。誰にでも腰の低い店長だけれど、店のスタッフで一番年上のぼくには特に丁寧に接してくれている。ああ、一人主婦がいたっけ。シフトにあまり入っていないから忘れていた。
ぼくもおはようございますと言って、着替える。いつも30分前にはスタッフルームで待機するようにしている。真面目に仕事をしても得なんてない。いまこの店で働いている大学生はみんなそこそこに働いている。みんないかにして楽をするかしか考えていない。スマートフォンを触ったり、夜勤ではゲームをしている人もいる。ぼくは彼らをうらやましく思う。大学生だからというのもあるかもしれないけれど、彼らのメンタルは根本からぼくとは異なっている。いいなあ。ぼくもそんな風になれたらいいのに。テキトーに働いてなんとなくお金をもらう。それで自分の本当にやりたいことに専念する。そんな風にふるまえたらどれだけいいだろうか。それでも、ぼくという人間にはそれができないことはわかりきっていた。考えるだけ無駄だった。
「いま店の裏に業者から届いた備品があるから、いったんバックヤードにいれてもらってもいいかな」
「わかりました」
 若いスタッフに頼めばいいと思うのだけれど、彼らに裏方の作業をさせると戻ってくるのが遅い。店長からそんな愚痴を聞いたことがある。彼は煙草を吸っているときだけ愚痴をこぼす。愚痴をこぼしたいときに煙草を吸っているのかもしれない。そんなものはどっちでもいいけれど、とにかくそんな時は店長がぼくに煙草の箱をぐいっと見せながら「吸わない?」と言ってくる。大学を卒業するまで喫煙者だったぼくはもちろん煙草が好きだから了承する。たまにしか愚痴を言わない人の愚痴はおもしろい。マンネリ化しない。ぼくは店長のそんな人間らしく愚痴を言えるところが好きだ。この店長がいるからぼくはこの仕事を続けていられる。そうじゃなければあの大学生たちのメンタルへの羨望で押しつぶされるような気がする。
「吸わない?」
 店長が煙草の箱から一本とりだしてぼくの目の前に出す。今日は何としても愚痴を話したいとみた。
「もちろんです」
 二人で店の裏へとむかう。歩いている途中で店長が煙草を口にくわえる。火はまだつけない。
「来月店長変わります」
「え」
「私は正社員として働き始めて、研修を除くとずっとこの店舗だったんですけど、とうとう異動ですって」
「まじすか」
「まじです」
 5秒じっくりと煙を肺にいれて、5秒かけてじっくりと吐き出した。
「ぼくやめます」
「本気ですか?」
「本気です」
 店長も煙草の煙を深く吸い込む。上を向いて煙を吐き出した。
「そんなにいい店長じゃなかったですよ。愚痴たくさん言いましたし」
「それでもぼくがここで働くうえで、店長の存在は大きかったです。ちがうアルバイト探します」
「そうですか」
 店長は嬉しそうでもあり、悲しそうにも見えた。ぼくは店長のことが好きだけれど、好きだから一緒にこの店からいなくなるわけではない。店長がいないこの店はあまりに居心地が悪そうだった。休憩を終えてスタッフルームに戻ると、店の方から笑い声が聞こえた。いつも聞こえてくる声だった。

「ただいま」
「おかえりー」
「今日はバイトないの?」
「あー、サボったわ。今日はインスピレーションが湧きそうな気がしたからね」
「湧いてから休めよ」
ぼくが笑いながらツッコミを入れると、三村くんは「確かに」と言いながら笑う。
「ぼくは部屋にもどるね」
「あ、ちょっとまって!」
珍しく、というか多分初めて引き止められた。
「一緒に酒飲まない?」
「インスピレーション消えない?」
「酒から生まれるインスピレーションもあるよ」
ぼくは部屋に戻って作業をする予定だったから少し迷った。
「いいよ。酒はまだあったっけ」
「赤ワインとビールならあったはず」
「おっけー」
ぼくは自分の分の赤ワインと彼のビールを持ってきた。ぼくがビールを三村くんの前に置くと、乾杯を言う前にもう喋り始めていた。
「俺たち三人って実はお互いに何も知らないと思うんだよ。特にお前はさ、自分自身のこと何も喋らないじゃんか。実はずっと思っていたんだよ」
ぼくは彼の目の前に缶ビールを置き、自分専用のコーヒーカップにワインを注いだ。
「ぼくは楽しく飲めるならって感じだけどそれでもいい?」
「もちろんかまわないよ。探りたいわけじゃないさ。もっと普通に喋れたら嬉しいなって思っているだけなんだ」
「そうかい。とりあえず乾杯しよう」
 そう言うと、それぞれコーヒーカップと缶を持ち上げて「乾杯」と声を揃えた。いざ乾杯をすると沈黙が一分ほど空間を支配した。
「ぼくたちはみんな夢を持っているということを共通点にして一緒に住んでいるよね」
「うん」
「たまに思い出すんだ。SNSでルームシェアを募集しているのを見つけた時さ、ぼくはこれしかないって思ったんだ。あのことの感情を忘れないようにしている」
「俺はもう忘れちゃったな」
 三村くんは冗談だか本気だかわからないような笑顔で言った。
「三村くんが募集したのに忘れないでよ」
「ああ、そうだったね」
三村くんが今度は真顔で言う。
「俺はさ、流れるように生きていたいんだ。高校生の頃なんかはさ、何者かになりたくて一番必死だったよ。高校生の時は勉強さえできればなんとなく自分が何者かになれた気がして勉強だけをしていたよ。大学に入ると、まわりは自分より頭のいい人ばっかりでこの道じゃあ俺は何者にもなれないって思ってしまったんだ」
「へー。そんな話はじめて聞いたよ」
「そりゃあ言ってないからね。自分語りって格好悪くてあんまり好きじゃないんだ。いろんな要因が見えると人ってじゃあしょうがないねみたいな見方をされるからさ。自分の中身を晒すって許されたいってことだと思ってる。そんなの格好悪すぎる」
「ふーん。でもさ、何者かになろうと思っていたならどうして今は必死にならないのさ。ルームシェアだってはじめたのは三村くんだしさ。もっと頑張ればいいのに」
「まあそのつもりではあったんだけどね。何者かにならなくちゃいけない理由なんてないんだって思っちゃったんだ。何者でもなくても生きていけるし、人が生きる理由なんてその瞬間にあればいいんだ。俺はこの生活がすごく楽しい」
「そうか。わかるよ」
「それはよかった」
 三村くんはしばらく黙ったあと、おそらく言うかどうか迷って、結局言葉にした。
「お前はどうなんだよ。楽しくしゃべりたいってのはわかるけどさ、ここまで俺がしゃべったんだから、話してくれよ」
「うーん。じゃあ居酒屋にいこうよ。いつ佐藤くん帰ってくるのかもわからない環境だと喋りにくいな」
 部屋だとどうも調子が出ない。自分の外部が自分を突き動かす例外が起きない。居酒屋で隣の席から聞こえてくるような下世話な話だけが、ぼくを語らせることが可能な気がした。
「佐藤くん嫌いなの?」
「全然。ただ、本音を言いづらいってだけだよ。本当になんとなく」
「そっか、よかった」
三村くんが先に立ち上がる。ぼくも立ち上がって二人で外に出る。ぼくが家の鍵をしめて、鍵を左ポケットにしまう。
「わるいね、わがまま言って」
「かまわないよ。俺、今日バイトさぼったわけだし、お詫びだよ。なんなら一杯くらい奢るよ」
「なんだよそれ。バイト先にお詫びしてくれ」
「馬鹿だなあ。迷惑かけた相手にお詫びをしたらそこで完結しちゃうだろう。循環するように迷惑かけた相手とは別の人にお詫びするのさ。それでその人もほかの人にお返ししてくれればいい」
「バイト先の人だけはちゃんと不幸だけどな」
「多少の犠牲はしょうがない」
 三村くんが笑う。その声がしんとした、暗く染まっている商店街に響く。酔っぱらうと声のボリューム調整が狂うらしい。まあそんな日があってもいい。

居酒屋の中に入ると、店員がぼく達をテーブル席へと案内した。二人用の席へと案内されたが、その二人用の席は二人には狭いように感じた。向かい合った席しかないそのテーブルにつくと、まるで話し合いの場を居酒屋から設けられているような気になった。
「とりあえず、生二つお願いします」
三村くんはぼくの分も一緒に注文した。
「俺さ、この前のシチュー食べる前に話していたことがどうも頭から離れないんだ」
「なんだっけ」
ぼくは覚えているのに何故だかとぼけていた。
「永遠にこのままいられたらいいなって話さ。天国なんかもでてきてさ。天国はきっと誰もが何者でもなくて、誰もが平等でずっと幸せって話」
「ああ、それね。てっきり話はまとまっていたのかと思っていたんだけど、なにを考えていたの」
「誰もが何者でもないって、なにか生み出されるのかなって思ったんだ。俺はこの日本で生きていると、何者かであることを強いられている気持ちになる。それが嫌だから、このルームシェアが自分にとっての居場所だし、心の支えでもある。でも、何者かであれという強迫観念の全く存在しない場所に創造ってありえるのかなって」
「創造?」
「そう。俺は人間が創るものが好きなんだ。夜空には興味がない。空を見上げると、たまたまそれが綺麗に写っているだけだから。家々が輝く夜景は魅力的だと思う。夜景を考えてそれぞれが建てられている訳ではないのに、まるでこうなることをもっと大きななにかが企てていたかのように完成する。神の見えざる手ってやつなのかな」
三村くんはうまいことを言えたことに満足しているように見えた。
「夜景は人間の手によってつくられたものだけど、意図されてはいないわけだよね。絵画とか小説とか漫画とか、人がこういうものつくろうと思ってできたものはどうなの」
「やっぱりそれは素晴らしいよね。創作物に関してはやっぱりその奥にいる作者のことを思い浮かべちゃうよな。そういう意味では、創作物の作者は人間であり、夜景の設計者は神っていえちゃうかも」
さっきまでとはうってかわって、彼のおしゃべりは絶好調のようだ。居酒屋の中は、人の話し声と店員の注文を受ける声などがまるでホワイトノイズのように聞こえてきて、自然体でいられる気がした。きっと三村くんもそうなのだろう。
「神ってさ、何してるんだろうね。人は死ぬし、不平等だし、理不尽だらけだし。もし、神がいるなら夜景を綺麗にしている場合じゃないと思うよ。もし神が一般的に思われているような存在なら、こうはなっていないよね」
「神はきっと俺たちの想像できるような存在じゃないんだよ。悪人は普通に世の中にいるわけだし、善人にいいことばかり起こるわけじゃない。そもそも、よく人間を基準に考えてしまうけれど、動物だって生きている。だから、善とか悪とかを神が重視しているとは思えない。たとえばさ、こんなふうに考えてみたらどうだろう。神の命は有限なんだ。命に関しては神も有限であり、神とはいえ有限から無限を作り出すことはできなかった。だから神は擬似的に無限に生きることができる存在を創りたかったんだ。俺たち人間も神にとってはまさに動物と一緒であり、善悪とか関係なく、ただ種族としての半永久的に存在し続けることのできる生命を求めているのさ」
三村くんの話し方がなんとなく説得力があって、納得しかけたのだけれど、冷静になってみるとやっぱり彼の例示は飛躍があるように思えた。
「それはおもしろいね。でも、だとしたら息苦しいな。天国にいくためには善人であるとかじゃなくて、子どもをつくれってことか?なかなかに過激な思想になりそうだし、いまどき確実に炎上するなあ」
「うわ、リアルに考えてみるとそうだな。でも、そういったいざこざとかもさっき俺が言ったような神なのだとしたら関係ないからな。ありえない話じゃないのが怖いところだね」
店員がいつのまにかもってきていたビールを持ち上げて、そろそろ乾杯しようぜと声をかけて静かに乾杯した。
「とりあえず焼き鳥は頼んでおこうよ。適当な盛り合わせでさ」
店員を呼んで焼鳥の盛り合わせと、ぱっと目についたメニューを注文する。
「人類が繁栄のための存在だとすれば、俺たちはきっと一生意味を持たないんだろうな」
「そもそも生きる意味なんて死にたくないだ
けで十分だろう」
「死にたくないは生きる理由であっても意味にはなり得ないよ」
「なるほど」
ぼくには違いがわからなかったが、なんとなく正しいような気がした。
ふと彼女のことが思い浮かぶ。通勤中にいつも前を歩いている女子高校生。彼女はいつも坂道の途中あたりで見かける。彼女とぼくとの関係も、遠くの山の上から見てみると美しく見えるかもしれない。夜景が、隣に住んでいるだけの、無関係の人たちの生活が連なって完成しているのと同じように。
「そうだ、新しいメンバー加えてみたらどうだろう」
三村くんが急に話し出すものだから、ぼくは何の話かわからずに黙っていた。
「ルームシェアだよ、ルームシェア。みんながずっと幸せってことは不変であるということかなって思ったんだけどさ、よく考えたら毎秒くらいのペースで天国には人が増えるわけだよね。だから全くの不変というわけにはいかないだろ?なら俺たちの空間に一人増やしてもいいんじゃないかって思うんだよ。むしろそれこそが天国であることにおいて重要なのかもしれないよ」
「それじゃあ地獄だって天国ってことにならない?」
「おお、たしかにね。でもさ、やってみる価値はあるんじゃないかな」
「まあね。どうせ部屋は一つもの置き場になっているしね」
「よっしゃ。佐藤くんにも言ってみんなでもうひとりのメンバーを探そう」
「おう」
きっと三村くんが見つけてくるだろうと思って探す気なんて毛頭なかった。
「なんか楽しみになってきたな。さ、今日はもう帰ろうぜ」
彼はそういって上着を手にした。ぼくは焦ってまだ数本残っている焼き鳥を頬張ったけれど、結局、2本には手がつかないまま会計を終えた。
三村くんは先に帰ると言い、走って帰った。勝手なものだなあ。でも彼はそれでいいのだと思う。そう思えるのはぼくが彼と友人であるからなのだけれど。彼は、そうだなあ。職場なんかにいたらきっと話すのも嫌だったろうなと思う。ぼくが彼とただのルームメイトであり、ただの友人であることのめぐり合わせを喜ばしく感じた。

「ただいま」
返事がない。もう部屋に戻って新たなルームメイトを探しているのだろうか。
ぼくも部屋にもどることにした。椅子に座りチョコレートを一つ口に入れる。作業のスイッチがはいる。そういえば一応ぼくもルームメイトを探すことになっているのか。本気で探す気はないけれど、進捗を聞かれたときのためにラインの友達の欄に一通り目を通す。あらためて一覧を見ていると、どいつもこいつもただ名前を知っているだけの他人に思えて、それらが無機質に五十音順に並べられているこのアプリが気持ち悪く思えた。

「希望は無意味の中にある」
ぼくが大学生の頃に読んだ本にそんな台詞があった。ぼくはまるでその言葉に意味を作ってもらったかのように、価値観がひっくり返った。無意味の中にしか救いはありえないのだと思った。ぼくはきっと意味もわからずにその言葉を受け入れてしまったものだから、いまだにふと意味のないことを積極的にしてしまう。でもその過ちすらも、無意味という言葉に回収されて救われる。

二時間ほど作業をしていると玄関のドアが閉まる音がした。ぼくは佐藤くんが帰ってきたのかと思ったのだけれど、ただいまの声は三村くんのものだった。先に帰っていたんじゃないのかよと心のなかでツッコミをいれたがどうでもいいことだった。ぼくの作業もちょうど区切りが良かったので、部屋のドアを開けながらおかえりと返した。
「思い立ったが吉日とは言うけど、さすがに今日見つけてくるのは無理があったみたいだね」
三村くんは真面目な顔をして言った。
「そうか。まあ時間をかけていい人を見つけたらいいんじゃない?急ぐものでもないしさ」
「うーん、まあそうなんだけどね」
彼の顔はどうも不満そうに見えた。
「まあいいさ、とりあえず今日は寝るよ。おやすみ」
三村くんは自室へと戻っていった。

ドアが閉まる音で目が覚める。時計を見ると朝の5時だった。ただいまという声が聞こえ、佐藤くんが帰ってきたことを理解した。佐藤くんは夜勤をしているし夜遊びもするものだから、いままで何をしていたのかは想像
がつかない。そんなことどちらであっても興
味はないのだけれど、とにかく彼は積極的に知ろうとしない限り、意外と謎が多い。ぼく達の中に彼を深くまで知ろうとする人が一人でもいれば、きっと彼の謎はすべて解けるのだろうと思う。彼は自分から自分のことを話さないだけで、彼の人柄からして聞かれたことには素直に話してくれるだろう。彼にはいつでも聞けるし答えてくれるだろうという確信が、彼を掘り下げるという行為をぼく達から遠ざかっているように思えた。彼の謎は彼の素直さが生み出しているという逆転現象が生じていた。
ぼくは彼のただいまという声から始まった生活音の連なりを子守唄にして、二度寝をした。
 いつもと同じように7時にアラームが鳴る。そのアラームをとめて、また寝る。15分後にもう一度アラームが鳴って、とめる。また寝て、7時半のアラームで起きる。7時と7時15分のアラームは、7時半のアラームで起きるための引き立て役だ。どうも7時半のアラームだけだと寝起きが悪い。
 家を出るのは8時15分。いつもどおりなら、あの坂道につくのは8時22分。今日から道を変える。彼女のストーカーにならないために。バイト先につくのはいつもより4分ほど遅かった。8時32分。それでもまだ同じ時間から働きはじめる大学生の二人は来ていない。スマートフォンでSNSをながめる。指をスライドさせるといろんな人の発言がながれてくる。140文字に制限されたまとまりがぼくの目に入ってくる。なんて見やすいのだろう。なんて理解しやすいのだろう。140字に凝縮されたはずの文字たちは、その中身が空洞となって、ぼくのもとに届く。
「おはようございます」
 大学生がきた。少しだけ遅れてもう一人入ってくる。9時からの勤務に、彼らは8時55分にスタッフルームについて、一分で着替えを終わらせる。8時57分になるまでには完全に出勤できる状態で椅子に座る。時間まで、だれひとり喋ることなくスマートフォンを見ている。8時59分になったところで、ぼくは少しだけ早めに夜勤で働いていた人に引継ぎをしにいく。「お疲れ様です」とお互いに言い合う。彼が退勤しようとスタッフルームに戻るとき、ちょうど大学生二人が揃って出てくる。9時ちょうど。体感でいえば、9時00分50秒ってところかもしれない。
 今シフトが決まっているところまで出勤したらやめることができる。店長がもし認めてくれるなら、今週末のシフトから有休を使おう。そうすれば、もう明日出勤すれば終わり。今日は店長の出勤日じゃないから、明日お願いしてみよう。これまで真面目に働いてきたんだ。多少のわがままは許してくれるかもしれない。このバイトで残された時間はもう少ない。そう思うと、何をしてもいい気がした。最終日に客と喧嘩でもしてみようか。そんなことを考えながらひたすらレジをうつ。
「ありがとうございました」
 くりかえし、くりかえす。12時になると混み始める。朝の混む時間は8時から8時半くらいまでで、それ以降はレジに並ぶということはあまりない。朝の混む時間は夜勤の人たちが働いている時間だから、9時からの勤務だと12時から13時までの一時間と、17時30分くらいからはじまる退勤ラッシュが忙しい。9時出勤の大学生はたいてい13時までの勤務で、13時からまた別の大学生がきたり、フリーターがくる。
 もうすこしで15時になるというときに店の自動ドアがウィーンと開く音が聞こえ、「いらっしゃいませ」と声を張った。声を出してから自動ドアのほうに目を移すと、店長が店に入ってきていた。
「え、お疲れ様です。どうしたんですか」
「お疲れ様です。そういえば種田さん有休使いたいんじゃないかなと思ったんですよ。もしかしたら明日から本当は使いたいのに、今日私がいないというのが理由で有休を使えなかったらかわいそうかなって」
「でも、こんな急に有休使ったら迷惑じゃないですかね。シフトはすでに決まっているわけですし」
「そんなのいいんですよ。いままで頑張ってくれていたじゃないですか。ほかの人がそれなりでやっているところを全力でやってくれていたこともわかっていますし、学生の人たちが急に出られなくなった時もシフトに入ってくれていたじゃないですか。最後くらい、店のことを気にせずに休んでください。人が足りなくなったら私が出ればいいんです」
「本当にいいんですかね」
「いいですよ」
「ありがとうございます。では、明日から有休を使って、有休を使いきったところでやめさせてください」
「わかりました。一応有休すべて使い終わった後に一回来てもらって、その時に制服をもってきてください。あと、印鑑も。書類もその時に書いてもらうので」
「あ、ひとつ条件があります」
店長が言葉を続ける。
「今日、退勤後一本付き合ってください」
 店長が目の前にだした煙草はいつものキャスターではなくて、アメスピだった。
「もちろんです」
 ぼくは笑顔で答えた。
 退勤の時間を10分すぎてしまった。立つ鳥跡を濁さず。べつに座右の銘にしているわけでもないけれど、その言葉が頭をよぎって、引継ぎが終わった後にバックヤードの備品整理をしまった。この店になにかしらの情が生まれていたのだろうか。悲しくはない。けれど、寂しくはあった。ぼくは退勤して、スタッフルームにもどる。店長が読んでいた本を閉じてぼくのほうを見る。
「お疲れ様です。おそかったですね」
「すみません。備品の整理をしていました」
「え、なんか足りなかったですか?」
「いえ。ただ、今日が最後になるので綺麗にしておきたいなって思ったんです」
「種田さんはすごいですね」
「本当になんとなくなんです。店のためとか、そんなんじゃないんです。勝手に時間過ぎてしまってすみません。退勤は切ってからやっていたので」
「そんなの気にしなくていいんですよ」
 店長は話しながらぼくが着替え終わるのを待っている。ぼくが急いで準備をしていると「急がなくていいですよ」と声をかけられる。どうしてこの人はこんなにも人のことが見えているのだろう。すごいなあ。ぼくはそれでもやっぱり、少し急いで着替えを済ませた。
「行きますか」
店長が立ち上がりながら言った。必ずぼくがなにか言う前に察して店長のほうから行動にうつす。ぼくにとっての理想像は三村くんみたいな人ではなくて、店長みたいな人なのだろう。そこを理想に置いてしまうのが、ぼくのクリエイターとしての限界であるように感じた。
店長の手からアメスピが一本手渡される。
「たしか大学生の頃はアメスピを吸っていたんですよね」
「よく覚えていますね。アメスピしか吸わなかったですね。1箱あたりの値段は高いんですけど、一本を吸える時間が長くて結局一番安く済むんです」
「そうそう。そんなこと言っていましたよね」
 店長が笑いながら、火をつけたライターをぼくの咥えている煙草の近くまで持ってきてくれる。ぼくは「すみません」と言って、火に煙草の先をあてる。吸ってもなかなか火がつかない。いったん火から煙草を遠ざける。
「アメスピって火がつきにくいんですよね。燃焼剤はいってないんですよ。無添加なので」
「そうなんですね。知らなかったです」
「そうなんですよ。無添加だからこんなの実質お茶と一緒だよ、なんて冗談をよく言っていました」
「あ、自分でつけるんで大丈夫ですよ。先につけてください」
 店長が先に煙草に火をつけて、そのあとぼくもライターを借りて火をつける。
「次の仕事はどうするんですか」
「まだ考えていないですね」
「種田さんならどこでも仕事できますよ」
「そうですかね」
「そうですよ。それにしても種田さんは変わっていますよね。芸術家とか作家の方とかってもう少し社会性が欠如しているイメージがあるというか。ちゃんと社会性があって、それでも何かを創れるってすごいと思います」
「そうなんですかね。ぼくは欠如したいんですけどね」
「そうなんですか?私は社会性もあってなにかを創れる方がすごい気がしちゃうんですけどね」
 店長は煙草を深く吸って、上を向いて吐き出す。ぼくにとっては何かを創りだすということは欠如しているということだった。大事な何かが欠けていることが何よりも重要で、欠けているというところが自分には欠けていた。
「ありがとうございます」
「私も大学生のときにサークルで映画つくってたんですけど、全然うまいことできないんですよね。だからチームリーダーから指示をもらって、それに従っているだけでした。結局なにがなんだかわからないまましばらく続けていたんですけど、気がついたら行かなくなっていました」
「天性のものってありますよね。何かを創る人特有のなにか。ぼくはよくわからないんですけど、それがないんですよね。だからひたすらやってみるしかなくて。でもこの真面目さはきっとその天性のものから一番離れているんです。そんな気がするんです」
 話しすぎてしまった。店長は黙っている。こんなことを話しても困らせるだけなのはわかっていた。最後だからと思って油断してしまったのか、ぼくの口はいつもよりも緩くなっていた。
「なんとなくわかります。わかるっていうのも軽薄かもしれないですけど」
 店長が続ける。
「そうだ。実は私は煙草の煙を肺にいれていないんですよ。ふかしているだけなんです。でもなんとなくふかしているって格好悪いじゃないですか。だから練習したんですよ。ふかしじゃなく見せるのって難しいんですよ。吸っている人からしたらわかるんですよね。練習しても練習してもなかなかできなくて。最後は技術じゃなくて、誤魔化しです。上をむいて煙を吐くんです。そうすると、ふかしているかどうかわかりにくいんですよ。それに対面している相手に煙がいかないようにしているという気遣いにも見える。そういう誤魔化しです。そんな感じじゃないですかね」
 店長が煙草を口元へと持っていき、深く吸い込む。火種は赤く光らない。火が消えてしまったようだ。
「アメスピってこれがあるんですよ。燃焼剤がはいっていないから、少し吸わない時間があると火が消えちゃうんですよね」
「そういうことなんですね」
 そういって、もういちど火をつける。
「なんか、一度脱いだパンツを履くみたいな気分です」
「なんですか、それ」
 店長が笑い、つづいてぼくも笑った。
いつもの倍ちかい時間、煙草を吸っていた。2本目は吸わないで「お疲れさまでした」とお互いに言って、わかれる。店長とはもう一度会うことになる。けれど、ぼくにはこれが最後であるかのように感じられた。
帰り道はいつもの坂道を通る。この時間ならあの女子高校生はいない。前を歩く男性が煙草を吸っている。煙がぼくのほうに流れてきてぼくの鼻を刺激する。あの女子高校生の声の代わりに、歩き煙草の煙がぼくの鼻から体内にはいって、肺に入って、全身にいきわたる。この坂道ではじめての経験だった。坂道を下ると、その男性は左に曲がった。ぼくはそのまままっすぐ進み、家に帰った。
「ただいまー」
「おかえりー」
 二人の声が重なる。二人とも共有スペースにいるらしい。
「あれ、なんか機嫌いい?いいことでもあったの」
 どこから読み取ったのか、佐藤くんがぼくに尋ねる。
「そうかな。今日でバイト辞めてきたんだよね。それで機嫌がいいのかも」
「へー、そうなんだ。次の仕事はどうすんの」
「まだ考えていない。ただ多少貯金はあるし、まだ有休消化はあるから、一カ月ちょっとは休もうかな」
「ふーん」
 電子ケトルに水を入れてお湯を沸かす。二人はすでにお茶を飲んでいるから、自分の分だけいい。シューと音がなり、電子ケトルが
もうすぐお湯ができるよと知らせてくれる。カチャンという音で、電源ボタンが押し戻されたことがわかる。お湯ができた。ぼくは電子ケトルをもって、コーヒーをつくる。べつにこだわりなんてない。一番安く買えたインスタントコーヒーだ。一口のんだところで、三村くんが話をはじめる。
「そうそう。話している途中だったんだけどさ、佐藤くんにも伝えたよ。新しいメンバー加えるってこと」
「ああ、それね」
「おもしろそうじゃん。どんなひとでもいいの?」
「いいよ。でも、創作をする夢があるっていうのだけは守ってね」
「もちろん。俺も探してみるわ」
 佐藤くんは人脈が広い。彼にかかれば一カ月くらいで新たなメンバーを見つけてきそうな気がした。
「たのしみだね」
 ぼくがそう言うと、二人とも楽しそうに新たなメンバーの話をつづけた。どっちでもいい。新たな人が来ても来なくても。二人の邪魔をしたいわけじゃないから何も言わない。ただ、興味がないぼくはコーヒーを半分のんだところで、カップを持ち上げて自室に戻った。

 有休を使いきって、書類も書き終えた。ぼくは人生でもっとも長く、深い眠りについた。ざわざわと音が聞こえる。少しずつ、ほんのりと意識がはっきりしてくる。
「お前、それはやばいって!」
大きな声と笑い声で、ぼくの脳は働きはじめた。まだすこしぼやけている頭に声が響く。佐藤くんと三村くんとは別の声が聞こえてくる。客人が来ているのかと思い、30分くらいスマートフォンを触っていたが、話は途切れることなく続いているし、どうもただの客人であるようには思えなかったので、部屋から出ることにした。

「お、起きたか。こちら新たに我々の仲間になるコバ君です!」
紹介された人物に目線を移す。そこには高校生のように肌にハリのある男がいた。彼の体型は平均的な男性像から少しだけ肉付きを良くしたような感じで、つぶらな瞳とその肌の綺麗さからかなり年齢が低いように見えた。
「どうもよろしく」
平然と挨拶をしてみたものの、こんなにも早く新たなルームメイトが決まっていることに驚いたし、20歳かそこらの若者を連れてきたことにも驚いていた。
「どうも、これからよろしくおねがいします!」
彼は屈託のない笑顔と、ハキハキとした声でぼくに挨拶をした。
「こいつ、やばいよ。なかなか面白いやつなんだって」
「へー、聞かせてよ」
彼に興味はなかったけれど、佐藤くんの言い方は、ぼくにこういった返答を強制した。
「まず、彼はここのルームメイトになるための条件を満たしている!なっ!」
佐藤くんが彼の肩に手を置く。
「はい。ぼくは漫画家を目指しています」
「しかも、もうデビューする寸前だってさ!少年誌の賞を獲って、いま担当編集と最後の調整中なんだって」
「まじでか、すごいね」
「いえ、実際に連載できてもすぐ打ち切りになってしまう世界ですから、連載継続ができてやっと漫画家になれたという感じですね。ぼくはまだまだです」
「なるほどね。しっかりしているんだね」
「そんなことないです」
彼はしっかりとしているし、謙虚だった。
「ごめん、寝起きだから顔洗ったりしちゃうね」
「あ、急にお邪魔してしまってすみません」
「気にしないで、これからはルームメイトになるんだし」
「はい。ありがとうごさいます!」
彼はそういって頭を下げていた。
ぼくは彼の言葉を聞いたあと、洗面所に向かった。普段は朝起きてまず顔を洗うことはしないのだけれど、どうも居心地が悪かった。ぼくは顔を洗って軽く歯を磨いたあと、みんなに散歩してくるとだけ伝えて外に出た。外に出て、扉を閉める。扉の向こうから微かに笑い声が聞こえた。
スマートフォンで時間を確認してみると、8時15分だった。気持ち的には追いやられて外に出たのだけれど、たまたまいつものルーティンに戻ってきていた。
8時22分。いつもの坂道でぼくの目は彼女を探していた。いつもの場所に彼女が歩いていない。ぼくはキョロキョロと周りを見てみるが見当たらない。そもそも彼女が近くにいたら声が聞こえてくるはずだ。ぼくは彼女がいなくても別に散歩はできるのだから気にする必要はないと思い、いつもの道を歩き続けた。店には入らない。店に入らないでそのまま同じ道を通って帰る。
毎日散歩をつづけた。8時15分に家を出て、いつもの道を歩く。やっぱり彼女はいない。
ぼくにとって彼女は散歩のときの出会いが唯一無二であり、もしもなんて存在しない。ぼくにとって彼女が特別だとしても、ぼくは彼女のことを何も知らない。顔だってマスクより上の顔しか知らない。ぼくはきっと彼女の鼻よりも上の顔や体型なんかも忘れてしまう。それでも彼女のキンキンと響く声が心地よかったことだけは忘れないような気がした。
 店につく。もう月をまたいでいる。店長はここにはいない。店の中に入ると、「いらっしゃいませー」といくつかの声が重なる。店内を見渡す。商品陳列をしているのはぼくの知っている大学生で、レジに立っているのはぼくの知らない若者だった。
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