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不在がただそこにある

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「生きるのはつらいけど、死ぬのは怖い。たばこを吸うのはゆるやかに死んでいきたいからだ」
 
 そう言った男の声はただぼくの耳を振動で揺らしただけだった。
 家に帰ってから何度かその言葉が頭をよぎり、そのたびにぼくの歯ブラシを動かす手が止まった。なんだかすごくいい言葉に思えて、でもそのあとに男から出たその言葉が宙に浮いてそのまま煙と一緒に消えていったように感じた。ぼくはいったん歯を磨くのをやめて、かばんにしまったままのたばこを取り出した。口から出ていくほそいほそい煙を見ながら、本当にたばこっていうのはくだらないなと思った。ぼくの口からでていった煙にはなんの言葉も含まれていない。ただ煙は煙の役目を全うして、ぼくの目に映らなくなる。たばこをおいしいなんて思ったことはない。「なんで吸ってるの?」なんて聞かれたら、じゃあ君はなんで生きてるの?って聞き返しちゃうだろう。それからぼくの質問にたいしてどうやって答えるか悩んでいる相手に、
「これから君が答えることがぼくのたばこを吸う理由だよ」
 なんて返してあげればそれで充分なんじゃないかな。なんて考えると、やっぱり喫煙所でゆるやかな死のためにたばこを吸っているらしいあの男の言葉は、少なくともそのときに吸っていたたばこの味をいっそうまずくしそうだな、なんて思った。そんなことを考えていると、ぼくの口に入るたばこの煙もなんだか少しずつまずくなってきて、まだ半分くらい残っているたばこの火を消して、もう一度歯を磨き始めた。

 新卒で今の仕事についてから二年くらいはちゃんと楽しめていた気がする。余裕がうまれてきて、どうも仕事以外のことを考える時間がたくさんできてしまった。きっとそれは幸せなことのはずなのに、ぼくにはなんだか息苦しい。就職するまでは趣味だった読書もゲームも今となってはこんなことしても何にもならないなんてちっぽけな考えが頭の中を埋め尽くすようになっていた。だからといって仕事がたのしいわけでもない。仕事をしていても、趣味に没頭しようとしても、なにもしていない気持ちになった。
「どうしてこんな風になっちゃたんだろうな」
 そういったぼくに、
「三十歳ってそんなもんじゃない?」
 と言ったのは、ぼくのむかいでスマホを触りながら口を動かしている五歳下の友人だ。彼と知り合ったのはぼくが塾の先生をしているときで、「受験がおわったら連絡先を教えてください」と言われたのがきっかけでいまも付き合いがある。相手が女子高生だったらきっと断っていたと思うけど、男ならなんの問題にもならないかと思ってかまわないよと答えた。
「おまえに三十歳の悲哀とかわかんの?」
「そりゃわかるよ。いまのあんたのことだ」
「そうやって一般化されるとなんだかなー」
「一般化されるといやなのは自分が特別だと思ってるからで、自己評価が低い人は逆になるんだよね」
「逆?」
「そう。逆。一般化されて安心すんの。俺とかなんもできない人間だから悩みが一般化すると安心する」
「それはおまえがそういう人間なだけで、自己評価が低い人に当てはめても大丈夫なのかな」
「いいってそういうの。べつに論文じゃないの。証明とか、論理なんてとっぱらうの。あんたは生きることをなんだか辻褄を合わせる時間かなんかだと勘違いしてるよ。せっかく俺なんかよりずっと頭いいのに、結果的に間違っちゃってるの。生きるってのは、自分が見る世界を偏見で埋め尽くす作業のことなんだよ」
 ぼくはまだ残っていたビールに手を伸ばした。少しだけ口に含んでじっくりと舌で味わいながら、彼が言ったことについて考えてみた。
「でもやっぱりよくわからないな」
「いいんだよ、わからなくて。適当に言ってんだから」
「なんだよ、それ。結構真面目に悩んでんのにさー」
 ぼくがそう言いながら、こんどはビールを喉に流し込む。
「こうやって何歳も年下のたいして人生経験もないやつの言葉にちゃんと耳を傾けて、まじめに考えちゃうところとかさ。あんたのいいところだよね。いいじゃんそういう感じで」
「そういう感じ?」
「やめてやめて。雰囲気で受け取ってよ」
「むずかしいんだね、人生」
「あんたのほうが知ってるでしょうよ。人生」
「なーんもわかんない」
 ぼくの言葉に彼ははははと声をだして笑った。
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