王太子殿下は小説みたいな恋がしたい

紅花うさぎ

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7.名前を呼んで

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「ふぅっ」

 この棚は綺麗になったわね。
 広い書庫の中をくるりと見回し、凝り固まった背中をほぐすように大きく伸びをした。

 書庫の本を読んでもいいかとウィルバートに尋ねたのは昨夜の事だ。もちろんいいよと即答してくれたので朝から書庫へ直行したのだが……書庫は思っていたより汚かった!!

 前に書庫に入った時には、こんなに埃っぽいなんて全く気がつかなかったわ。

 見たことのない本、多くの棚が並ぶ広い書庫に驚いて細かい所まで見えてなかったけれど、本棚には隙間も多いし白い埃が沢山積もっている。

 元々この書庫には貴重な本があり、管理者や研究者が常駐していたらしい。けれど数年前、ウィルバートの通う王立学園の敷地内に王立図書館なるものができた際、この書庫から貴重な蔵書が移されたそうだ。その時に管理者も研究者も移動したので、現在は無人でこの様な有様なのだ。

 貴重な本がないからって、こんなにたくさんの本を放置するなんて許せない。これじゃ本がダメになっちゃうじゃない。

 できるならアナベル達にも手伝ってもらって一気に綺麗にしてしまいたい所だけど、残念な事にアナベルは書庫に入れなかった。

 元々国宝級の蔵書もあったことから、書庫に入れるのは王族を始めとする、ある一定以上の身分の者だけらしい。それは貴重な本がなくなった今でも変わっていないようだ。

 その身分がどのくらいなのかは分からないけれど、私付きの侍女であるアナベルは立ち入りを許されなかった。

 なら身分のない私はいいのか? という感じだけれど、異世界からの客人は伝説的存在なので、身分を超越してるとかなんとかで、なぜか許されてしまったのだ。

 ってことで、自由に本を読ませてもらうお礼として、私一人でこの書庫を勝手に掃除してみることにした。

 この世界に飛ばされて早10日、意外な程充実した毎日を過ごしている。可愛らしい服を着て、美味しいものを食べて、ふかふかのベッドで寝る。ここは本当に天国なんじゃないかしら。

 まぁ問題もあるんだけど……

「おもしろそうな本は見つかったかい?」

 声がした方に振り向くと、ウィルバートが書庫へ入ってきた所だった。ウィルバートの優雅な笑みが私の方へ近づくに連れ、みるみる曇っていく。

「アリス……その手に持っているのは?」

 私の手に握られた雑巾を見たウィルバートが眉間に皺をよせた。

「掃除をしていたのかい!?」

「はい。埃がたまっていたので」

 そう答えた途端、ウィルバートがはぁっと大きくため息をついた。

 な、何かまずかったかしら? 
 勝手に掃除したのが嫌味っぽかったとか?

「アリス!!」

「は、はい」

 雑巾を持ったままの私の手を、ウィルバートがガシッと掴んだ。ウィルバートのあまりの勢いに、理由も分からず「ごめんなさいっ」という言葉だけが口から出てきそうになる。

「ごめんよ。愛する君に雑巾なんて握らせるなんて……わたしはなんてひどい男なんだ」

 ん? 
 言っている意味が分からず、思考が停止してしまった。

「この書庫にはよく来るからね、棚に埃がたまっていることにも気づいていたんだよ。なのにわたしは何も策を講じず、結果として君に掃除をさせてしまった。これじゃあ恋人失格じゃないか」

 いやあの……ちょっと大袈裟すぎじゃないですかね?

 本気で落ち込んだ様子のウィルバートには悪いけど、これはもう苦笑いするしかない。

「そんなに気にしないでください。雑巾で掃除するなんて大したことないですから」

「気にするよ。私の愛するアリスの手が荒れたりしたら大変じゃないか」

 ウィルバートが慈しむような瞳で私を見つめながら、雑巾を持ったままの私の手の甲を優しく撫でた。その瞬間ゾクゾクっとした快感が体をかけぬける。

 そう、これがここでの暮らしの唯一の問題点。ウィルバートの私に対する愛情表現が過剰すぎるのだ。

 毎日のように可愛いだの、愛するだの……今までに言われた事のない甘い言葉が次々に贈られてくる。

 この愛情表現の何より困っちゃう所は、私がそれを満更でもないと感じてしまっていることかもしれない。

 だってウィルバートってば、すっごくかっこいいんだもん。いかにも王子様って感じがたまらなくて悶えてしまう。大好きな恋愛小説の中にだけ登場するようなキラキラ王子に口説かれて、流されない方が無理ってものよ。

 それでもさすがに身の程は知っている。ウィルバートみたいな素敵な人が、私なんかの事を本気で好きになるわけはない。その思いがウィルバートの甘い言葉に流されてしまいそうな私の理性を押し留めていた。

 そうよ。今は物珍しさから私の事を好きだと思っているだけで、いつかウィルバートは私の事なんて見向きもしなくなるだろう。だから私は本気でウィルバートを好きになったりはしないわ。

 ただ私の事を好きだと言ってくれている今だけは、この最高の男性の彼女役を楽しませてもらっちゃおう。

「書庫の掃除については早急に対処しておくよ。それより、もし良かったら今から一緒にお茶でもどうかな?」

「はい、喜んで」
 ウィルバートの申し出に笑顔で答えた。

 ここへ来てからウィルバートとは毎日のように私の部屋で一緒にティータイムをしている。素敵な男性を眺めながら美味しいスイーツを食べるのは最高の贅沢だ。

「今日は風が穏やかで気持ちのいい日だからね。上のテラスに席を用意したよ」
 そう言ってウィルバートが人差し指で上を差した。

「テラスでお茶なんて素敵ですね」
「きっと気にいってくれると思うよ」

 ウィルバート様は背が高いなぁ……
 斜め前を歩くウィルバートは、姿勢が正しくて後ろ姿すら美しい。

 凛々しい後ろ姿に惚れ惚れしていると、ウィルバートが急に足を止めた。

「せっかくだから、少し遠回りして行こう」

「遠回りですか?」

「わたしのアリスを皆に見せびらかしたいからね」

 そう言ってウィルバートがスッと腕を動かした。

 こ、このポーズはもしや……腕を組めってことですか!?
 ウィルバートの、微妙に開かれた腕と体の隙間を見ながら固まってしまう。

 やっぱりあの腕の感じからして、あそこに手をかけるのが自然よね?

 でも待って、腕を組んで歩くなんてのはラブラブカップルのすることよね? 私達はカップルはカップルでもお試しカップルだから、腕を組めって意味じゃなくて、ただ腰に手を当てるポーズをしてるだけ?

 どっち? どっちなの? 

 手を出しかけて止まってしまった私を見てウィルバートはくすりっと笑った。そして私の手をゆっくり持ち上げ、その手を自分の腕に絡ませた。

「さぁ行こっか」
 にっこりと微笑まれて、体温が急上昇するのを感じた。

 ウィルバートと腕を組んで王宮の長い長い廊下をゆっくりと歩いて行く。
 すれ違うメイドや従者、騎士達がウィルバートに道をあけ、頭をさげる。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
 歩みがぎこちない私を安心させるように、ウィルバートが優しい声を出した。

「皆、アリスがどんな子か知りたがって見ているんだよ。もし皆の視線が気になるようなら、アリスはわたしだけ見つめていればいい。そうすれば緊張しないだろう」

 ウィルバートは、私の歩みがぎこちない理由が皆に見られているからだと思ってるみたいだけど、違うのよ。

 私がこんなにも緊張しているのは、ウィルバートと腕を組んでいるからよ。こんなに密着してるからドキドキして足がうまく動かないのに、これでウィルバートを見つめたりなんかしたら、酸欠で即倒れちゃうわ。

 正直な所、皆が私を見ているなんてこれっぽっちも気づいていなかった。
 そう言えばアナベルが言ってたっけ。ウィルバートに求婚されたっていうので、私の事を見たい使用人がいっぱいいるって。

 なるほど、だから遠回りしてるのね。
 ただでさえ迷ってしまいそうなほど広い王宮内をどうして遠回りするのかと思ってたけど、皆に私の顔を見せるためだったとは。

 皆が見ていると知ってしまったら、もう普通には歩けない。頭が真っ白で、自分が今どういう表情をしているのかも分からない。

 ぎこちなく歩き続け、ウィルバートに連れて来られたのは王宮の4階に位置する広々としたテラスだった。

「ステキ……」

 開放感に思わず声が漏れた。
 手すりまで足をすすめ、ほぅっと息をつく。顔にあたる風が涼しくて気持ちがいい。

 あー、秋の香りだ。
 落ち葉のつもる山道を歩く時に嗅いだことのあるような、どことなく湿り気を帯びた匂いがもうすぐ冬が来ることを暗示している。

「綺麗ですね」
 テラスから見える庭園では今コスモスが満開のようだ。

「うん、綺麗だね。でも……」
 ウィルバートが首を傾けながら私を見た。

「アリスの方がもっと綺麗だよ」

 うっ。ウィルバート様ってばまたそんな事……顔がかぁっと熱く火照る。

「あ、ありがとうございます」
 嬉しさと恥ずかしさで、そう答えるのが精一杯だった。

「アリスは本当に可愛いね」
 ウィルバート様ってば、絶対私の反応を見て楽しんでるわよね?

 多少からかわれているような気もするけれど、秋の空と同じくらい澄んだウィルバートの瞳には勝てそうもない。優しい眼差しに見つめられたら何も言えなくなってしまう。

 ドキドキとうるさいくらいに音を立てている心臓を落ちつかせるようにゆっくりと息を吐き出した。

 この甘い雰囲気は心臓に悪すぎる。早急に話題を変えなくては。

「ウィルバート様は……」
 口を開いた私をウィルバートが遮った。

「ねぇアリス、私達はもう恋人同士なんだし、ウィルと呼んでくれないかい?」

 恋人同士って言っても、お試しで付き合ってるだけの私が王太子であるウィルバートを呼び捨てにしちゃっていいの!?

 迷ったけれど、ウィルバートの期待するような瞳には逆らえない。

「ウィ、ウィル様……」

「だーめ。ウィル、だよ」

 そんなこと言ったって……
 名前くらいって思われるかもしれないけれど、クラスメイトの男子の名前だって呼び捨てにしたことのない私にはハードルが高すぎる。

「呼んでくれないのかい?」
 ウィルバートの表情が悲しそうに曇った。

 そんな顔は卑怯だわ。
 叱られた子犬のようにしょぼんとした顔に胸が痛んだ。

「……ウィル……」

 掠れる声で小さく囁いた私に、よくできましたっと、ウィルバートがポンポンと頭を軽く叩いた。胸がトクンと一段と大きな音を立てる。

 名前を呼んだだけでこんなに喜ばれるなんて……
 ウィルバートの満面の笑みを見ながら、苦しいくらいの胸の鼓動を深呼吸で落ちつかせた。
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