太陽と月の禁断

東 万里央(あずま まりお)

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第1部

29.暗闇と微睡(2)

 薔薇の間に閉じ込められまた一ヶ月が過ぎた。陽が帰るまであと一五分のある夏の日の午後、わたしはある事実に気が付き、愕然と絨毯にへたり込んでいた。

――生理が、来ない。もう二週間も遅れている。

「ひっ……」

 自分で自分を抱き締めがたがたと震え始める。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 わたしはふらりと立ち上がり頭を抱えた。

「あ……あ……」

 目から涙が溢れ出てくる。

 犯された果ての望まぬ妊娠、血を分けた弟との子ども――それらの事実はわたしが受け止めるにはあまりに重く、わたしはただ誰か助けてと泣き叫び続けた。

「助けて、助けて、助けてっ……!! お父さんっっ……!! お母さんっっ……!! 一樹いつき君っっ……!!」

 この時わたしは狂いかけていたのだろう。一刻も早く陽に抱かれ続けたこの部屋から逃げ出したかった。初めに目に入った椅子に向かいふらふら歩いて行く。

「そうよ。逃げ、なくちゃ」

 いくらなんでも無茶だとか、怪我をしたらどうするのかとか、そんな考えは思い浮かばなかった。椅子の背もたれを掴み窓の一つに近付く。

 逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。

 わたしは自分ですら信じられない力を出し、椅子を振り上げ窓ガラスに叩き付けた。ピシリと硝子が割れ鋭くも鈍い音が辺りに響く。

 窓は強化テープに遮られ一度では壊れなかった。まだひびが入った程度でしかない。わたしは涙を流しながらまた椅子を叩き付けた。何度も、何度も叩き付けた。破片がいくつか飛び散り頬が切れたけれども、痛みなんて感じなかった。

 五度目の衝撃でテープがわたしの力に負け、窓が耳障りな音を立て砕け散る。

 ここから、逃げなくちゃ。外に出なくちゃ。

 わたしは身を乗り出し辛うじて開いた子どもが一人通れるほどの穴に身を潜らせた。

「……っ」

 ざくりと足に、脇腹に、腕に窓に残ったガラス片が刺さり、寝間着を血に染める。わたしはそれでも薔薇の間から這い出し庭園へと転がり落ちた。窓と地面とは一メートルの高低差がある。わたしは腹払いに叩き付けられ、ここでようやく痛いと泣いた。

「うっ……」

 ぽろぽろ零れる涙をそのままに、四つん這いで這い進み、途中立ち上がり必死に庭園の出口へと走る。四歳のころから数えきれないほど陽と一緒に笑い、遊び、駆け回ったその庭園の構造をわたしはよく知っていた。ケヤキの傍の茂みを抜け、蔓薔薇の巻き付く東屋を越え、蔦の絡み付くアーチを抜ければ、そこに出口があるはずだった。

「……っ」

 わたしは息を呑み立ち止る。出口は、確かに記憶のとおりにあった。けれどもそこには新たに鉄格子が張り巡らされ、鍵がなければ開けられなくなっていた。わたしは、二重の牢獄に閉じ込められていたのだ。どこか遠くでガラスの割れる音が聞こえる。それが心も砕け散った音だとは分からなかった。

「だ……して」

 わたしは格子を両手で掴み、耳をつんざく悲鳴を上げる。

「出して、出して、出してぇぇぇーーーっっっ!!! 誰か、出して。出してぇぇぇーーーっっっ!!!」

「お嬢様!? こんなところにっ……」

 いつの間に探しに来ていたのか、高野さんがわたしを見つけ、後ろから駆け寄ってくる。血まみれのわたしに驚いたのか、一瞬息を呑み慌て始めた。

「なぜっ、こんなっ……」

 それでも手を伸ばしわたしの肩をぐいと掴む。

「お戻りください。先ほど陽様も探しに、」

 わたしの肩が、全身が、次の瞬間大きくびくりと震えた。

 陽と同じ骨ばった大人の男の人の手……わたしの手足を押さえつけた力……伸し掛かる重みと肌に掛かる熱い息……そして体の奥へと入り込む固い肉……。

「ひっ……」

 わたしは高野さんの手を振り解いた。その場にしゃがみ込みがたがた震える。

「お嬢様!? いったいどうし、」
「いやあああぁぁぁっっっーーー!!!」

 わたしはその場で悲鳴を上げた。

「こ、来ないで、触らないでえっ!」
「も、申し訳ございません。どうか落ち着いて」
「……っ」

 わたしは不意に貧血と吐き気をもよおしその場に倒れた。目の前が暗くなり体温がみるみる下がるのが分かる。

 ああ、このまま死んでしまえたらいいのに。きっとパパも、ママも、お父さんも、お母さんも迎えに来てくれる……。

「お嬢様!!」
「――瑠奈!!」

 高野さんの声に低く艶やかな声が重なる。陽は血相を変えて駆け寄り、わたしを腕に抱き取り頬を叩いた。

「瑠奈、瑠奈、しっかりしろ!!」

 わたしはうっすらと目を開けた。かつて誰よりも近く愛しく、今は誰よりも遠く恐ろしいわたしの半身。こんな時にも関わらず、やっぱりきれいだなんて、そう感じるのはなぜだろうか。

「あ、きら……赤ちゃんが」

 赤ちゃんと言う言葉に陽の目が見開かれた。限界に精神の糸がふつりと途切れる。

「瑠奈っ……!!」

 わたしはそのまま意識をゆっくりと手放した。
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