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第2部
03.炎天と邂逅(3)
四十川家の菩提寺は神戸の郊外にあり、中心街までは歩きで一五分、それからバスで三〇分かかる。おまけに現在祖母と暮らした実家は処分し、ホテルに宿泊先を求めたため、中心街から更にタクシーで一〇分時間がかかった。
真夏の日中ではこの一五分の徒歩が殊更きつかった。容赦ない陽の光が髪とTシャツから伸びた腕を焦がす。ジーンズも蒸し暑くてたまらず、早くホテルに戻りシャワーを浴びたかった。
「暑いな……」
額と顎から流れる汗を拭う。このままでは熱中症になってしまう。タクシーを拾えればいいが、あいにく街外れのこの通りでは見かけない。
僕はうんざりしながらも道を歩き、やがて広々としたスペースに辿り着いた。こんなところに何の施設だと見上げてみると、市立総合病院の駐車場のようだ。敷地の道路を挟み巨大な建物がある。僕はちょうどいいとほっと息を吐いた。病院なら大抵は出口にタクシーがある。ロビーにもエアコンと自販機くらいはあるだろう。患者でも急病と言うわけでもないが、その程度の利用なら許されるだろうか。
病院本棟の自動ドアを潜り、淡いグリーンのロビーを見渡す。窓口の前に何台もの長椅子が並び、会計や清算を待つ患者や付添が腰かけている。それほど込んでいると言うわけではなく、僕が付け加わる程度の余裕はあるように見えた。片隅には自販機も設置されている。
僕は一番端の長椅子に近付き、汗を拭きつつ腰を下ろした。ちょうど頭上にエアコンがあるらしく、ひんやりとした空気が心地良い。たった今隣に座った女の子も同じなのか、ふうと息を吸い寛ぎ始める。さらさらとした肩までの栗色の髪が、その子の横顔に微妙な陰影を落としていた。
――栗色の、髪。
心臓が大きく鼓動を打った。
見間違えるはずもない。この髪は彼女のものだ。
「……っ」
僕は弾かれたようにその子を見た。隣人の突然の動作に驚いたのか、高く澄んだ声が僕の耳に届く。
「な、何?」
ああ、やっぱり間違いない。六年振りに聞くこの声だ――。
瑠奈が――二四歳の彼女が僕を見上げる。髪と同じ栗色の瞳が大きく見開かれた。唇が「どうして」と言葉を紡ぐ。
「いつき……くん?」
*
僕たちはどれだけ何も言わずに、言えずに、互いを見詰め合っていただろうか。僕はやっとの思いで「久しぶり」とだけ言った。他に何を言えばいいのかがわからなかった。瑠奈もしばらく目を瞬かせていたが、やがて「久しぶりだね」と柔らかな微笑みを見せる。一七歳の頃にはなかった笑い方だ。
「一樹君、すごく大人っぽくなったね。一瞬誰か分からなかった」
「瑠奈……君も」
とても、きれいになった。
僕は彼女から目が離せなかった。栗色の髪はやはり短くなっている。けれども瑠奈を少しも損なってはいない。昔は甘くふわふわとした、砂糖菓子でできたような女の子だった。今は優しく澄んで清らかさすら感じさせる気配を湛えている。白い肌はより滑らかにきめ細かさを増し、体は相変わらずほっそりとしながらも、線がどこか丸みを帯びていた。
――大人になったのだと感じた。
「六年ぶり? 嬉しいなぁ。元気だった?」
瑠奈は何事もなかったかのように朗らかに尋ねる。僕とのことは終わったこととして扱いたいのだと感じた。彼女は六年前あの男と歩いていくと決めている。その決意に変わりはないと言うことなのだろう。胸が痛みながらも僕も何事もなかったかのように答える。
「ああ、今東京にいるんだけど、墓参りで帰ってきたんだ。すこぶる元気だよ。君は?」
瑠奈の表情がほんの一瞬――たった一瞬だけれども確かに曇った。
「うん、わたしは元気……」
僕はわずかな間もなく尋ねる。
「今日はなぜ病院に?」
「……っ」
細い肩がびくりと震えた。
「立ち入ったことを聞いたならごめん。どこか悪いんじゃないかと思って。祖母がある日突然重病にかかったから、知り合いの体調には敏感になっているんだ」
瑠奈は首を振り僕から目をそらした。
「ちょっとしつこい風邪を引いただけ。心配してくれてありがとう」
嘘をついているのだとすぐに分かる。昔の彼女は嘘がつけない子だった。今の彼女は嘘を隠し切れない。素直な根本は変わってはいないのだろう。間違いなく瑠奈は人には言えない隠し事をしている。
「瑠奈、何があった?もし、僕が力になれるなら――」
僕が瑠奈の肩に手をかけた瞬間、第三の人物が瑠奈の名前を呼んだ。
「荘田さん!? 荘田瑠奈さん!! ああ、いた」
廊下の曲がり角から現れた看護師だった。血相を変え早く来てと手招きをしている。
「大変です。容体が突然悪化してたんです」
「う、そ……。さっきまで元気だったのに」
瑠奈の顔色が真っ青になった。ふらふらと幽鬼のように立ち上がる。彼女は看護師のもとへと行き、身も世もないといった風に、必死にその腕に取りすがった。
「大丈夫ですよね? 治りますよね!? 死にませんよね!?」
「分かりません。だから一緒に来てください」
看護師は瑠奈を励まし華奢な背に手を添えると、もと来た道を瑠奈とともに駆けて行った。取り残された僕はわけが分からず、ただ茫然と二人の消えた方角を眺めていた。
真夏の日中ではこの一五分の徒歩が殊更きつかった。容赦ない陽の光が髪とTシャツから伸びた腕を焦がす。ジーンズも蒸し暑くてたまらず、早くホテルに戻りシャワーを浴びたかった。
「暑いな……」
額と顎から流れる汗を拭う。このままでは熱中症になってしまう。タクシーを拾えればいいが、あいにく街外れのこの通りでは見かけない。
僕はうんざりしながらも道を歩き、やがて広々としたスペースに辿り着いた。こんなところに何の施設だと見上げてみると、市立総合病院の駐車場のようだ。敷地の道路を挟み巨大な建物がある。僕はちょうどいいとほっと息を吐いた。病院なら大抵は出口にタクシーがある。ロビーにもエアコンと自販機くらいはあるだろう。患者でも急病と言うわけでもないが、その程度の利用なら許されるだろうか。
病院本棟の自動ドアを潜り、淡いグリーンのロビーを見渡す。窓口の前に何台もの長椅子が並び、会計や清算を待つ患者や付添が腰かけている。それほど込んでいると言うわけではなく、僕が付け加わる程度の余裕はあるように見えた。片隅には自販機も設置されている。
僕は一番端の長椅子に近付き、汗を拭きつつ腰を下ろした。ちょうど頭上にエアコンがあるらしく、ひんやりとした空気が心地良い。たった今隣に座った女の子も同じなのか、ふうと息を吸い寛ぎ始める。さらさらとした肩までの栗色の髪が、その子の横顔に微妙な陰影を落としていた。
――栗色の、髪。
心臓が大きく鼓動を打った。
見間違えるはずもない。この髪は彼女のものだ。
「……っ」
僕は弾かれたようにその子を見た。隣人の突然の動作に驚いたのか、高く澄んだ声が僕の耳に届く。
「な、何?」
ああ、やっぱり間違いない。六年振りに聞くこの声だ――。
瑠奈が――二四歳の彼女が僕を見上げる。髪と同じ栗色の瞳が大きく見開かれた。唇が「どうして」と言葉を紡ぐ。
「いつき……くん?」
*
僕たちはどれだけ何も言わずに、言えずに、互いを見詰め合っていただろうか。僕はやっとの思いで「久しぶり」とだけ言った。他に何を言えばいいのかがわからなかった。瑠奈もしばらく目を瞬かせていたが、やがて「久しぶりだね」と柔らかな微笑みを見せる。一七歳の頃にはなかった笑い方だ。
「一樹君、すごく大人っぽくなったね。一瞬誰か分からなかった」
「瑠奈……君も」
とても、きれいになった。
僕は彼女から目が離せなかった。栗色の髪はやはり短くなっている。けれども瑠奈を少しも損なってはいない。昔は甘くふわふわとした、砂糖菓子でできたような女の子だった。今は優しく澄んで清らかさすら感じさせる気配を湛えている。白い肌はより滑らかにきめ細かさを増し、体は相変わらずほっそりとしながらも、線がどこか丸みを帯びていた。
――大人になったのだと感じた。
「六年ぶり? 嬉しいなぁ。元気だった?」
瑠奈は何事もなかったかのように朗らかに尋ねる。僕とのことは終わったこととして扱いたいのだと感じた。彼女は六年前あの男と歩いていくと決めている。その決意に変わりはないと言うことなのだろう。胸が痛みながらも僕も何事もなかったかのように答える。
「ああ、今東京にいるんだけど、墓参りで帰ってきたんだ。すこぶる元気だよ。君は?」
瑠奈の表情がほんの一瞬――たった一瞬だけれども確かに曇った。
「うん、わたしは元気……」
僕はわずかな間もなく尋ねる。
「今日はなぜ病院に?」
「……っ」
細い肩がびくりと震えた。
「立ち入ったことを聞いたならごめん。どこか悪いんじゃないかと思って。祖母がある日突然重病にかかったから、知り合いの体調には敏感になっているんだ」
瑠奈は首を振り僕から目をそらした。
「ちょっとしつこい風邪を引いただけ。心配してくれてありがとう」
嘘をついているのだとすぐに分かる。昔の彼女は嘘がつけない子だった。今の彼女は嘘を隠し切れない。素直な根本は変わってはいないのだろう。間違いなく瑠奈は人には言えない隠し事をしている。
「瑠奈、何があった?もし、僕が力になれるなら――」
僕が瑠奈の肩に手をかけた瞬間、第三の人物が瑠奈の名前を呼んだ。
「荘田さん!? 荘田瑠奈さん!! ああ、いた」
廊下の曲がり角から現れた看護師だった。血相を変え早く来てと手招きをしている。
「大変です。容体が突然悪化してたんです」
「う、そ……。さっきまで元気だったのに」
瑠奈の顔色が真っ青になった。ふらふらと幽鬼のように立ち上がる。彼女は看護師のもとへと行き、身も世もないといった風に、必死にその腕に取りすがった。
「大丈夫ですよね? 治りますよね!? 死にませんよね!?」
「分かりません。だから一緒に来てください」
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