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第2部
07.大地と樹木(1)
松本さんから渡された住所のメモを頼りに道を歩いていく。途中、顔を赤らめた中年の酔っ払いを二人ほど見かけ眉を顰めた。電柱の電灯が割れたまま放置されてもいる。
瑠奈がこんな治安のいいとは言えない町に住んでいるだなんて。
いや、と歩きながら拳を握り締める。
――当たり前だ。
瑠奈にはじゅうぶんな所得がないのだと聞いた。松本さんによればアルバイトや派遣の身分で働き、数ヵ月ごとに職を転々としているのだそうだ。瑠奈の学歴は高校を中退した状態だ。おまけに重病の子供を抱え頻繁に呼び出される状況で、雇用の条件のいい職場で働けるわけがない。松本さんが仕事の合間に家事を手伝う、差し入れをするなどしているが、とてもではないが間に合ってはいないと言う。
「……っ」
燃えるような怒りが僕の心を焼き焦がす。
あの男は――樋野陽はなぜこんな状態の瑠奈を放っておいている。まさか瑠奈に飽きて捨てたとでも言うのだろうか。それとも今更しでかした事の大きさに逃げ出したのか。
ぎり、と無意識のうちに唇を噛み締める。十七歳の瑠奈の太陽のような笑顔を思い出した。可愛く、甘く、きらきらとしたものが大好きな女の子だ。二人でいる時にはいつも僕が好きだ、その薄茶の髪が好きだと、腕や肩にじゃれついてきていた。
僕はそんな彼女をなぜ信じてやれなかったのか。心の傷や後悔なんてものに苛まれる暇があれば、すぐにでも飛んで戻り浚ってくるべきだった。そうすればこんなことにはならなかったのかもしれない。
ああ、忌々しい瑠奈の片割れの悪魔め。貴様の言うとおりだ。僕は何もかもを間違えた。信じるべきものを信じず、動くべき時に動かなかった。最も裁かれるべきなのはこの僕だ。
重い足取りのまま一軒のアパートへと辿り着く。二階建てのどこまでも安っぽい造りだった。電車の沿線にあるためなのか、西側の壁が煤けて汚れている。金属製の階段は錆びつき、築何年なのかまでは分からないが、僕の学生時代の下宿先より確実に古い。
瑠奈の部屋一○三号室だとメモにはある。だが、あいにくまだ帰宅してはいないらしい。扉をノックしても返事がなかった。僕は大きく息を吐き扉の隣の壁に背を預けた。腕時計に目を落とし時間を確認する。瑠奈は現在スーパーで期間を限定して働いていると聞いている。そのスーパーの閉店が午後九時であり帰宅までに三十分。残業も用事もないのならそろそろ姿を現すはずだった。
「けど、どうするって言うんだ?」
ぽつりと独り言が足元に零れ落ちる。僕は何がしたいのだろうと自問する。瑠奈からすれば六年前に別れたきりの、未練がましい男でしかないだろう。それも「淫乱」などと罵った男だ。
「……っ」
おのれの過去の所業に身を震わせていると、それに合わせたかのように、電車がごうっと通り抜け、アパートを小刻みに揺らした。ようやく揺れが収まり音も遠ざかっていく。やがて静けさが再び広がる頃、小さく密やかな足音とともに、華奢な人影がやってきた。廊下ですぐ僕に気が付き、驚いたように立ち尽くす。
「一樹……君。どうして、ここに?」
瑠奈はTシャツにショートパンツの軽装をしていた。肩にショルダーバッグをかけている。どれもくたびれ使い古されており、生活に余裕がないことを伺わせた。風に揺れるスカートや、女の子らしいワンピースや、可愛い服があれだけ好きだったのに。
瑠奈は困ったように首を傾げた。
「……もしかして松本先輩、大地のこと言っちゃった?」
先輩も罪悪感なんて持つことはないのにと瑠奈は俯く。
「あれは、松本先輩のせいじゃ、ないのに」
僕は壁から背を起こすと瑠奈の前に立った。
「瑠奈、君と話がしたい」
「……」
「ひとりでいるわけを聞きたい。陽君はどうしたんだ」
瑠奈は僕が納得しなければ立ち去る気がないことを察したのだろう。やがてあの柔らかな微笑みを浮かべ鍵を開けた。
「中入ってくれてもいい? この辺十時を過ぎると若い子が溜まって、通り掛けの人からお金を取ることがあって危ないの」
瑠奈がこんな治安のいいとは言えない町に住んでいるだなんて。
いや、と歩きながら拳を握り締める。
――当たり前だ。
瑠奈にはじゅうぶんな所得がないのだと聞いた。松本さんによればアルバイトや派遣の身分で働き、数ヵ月ごとに職を転々としているのだそうだ。瑠奈の学歴は高校を中退した状態だ。おまけに重病の子供を抱え頻繁に呼び出される状況で、雇用の条件のいい職場で働けるわけがない。松本さんが仕事の合間に家事を手伝う、差し入れをするなどしているが、とてもではないが間に合ってはいないと言う。
「……っ」
燃えるような怒りが僕の心を焼き焦がす。
あの男は――樋野陽はなぜこんな状態の瑠奈を放っておいている。まさか瑠奈に飽きて捨てたとでも言うのだろうか。それとも今更しでかした事の大きさに逃げ出したのか。
ぎり、と無意識のうちに唇を噛み締める。十七歳の瑠奈の太陽のような笑顔を思い出した。可愛く、甘く、きらきらとしたものが大好きな女の子だ。二人でいる時にはいつも僕が好きだ、その薄茶の髪が好きだと、腕や肩にじゃれついてきていた。
僕はそんな彼女をなぜ信じてやれなかったのか。心の傷や後悔なんてものに苛まれる暇があれば、すぐにでも飛んで戻り浚ってくるべきだった。そうすればこんなことにはならなかったのかもしれない。
ああ、忌々しい瑠奈の片割れの悪魔め。貴様の言うとおりだ。僕は何もかもを間違えた。信じるべきものを信じず、動くべき時に動かなかった。最も裁かれるべきなのはこの僕だ。
重い足取りのまま一軒のアパートへと辿り着く。二階建てのどこまでも安っぽい造りだった。電車の沿線にあるためなのか、西側の壁が煤けて汚れている。金属製の階段は錆びつき、築何年なのかまでは分からないが、僕の学生時代の下宿先より確実に古い。
瑠奈の部屋一○三号室だとメモにはある。だが、あいにくまだ帰宅してはいないらしい。扉をノックしても返事がなかった。僕は大きく息を吐き扉の隣の壁に背を預けた。腕時計に目を落とし時間を確認する。瑠奈は現在スーパーで期間を限定して働いていると聞いている。そのスーパーの閉店が午後九時であり帰宅までに三十分。残業も用事もないのならそろそろ姿を現すはずだった。
「けど、どうするって言うんだ?」
ぽつりと独り言が足元に零れ落ちる。僕は何がしたいのだろうと自問する。瑠奈からすれば六年前に別れたきりの、未練がましい男でしかないだろう。それも「淫乱」などと罵った男だ。
「……っ」
おのれの過去の所業に身を震わせていると、それに合わせたかのように、電車がごうっと通り抜け、アパートを小刻みに揺らした。ようやく揺れが収まり音も遠ざかっていく。やがて静けさが再び広がる頃、小さく密やかな足音とともに、華奢な人影がやってきた。廊下ですぐ僕に気が付き、驚いたように立ち尽くす。
「一樹……君。どうして、ここに?」
瑠奈はTシャツにショートパンツの軽装をしていた。肩にショルダーバッグをかけている。どれもくたびれ使い古されており、生活に余裕がないことを伺わせた。風に揺れるスカートや、女の子らしいワンピースや、可愛い服があれだけ好きだったのに。
瑠奈は困ったように首を傾げた。
「……もしかして松本先輩、大地のこと言っちゃった?」
先輩も罪悪感なんて持つことはないのにと瑠奈は俯く。
「あれは、松本先輩のせいじゃ、ないのに」
僕は壁から背を起こすと瑠奈の前に立った。
「瑠奈、君と話がしたい」
「……」
「ひとりでいるわけを聞きたい。陽君はどうしたんだ」
瑠奈は僕が納得しなければ立ち去る気がないことを察したのだろう。やがてあの柔らかな微笑みを浮かべ鍵を開けた。
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