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第2部
12.大地と樹木(6)
「松本先輩も田村さんもお節介……」
瑠奈は溜息を吐きながらも病棟の廊下を歩いていく。僕はその隣に並びさりげなく辺りを伺った。淡いクリーム色の壁にライトブルーの廊下――どこからか隙間から薬品のツンとした香りがする。途中車椅子に乗せられ、母親に押される子どもを見かけた。健康であれば遊びたい盛りだろう。けれども、大地君はあの子たちより更に重篤であり、まだ廊下にも出られないのだ。
「その……瑠奈」
僕は躊躇いながらも声をかけた。瑠奈が前を見たまま立ち止まる。
「前は悪かった」
「……」
「遊びじゃないってことは分かって欲しい。もう一度やり直したいと思っているんだ」
「分かって……いるよ。一樹君は遊びであんなこと、する人じゃないもの」
僕は瑠奈の過大な評価にこの六年の、特に千夏とのクズ極まりない付き合い方を思い出し、背に一筋どころではない冷や汗を流した。
「でも、ダメだよ。ごめんね」
瑠奈は力なく首を振りまた歩き出す。
「今は大地のことしか考えられないの」
「……」
僕はすぐさま瑠奈に追い付き再び隣に並んだ。二度振られたがこの辺りは想定内だ。瑠奈はまだ僕が隣に並ぶことを許してくれる。その間に僕は一番の瑠奈の味方になり、彼女の手助けをするつもりだった。
六年前の僕と今の僕にはひとつはっきりした違いがある。それはとんでもなく諦めが悪くなったと言うことだ。そして僕は僕の望みを叶えるために、多少の姑息な作戦を厭わないつもりでいる。
「そうか、分かった。でも、これだけは覚えておいて欲しい」
僕は瑠奈の頭に手を埋めた。
「ひとりで頑張らなくていい。松本さんも心配していた。だから僕に知らせたんだ」
「……」
「友達としてならいいだろう? 困ったことがあったらいつでも言ってくれ。男手も何かと必要だと思うから」
瑠奈の表情は影になり分からなかったが、涙声でありがとうと言ったのが聞こえた。
「ここが大地の部屋なの」
瑠奈は薄いグリーンの扉の前で立ち止まった。横には「しょうだ・だいち」と書かれたプレート、その下にクマのシールが張られている。
瑠奈は扉に手をかけあの柔らかな笑顔を見せた。
「大地、動物の中ではクマが一番好きなんだ。この辺りがわたしと親子なの。見た目はぜんぜん似ていないんだけどね」
ああ、そうかと僕はこの時ようやく気が付く。
――この笑顔は母親のものだったんだ。
瑠奈は笑顔を収め、廊下に目を落とした。
「一樹君、一つだけお願いがあるの。大地にはお父さんは遠いところに行ったって言ってある。それ以上は何も言うつもりは……ないの」
大地君には体をどうにか健康にして、いつか平凡な幸せを掴んで欲しい。それが瑠奈の唯一の願いだった。
「お願いします。大地から父親については何を聞かれても知らないって言ってください。お願いします……」
瑠奈は僕に向かい深々と頭を下げた。長い栗色の髪が垂れ、滑らかな項が露わになる。華奢な肩が小刻みに震えていた。僕は小さく、けれども確かに頷き瑠奈の肩に手を置く。
「分かった。約束する。だから、頼むから、顔を上げてくれ」
心の中にまたあの男への憎しみが募るのを感じた。これまでの二十五年で復讐など僕には無縁の言葉だった。けれども、今は瑠奈が苦しんだ分だけ苦しめてやりたいと思う。
この子は特別強いわけでもないごく普通の女の子だ。いや、「だった」。あの男もそれくらいは分かっていただろう。なのに、どうしてこんな一生を押し付けたのか。
「一樹君、ありがとう」
瑠奈は頭を上げ泣き笑いを浮かべた。
「大地もきっと一樹君が来てくれて喜ぶと思うの。大人の男の人はテレビと先生しか知らないから」
瑠奈は溜息を吐きながらも病棟の廊下を歩いていく。僕はその隣に並びさりげなく辺りを伺った。淡いクリーム色の壁にライトブルーの廊下――どこからか隙間から薬品のツンとした香りがする。途中車椅子に乗せられ、母親に押される子どもを見かけた。健康であれば遊びたい盛りだろう。けれども、大地君はあの子たちより更に重篤であり、まだ廊下にも出られないのだ。
「その……瑠奈」
僕は躊躇いながらも声をかけた。瑠奈が前を見たまま立ち止まる。
「前は悪かった」
「……」
「遊びじゃないってことは分かって欲しい。もう一度やり直したいと思っているんだ」
「分かって……いるよ。一樹君は遊びであんなこと、する人じゃないもの」
僕は瑠奈の過大な評価にこの六年の、特に千夏とのクズ極まりない付き合い方を思い出し、背に一筋どころではない冷や汗を流した。
「でも、ダメだよ。ごめんね」
瑠奈は力なく首を振りまた歩き出す。
「今は大地のことしか考えられないの」
「……」
僕はすぐさま瑠奈に追い付き再び隣に並んだ。二度振られたがこの辺りは想定内だ。瑠奈はまだ僕が隣に並ぶことを許してくれる。その間に僕は一番の瑠奈の味方になり、彼女の手助けをするつもりだった。
六年前の僕と今の僕にはひとつはっきりした違いがある。それはとんでもなく諦めが悪くなったと言うことだ。そして僕は僕の望みを叶えるために、多少の姑息な作戦を厭わないつもりでいる。
「そうか、分かった。でも、これだけは覚えておいて欲しい」
僕は瑠奈の頭に手を埋めた。
「ひとりで頑張らなくていい。松本さんも心配していた。だから僕に知らせたんだ」
「……」
「友達としてならいいだろう? 困ったことがあったらいつでも言ってくれ。男手も何かと必要だと思うから」
瑠奈の表情は影になり分からなかったが、涙声でありがとうと言ったのが聞こえた。
「ここが大地の部屋なの」
瑠奈は薄いグリーンの扉の前で立ち止まった。横には「しょうだ・だいち」と書かれたプレート、その下にクマのシールが張られている。
瑠奈は扉に手をかけあの柔らかな笑顔を見せた。
「大地、動物の中ではクマが一番好きなんだ。この辺りがわたしと親子なの。見た目はぜんぜん似ていないんだけどね」
ああ、そうかと僕はこの時ようやく気が付く。
――この笑顔は母親のものだったんだ。
瑠奈は笑顔を収め、廊下に目を落とした。
「一樹君、一つだけお願いがあるの。大地にはお父さんは遠いところに行ったって言ってある。それ以上は何も言うつもりは……ないの」
大地君には体をどうにか健康にして、いつか平凡な幸せを掴んで欲しい。それが瑠奈の唯一の願いだった。
「お願いします。大地から父親については何を聞かれても知らないって言ってください。お願いします……」
瑠奈は僕に向かい深々と頭を下げた。長い栗色の髪が垂れ、滑らかな項が露わになる。華奢な肩が小刻みに震えていた。僕は小さく、けれども確かに頷き瑠奈の肩に手を置く。
「分かった。約束する。だから、頼むから、顔を上げてくれ」
心の中にまたあの男への憎しみが募るのを感じた。これまでの二十五年で復讐など僕には無縁の言葉だった。けれども、今は瑠奈が苦しんだ分だけ苦しめてやりたいと思う。
この子は特別強いわけでもないごく普通の女の子だ。いや、「だった」。あの男もそれくらいは分かっていただろう。なのに、どうしてこんな一生を押し付けたのか。
「一樹君、ありがとう」
瑠奈は頭を上げ泣き笑いを浮かべた。
「大地もきっと一樹君が来てくれて喜ぶと思うの。大人の男の人はテレビと先生しか知らないから」
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