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第2部
17.黄昏と枯葉(3)
神戸から東京に戻って二週間、僕は医師から聞いたアメリカでのこの病気の第一人者や専門医、更には医療機関に問い合せをし、すぐに治療を開始できないのかと掛け合った。結果、医師の言ったとおりに患者の順番待ちが長く、まして一切コネもない外国人と言う立場で、突然割り込むことはできないと暗に言われてしまった。
僕はそれでも医師や病院のリストを片端から洗い出し、何か取り付くきっかけはないかと目を皿にして資料を漁った。そんな中、僕はある病院の資料に意外な人物の名前を見つける。初めに目にした時には時には同姓同名か見間違いかと瞼を擦った。けれども、そうではないと知った時、取るべき道は決まったのだ。
その翌週の火曜日に僕はマークにアポイントを取り、終業と同時に即座にそのオフィスを訪ねた。
マークのオフィスは日本の本社ビルの最上階にある。マークは五年前日本での勤務が決まった際、空に一番近い、窓のある個室が欲しいと望んだのだそうだ。
『マーク、一樹です』
ドアを数度ノックすると、すぐに返事があった。
『入りたまえ』
ゆっくりドアを押し一歩足を踏み入れる。デスクの向こうの壁一面の窓から西日が差し込み、グレーのオフィスを茜色に染め上げていた。まるで血の色のようだと僕はふと思う。マークはそんな鮮やかな色を通す窓に片手をつき、紫と紅との入り混じる空を見上げていた。僕に背を向けたままいつもの口調で問いかけてくる。
『可愛いボーイ、君からプライベートでのアポイントとは珍しいね。何があったんだい?』
僕は前置きはいらないと、デスクのすぐ前に立ち、単刀直入に切り出した。
『マーク、僕の渡米の予定を早めることは難しいですか? それとあなたのコネクションをお借りしたいんです』
そう、僕は来年から何年になるのかは分からないが、アメリカに駐在をすることになっていた。マークがアメリカ本社に栄転するのに当たり、本人からぜひにとの希望と推薦を受けて、僕もついていくことになっていたのだ。いずれにせよ当分日本に戻るのは難しく、会社でのとある事情とはそれである。
マークはゆっくりと僕を振り返った。茜色を残した青い瞳に僕の顔が映る。
『突然だが理由はいったい何だい? それにコネクションとは何のことだろうね』
『あなたはアメリカのF大学病院に多額の寄付を行っているそうですね』
マークは驚いたように目を見開いた。
そう、マークは今でこそアメリカに市民権を持つが、もともとはイギリスの名門貴族出身だ。そして先祖から受け継いだ莫大な財産を、ある時にはベンチャーへの投資、ある時には施設や団体への寄付に回し転がしている。その施設のひとつがアメリカのF大学病院であり、大地君のかかった難病を研究する、医師のひとりのいる病院でもあったのだ。
昔マークの故国での身分と財産の金額を知り、なぜ働く必要があるのかと尋ねたことがあった。すると、労働はいわば趣味のようなものなのだと答えられた。天と地ほども違う世界観を聞かされ、頭が痛くなった記憶がある。けれども、今はそんな元貴族との出会いに感謝すらしていた。
マークの目に好奇心の光が瞬く。
『それはそうだが、どうしたんだい?』
僕ははいと頷きそのまま深々と頭を下げた。
『マーク・スタンリーの関係者と言うことで、子どもをひとりその病院のボブ・ルイス医師に診てもらうよう、頼んでほしいんです。マークにならそれが可能だと思うんです』
『……』
『僕に返せるものはありませんが、できることはなんでもします。どうかお願いします。瑠奈と大地君を……助けたいんです』
マークは数分間何も答えなかった。やはり断られてしまうのかと、僕は胸を痛めながらも顔を上げる。ところがマークは渋るどころか、満面の笑みを浮かべていたのだ。
『事情はだいたい分かった。何だ、そんなことだったのか。明日にでも院長に話してみよう』
僕に歩み寄り肩をぽんぽんと二度叩く。
『君がここまでするとは驚きだね。けれどもわたしは自分がそうではないだけに、ひとりの女を生涯かけて愛する男が好きなんだ。それで一樹、もうルナとニューセキは終わったのかい?』
入籍、と言う言葉に僕はうっと詰まった。
『……プロポーズもまだです』
そう答えるしかない。けれども、あるひとつの確信もあった。
『ただ彼女は断らない……いいえ、断れないでしょう。子どものために断れない。……頼みの綱は僕しかない。マークが僕の願いを受け入れてくれれば、の話ですが』
僕の言葉にマークはニヤリと笑った。
『悪くなったね、一樹』
だが、と僕の肩をぐいと引き耳元に囁く。
『わたしはそんな君のほうが好きさ』
僕はそれでも医師や病院のリストを片端から洗い出し、何か取り付くきっかけはないかと目を皿にして資料を漁った。そんな中、僕はある病院の資料に意外な人物の名前を見つける。初めに目にした時には時には同姓同名か見間違いかと瞼を擦った。けれども、そうではないと知った時、取るべき道は決まったのだ。
その翌週の火曜日に僕はマークにアポイントを取り、終業と同時に即座にそのオフィスを訪ねた。
マークのオフィスは日本の本社ビルの最上階にある。マークは五年前日本での勤務が決まった際、空に一番近い、窓のある個室が欲しいと望んだのだそうだ。
『マーク、一樹です』
ドアを数度ノックすると、すぐに返事があった。
『入りたまえ』
ゆっくりドアを押し一歩足を踏み入れる。デスクの向こうの壁一面の窓から西日が差し込み、グレーのオフィスを茜色に染め上げていた。まるで血の色のようだと僕はふと思う。マークはそんな鮮やかな色を通す窓に片手をつき、紫と紅との入り混じる空を見上げていた。僕に背を向けたままいつもの口調で問いかけてくる。
『可愛いボーイ、君からプライベートでのアポイントとは珍しいね。何があったんだい?』
僕は前置きはいらないと、デスクのすぐ前に立ち、単刀直入に切り出した。
『マーク、僕の渡米の予定を早めることは難しいですか? それとあなたのコネクションをお借りしたいんです』
そう、僕は来年から何年になるのかは分からないが、アメリカに駐在をすることになっていた。マークがアメリカ本社に栄転するのに当たり、本人からぜひにとの希望と推薦を受けて、僕もついていくことになっていたのだ。いずれにせよ当分日本に戻るのは難しく、会社でのとある事情とはそれである。
マークはゆっくりと僕を振り返った。茜色を残した青い瞳に僕の顔が映る。
『突然だが理由はいったい何だい? それにコネクションとは何のことだろうね』
『あなたはアメリカのF大学病院に多額の寄付を行っているそうですね』
マークは驚いたように目を見開いた。
そう、マークは今でこそアメリカに市民権を持つが、もともとはイギリスの名門貴族出身だ。そして先祖から受け継いだ莫大な財産を、ある時にはベンチャーへの投資、ある時には施設や団体への寄付に回し転がしている。その施設のひとつがアメリカのF大学病院であり、大地君のかかった難病を研究する、医師のひとりのいる病院でもあったのだ。
昔マークの故国での身分と財産の金額を知り、なぜ働く必要があるのかと尋ねたことがあった。すると、労働はいわば趣味のようなものなのだと答えられた。天と地ほども違う世界観を聞かされ、頭が痛くなった記憶がある。けれども、今はそんな元貴族との出会いに感謝すらしていた。
マークの目に好奇心の光が瞬く。
『それはそうだが、どうしたんだい?』
僕ははいと頷きそのまま深々と頭を下げた。
『マーク・スタンリーの関係者と言うことで、子どもをひとりその病院のボブ・ルイス医師に診てもらうよう、頼んでほしいんです。マークにならそれが可能だと思うんです』
『……』
『僕に返せるものはありませんが、できることはなんでもします。どうかお願いします。瑠奈と大地君を……助けたいんです』
マークは数分間何も答えなかった。やはり断られてしまうのかと、僕は胸を痛めながらも顔を上げる。ところがマークは渋るどころか、満面の笑みを浮かべていたのだ。
『事情はだいたい分かった。何だ、そんなことだったのか。明日にでも院長に話してみよう』
僕に歩み寄り肩をぽんぽんと二度叩く。
『君がここまでするとは驚きだね。けれどもわたしは自分がそうではないだけに、ひとりの女を生涯かけて愛する男が好きなんだ。それで一樹、もうルナとニューセキは終わったのかい?』
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『……プロポーズもまだです』
そう答えるしかない。けれども、あるひとつの確信もあった。
『ただ彼女は断らない……いいえ、断れないでしょう。子どものために断れない。……頼みの綱は僕しかない。マークが僕の願いを受け入れてくれれば、の話ですが』
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『わたしはそんな君のほうが好きさ』
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