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第2部
38.夕陽と青空(7)
飾りの一切ない簡素な十字架だった。土台には「樋野陽」と言う名前と、その下に生年月日と死亡年月日が刻まれている。樋野陽の命日は瑠奈より一日遅れていた。だが、時差を差し引いて考えると、瑠奈と同じ日に死んでいる。僕はやっぱりそうだったかと笑うしかなかった。
長方形の区画内には草木も花も何もなく、ただ土だけが丁寧に被せられている。これなら大丈夫だろうと、僕は柵とも呼べない仕切りをまたぎ、白い十字架の前に立った。この場にいるかいないかも知れない、樋野陽の霊魂に向かい告げる。
「いいか。これは君のためじゃないからな」
「一樹さん……?」
僕はその場にしゃがみ込み、両手で墓の前の土を掻いた。二十cmほどの深さに掘り、胸から小さな包みを取り出す。高野さんに問われる前に僕はその正体を言った。
「瑠奈の遺髪です。半分だけ持ってきました」
もう半分は僕が生涯持つつもりだ。
僕は土に包みを埋め再び土を被せていく。高野さんが戸惑ったように僕に尋ねた。
「……よろしいんですか?」
「僕が瑠奈ならこうしてほしい――そう思ったと言うだけです」
だてに約二十年夫婦をやって来たわけではない。僕は誰よりも、瑠奈自身よりも瑠奈を理解していると言う自負があった。これは樋野陽には成し遂げられなかったとことだ。僕たちは他人から恋人となり、恋人から一度別れ、今度は夫婦になった。あの男と瑠奈との間に僕の入り込めない絆があったように、僕と瑠奈にも二十年育ててきた繋がりがあったのだ。
高野さんは肩を竦め、「損な性格ですね」と笑う。
「ですが、これで少々慰められました。陽様の葬儀はあまりに寂しいものだったので」
どこからか鳥の囀が聞こえる。あれはモズだろうか。高く澄んでどこか悲しい。
「陽様は独身でご家族もいらっしゃいませんでしたし、万が一の時のための遺言では密葬を希望されていましたから、葬儀はおれと秋嶋社長だけが参列しました。秋嶋社長は大変お嘆きでしたよ。何かと陽様を頼っていましたから。折を見て陽様に社を返すつもりもあったようです」
「……」
「もっとも陽様はそんな気はなかったようですが」
高野さんは僕らが去った後の樋野陽の一生について語る。あの男は美貌も、能力も、資産も、何もかもを持ちながら秋嶋さんの影となり、極力誰とも関わらなかったのだそうだ。あの洋館をおのれの牢獄とし、囚人のように息を顰めて生きて、ひっそりと生涯を終えたのだと言う。人生を捨て去ることがあの男なりの贖罪だったのだろうか。
「いっそ瑠奈も大地も何もかもをさっぱり忘れて、好き勝手に生きてくれていたほうがよかったですよ」
僕は土を払い立ち上がると、白い十字架を見つめた。
「そんな男だったら僕も瑠奈ももっと早く乗り越えられたんだ」
気兼ねがないとは言えないが、日本にももっと早くに――瑠奈が生きている間に帰っていたのかもしれない。ただ、心のどこかでこうも思う。あの男がいなければ僕と瑠奈はごく普通のカップル、あるいは夫婦になっていただろう。途中で別れることすらあったかもしれない。あの男が僕たちの重しとなり、鎹になっていたことも確かなのだ。
何とも皮肉な話だと思う。けれども、人と人はそんなものなのかもしれない。
しかし、あの男も瑠奈もこの世にいない今、どんな事実にも仮定にも意味はなかった。嫌悪も憎悪も消え失せている。ただ、胸に小さな穴がぽっかりと空いていた。
瑠奈は僕が死を迎えるその時にも、きっと迎えに来てはくれないのだろう。あの男の手を取り逝ってしまったのだから。それだけが少しだけ寂しく悲しかった。
ふと何気なく空を見上げる。わずかに紫の入り混じる、濃く深みのある青い空だ。こんな青をヨーロッパではセレスト・ブルーと呼ぶのだそうだ。天上の青と言う意味であり、神の存在する至上の青なのだと言う。
その空から一陣の風が吹き、僕の心をも通り過ぎて行く。僕は目を閉じこの空の向こうに祈った。
――何を祈ったのかは自分にすら分からなかった。
長方形の区画内には草木も花も何もなく、ただ土だけが丁寧に被せられている。これなら大丈夫だろうと、僕は柵とも呼べない仕切りをまたぎ、白い十字架の前に立った。この場にいるかいないかも知れない、樋野陽の霊魂に向かい告げる。
「いいか。これは君のためじゃないからな」
「一樹さん……?」
僕はその場にしゃがみ込み、両手で墓の前の土を掻いた。二十cmほどの深さに掘り、胸から小さな包みを取り出す。高野さんに問われる前に僕はその正体を言った。
「瑠奈の遺髪です。半分だけ持ってきました」
もう半分は僕が生涯持つつもりだ。
僕は土に包みを埋め再び土を被せていく。高野さんが戸惑ったように僕に尋ねた。
「……よろしいんですか?」
「僕が瑠奈ならこうしてほしい――そう思ったと言うだけです」
だてに約二十年夫婦をやって来たわけではない。僕は誰よりも、瑠奈自身よりも瑠奈を理解していると言う自負があった。これは樋野陽には成し遂げられなかったとことだ。僕たちは他人から恋人となり、恋人から一度別れ、今度は夫婦になった。あの男と瑠奈との間に僕の入り込めない絆があったように、僕と瑠奈にも二十年育ててきた繋がりがあったのだ。
高野さんは肩を竦め、「損な性格ですね」と笑う。
「ですが、これで少々慰められました。陽様の葬儀はあまりに寂しいものだったので」
どこからか鳥の囀が聞こえる。あれはモズだろうか。高く澄んでどこか悲しい。
「陽様は独身でご家族もいらっしゃいませんでしたし、万が一の時のための遺言では密葬を希望されていましたから、葬儀はおれと秋嶋社長だけが参列しました。秋嶋社長は大変お嘆きでしたよ。何かと陽様を頼っていましたから。折を見て陽様に社を返すつもりもあったようです」
「……」
「もっとも陽様はそんな気はなかったようですが」
高野さんは僕らが去った後の樋野陽の一生について語る。あの男は美貌も、能力も、資産も、何もかもを持ちながら秋嶋さんの影となり、極力誰とも関わらなかったのだそうだ。あの洋館をおのれの牢獄とし、囚人のように息を顰めて生きて、ひっそりと生涯を終えたのだと言う。人生を捨て去ることがあの男なりの贖罪だったのだろうか。
「いっそ瑠奈も大地も何もかもをさっぱり忘れて、好き勝手に生きてくれていたほうがよかったですよ」
僕は土を払い立ち上がると、白い十字架を見つめた。
「そんな男だったら僕も瑠奈ももっと早く乗り越えられたんだ」
気兼ねがないとは言えないが、日本にももっと早くに――瑠奈が生きている間に帰っていたのかもしれない。ただ、心のどこかでこうも思う。あの男がいなければ僕と瑠奈はごく普通のカップル、あるいは夫婦になっていただろう。途中で別れることすらあったかもしれない。あの男が僕たちの重しとなり、鎹になっていたことも確かなのだ。
何とも皮肉な話だと思う。けれども、人と人はそんなものなのかもしれない。
しかし、あの男も瑠奈もこの世にいない今、どんな事実にも仮定にも意味はなかった。嫌悪も憎悪も消え失せている。ただ、胸に小さな穴がぽっかりと空いていた。
瑠奈は僕が死を迎えるその時にも、きっと迎えに来てはくれないのだろう。あの男の手を取り逝ってしまったのだから。それだけが少しだけ寂しく悲しかった。
ふと何気なく空を見上げる。わずかに紫の入り混じる、濃く深みのある青い空だ。こんな青をヨーロッパではセレスト・ブルーと呼ぶのだそうだ。天上の青と言う意味であり、神の存在する至上の青なのだと言う。
その空から一陣の風が吹き、僕の心をも通り過ぎて行く。僕は目を閉じこの空の向こうに祈った。
――何を祈ったのかは自分にすら分からなかった。
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