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八章 上洛
六.伊達
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米沢城の一角の縁側に伊達総次郎輝宗(二十五歳)の嫡男、梵天丸(二歳)が寝かされていた。
母、義姫(二十一歳)はちょうど席を外していた。
愛らしい目で庭の木を見つめている梵天丸の双眼に、突如異様な物が映った。
血だらけの人間が宙に現れて落ちたのだ。
白銀の髪の男は、ピクリとも動かない。
「うあー、あー!」
梵天丸が何かを訴えるように叫ぶと侍女が駆け付ける。
「きゃあ?!」
「何事だ」
物音で駆け付けた輝宗が梵天丸を抱き上げ、庭を見て驚く。
「な、何者だ?!」
「う…ぐ……」
その男は翔隆であった。
崖から落ちる時に、遠くに見えたこの城に一か八かで飛んだのだ。
「…どこぞの破天連であろうか…?」
輝宗は梵天丸を部屋に寝かせてから近付いてみる。
「…この者の手当てを」
「はっ」
答えて小姓達が男を運んでいった。
翌日。
「ここは…?」
翔隆がぼーっと天井を眺めている所に輝宗が小姓と共にやってくる。
「気が付いたか。名はなんと申す?何があって我が城に入った?」
そう聞くと、翔隆はじーっと輝宗を見上げる。
「わ、たしは………?」
「ん?」
「ここは…?」
「ここは米沢城じゃ。お主の名は?何処から参った?」
「私は…………名は…?」
どうやら本当に分からないらしい。
「記憶を無くしたのか…?」
これは困った事になった。
そう思い、輝宗は長井荘の八幡宮の社家、片倉の邸を訪ねた。
「これはお館さま、いかがなされました?」
片倉景重がそう尋ねると、輝宗は何ともいえない表情で話す。
「実はのぉ、城に破天連らしき者が迷い込んでな」
「破天連が?!」
「それが腑に落ちんのだ…かなりの深手を負っているし、着物は着ていたし…名前も分からんようでな」
「物忘れですかな…」
茶を運んできた嫡男の片倉小十郎(十二歳)が茶を差し出して尋ねる。
「どのような者でございますか?」
「雪のような髪に藍色の目で、これを身に着けておってな」
そう言い輝宗は織田瓜紋の入った懐剣を取り出した。
〈もしや…?!〉
「お供して宜しいですか?!」
「うむ…」
男はぼーっと座っていた。
「やはり翔隆どの!」
小十郎が驚いて声を上げると、輝宗が尋ねる。
「とびたか…それがこの者の名か?」
「はい。この方は美濃の織田家のご家来衆にござりまする」
そう答えてから小十郎は翔隆の側に座る。
「翔隆どの、お忘れか?小十郎でござる」
「小十郎…?」
「何故ここへ…真に何も覚えておられないのですか?!」
「その……申し訳無い…分からないんだ…」
翔隆は苦笑いをして答えた。
〈一族の事すら忘れておられるのか…どうすれば……〉
一人で焦っていると、輝宗に肩を叩かれる。
「お館さま…」
「とりあえず織田家に使者を出してみよう。そなたはこの男を知っているのだよな?」
「はい!」
「では介抱してやると良い」
「はっ」
答えると、輝宗は頷いて歩いていく。
輝宗が去ると、小十郎は翔隆を見る。
「貴方の名は篠蔦三郎兵衛翔隆です」
「しのつ、た…」
翔隆は首を傾げている。
「焦っても致し方ありませんね…お迎えが来られるまで、ゆるりとなさって下され」
「………」
何も分からないので、翔隆はただ頷いた。
酷い怪我なので、客分として置いて貰っていた。
九日も経つと、翔隆は歩けるようになっていた。
ぼーっと庭を眺めている所に輝宗が梵天丸を抱いてやってくる。
「具合はどうじゃ」
「総次郎様…はい、だいぶ良くなりました」
「小十郎はどうした?」
「あ、父君の下へ報告に行くと言っておられました」
「そうか」
微笑して輝宗は翔隆の隣に座る。
「これは嫡男の梵天丸じゃ。お主に会いたいようなので連れてきた」
そう言って梵天丸を降ろすと、梵天丸はすぐに這って翔隆の着物を掴む。
「うふ、ふふ」
「お初にお目に掛かります、梵天丸様」
翔隆が抱き上げると、梵天丸は甲高い声で笑う。
どうやら梵天丸は翔隆の事がとても気に入ったようだ。
「とー、とー、ふふ、うふふ」
「お主のような者は初めて見る故、気に入っておるようじゃな」
輝宗はそう言って笑う。
「早う思い出すといいのぉ」
「はあ…」
翔隆はまるで他人事のように返事をした。
その頃、使者がやっと京の都に着いていた。
清水寺で信長は柴田勝家、森可成、丹羽長秀、前田利家、池田恒興などの重臣達が居並ぶ中で伊達の使者が喋る。
「奥州、伊達家の使者にございまする」
「うむ、遠路遥々、その伊達家の者が何用じゃ」
「はっ、ここのご家来衆に〝篠蔦翔隆〟どのはおられまするか?」
「翔隆…!」
一同はまさか出仕の催促か、とドキリとする。
「…おるが?」
「それは良かった!その篠蔦どのが当家におられまして…」
「伊達に?」
信長は眉をしかめる。
「はい。深手を負われておられた故、介抱しておりまする。ただ、物忘れに罹ったらしく、何も覚えておられないようです。故にどなたかをお迎えに遺されて欲しいとの仰せにござりまする」
「…相分かった。ご苦労であられたな」
信長がそう言うと、池田恒興が使者をもてなす為に案内する。
使者が下がると利家が身を乗り出して言う。
「拙者にお命じ下され!」
「………」
「あんな体で奴と戦ったのです、相当な深手を負ったに違いありませぬ!早う迎えに行ってやらねば」
「そのまま放っておけば、伊達にまで仕えるやもしれませんぞ」
そう秀吉が言うと信長に睨まれたので慌てて俯いた。
信長は何も言わずに行ってしまう。
この後に、義昭が能興行をさせるので、それを観に行くのだ。
「大殿さま!」
直ぐ様利家が追おうとすると、勝家が手で制した。
そして他の重臣達は立ち去る。
「親父どの…!」
「畿内を制したと言え油断ならぬ時じゃ」
「だから拙者が…!」
「お主が抜ければ戦に響く。一番お悩みなのは大殿さまだと気付かぬか!」
「しかし…」
「大殿さまが翔隆の家臣の者に知らせてやるだろう、大事ない」
そう言って柴田勝家は皆と共に行く。
能は細川邸で行われた。
初献のお酌は細川藤賢が務める。
そこで和田惟政、細川藤孝、久我通俊らが使者に来て信長に言う。
「副将軍になられてはいかがかな」
うんうんと足利義昭が頷いている。
「いえ、身に余りまする故」
「では管領はいかがかな?」
久我通俊も言う。
管領とは、室町幕府の最高職で政務を総括する役職だ。
「まだ戦が続いておりますれば、ご容赦を…」
信長はそちらも辞退する。
誰もが欲しがる地位を断ると、感心された。
能が始まる。
脇能は〝高砂〟…演者は観世左近大夫・今春大夫・観世元頼。太鼓は大蔵虎家、小鼓は観世宗拶、笛は長命吉右衛門、太鼓は観世又三郎。
二献のお酌は大館晴忠。
その時また先程の三人が信長の下へ来て、将軍のお側に来るようにと伝える。
信長は席を離れてお側に行き、またしても三献の上、将軍のお酌で盃を頂いた。
そこで鷹と腹巻(鎧の一種)も頂戴した。
「身に余る光栄に存じまする」
信長は一礼してお側を離れて自分の席に戻る。
…偉いお方と居る時は、中々落ち着いて能が見れない物だ。
二番目は〝矢島〟…太鼓は深谷長介、小鼓は幸正能。
三献のお酌を一色藤長がした。
三番目は〝定家〟…四番目は〝道成寺〟と続き、ここで将軍が発言する。
「弾正忠の鼓が聞きたいのぉ」
弾正忠とは信長の事だ。
一瞬家臣達がざわつく。
信長は平伏して言う。
「下手くそでお聞き苦しくなります故、何卒ご容赦下され」
そう言うと、そうかとあっさり諦めてくれたのでホッとする。
なので、演目通りに大鼓は大蔵虎家、小鼓は観世宗拶、笛は伊藤宗十郎が務めた。
五番目は〝呉羽〟で締められる。
能が終わってからは、信長から一座の者全てに引き出物が与えられた。
信長は全てを終えてから、ホッと一息吐いて清水寺に向かう。
やっと将軍から解放されて一安心だ。
〈ーーーー忘れた、か…〉
信長は側を守備している疾風を見てから中に入る。
「…では岐阜へ戻るぞ」
「はっ!」
早く帰らなくては、また将軍殿に捕まるかもしれないのだ。
軍勢なので帰り支度に時間が掛かる。
守りは明智光秀、木下藤吉郎、竹中半兵衛に任せた。
翌二十四日、将軍・足利義昭の下に帰国の挨拶をしに行く。
「…では、失礼致しまする」
気を遣いながら挨拶をして信長が下がると、義昭は慌てて側に居た者に紙と硯箱を用意させる。
「こんなに早く帰るなどと…急がねば!」
そう言い書を書く。
その翌日、二十五日には足利義昭から感状を渡された。
長々と書き連ねられているが、要約すると
〝こんなに早く畿内をまとめたあなたの武勇は天下一です。当将軍家が再興出来たのもあなたのお陰です。これからもあなたにお頼みします。詳細は細川藤孝・和田惟政からお伝えします。十月二十四日、御父織田弾正忠殿〟
〝追加、この度の格別な忠節に対して、桐紋と引両筋(足利の紋と馬印)を進呈します。武勇の功績によって受けられる祝儀であります。十月二十四日、御父織田弾正忠殿〟
とあった。
追伸がある程に感謝の思いが溢れ出ているのであろう。
二十六日には近江の守山まで下り、そこから柏原に宿泊して二十八日にやっと岐阜に帰れた。
戻ると信長は風呂に入って一息吐く。
「ふー……」
やっと肩の荷が降りた感じだが、一つだけ問題が残っている。
ーーー翔隆だ。
まだ家臣の者には話していない…。
〈忘れた………忘れて済む立場であれば、それでも良かろうな…〉
放っておいたらどうなるのであろうか?
などと考えていたら、覆面をした一成が面会に来た。
「ーーーちょうど良く来たな」
「…という事は、やはり何かご存知で?」
「今、屋敷に誰が居る?」
信長は一成を手招く。
「皆で睦月様の説教を受けております」
一成が側に寄ると、信長は小姓に言う。
「数日、この者を影と仕立てよ」
「は…はっ!」
答えて小姓は一成の両脇を抱えて鏡台の前に座らせる。
「な、お待ち下さい、一体何を…」
一成は覆面を剥がされて髪を梳かれて結われる。
「そのままじゃ。その服も寄越せ…代わりにこれを着ていろ」
そう言い着物を脱ぎ始めた。
「影などいかに務めよと…」
一成は装束を脱ぎながら聞く。
「…誰か何かを言ってきても小姓共が代わりに答えよう、良いな?」
「はっ!」
小姓達は答えて己の任を他の小姓に伝えていく。
「それで…我が君は一体何処に…?」
信長の着物を着させられながら一成が問うと、忍び装束を着た信長が答える。
「奥州らしいので迎えに行く…では任せたぞ」
信長は覆面を付けて翔隆の屋敷に向かった。
屋敷の広間には疾風、忠長、光征、蒼司が揃って正座をして睦月の説教を受けていた。
そこに信長が上がり込むといち早く気付いた睦月が信長の首にくないを当てる。
「睦月様?!」
皆が驚愕する中で睦月が言う。
「何故それを着て来た三郎…」
「三郎…え、お屋形様?!」
疾風達が驚く。
「…バレるのが早いな…」
信長はボソリと言って睦月の手を払って覆面を取る。
「翔隆を迎えに行く」
「迎え…?一体何処に…」
「奥州だ。忠長、お前は翔隆のように瞬時に行けるか?」
そう聞かれて忠長が考えながら答える。
「何度か繰り返せば…ただ、俺の力では休みながらだろうから何日か掛かると思うが…」
「構わん。…樟美、お主も参れ」
信長が言うと、別の部屋に居た樟美が寄ってくる。
「もしや、奥州というのは伊達ですか?」
「そうだ」
「私も行くぞ」
睦月が言うと、一同が不安そうにしてから奥の間に居る拓須を見た。
信長と睦月が行っては、ややこしくなるのが目に見えている。
すると顔を腫らしたままの拓須がやってきて睦月を引き摺って奥に行く。
「嫌だ!離せ!」
奥から暴れる音がするが、怖くて見られない。
「行くぞ」
そう言い信長は草履を履く。
忠長と樟美も草履を履いて、忠長が皆に頷いてから二人を連れて消えた。
母、義姫(二十一歳)はちょうど席を外していた。
愛らしい目で庭の木を見つめている梵天丸の双眼に、突如異様な物が映った。
血だらけの人間が宙に現れて落ちたのだ。
白銀の髪の男は、ピクリとも動かない。
「うあー、あー!」
梵天丸が何かを訴えるように叫ぶと侍女が駆け付ける。
「きゃあ?!」
「何事だ」
物音で駆け付けた輝宗が梵天丸を抱き上げ、庭を見て驚く。
「な、何者だ?!」
「う…ぐ……」
その男は翔隆であった。
崖から落ちる時に、遠くに見えたこの城に一か八かで飛んだのだ。
「…どこぞの破天連であろうか…?」
輝宗は梵天丸を部屋に寝かせてから近付いてみる。
「…この者の手当てを」
「はっ」
答えて小姓達が男を運んでいった。
翌日。
「ここは…?」
翔隆がぼーっと天井を眺めている所に輝宗が小姓と共にやってくる。
「気が付いたか。名はなんと申す?何があって我が城に入った?」
そう聞くと、翔隆はじーっと輝宗を見上げる。
「わ、たしは………?」
「ん?」
「ここは…?」
「ここは米沢城じゃ。お主の名は?何処から参った?」
「私は…………名は…?」
どうやら本当に分からないらしい。
「記憶を無くしたのか…?」
これは困った事になった。
そう思い、輝宗は長井荘の八幡宮の社家、片倉の邸を訪ねた。
「これはお館さま、いかがなされました?」
片倉景重がそう尋ねると、輝宗は何ともいえない表情で話す。
「実はのぉ、城に破天連らしき者が迷い込んでな」
「破天連が?!」
「それが腑に落ちんのだ…かなりの深手を負っているし、着物は着ていたし…名前も分からんようでな」
「物忘れですかな…」
茶を運んできた嫡男の片倉小十郎(十二歳)が茶を差し出して尋ねる。
「どのような者でございますか?」
「雪のような髪に藍色の目で、これを身に着けておってな」
そう言い輝宗は織田瓜紋の入った懐剣を取り出した。
〈もしや…?!〉
「お供して宜しいですか?!」
「うむ…」
男はぼーっと座っていた。
「やはり翔隆どの!」
小十郎が驚いて声を上げると、輝宗が尋ねる。
「とびたか…それがこの者の名か?」
「はい。この方は美濃の織田家のご家来衆にござりまする」
そう答えてから小十郎は翔隆の側に座る。
「翔隆どの、お忘れか?小十郎でござる」
「小十郎…?」
「何故ここへ…真に何も覚えておられないのですか?!」
「その……申し訳無い…分からないんだ…」
翔隆は苦笑いをして答えた。
〈一族の事すら忘れておられるのか…どうすれば……〉
一人で焦っていると、輝宗に肩を叩かれる。
「お館さま…」
「とりあえず織田家に使者を出してみよう。そなたはこの男を知っているのだよな?」
「はい!」
「では介抱してやると良い」
「はっ」
答えると、輝宗は頷いて歩いていく。
輝宗が去ると、小十郎は翔隆を見る。
「貴方の名は篠蔦三郎兵衛翔隆です」
「しのつ、た…」
翔隆は首を傾げている。
「焦っても致し方ありませんね…お迎えが来られるまで、ゆるりとなさって下され」
「………」
何も分からないので、翔隆はただ頷いた。
酷い怪我なので、客分として置いて貰っていた。
九日も経つと、翔隆は歩けるようになっていた。
ぼーっと庭を眺めている所に輝宗が梵天丸を抱いてやってくる。
「具合はどうじゃ」
「総次郎様…はい、だいぶ良くなりました」
「小十郎はどうした?」
「あ、父君の下へ報告に行くと言っておられました」
「そうか」
微笑して輝宗は翔隆の隣に座る。
「これは嫡男の梵天丸じゃ。お主に会いたいようなので連れてきた」
そう言って梵天丸を降ろすと、梵天丸はすぐに這って翔隆の着物を掴む。
「うふ、ふふ」
「お初にお目に掛かります、梵天丸様」
翔隆が抱き上げると、梵天丸は甲高い声で笑う。
どうやら梵天丸は翔隆の事がとても気に入ったようだ。
「とー、とー、ふふ、うふふ」
「お主のような者は初めて見る故、気に入っておるようじゃな」
輝宗はそう言って笑う。
「早う思い出すといいのぉ」
「はあ…」
翔隆はまるで他人事のように返事をした。
その頃、使者がやっと京の都に着いていた。
清水寺で信長は柴田勝家、森可成、丹羽長秀、前田利家、池田恒興などの重臣達が居並ぶ中で伊達の使者が喋る。
「奥州、伊達家の使者にございまする」
「うむ、遠路遥々、その伊達家の者が何用じゃ」
「はっ、ここのご家来衆に〝篠蔦翔隆〟どのはおられまするか?」
「翔隆…!」
一同はまさか出仕の催促か、とドキリとする。
「…おるが?」
「それは良かった!その篠蔦どのが当家におられまして…」
「伊達に?」
信長は眉をしかめる。
「はい。深手を負われておられた故、介抱しておりまする。ただ、物忘れに罹ったらしく、何も覚えておられないようです。故にどなたかをお迎えに遺されて欲しいとの仰せにござりまする」
「…相分かった。ご苦労であられたな」
信長がそう言うと、池田恒興が使者をもてなす為に案内する。
使者が下がると利家が身を乗り出して言う。
「拙者にお命じ下され!」
「………」
「あんな体で奴と戦ったのです、相当な深手を負ったに違いありませぬ!早う迎えに行ってやらねば」
「そのまま放っておけば、伊達にまで仕えるやもしれませんぞ」
そう秀吉が言うと信長に睨まれたので慌てて俯いた。
信長は何も言わずに行ってしまう。
この後に、義昭が能興行をさせるので、それを観に行くのだ。
「大殿さま!」
直ぐ様利家が追おうとすると、勝家が手で制した。
そして他の重臣達は立ち去る。
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「畿内を制したと言え油断ならぬ時じゃ」
「だから拙者が…!」
「お主が抜ければ戦に響く。一番お悩みなのは大殿さまだと気付かぬか!」
「しかし…」
「大殿さまが翔隆の家臣の者に知らせてやるだろう、大事ない」
そう言って柴田勝家は皆と共に行く。
能は細川邸で行われた。
初献のお酌は細川藤賢が務める。
そこで和田惟政、細川藤孝、久我通俊らが使者に来て信長に言う。
「副将軍になられてはいかがかな」
うんうんと足利義昭が頷いている。
「いえ、身に余りまする故」
「では管領はいかがかな?」
久我通俊も言う。
管領とは、室町幕府の最高職で政務を総括する役職だ。
「まだ戦が続いておりますれば、ご容赦を…」
信長はそちらも辞退する。
誰もが欲しがる地位を断ると、感心された。
能が始まる。
脇能は〝高砂〟…演者は観世左近大夫・今春大夫・観世元頼。太鼓は大蔵虎家、小鼓は観世宗拶、笛は長命吉右衛門、太鼓は観世又三郎。
二献のお酌は大館晴忠。
その時また先程の三人が信長の下へ来て、将軍のお側に来るようにと伝える。
信長は席を離れてお側に行き、またしても三献の上、将軍のお酌で盃を頂いた。
そこで鷹と腹巻(鎧の一種)も頂戴した。
「身に余る光栄に存じまする」
信長は一礼してお側を離れて自分の席に戻る。
…偉いお方と居る時は、中々落ち着いて能が見れない物だ。
二番目は〝矢島〟…太鼓は深谷長介、小鼓は幸正能。
三献のお酌を一色藤長がした。
三番目は〝定家〟…四番目は〝道成寺〟と続き、ここで将軍が発言する。
「弾正忠の鼓が聞きたいのぉ」
弾正忠とは信長の事だ。
一瞬家臣達がざわつく。
信長は平伏して言う。
「下手くそでお聞き苦しくなります故、何卒ご容赦下され」
そう言うと、そうかとあっさり諦めてくれたのでホッとする。
なので、演目通りに大鼓は大蔵虎家、小鼓は観世宗拶、笛は伊藤宗十郎が務めた。
五番目は〝呉羽〟で締められる。
能が終わってからは、信長から一座の者全てに引き出物が与えられた。
信長は全てを終えてから、ホッと一息吐いて清水寺に向かう。
やっと将軍から解放されて一安心だ。
〈ーーーー忘れた、か…〉
信長は側を守備している疾風を見てから中に入る。
「…では岐阜へ戻るぞ」
「はっ!」
早く帰らなくては、また将軍殿に捕まるかもしれないのだ。
軍勢なので帰り支度に時間が掛かる。
守りは明智光秀、木下藤吉郎、竹中半兵衛に任せた。
翌二十四日、将軍・足利義昭の下に帰国の挨拶をしに行く。
「…では、失礼致しまする」
気を遣いながら挨拶をして信長が下がると、義昭は慌てて側に居た者に紙と硯箱を用意させる。
「こんなに早く帰るなどと…急がねば!」
そう言い書を書く。
その翌日、二十五日には足利義昭から感状を渡された。
長々と書き連ねられているが、要約すると
〝こんなに早く畿内をまとめたあなたの武勇は天下一です。当将軍家が再興出来たのもあなたのお陰です。これからもあなたにお頼みします。詳細は細川藤孝・和田惟政からお伝えします。十月二十四日、御父織田弾正忠殿〟
〝追加、この度の格別な忠節に対して、桐紋と引両筋(足利の紋と馬印)を進呈します。武勇の功績によって受けられる祝儀であります。十月二十四日、御父織田弾正忠殿〟
とあった。
追伸がある程に感謝の思いが溢れ出ているのであろう。
二十六日には近江の守山まで下り、そこから柏原に宿泊して二十八日にやっと岐阜に帰れた。
戻ると信長は風呂に入って一息吐く。
「ふー……」
やっと肩の荷が降りた感じだが、一つだけ問題が残っている。
ーーー翔隆だ。
まだ家臣の者には話していない…。
〈忘れた………忘れて済む立場であれば、それでも良かろうな…〉
放っておいたらどうなるのであろうか?
などと考えていたら、覆面をした一成が面会に来た。
「ーーーちょうど良く来たな」
「…という事は、やはり何かご存知で?」
「今、屋敷に誰が居る?」
信長は一成を手招く。
「皆で睦月様の説教を受けております」
一成が側に寄ると、信長は小姓に言う。
「数日、この者を影と仕立てよ」
「は…はっ!」
答えて小姓は一成の両脇を抱えて鏡台の前に座らせる。
「な、お待ち下さい、一体何を…」
一成は覆面を剥がされて髪を梳かれて結われる。
「そのままじゃ。その服も寄越せ…代わりにこれを着ていろ」
そう言い着物を脱ぎ始めた。
「影などいかに務めよと…」
一成は装束を脱ぎながら聞く。
「…誰か何かを言ってきても小姓共が代わりに答えよう、良いな?」
「はっ!」
小姓達は答えて己の任を他の小姓に伝えていく。
「それで…我が君は一体何処に…?」
信長の着物を着させられながら一成が問うと、忍び装束を着た信長が答える。
「奥州らしいので迎えに行く…では任せたぞ」
信長は覆面を付けて翔隆の屋敷に向かった。
屋敷の広間には疾風、忠長、光征、蒼司が揃って正座をして睦月の説教を受けていた。
そこに信長が上がり込むといち早く気付いた睦月が信長の首にくないを当てる。
「睦月様?!」
皆が驚愕する中で睦月が言う。
「何故それを着て来た三郎…」
「三郎…え、お屋形様?!」
疾風達が驚く。
「…バレるのが早いな…」
信長はボソリと言って睦月の手を払って覆面を取る。
「翔隆を迎えに行く」
「迎え…?一体何処に…」
「奥州だ。忠長、お前は翔隆のように瞬時に行けるか?」
そう聞かれて忠長が考えながら答える。
「何度か繰り返せば…ただ、俺の力では休みながらだろうから何日か掛かると思うが…」
「構わん。…樟美、お主も参れ」
信長が言うと、別の部屋に居た樟美が寄ってくる。
「もしや、奥州というのは伊達ですか?」
「そうだ」
「私も行くぞ」
睦月が言うと、一同が不安そうにしてから奥の間に居る拓須を見た。
信長と睦月が行っては、ややこしくなるのが目に見えている。
すると顔を腫らしたままの拓須がやってきて睦月を引き摺って奥に行く。
「嫌だ!離せ!」
奥から暴れる音がするが、怖くて見られない。
「行くぞ」
そう言い信長は草履を履く。
忠長と樟美も草履を履いて、忠長が皆に頷いてから二人を連れて消えた。
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歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
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