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第四章   空と月と窓に訪問者2

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「すまん」
 透は一人、元来た道とは別ルートであの男の方へと向かっていた。
 見つかった、というのは本当のことだ。あのアウローという死神が近くまで来ていた。
 逃げ回っているうちに透に一つの考えが浮かんだ。それは友人二人を裏切るような行為かもしれない。けれどもこのまま何の手も打てないのは嫌だった。せめて一矢報(いっしむく)いてあの二人に繋(つな)げたかった。
 二人が口喧嘩(くちげんか)で意識が逸れてくれたのは皆にとって良かったのかどうか。それは答えの出るものではないけれど、今の透にはラッキーに値するものだ。
「あいつは、きっと俺の方を先に狙う」
 そのはずだ。怒りを抱いている度合いでいうなら透に対してが一番大きい。更に言えばわざわざこうして向かって行っている。これで手を出さないはずはなかった。
「上手くいってくれよ」
 さすがに透だって何も考えてないわけではない。
 倒すことはできなくても大分弱らせることはできる。運が良ければこれで退いてくれるだろう。
 というのは嘘で、自分を鼓舞(こぶ)させるためのはったり(プラフ)だった。
「死ぬかも……」
 いや、相手は殺す気はまだないと言っていた。だから死にはしない。
「いや、でも……」
 二人の乱入で気が変わったかもしれない。そうでなくても半狂乱の相手だ。勢い余ってついつい殺(や)っちまいました、なんてことになりそうだ。
「考えても仕方ない」
 だからってほんとに無策で突っ込むのもどうかと思うけど、これしか思いつかないし。
「もう、神頼みしかないな」
 神などいるとは信じてないが、それでも祈りたくなってくる。これで願いを叶えるのが不幸の神とかでなければ万々歳(ばんばんざい)だ。
「そろそろか……」
 透は乱れた息を整えようとペースを落とした。カンカンカツカツと響く足音が次第(しだい)に落ち着いていく。
「不意打ちは、逆効果かもな」
 相手は一人ではない。自分はあのアウローという死神に触れられない。と言うよりも死神全般に今まで触(さわ)れたことはなかった。
 自分の死神である小さなのにも。
 透の死神とは、喋らない、騒がない、無愛想、こっちからは触れないくせにあっちからはけっこう好き勝手に干渉できる、憑いている相手以外には干渉できない、というものだった。
 しかし、あのアウローは透の知る死神とはどこか違った。
「あいつは、事故に見せかけて(、 、  、 、 、 、 、 、)殺したって言った」
 つまりは透が覚えているあの影。つまりはアウローらしき死神がトラックの運転手の命を刈り取ったことになる。てっきり偶然、運転手の寿命が来たのかと思っていたが。
「でも、なんで最初からこっちを狙わないんだ?」
 それが分からない。
 あっちからこっちに好きに干渉できる死神だというなら、どうして透の死神から攻撃を仕掛けた? 何か理由があるのか?
「……来た」
 タイムアップ。
 もう何かを仕込む時間もない。
 苛立たしげな足音がどんどんと近付いて来ていた。
「おう? 何だ、こんなところで待っていたのかよ」
 透の姿を見つけた男がにやついた顔で言った。
「あの二人はどうした? 見捨てられたのか? それともそこらに隠れてんのか?」
 男はもう鉄パイプを持っていなかった。
 追い掛けるのに邪魔だから捨てたのか、それとも遊びは終わりなのか。
「けっ、いねえみてえだな」
 男の後背にぼんやりと死神の姿が現れた。アウローだ。
「死にたがりかよ。興醒(きょうざ)めだぜ」
 心底嫌そうな顔をする。どうやら、これからは本気で叩き潰すつもりらしい。
「ところでよぉ、せっかくだから訊くけどよ。お前、〝参加者〟でもねえくせに死神が見えるとか言ううんじゃねえだろうな。てめえの動きとか言ってることとかやってること考えるとどうしてもそれしか答えが出ねえ。なあ、おい。このゲームの名前が何て言うか、知ってるか?」
「ゲーム、だって?」
「ちっ、どうやらマジで見えてるだけみてえだな。どうりで反撃もしてこねえ、死神に命令もしねえ、死神を置いて逃げる。ふざけやがって」
 冷静さを取り戻しているみたいではあるものの、元々の気性の激しさは抑えられないようだった。
 その双眸(そうぼう)に残酷で無慈悲な色を出し、どうやって透をぼろぼろにしようか思案を巡らせるように少しばかり上へ動いた。
「ああ、いいか別に。〝参加者〟でもねえのに戦い吹っ掛けた俺が馬鹿みてえだ。人をコケにしたのを生かしておく義理はねえよな」
「うっ」
 相手は透を生かす気を失くした。それが分かる、抑揚(よくよう)のないあっさりした口調だった。
 一歩、足を進めることも退くこともなく金茶二色の男は自分の死神(アウロー)に命令した。
「まずは、そこのクソザコの死神を殺れ」
 ニタリ、一方的な虐殺に思いを馳せた男の笑みが透の脳裏(のうり)に焼き付いた。
「……っ!」
 正面から来るアウローに思わず手を伸ばした。
 本気になっているのにわざわざこっちを狙うのには理由がある。そう思ってはいたが具体的な対策もないままだった。そんな中、手を伸ばしたのは反射的な防御行為だったとしか言いようがない。
「え? ……え?」
 透が突き飛ばす形で伸ばした手がアウローに当たり、アウローをかなり遠くへと吹っ飛ばしていた。
「おいおい、何で触れんだよ。〝参加者〟でもねえくせに」
 わけが分からない。
 二人共に不本意ながら同じ顔をしていた。
 透にはその〝参加者〟というのが何なのかは分からない。ただそのことによって何かしらの変化が男と死神に起きてるのは間違いないみたいだった。
 男の口振りでは〝参加者〟となった後に死神が見えるようになったらしいからだ。
「〝参加者〟、ゲーム、それが鍵(かぎ)か」
 突破口になると決まったわけではない。それでも考える価値はあった。
 とにかく、今はあの死神にこちらからも攻撃ができるということが分かっただけでも収穫はあった。これで対応できる。
「アウロー」
 男が名を呼んだ。
 アウローは頷くような様子を見せると再び透の死神を攻撃しようと動いた。今度は透を避けるようなコースで。
「くっそ」
 透も駆け出し、アウローの横っ面を殴り飛ばそうとする。当然、警戒していた相手はこの一撃を躱し透の死神に鎌を振るった。
「たーっ!」
 そこに透の破れかぶれなキックが炸裂(ヒット)する。アウローは攻撃がずれ、透の死神は防御した。
「ザコのクセに粘(ねば)りやがって。しょうがねえ、アウローッ、畳(たた)み掛けろ!」
 男の怒号がアウローに立て続けの、透の攻撃を恐れない怒涛(どとう)の勢いをさせる。
 防御と回避を捨て、徹底的な攻め(オフェンスだけ)で来るアウロー。受けることを前提にされているためか、透の攻撃でもあまり飛ばされなくなっていた。
「うっ!」
 アウローの攻撃を受け損ない、刃が透の左腕をすり抜けた。
 怪我はない。死神の攻撃はすぐさま体に出てくるような物理的な一撃とは違うからだ。
 それでも喰らったということからショックを受け、体が一瞬だが強張(こわば)った。
「しまっ……!」
 死の刃が透の死神へと届く、その一瞬。時間が限りなく延(の)ばされたように感じ、もどかしいほどに体の動きが制限された気がする中で、決してしてはならないミスを犯したことを確信した。
 顔は後ろを見ているはずなのに男の顔が真正面に映り、その口元が勝利の雄叫(おたけ)びを上げんと開かれていく。
 ヴ~ッ、ヴ~ッ、ヴ~ッ
 場違いな音がした。
 あまりにも場違いで、しかもタイミングよく鳴ったものだから、物事に動じることのない死神アウローでさえも動きを止めた。
 男のあんぐりと、間を外されてだらしなく開かれた口は何の声を発することもなく震えている。
「て、てめーっ。さっさと出やがれ!」
 ビシッ、と指を突き付けて男はガーッと怒りにかまけて大きなリアクションを取った。絶対に我を忘れたアホみたいな行動だったが透もあまりなことに大慌てで従ってしまった。
 ピッ
 制服のポケットに入れていた携帯電話に出る。
 考えてみればもしあの鞄にこれを入れていたら透はもう――実際にどうなるのか分からないので確証はないが――命を失っていただろう。
 アウローは指示待ちで男の下へと戻っていた。もしかしたら命令が途切れると傍に移動するようにしているのか。
 横目でそのことを確認しながら意識を電話へと集中する。こんな状況で下手をすれば命取りとしか言いようのないことだが、男の様子では終わるまで手を出しはしないだろう。
 結局のところ、透程度では脅威でも何でもないのだ。そのことに落胆し気が重くなる。つまりは自分の死はそうそう逃れられないことだからだ。
「もしもーし。透、どうしたの?」
 電話に出たのに声を出さないことを訝(いぶか)しんでか、電話の相手が再三のコールをしていた。
「ああ愛夏、何でもない。今のところ、大丈夫だ」
 嘘は半分。何でもないわけではないが、今大丈夫なのは真実だ。電話を切った後は地獄だとしても。
 透は多分に真実と嘘を織(お)り交ぜて愛夏にこちらが危険だということを悟らせないつもりだった。
 危険な目に合うことの少ない日本でそんなことに頭が回るのはよほどのイカれた人物か常日頃からそんな目に合うと覚悟をしている者ぐらいである。それでも心配を掛けさせないという意味で透は神経を使った。
「そう? 家に帰っても誰もいないから電話したんだけど。ポロも珍しく出かけてるみたいだったし……」
「へえ、ポロが? たまには運動しないといけないからちょうどいいんじゃないかな」
 微苦笑さえ浮かべてそうな口調ではあるものの、実際の透の表情は固い。声の震えにそれが出なければ良いと思いつつ透は会話を続けた。
「透? 何か変だよ。やっぱり何かあったんじゃないの?」
「ほんとに何もないよ。大丈夫。そんなに遅くはならないから」
 安心させるために身の安全を示す言葉を多用した。けれどそれが不味(まず)かった。遅くはならないという微妙に真実を含みそれでいて間違いであることを言ったのも失敗だったのかもしれない。
 愛夏は敏感(びんかん)にもそのことに気付き言及しようと声を荒げた。
「嘘っ。絶対に何か隠してるでしょ。いつもより饒舌(じょうぜつ)だし」
  そんなに普段は口数が少なかっただろうか。というか無口だと見られていたのか。
 何気に酷いことを言われた気がしてげんなりし、それも目の端に映る今にも襲い掛かってきそうな男の姿を見て一気に憔悴(しょうすい)した。
 ある意味板挟(いたばさ)みと言えなくもないことに、これほどに最悪な板ばさみが恋愛沙汰(ざた)以外にもあったのだなと身を以て知り、したくもない感心をする破目(はめ)になった。
「だから何もないって。愛夏、この前の事で神経過敏(しんけいかびん)になってるんじゃないか? 今日は少し早めに休んだ方が良い」
 二目と見られない姿にでもなった時、少しでも伝わるのが遅ければいいと透は思っていた。こんな訃報(ふほう)など一生掛けてでも隠蔽(いんぺい)したい気分だ。
「そういえば今日の用って何だったんだ? 隠し事してるって言うならまず自分のことから言ってみたらどうだ?」
 最低なやり方とは知りつつもついつい透は相手の言えない事情(、 、 、 、 、 、)に水を向ける。
 隠れて大きなイベントを画策してるらしい彼ら仕掛け人には仕掛ける対象にどんなことをするのか悟らせたくはないはずだ。そこら辺を重点的に突けば相手が答えに窮(きゅう)するのは目に見えていた。
 その対象にすでに知られてるとは知らず。まあ、何をするかまでは知らないのでそれは当日までのお楽しみといこう。生きていればの話だが。
 どうしても後ろ向きなことばかりに考えがいく。そのことに嫌気が差しながらもそれが現実であり今更逃避のしようもないことである。悩んでも仕方ない。ここは一つ開き直って行った方がだいぶ気楽だ。
「うう~」
「なんだ言えないのか? しょうがないな。言える時になったら言ってくれ。今はそれで良いから」
「う……ん」
 案の定、愛夏は何も言うことができず透の言い分に上手く丸め込まれてくれた。電話が終わってすぐに気付くような稚拙(ちせつ)なトリックでしかない。後で会ったら怒られることは必至(ひっし)であろう。
「それじゃあ切るぞ。後でな」
 相手の返事を待たずに電話終了のボタンを押す。
 終わらせてすぐさま飛び掛かって来るかとも思ったがそれはなかった。一先ずそれに安堵(あんど)しながら意識を全て男と死神へと傾(かたむ)ける。
「一つ訊くぞ」
 金茶の男が思いも掛けないことを口にした。
「今の電話の相手、香則愛夏(かのりあいか)か?」
 肌が粟立(あわだ)つ、とはこのことを言うのだろう。背中に電流が走ったかのようにピリピリと皮膚に不快な痒(かゆ)みを与え、体の随所(ずいしょ)が必要以上の力を加えられて凍(こお)る。
「みたいだな。こりゃあ、大物を引き当てたか」
 男が愛夏の名を知っていることに殊更(ことさら)の違和感はない。あの飛行機事故のことがあってからニュースで散々〝奇蹟の少女〟として取り上げられたのだから。
 むしろ問題は男が愛夏に興味を持ったことである。明らかな異常者であるこの男が次に何をするかなど考えるまでもない。
 吐き気を催(もよお)す自分の想像に心中で制裁(せいさい)を下し、あのマスコミ(ハゲタカ)どもと同じようなことをするに違いない目の前の男に改めて怒りを覚えた。
 はっきり言ってしまえば、今度のが一番大きな怒りであった。それまでこの男に抱いてきたのは甘さの残る怒りだった。自分でもどうかしてると思うが、本当にそういう部分があったらしい。
 つくづく煮え切らない性格だ。
 心の内で毒吐き透は拳を握り締めた。
「あの人が仕留め損なったのを殺れば、この俺も箔(はく)が付く。運が良いぜ」
「仕留め、損なった?」
 何やら不穏な言葉が男の口から漏れだし始めていた。
 冷たい汗が一筋、つつと流れる。
 聞いてはいけない言葉がこれから出そうで、頭がぐわんぐわんと酩酊(めいてい)したかのように痛み出す。
 視界もまともな状態ではなくなってきていた。
「てめえはあの事故のことをどれくらい知ってんだ? ただの事故か、それともあれを見たのか」
 舐めるように視線を這(は)わせる男は続きを訥々(とつとつ)と述べる。
「その顔じゃあ何か見たようだな。もっとも、真相は知らねえようだが」
 視線に喜色が強く混ざる。
「俺だって名前も顔も知らない人だが、俺はあの人を真似てこんなことをやってるんだぜ。あの時のことは今でも身震いするほどの凄さだった。自分も同じ〝参加者〟であることにあれほど興奮したことは初めてだった。〝死神を操る〟、それがあの人の力だと俺は思うね。突然、飛行機のパイロット共が自分の死神に刈られる姿は爽快だったぜ。それからだ、俺がこうして事故に見せかけて殺るようになったのは」
 恍惚(こうこつ)な顔で、快活な声で、狂気に犯された目で男は語る。
 その様子に嘘や虚言といったものは見られなかった。妄想だと切って捨てるには似たようなことを見た透にできはしなかった。
「いいこと教えてやったんだ。しっかり泣き喚(わめ)けよ」
 都合の良い事を言う男には構わず、透は唇を噛んだ。
 血でも出れば、と思ったがそう簡単に唇が切れるはずもない。そして透はそんなくだらないことを考えた自分に腹が立った。
 何もここでそうならなければいけないという法はない。余計なことに気を巡らせる余裕もないというのに、どうしてかそんなしなくてもいいかっこつけに走ってしまう。
「どいつもこいつも…………くだらない」
 ただのまねっこにこっちは付き合わされたのか。どこの誰とも知らない糞野郎が今度の事件の発端か。
 険呑(けんのん)・険悪・嫌悪というレベルを跳び越え、もはや感情の一片さえ生まれなかった。
 しかし爪も牙も力もないのに傷を負わせられるのか。
 透はまたもやくだらない自問に帰ってくることにほとほと嫌気が差した。
「そう簡単には変われないか……」
 意識して変えられるのにも限界はある。後はそれをどれだけ実現できるようにするかだ。
「お喋りは余計な時間ばかり掛かるな。こちとらそれなりに殺しをやったところであのガキのことを思い出したんだ。感謝はするが手加減はしねえぜ」
「しててこの様(ざま)か。一体どれだけの時間が経った? 十分か、二十分か、三十分か、それとも一時間か?」
 やっと分かった。相手の弱点。どうして気付かなかったのか。ずっと前から何回もヒントは出ていたというのに。
「てめぇっ、調子に乗ってんじゃねえぞ!」
 予想通り中身は小物だ。
 透は自分との実力差はともかく相手の三下ぶりに感謝した。相手が三流どころじゃない五流の相手だったことは運が良かった。
「もう一度言うぞ。お前は、声をすぐに荒げるほどの三下だ。下っ端(ぱ)」
「このっ……アウローッ!」
 これまで見せた中にはない、大胆不敵な様子に相手はぶち切れた。本当に、これぐらいで挑発に乗ってくるようなので良かった。
「うおおぉぉぉぉっ」
 透は男が死神を呼ぶと同時に走り出していた。
 狙いは一つ、男を思いっ切り殴ることである。自分の死神を護りもしない、捨て身の特攻。
 透が気付いた相手の弱点。それは男とアウロー自身にあった。
 今までアウローの攻撃は命令されなければ絶対にしては来なかった。男が美浜に襲われた時も、傍観(ぼうかん)していたアウローならば気付いてしかるべきことなのに、一歩もその場を動かなかった。
 次に、アウローへの命令はほとんど名前を呼ぶだけでされていた。細かなことは口にしていたが、それ以外は短い一言である。まるで男の考えていることが(、 、 、 、 、 、 、 、 、 、)ある程度分かる(、 、 、 、 、 、 、)かのように(、 、 、 、 、)男の思うよう攻撃を仕掛けていた。もしも違う動きをしていればあの男のことだ、必ず恫喝(どうかつ)していたはずだ。
 けれどこれだけでは確証はない。
 自分の中でその答えを確定付けたのはついさっきの出来事だ。
 携帯が鳴ってできた一瞬の空白。それは男の思考さえも空白にしたに違いない。そしてあの位置まで来ていれば止めることの方が難しいのにピタリと止まった。
 それは男の思考が止まったからではないか。あんな不自然に止まったのは死神がまともな物理法則から外れているから。普段は触れられない死神のことだ、それもありだろう。その上、宙に浮いていたし。
 だからといって確実ではない。それでも直感も合わさって絶対にそうだと透には言い切れた。
 構えも何もない、がむしゃらで直向(ひたむ)きに走っただけ。男はそれを見て嘲笑(ちょうしょう)する。
「せめて一発だけでも、ってか? 残念だな、その前に終わっちまうぜっ」
 唐突に、本当に不意に男は目を剥(む)いて固まった。
「んなっ……そんなのありかよ! 嘘だろっ。何でこんばぁっ」
 驚愕(きょうがく)の声を上げ忘我(ぼうが)してしまう男。
 その男に殴ることだけを考えていた透に男の言葉は耳に届かない。透はそのまま腕を振り切っていた。
 顔面粉砕(ジャストミート)。
 文字通り鼻っ柱を折られるような勢いで拳が入り男は転がった。
「あ……が、が。ご、ごんな。ぐぞっ、でめぇ……よくも殴りやがって。そんな卑怯な手使いやがって――っ」
 完全な逆恨みによる逆上。片手で押さえた顔からは血がどばどばと流れ出していた。
 憤怒(ふんぬ)の形相で透を睨(にら)み付けるも床に倒れ伏した流血者では話にならない。しかもあまりの手応えに本人は自分でも驚いていた。今は何を言っても聞こえそうにない。
「覚えてろ。絶対に復讐してやる!」
 三下に相応(ふさわ)しいお決まりの文句を言って逃げ出す金茶の男。
「透!」
「大丈夫かっ」
 入れ替わるようにして反対の方向から現れたのはあの二人。
 美浜は護身用にとでも拾ったのか何かの硬そうな骨組みを手にしていた。
 真一の方は付いて行くのに精一杯のようで美浜の少し後ろを走っていた。
「え、ああ。大丈夫だ。心配ない。あの男も、さっきどこかに行った」
 よく分からないままも透は答える。
 その態度が気に入らなかったのか真一は透に掴み掛かってきた。
「バカ野郎っ! 何勝手に一人で行動してんだよっ。てめえの身が一番危ねえのは分かり切ってたことじゃねえのかよ! 結果的に無事ならそれで良いってもんじゃねえだろうがよぉっ」
「こらっ、真一。あんたは心配だったの分かるけど強く掴み過ぎ。気絶しちゃってるよ」
「へ?」
「……………………」
 緊張の糸が切れたのと、突然の首絞めとのコンボが見事に決まり透は気絶していた。きのせいだろうが真一にはエクトプラズムが見えた。しかし自分は霊能者でもないし今までそんなのが見えたことはないので焦ったあまりの幻覚として無視した。
「悪ぃ。すまん。許せ」
 それでも真一は謝った。決して本当に死に掛けていたからではない。断じて、違うと真一は心の叫びを上げた。
 合掌(がっしょう)。
「ミ~」
 どこかでそのことを儚(はかな)むような猫の鳴き声が、無常の風として彼らの周りに流れた。
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