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第二章 ~募る不安~ 4

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 そこはもう一つある実験室と同じ造りだった。
 違うのは器具ぐらいなものだ。
 『実験室1』は二つの部屋からなる。
 こちら側から入ってすぐにあるガラス張りの小部屋と、実際に実験をする大部屋との二つに。そして小部屋から大部屋に行くにはあちら側にいる者に鍵を開けてもらわなければ行くことはできない。
 それから『実験室1』の大部屋には注射器などの医療器具が置いてある。
 注射器での薬の投与と採血が実験の行為だが、解剖をすることもある。
 それは薬を打たれたことで異形と化した者を隅々まで調べるためである。たまにまだ人間の姿を保っている者も解剖されることがあるがそれは彼が来てからまだ一度しか見たことがない。
 彼らは小部屋に五人ほどだけで入ってガラスを通して向こうを見た。
 そこには虚ろな表情をした男の子とすっかり人間としての原形を留めていない化け物が鎮座していた。
 男の子の方には誰もいないが異形と化した方には白衣の者たちが群がっていた。
 口々にこれはまた随分と変化したものだ、新種か、いや五代前のA―2に似ているぞ、確かに似ているな、この触手は海洋生物の物に近いなと言っていた。

「あれが、シー」

 鈴鳴と手を繋いだ少年が怪物を指差した。
 怪物は静かに呼吸を行っているようだった。
 その姿は幾つもの触手が生え、全体的に黒く変色し、大きさは一メートル超で無理にでも似ている生物を挙げるなら直立したトカゲから寄生虫がぼこぼこ出てきたらそうなるだろうというようなものだ。

「アポはシーがいなくなった後に自分を見失った」

 アポと言う少年は、髪が金色で短く触ればさらさらした触感であること間違いなしの可愛いという表現がよく似合う。その目にまともな生気があれば、だが。
 廃人と化したアポは、何一つ言うことなく、瞬き一つすることなくただそこに存在していた。まるで置物のように。ともすれば息もしていないのかと思うほどだった。
 どれほどの時間が経っただろうか。彼らがアポの様子と新たなシーの受け入れに勤(いそ)しむのに十分な時間があるほどだった。
 すっかり白衣の者たちの興味を失い、思い出したようにアポと小部屋に帰された。そして彼らはアポに声を掛ける者と変わり果てたシーに抱き付き、歓迎を示す行動を取る者とに分かれた。そしてそれは両方が一通り終わってから、抱き付いた者とアポに声を掛けた者と入れ替わってまた行われた。

「狂ってるぜ。あんな化け物を友達って言う神経がな」
「まあそう言うな。こんな風になったのは俺たちの責任なんだ。せめてそんなことを言うのはなしにしよう」
「はっ、情を持っちゃ人体実験なんざできなくなる」
「なんにせよ、あいつらの社会形成に俺たちが口出しをするべきじゃないのさ。下手をすれば化け物どもに喰われる。あのガキどもでさえ喰われることがあるんだ。ほっとこう」

 学者たちは侮蔑と軽蔑の眼差しで子供たちを見ていた。そこには誰も一片の欠片ほどの他の感情はなかった。
 あるのはただ人を人と見ない人間特有の、暖かくも冷たくもない温度そのものが存在しない眼だった。


                ◇◆◇◆◇


 フェレン・アノガリーがシースと言う支部の中で嫌われている者と一対一で対峙したのは、彼のパートナーがいなくなってすぐのことだった。
 半年に一回ある大量健康診断という大仕事を終え、冷たいオレンジジュースを片手に歩き飲みしていると俄かに辺りが騒がしくなった。

「重傷人が通ります。道を開けてください」

 一人の看護師と二人の医師がすぐ脇を、患者を乗せた担架を伴って通って行く。
 患者は背中をやられたらしく俯せで輸血をされながら手術室へと入って行く。

「いまのは?」

 近くにいた看護師に尋ねる。

「駈虫五体を相手に戦ったそうです。相手はどうにかしたそうですが、依頼主を護って背中を裂かれたそうです」
「どうして輸血なんてしてるかな。今見たのだとかなりの時間傷を放って置かないとああはならないんだけど」
「それは……」

 看護師が手術室を見て、迷うように言った。

「本当に、全ての人を救うべきなのでしょうか」

 フェレンは目を見張った。人を救う仕事にいる者が、それを否定するようなことを口にする。それはおかしな事だ。

「なぜ? それが私たちの仕事よ」

 看護師は目を合わせない。

「いまの言葉は患者の前で言うべきじゃないわね。首を撥ねられても文句は言えないわよ」
「はい……」

 歯切れの悪い看護師に、フェレンは苛立ち憮然とした表情で問い詰めた。

「どうしたのよ。まさか人を助けることに救いが見出せないって言うんじゃないわよね」

 人が人を助けるのにも限界はある。それを頭で認識してはいても現実として捉えられる者は新任の中には少ない。こうして悩む者も少なくないのだ。

「いえ、そういうわけじゃないんです。ただ……」

 彼女は再び手術室を見た。
 そしてそれでやっと彼女は気付いた。いま手術室にいるのが誰なのかを。

「彼、なの?」

 こくんと頷く看護師。フェレンが謝ろうとした時、運悪く目の前の看護師を呼ぶものが現れた。
 声を掛ける暇すらなく去っていく看護師。フェレンはばつの悪い顔でそれを見送った。

「災厄さえも蹂躙する怪物を心に持つ者。その怪物は最醜(さいしゅう)ミケイナと呼ばれ数多の敵も味方も滅ぼした……」

 五年近く前、今の支部長が就任と同時にどこからか連れてきた少年。年齢は確かまだ二十歳にはなっていなかったはず。

「八年前の大事件の張本人と言われている者」

 何が起こったか駈虫たちが恐ろしいまでの数で群れを成して町々を荒らし回っていた時、編成された三十人の精鋭部隊が敵と共に全滅。中には怪物使い(ワンダーシープ)までもがいたというのに起きた最悪の結末。それを引き起こしたのが当時十二、三歳の少年である彼。

「説明も何もなく彼は試験さえ受けずにガベル第六支部の隊員となり初めはやっかみをされていた彼もその実力で周りを認めさせた。しかしそれと比例して彼の異常なまでの命令遵守と仲間意識のなさに周囲は反発、かくして然程の時間を必要とせずに支部長直属の部下となることで事態を沈静化させた……」

 しかしそれでもパートナーはできるだけ付けねばならずそれによって死した隊員の数は二桁に上る。

「そしてついこの前最悪の事態を自らの手で行った大罪人。助けたくもなくなるわね。でも、それでもやるのが私たちの仕事。人によって治療が違うなんて信頼関係崩壊の発端になる。感情が嫌がっても理性で手術は行わなければならない。救急搬送班はぎりぎりのところで理性が勝ったようね。……でもいま手術台にいる者たちは、勝てるかな」

 空になったカップを見つめ、おもむろにそれを握り潰してゴミ箱に投げると走り出した。
 人気のなくなった手術室前の廊下に、しばらくして誰かの駆ける音が響いた。
 手術着に着替えたフェレンが部屋の扉を勢い良く開けた。

「さっさと患者を助けるわよっ。そこっ、ぼさっとしてない!」

 ぎりぎりのところで手術は成功したが、シースが入院を拒んだ為に保健室へと通うことになった。
 背中の傷は深かったが跡になることはなかった。フェレンはその事に疑問を持ち、この五年間、彼だけが外の医者に定期検診をさせていたことを知った。
 不意に頭に浮かんだ荒唐無稽な考えを否定するため、独自に通ってくる彼を少しずつ調べていった。
 結果。予想以上にやばいことに首を突っ込んだと知ったときには時すでに遅く、彼女は支部長にしていたことがばれてしまった。
 暗殺も覚悟したが、結局は口止めをされただけで事は済んだ。
 だが彼女の頭には自分が辿り着いた答えがしっかりと残っていた。
 そして彼女はシースに事の次第を話し彼自身から肯定を受け取った。
 それからフェレン・アノガリーはシースに全面的ではないものの味方として知られていった。
 彼が排斥(はいせき)されなかったのは好(よ)き人格者である彼女と、当の被害者であるビュアネがそれを良しとしなかったこと、新たなビュアネのパートナーたるゴロイまでもが止めたからに他ならない。

「ビュアネは性格的な結果の一つとして受け止められるけど、ゴロイさんまでもとなると彼もまた知っているのかもしれないわね」

 どこまでかは知らないけど。
 心の中で付けたし、彼女は静かなるシースの味方として日々忙しい仕事をこなしていく。


                ◇◆◇◆◇


「人体実験を受けたの?」

 単刀直入にフェレンは訊いた。
 脈絡も前振りもなく突如言われた言葉に、目の前の青年は微かな表情の変化もなくこちらを見つめ続けた。

「この前アウロイ支部長にあなたのことを調べているのがばれたわ。まさかあれぐらいのことでこうまでして調べ上げる者がいるとは思ってなかったと言っていたわ」

 変わらない。何一つ。

「八年前のあの大事件の現場、あそこに全ての原因があったのでしょう? 駈虫たちが群れを成したのさえも」

 ほんの少し、ほんの少しだけ感情が表れた。だがそれが何なのかは彼女には分からない。それほど親しい間柄でも付き合いも長くない。

「怪虫という世界的脅威を掃(はら)う為、建設された施設があそこにはあった。そしてあなたはその施設の生き残り。何があったのかはまったく分からないけど、おそらくあなたが自分の目覚めた力を使って脱走したのだということは分かるわ」

 何も言ってこない。
 少し間を置いてから続きを口にした。

「あなたのその確実に怪我を治す治癒力、爆発力はないけど必ず深い傷さえなくなるのは、実験の成果?」

 答えはない。しかし耳を塞いでいるわけではない。ちゃんとこちらの話を聞いている。

「何があったの? あそこで。何年経っても心ができないのは実験の後遺症?」
  不躾な質問だとは理解していた。しかしそれが彼女の性分であり昔から直すことのできなかった天性だ。

「何を研究していたのかは分かるわ。怪虫を人間の手だけで倒す者を作るのが目的だったのでしょう。長い時間や人員を使っての退治では全てを駆逐することはできない。かといって心に怪物を飼う者たち(ワンダーシープス)では数が少なくまたその特性ゆえに私たちに協力してくれる者は更に少ない。だからただの人間でも怪虫と戦えるように人体実験をしていた。あなたはその中でも特殊な能力を持つ者として研究の対象として施設に入れられていた。……でもね、調べたことと推測したことで分かるのはここまで。それ以上はまったくの闇の中」

 気が付くと彼はこちらをねめつけていた。おそらく彼にとってとても不愉快なのだろう。好き勝手にあれこれと言われるのが。

「どんな実験をしていたのか、どんな成功体がいるのか、そんな施設が幾つあったのか、いまも存在してるのか、そんなのは分からなかったの」
「それはお前にとってどうでもいいことだろう」

 やっと返ってきた言葉はフェレンを突き放すものだった。
 当然と言えば当然の返答に、フェレンは笑った。

「そうね。ほんと、どうでもいいこと。でもあなたと話をするには何でもいいから気を引くことを言わなければと思ってたのよ」

 睨みつけてくるシースの視線を軽く流し、紐を手繰(たぐ)り寄せるようにシースの気を引いた。

「アウロイ支部長から直々にあなたのことを頼まれたわ。といっても体の方だけだけどね。それでもあなたとは一応でも信頼関係は結んでおきたかったのよ」
  医者と患者の間に信頼関係がなければいけないから。
 そう言ってシースを見る目には、不安が現れていた。
 拒絶されることへのものか、別な何かかはシースには読み解けなかった。

「ま、良いやり方でないのとは思っているけど、これ以外に私はあなたと面と向かってものを言う度胸がなかったのよ。嫌なら嫌で良いわよ。でも私があなたの秘密を知っていることを忘れないで」
「秘密と言うほどのものじゃない。隠せと言われたから隠しているだけだ。言い触らしたいならいくらでもするがいい」

 シースは嘆息した。
 フェレンは初めて彼が普通の人間らしい行動を取ったのを見た。
 これは、少しは心を許してくれたと見るべきなのか知らね。
 彼女は微笑んだ。

「なぜ微笑む?」
「意外とどんな表情がどんなのかは分かってるのね」
「お前が言う施設では俺の他にも実験体がたくさんいたからな」
「ごめんなさい」
「謝る必要は認められない。理由もなくそうされるのは不愉快だ」

 フェレンはシースが自分の境遇を不幸だと思っていないと気付いた。なら同情やそれに類するものは彼の過去を否定するようなものだと考えた。

「いつもそんな風にとは言わないけど、それぐらいはっきり自分の感情を言えばあなたへの風当たりは改善されるわよ」

 シースは口を噤(つぐ)み、何も言葉を発しない。

「今日はこれで終わりよ。経過は順調。どこにも異常は見られないわ」

 シースは立ち上がり、部屋を出るためにドアへと近付いた。

「まだ三回は来てもらわなくちゃいけないわ。忘れないでね」

 シースは考えるようにドアの前で立ち止まる。
 しかしそのまま振り向きさえせずに静かにドアを開けて去って行った。


                ◇◆◇◆◇


 試験管の中、一人の少女が揺れている。
 少女は様々な薬品の混ぜられた、呼吸しなくてもしばらくは死なない液体の中にいた。
 周りには白衣の大人たち。誰もが忙しなく動いている。
 少し離れたところに目をやると、一人の少年が立っていた。
 ガラスの向こうからこちらを見ている姿は、名前を自分に付けることを提案してからできるだけ実験の様子を見に来ている。特に彼女のは必ず。
 揺れる体が液体を動かす。意識して彼女は手を彼の方へと向けた。
 それを見て彼も手をガラスへと、その先にいる彼女の方へと伸ばした。

「――――」

 それが彼女の最後の言葉だった。
 彼女は少年の前で細胞の一片すらも残さず泡となって消えた。
 最後に見た光景は、初めて見る少年の悲しそうな顔。いままで寂しそうな顔と不機嫌そうな顔が常態だった彼の、初めての表情に彼女は満足した。
 少年は、涙を流さなかった。
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