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最終章:空に贈る手紙~後編~

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 軋む階段を、朝の冷気に身を縮こまらせながらもゆっくり降り、まずはストーブを点火しましょう。

 キッチンでお湯を沸かします。

 湯呑に温かい緑茶を淹れ、いつも食堂を見渡している窓辺の丸椅子に腰かけて。

 じわり、と寝起きの身体があたたまって、ほっとひと息。

 空はまだ濃紺で、流れの早い薄雲の影から、丸いお月様が隠れては出てきて、また隠れては出てきて。

 薄雲に滲む青白い月明りに、山の稜線が微かに白んでくるこの時刻。

 静かで、穏やかで。

 そんな食堂にひとり座っていると、陽が昇ってからやって来てくださるお客様と、楽しい笑顔、笑い声を想像して、自然と笑顔になってしまいます。

「タツ子さん。そちらの世界では、あの日亡くなった次男さんには会えましたか?」
 
 答えの返って来くることのない問いかけは、ただ静かな食堂に霧散するばかり。

「あうぅ」

「あら、ぽんすけ。おはよう。ごめんね、気が付かなかったわ」
 
 いつからそこにいたのでしょう。

 私が起きた時にはまだ寝息を立てていたぽんすけが、すぐ足元でくつろいでいます。

 揃えた前足の上に顎を乗せ、上目遣いでぺろりと鼻先をひと舐めしました。

 陽が昇り、葉子さんが起きてきたのは七時過ぎ。

 ふたりでご飯と納豆、お味噌汁と卵焼きで朝食を済ませ、洗濯、お掃除と一日が始まります。
 
 お散歩に出た葉子さんとぽんすけを店の前でお見送り。

 刈り取り後の枯れ色となっていた田んぼも、冬の朝は凍てついて真っ白です。

 道の端に生える雑草も氷の粒を纏い、まるで産毛のよう。

 そんななかにも、綿毛のたんぽぽが沢山佇んでいました。

「さて」
 
 テーブルを拭いた布巾を洗って干し、私が刺繍を施したランチョンマットが入った籠をカウンターに用意して。
 
 今日のおにぎり定食のメニューをメモ用紙に書き出していきます。

 おにぎり(梅・鮭・おかか・昆布・ツナマヨ)
 田舎味噌のお味噌汁(ネギ・油揚げ)

「白菜に水菜、大根に椎茸と……そういえばタラもあるのよね。ひとり鍋なんてのも良いかしら」
 
 この時期のタラは脂が乗っていて、せっかくですから皆さんに食べて頂きたいものです。

 えのきやお豆腐なんかも入れちゃいましょう。
 
 レタスの浅漬けで、さっぱりと。
 
 献立を書いたメモ用紙は、葉子さんに清書してもらう為のA4の紙と鉛筆を添えてカウンターに置いておきましょう。

「さぁ、今日も一日、良い日になりますように」


 一時間程お水に浸けたお米を火にかけ、お味噌汁の具材となる揚げに熱湯をかけて油抜きをしている私の隣では、葉子さんが何だかいつも以上に機嫌よく――葉子さんは基本的にいつもご機嫌ですが、今日はぽんすけの散歩から帰ってからというものの、ずっとこの調子です。

 特に鼻歌を歌うだとか、踊り出すわけではありませんが、さっきからしきりに外の様子を気にしているようで。

 車の音がする度に「あっ」とか「車ですかっ?」と反応しっぱなしです。
 
 食堂の玄関が開いたのは、もうすぐ十一時になるという頃でした。

「こんにちは、ハルさん。ちょっと早いけど良いかな」

「あら、栗原さん。それに日下部さんも。いらっしゃいませ」
 
 やっと扉が開いたものですから、もちろん葉子さんは盛大に「来たっ」と白菜を切る手を止めましたが、待っていた相手では無いのか「あ、いらっしゃいませ。こんにちは」といつもの調子でにこやかに出迎えていました。

「二人で大掃除してね。疲れたから早めに食べに来たんだよ。母さんは橘さん所の奥さんと後で来るから。あとね、白井さんもさっき会って、物置の片付けが済んだら来るって言ってたんだが……大丈夫か、一気に押しかけてしまう事になるが」

 ストーブの傍のテーブルの、日下部さんが下げた椅子に腰を下ろし、心配そうに栗原さんが眉をひそめました。

「大丈夫ですよ。ほら、昨日栗原さんから頂いた白菜。大きい上に沢山頂きましたでしょう。河田さんにもあの後に水菜を頂いたんですよ。私も育てていますけど心もとない量でしたから、皆さんに頂いたお陰で食材はたっぷりあるんです」

「ほう。今年のあの爺さんの野菜、しっかり味わってジャッジしてやらんとなぁ」

「もう、相変わらずですね。お二人のお野菜、どっちも立派で美味しいじゃないですか、ねぇ」
 
 日下部さんが苦笑しながら、マフラーを外し、ダッフルコートを脱ぎました。

「えぇ。お二人のお野菜、みなさんが美味しいって召し上がられますよ」
 
 白菜は栗原さん、水菜は河田さん。橘さんには新米を頂きますし、大根やレタスは昨日、佐野さんに持ってきて頂いた物。

 皆さんが丁寧に育てたお野菜で、このお店は成り立っているのです。

「えーっと、おにぎり定食は……栗原さん、ひとり鍋ですって。ほら、白菜、水菜って栗原さんと河田さんのじゃないですか」

「なんだ、あの爺さんのと同じ鍋に入るのか。じゃあこれにしよう。ハルさん、おにぎり定食で頼む。おにぎりは昆布で」

「じゃあ僕もおにぎり定食。同じく昆布でお願いします」

「かしこまりました」
 
 土鍋から甘い香りが立ち昇って来ました。

 あとは蒸らすだけですね。

 それから間もなくして、栗原さんの奥様と橘さんご夫婦、途中で会ったのだという白井さん、河田さんが一緒にいらっしゃいました。
 
 河田さんがいらしてからというのは、言うまでもありません。

「なんだ、あんたの野菜と同じ鍋に入るのか」と河田さん。

「わしが同じ鍋に入るだけの出来かジャッジしてやる」

 肩眉を吊り上げて、少々上から目線で言う栗原さん。

「はんっ、何言ってんだ。それはこっちのセリフってもんだわ。今年はイノシシに荒されて大変だったんだろう。ひーひー言いながら柵立てとったの見たぞ」
 
 そんなこと言っとらん、あんたの畑に足跡付いとったの見たぞ、うちは対策やってるからあんたの畑と一緒にするな……
 
 言い合うふたりをなだめる日下部さんも、どこか諦めているような、面白がっているような。

 賑やかで微笑ましい光景を私も楽しみながら、軽く湯通ししたレタスに塩とごま油を和えて、小鉢に盛りつけていました。

 皆さん、お一人お一人のお料理を、葉子さんと手分けして運んでいると、外から車のエンジンの音が聞こえてきました。
 
 日下部さんと栗原さんご夫婦のテーブルにお料理をお出ししていた葉子さんが、はっと窓に視線を向けました。

「来たっ」
 
 食堂の脇の空いたスペースに止まった車から降りてきたのは、佐野さんご夫婦と、奈子ちゃんです。

 こちらに気付いた奈子ちゃんが満面の笑みで手を振っています。

 奈子ちゃんと手を繋いだ美香さんと、二人が降りたドアを閉めた雅紀さんが「どうも」と口を動かしながら会釈していました。

「あらぁ、可愛らしいお嬢さんね」
 
 奥様お二人は、挨拶をした奈子ちゃんを見てうっとりと目を細めています。

「まどかもあんな頃があったわねぇ」と栗原さんが懐かしむように言い、橘さんの奥様も「そうね、つい昨日の事みたいねぇ」と昔話に花が咲きます。

「お母さん、私もあれ食べたい」

「お鍋?良いわね、寒かったから私も同じのにするわ」
 
 葉子さんがお出ししたお茶の湯呑に両手で添えながら、色の白い肌をほんのりピンクに染めた美香さんが言います。

「じゃあ、三人同じのでお願いしま――」

「ねぇ、おばさん。お鍋ってひとつのでできる?」
 
 雅紀さんが言うのを遮るように、奈子ちゃんが身を乗り出しながら声を上げました。

「できますよ。葉子さん、三人から四人用の土鍋出しましょうか」

「はーい。確かこっちに……あったあった」
 
 美香さんと雅紀さんは梅干しのおにぎり。奈子ちゃんはツナマヨ。

 最近は子供もお客様として来てくれるようになったことから、ツナマヨもすっかりレギュラー入りです。

「こうして三人でお鍋ってしたことないよね」
 
 雅紀さんが言いながら、レタスの浅漬けをひと口食べて「うまっ、レタスって浅漬けもありですね」と目を丸くしました。

「本当ね、なんだか良いな。昔の自分には想像できなかったな、今の幸せな自分の姿」
 
 美香さんがそっとお豆腐をすくい、手元の小皿に移します。

「お鍋楽しいね。テレビで見たんだ、こうやってみんなで食べてるの。楽しそうだったから、一度やってみたかった」
 
 奈子ちゃんが大きな口でツナマヨのおにぎりにかぶり付きました。

「ばあさんが死んでから、ひとりでずっと引きこもっていた自分が嘘みたいだよ。この食堂のお陰で――ハルさんや葉子さんのお陰で、まだまだ長生きできそうだよ」
 
 白井さんが「ありがとうね」とタラの身をほぐしています。

「梅雨時期やイベントになったらゲンさんも来るだろう。ここにはいつも人が集まって、ここに来れば必ずハルさんや葉子さんの笑顔がある。元気なぽんすけが迎えてくれる」
 
 橘さんがお味噌汁を飲んで、ふぅ、と至福のため息を吐きました。
 
 名前を呼ばれたぽんすけは、玄関横のクッションでくつろぎポーズのまま嬉しそうに尻尾を左右にゆっくりと振ります。

「タツ子さんも、この食堂を始めたハルさんを見て、凄く嬉しかったようですし。良かったですね、ハルさん。このお店を始めたことで、幸せになってるんです。凄いです」
 
 葉子さんが洗った食器を拭きながら「私もそのひとりです」と微笑みました。

 みなさん、それぞれに談笑し、お料理を食べ、楽し気な空気で食堂が一杯になるのを、私は丸椅子に座りながら楽しんでいました。

「おばさ――ハルさん」
 
 一足先にお腹いっぱいになった奈子ちゃんが席を立ち、私の元に小走りでやって来ました。

「あら、どうしたの?おばさんでも良いのよ」

「ううん、私もハルさんって呼びたいなって。あのね、それでね」
 
 お手洗いかしら、と私も腰を上げようをした時、奈子ちゃんの言葉に思わず時間が止まったような感覚になりました。

 お客様の声も、笑い声も、ぽんすけの足音も、全てそこにあるはずなのに、私の耳が驚きのあまり機能しなくなったかのような。

「それは……奈子ちゃんがってこと……?」

「そうだよ。駄目?」
 
 私は胸にこみ上げる熱いものをぐっと飲み込み、何度も頭を左右に振りました。

「駄目じゃないわ。まさか、奈子ちゃんがあの着物を着たいだなんて、びっくりしちゃって。嬉しくて、どうしていいかわからなくて……」

「あー、ハルさん泣いちゃった」

「ごめんなさい、ごめんなさい。ちょっと待ってね」
 
 皆さんに背を向けて、エプロンのポケットに入れていたハンカチで目元を拭い、軽く天井を見上げてゆっくり深呼吸をします。

「良いんですよ、ハルさん。泣けるのは、ここにいる僕たちに心を許してくれている証でしょうし。寧ろ、僕は嬉しいです。ハルさんには、それだけ沢山のしあわせな時間を頂いていますから」
 
 背を向けたままの私に向けられた、日下部さんの優しい声色。

「そうだよ。こんな田舎の村に来てくれた。年寄りの余生には、贅沢過ぎるくらい幸せな時間を貰ってるよ」
 
 栗原さんが言うと、河田さんが「なんだ、たまには意見が合うな」と、いたずらっぽく笑います。

「私たちが忘れてしまった習慣や、季節の美しさを、いつも大切に過ごしているハルさんを見るとね。歳を取った私らも、頑張らないとって思えるのよ」

「そうよ。ここで美味しいお料理になると思ったら、野菜もお米も、良いものを作らなくちゃって思えるの」 
 
 栗原さんの奥様に続いて、橘さんの奥様も穏やかな口調で。

「この食堂があったおかげで、わしは死んだ筈の孫にも会えた。ハルさんのおかげで、今もわしはここにいる。ひとりで暮らしていても、寂しくないんだよ」
 
 白井さんが、一言一言、慈しむように口にします。

 この食堂を始めてから、沢山の出会いがありました。別れもありました。

 四季のうつろいを肌で感じ、大地の恵みに感謝しながら。
 
 ゆったりと過ぎていく毎日。

 長いようで とても短い人生という時間。

 いつか終わる時が来るでしょう。
 
 それでも、その時にもきっと私はひとりじゃない。
 
 隣にはいつも葉子さんがいて、ぽんすけがいて。
 
 もし、ひとりになってしまったとしても、ここでの想い出は変わらず心のなかにあり続けるのです。

「みなさん、ありがとうございます。奈子ちゃんが大きくなるまで……あの着物、大切に置いておくわね」

「うん、よろしくね」
 
 奈子ちゃんの満面の笑みと、親指を立てたグーのサイン。

「奈子の成人式だなんて、楽しみだわ」

「本当だね。この前せっかく良いカメラ買ったから、大人になるまでの奈子を毎日とらなきゃな。それで成人式の一枚を撮ったら、泣いちゃうんだろうなぁ」

「ふふ、確かに雅紀君、大泣きしそうね。それより、カメラの練習頑張ってね。新人カメラマンさん」

「げ、ゲンさんに習おうかなぁ」
 
 食堂に沢山の笑顔が溢れています。

「こんにちはーっ。お、皆さんお揃いで」

「どうも、こんにちは」
 
 木ノ下さんと、まどかさん。その後ろから顔を出したのはゲンさんです。

「今年も終わる一枚を撮りに来ましたよ。いやあ、皆さん揃っていて丁度良かったですなぁ。まぁでも、その前に腹ごしらえといきましょうかな」
 
 ゲンさんとまどかさん、木ノ下さんが同じテーブルに付いて口を揃えて

「おにぎり定食でお願いします」

「私は、鮭にしようかな」

「僕は梅干しで。ハルさんの梅、好きなんです」

「お、青年気が合うな。俺も梅だ!」
 
 皆がそろってとても嬉しそうなぽんすけが、食堂の隅で尻尾をぶんぶんと力いっぱい振っています。

「ハルさん。おにぎり定食。鮭ひとつ、梅ふたつです!」
 
 葉子さんが腕まくりして手を洗います。

「はい。すぐご用意しますね」


 おにぎり食堂も、来年で七年目になります。
 
 来年もまた、皆さんの笑顔で溢れる年になりますように。
 
 
 おにぎりに梅を入れ、優しく握り。軽く炙った海苔を当てて。
 
 ほのかに甘い田舎味噌のお味噌汁の、優しい香り。

 
 どこからともなく、穏やかなそよかぜが食堂を流れ、
 
 窓辺の風鈴が、微かに鳴ったような気がしました。




 愛する美雪へ

 二十歳のお誕生日おめでとう。
   
 あなたが振袖に手を通すのを想像して、それはそれは、とても綺麗な姿だろうなと思います。
   
 そちらに行くまで、お父さんと待っていてください。

 ここはとても優しくて、静かで、平和で、あたたかい場所なの。

 優しいそよ風に包まれながら、日々を過ごしています。

 巡る季節のなか、澄んだ空を見てはふたりを思い出してばかり。

 美雪や明宏さんとここで過ごせたら、どれだけ幸せか。考え出すと切りがないけれど・・・。

 沢山のお土産話をもって、ふたりの元に帰りますから。
  
 あの日、出来なかったクッキーづくり。一緒にやろうね。
  
 あれから上手に作れるようになったのよ。

 ちょうど雪が降ってきました。

 田舎の静かな夜に降る雪はとても綺麗です。
  
 また会える日を楽しみにしています。
              
                お母さんより



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