夕陽が浜の海辺

如月 凜

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大切なもの

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朝から雨が降った。梅雨は明けたと天気予報は言っていたのに、重く厚い雲が空を覆っていた。

雫の好きな夕陽が浜の景色も、海霧に覆われて灰色にくすんで見える。荒れた海が、激しい波しぶきを上げていた。

「今日は海に近づいちゃ駄目だぞ」

海里が朝食の時に念を押すように言った。

「昨日はほんまについてたよな。湿度高くて晴れててさ。蛍、めっちゃ綺麗やったよね。なぁ、雫ちゃん。そう言えば足はどう?」

「うん。朝起きたらもう痛くなかったよ」

あんなに楽しかった夜に失くし物をしたなんて知られたくないと、なんとか笑顔を作って見せる。

食事を終えた後、洗濯物を干し終えた渚が二階から降りてきた。

「部屋干しは嫌やわぁ。明日は晴れてくれたらええんやけど。夏になったら台風とかもあるやろし。そういえば、今年こそ花火大会あったら良いなぁ。去年は雨やったもんな」

そう言って洗濯籠を置きに脱衣所に向かい、今度は箒とちりとりを持って二階に行ってしまった。

「去年駄目だったから、余計に雫には見て欲しいもんな。まぁ、花火大会は毎年やるからチャンスはいつでもあるんだけどさ」

海里が祖父の釣り竿を手入れしながら、雫に同意を求めるように言う。

 毎年、か。

自分には来年なんて無い。心にちくりと痛みが走る。

「私、掃除手伝ってくるね」

海里には心まで見透かされてしまいそうで、逃げるようにその場を離れた。


『ねぇ海里。あんた何か悩んでるでしょう?』

電話をかけて早々に、母が図星でしょとでも言うように笑いを堪えている。

「別に。大したことじゃねぇよ。母さんは自分の身体の事だけ考えろよ」

スマホをテーブルに置き、部屋の窓を開ける。夕方まで降っていた大雨も止み、涼しい風が流れ込んだ。

窓辺の椅子に腰を下ろし、気取られないよう飄々とした口調で返すが、やはりお見通しのようだ。

『海里には沢山我慢させて育てちゃったから難しいかもしれないけど、正直になりなさいよ。自分の気持ち、今はちゃんと出して良いんだから。お父さんと暮らしてた時、私は海里の話をゆっくり聞いてあげる事も出来なかったけど、今はちゃんと受け止めてくれる人たちに囲まれてるでしょう?』

父の暴力が海里に向かないよう必死だった母に、そんな余裕が無かった事は海里自身もわかっていた。

病床に伏せる今でも、母の言葉の端々には過去の事に責任を感じているのが伝わってくる。

もう良くなる事も無い。

ただその命を一日でも長らえる事だけを考えて欲しい海里にとっては、そんな事はどうでも良かった。

「別にあん時の俺は聞いて欲しい話なんて無かったよ。毎日を生きるのに精一杯だったんだから。あれは親父が悪かったんだ。母さんは守ってくれた。それが事実だろ。俺の事は良いよ。それより検査とかねぇのかよ。全然そういう話聞かねぇんだけど」

『大丈夫よ、心配しないで。海里がそこで笑ってくれてるのが、私にとっては一番元気が貰えるから』

海里はその言葉に笑ってしまった。海里が笑ってくれるのが。大切な人が笑ってくれるのが何よりも幸せだから。

それは昔から母が口癖のように言っていた言葉だ。

「それを言う時って、母さん自身が全く笑えねぇ時じゃん」

数秒。ほんの少しの沈黙が、奇妙な程長く感じた。母は黙ったまま、言葉を探しているようだった。

『何言ってんのよ。あ、いけない。もう消灯時間だから切るわね。おやすみー』

「おい、無視かよ。まぁいいや。じゃ、おやすみ」

母がからからと笑う。呆れた海里がスピーカーを切る。

『海里。ありがとうね』

微かにそんな言葉が聞こえた気がしてすぐスマホを耳に当てたが、もう電話は切られていた。

「あれ、海里どこ行くん?」

玄関で靴を履いていると、これから風呂に行こうとしていた渚が声を掛けてきた。

「ちょっと散歩してくるわ」

おばさんは今日も仕事に行っている。

渚は「鍵、ちゃんと持って行ってよ」とだけ言うと、さっさと風呂場へと消えてしまった。

七月に入ってから日々暑さが厳しくなっているが、やはり夜は家にいるより涼しい。

雨上がりのアスファルトからムッと立ち昇る匂い。風呂上がりで額に汗が滲んだ前髪を、夜風がかき上げる。

ジャージのポケットから取り出した煙草を咥えて火を点けた。

「ふぅ」

吐いた白い煙が、星が瞬く夜空に霧散する。

夜も九時を過ぎると、田舎のしおかぜ通りの商店は全てシャッターが降りてひっそりとしている。街灯の下をすました顔で歩いている野良のぶち猫とすれ違った。

ざん、ざんと波が砕ける音が聞こえ、やがて夕陽が浜の海が見えてきた。

波打ち際を灯台に向かって歩く。

雫はもう寝たのだろうか。

民宿・夕焼けの家の灯りが消えているのを横目に煙草を深く吸い、砂浜に胡坐をかいた。

黒い空に光の輪を伴う満月が昇っていた。

今夜はあの夜のような凪いだ海ではなく、大小の波が次々と海里の足元近くまで打ち寄せる。

 あの夜は、ジュンさんが来たんだったな。

『なんやお前。また来たんか』

そう言って一緒に海を眺めた夜。だけど今はもう、どれだけ待ってもジュンさんが隣に座る事も無い。

ぶっきらぼうで言葉は少ないながらも、海里の生き方を変え、背中を押してくれた人は、もうどこを探してもいない。

今の自分を見て、ジュンさんはどう思うだろうか。

「ジュンさん。俺、このままで良いのかな」

空に消える声に、ふっと笑みが零れる。

灯台が暗闇に巨大な影となってそびえ立つ。

吸い殻を携帯灰皿に捨て、もう一本を咥えようとした時。ふと目をやった灯台の足元に座る人影が見えた。

海を見つめているのか、動かない。

元々人気のないこの場所。渚は家にいるし、思い当たるのは一人しかいない。

海里はまだ火を点けていない煙草をケースに戻して立ち上がった。

「こんな時間に一人で出歩いちゃ駄目だ。今日は海に近付くなって言ったはずだぞ」

ビクッと背中が動く。思った通り、そこにいたのはやっぱり雫だった。

驚いた顔で海里を見上げたが、すぐに顔を背けた。

「ごめんなさい……。もう帰ろうと思ってたところだよ」

微かだが声が震えているように聞こえる。

立ち上がろうとした雫の肩を押し戻して、隣に座る。動揺しているものの、相変わらずこちらを見ようとはしない。

「どうした?何かあったか?」

問いかけにも答えない雫が、何かに気付いたように顔を上げた。

「海里、煙草吸った?」

ようやく雫と目が合う。一本だけだったが匂うのだろうかと、シャツを嗅いでみたが、自分ではわからなかった。

「もしかして、雫の母さんと同じ匂いがするか?」

「あ、いや……えっと」

「悪い。そうだよな。雫にとっては思い出したくない記憶だよな。滅多に吸わねぇんだけど、もう完全に止めるわ」

「そういう意味じゃないの。ごめんなさい」

咄嗟に動いた雫の右手が、すぐ隣にあった海里の左手に触れる。その手を抑え、また顔を背けないよう雫の頬に手を当てた。

「か、海里?」

雫の目が泳ぐ。

「ほら、泣いてたんだろ。目が赤いぞ。何かあったなら言えよ。俺じゃ頼りないか?」

「違うよ、違う。そんなんじゃないよ。ただ……」

それから雫はようやく話してくれた。

ブルートパーズと海里の母がくれた電話番号が書かれたメモが入った巾着を失くした事。それが恐らく裏山だという事。

「なんで黙ってたんだよ。雫の大事な物じゃねぇか」

雫の事を気にかけていたつもりだったのに、そんな事にすら気付けなかった自分自身に腹が立つ。

「俺が探してくるから。絶対見つけて来るから心配すんな」

「で、でも」

「任せとけって。あの山はもう庭みてぇなもんだから。今日はもうゆっくり寝な」

余程ショックだったのだろう。月明りの下で見た雫の目にはうっすらとクマが出来ていた。

申し訳なさそうに肩を落としたまま、弱弱しい声で「ありがとう」と呟いた。




「暑い……」

七月下旬の朝。お腹に乗せたタオルケットを剥いで、額の汗を拭う。

遮光性の無いカーテンは、まだ六時だというのにジリジリと強い陽射しを通し、あまりの寝苦しさに目を覚ました。

「雫、起きろ!早く降りて来い!」

海里の叫ぶ声に、雫はパジャマのまま急いで部屋を出た。

「凄い、綺麗……!」

庭で待っていた海里の横で、朝顔がツルを巻き付けたネットいっぱいに沢山の花を付けていたのだ。

毎日世話をしてきた空色アサガオは、名前の通り、頭上に広がる透き通った空と同じ色の丸い花だった。

中心は白く星のようになっていて、種の入っていた紙袋の写真よりずっと綺麗に見える。

縁側の隅に置いてある観察日記と色鉛筆を取り、花開いた朝顔を描く。

思っていた通りお世辞にも上手いとは言えないが、日々の成長を記したノートは、世界で一つだけの想い出ノートになっていた。

「もう、降りてくるまで待っときって言うたのに」

「だってずっと楽しみにしてたもんな、雫。蕾が付いた時も、すげぇ嬉しそうにしてたからさ。ぜってぇ喜ぶと思って、早く知らせたかったんだ。上手に育てたな」

蝉の騒がしい声。朝顔にたっぷりの水を撒くと、眩しい空色の花たちが瑞々しい水滴を纏う。どこからか、甲高い音が響いてきた。

「やかん、火にかけてたんや!」

渚が大慌てで台所に入っていった。



「あー、あかん。溶けてまう……あ!スイカあるから持って来るわ」

七月も終わる、うだるような午後。雫と渚は扇風機の前でへばっていた。

 リン 

 チリン

頭上で揺れる風鈴を眺めていると、ホタルブクロを見た夜が昨日のように思える。

植木鉢では、朝顔が夏の眩しい爽やかな空と同じ色を咲かせている。

渚がスイカを切る音が聞こえてきた。

「はーい、雫ちゃんお待たせー。あ、海里!屋根、大丈夫やった?」

「おう。やばそうな所は全部修理しといたぞ」

勝手口から入って来た海里は、首から下げたタオルで額の汗を拭う。

氷をたっぷり入れたグラスに麦茶を注いで一気に飲み干した。

夏に入ってから、台風に備えて定期的に屋根のチェックや修理をしている海里は、しっかりと小麦色に日焼けしていた。

「海里もスイカ食べるやろ?」

「いや、俺は良い。ちょっと出かけて来るから」

グラスを洗った海里は、そのまま民宿を出て行ってしまった。

「何なんやろ。最近よう出かけるよな。こないだなんか夜に出て行きよってさ。帰って来たん朝やで。こんな田舎、どこほっつき歩いてんのやろ」

「夜?」

渚はスイカの表面に見えている種を取ってかぶりつく。溢れるスイカの水分が、渚の腕を伝う。

「出て行ったって言うても、バイクも車も置きっぱなしやねん。聞いても適当にはぐらかされてさ。夜遊びする場所も無いし。あれ、もしかしてここに来てるとか?」

おしぼりで腕を拭きながらにやつく渚に、雫は首を横に振った。

「ううん。ここには来てない」

渚は「そっかぁ」と少しつまらなさそうに口を尖らせ、二つ目のスイカに塩を振った。

「急に帰らなあかんくなってごめんな。そろそろ海里も帰って来ると思うし――あ、海里おかえり!うわ、あんたどこ行って来たんよ。めっちゃ汚いんやけど」

玄関に入って来た海里の腕やスニーカーは泥だらけだ。渚に言われて外で土や体に付いた葉っぱを落として家に入った。

「俺の分の夕飯は良いから。今日からこっちに住むわ。荷物は夜取りに行く。おばさんにはその時話すわ」

「えっ。えぇっ?!なんで?」

「この歳になっていつまでも渚の家に世話になれねぇだろ。ちゃんと車の運転とか困った事があるなら今まで通り言ってくれたら良いから。こっちでも細々だけど生計は立てれるし、昔の貯金もあるから。まぁ金に困ったら有田さんの船で働かせて貰えるよう頼んできたし。自分の事は何とかするから」

有田は、海里が渚の家に預けられた頃に知り合った高齢の漁師だ。

昔の荒れていた海里を知っている有田は、今回の頼みを快く受け入れてくれたらしい。跡継ぎもいなかったので、むしろ喜んでいたそうだ。

「ちょっとシャワー浴びてくる。雫、話があるから居間で待っててくれないか」

「じゃ、じゃあ、私は行くわ。ほんならね」

渚が手を振って出ていく。居間に戻って海里を待っていた。

「お待たせ」

円卓を挟んで雫の向かいに座り、ポケットに手を突っ込む。取り出したそれを雫の前に差し出した。

「これって……」

雫の巾着だった。あれから降った雨が跳ねて汚れた形跡はあるが、思っていた以上に綺麗だった。

「メモはあったんだ」

海里が言いにくそうに、顔をしかめた。

「ブルートパーズも見つかってから渡したかったんだが、時間が掛かりそうでさ。やっぱりこれだけでも先に返しといた方が良いかなって思って」

「無かったの?」

海里が「ごめん」と頷く。落とした拍子に緩んだ巾着の口から零れ落ちたのだろう。海里があんなに泥だらけになって探しても見つからないなんて、どこに行ってしまったのだろうと巾着を握りしめた。

「渚さんが、夜もどこかに行ってるって。もしかして、探しに行ってくれてたの?」

「あー……まぁ。それは気にすんなよ」

ばつが悪そうに後頭部を掻く。その腕には、微かだがかすり傷のようなものも見えた。

「海里、もう良いよ。これが見つかっただけでも良かった」

「いや、ちゃんと探す。まだ探せてない場所もあるから。もしかしたら、カラスとか動物が持って行っちまったのかもしれないから、時間は掛かるかもしれないけど」

雫は強く首を振る。もう良い。これ以上探して怪我でもされたら、それこそ雫は後悔してもしきれないと思った。

「良いの。本当に。ありがとう」

立ち上がり、居間を出ようと襖を開ける。

「雫――」

思わず足を止めるも、海里は「いや……」と口ごもった。

「悪い、何でもない」

雫は振り向かないまま廊下へ出て階段を駆け上った。

自室のドアを閉めてベッドに座り、手のひらの巾着をぎゅっと握る。薄い感触。

ブルートパーズが入っていた厚みも重みも無い。

「もうお母さんの話も聞けて、私の名前の由来になった物って事も知れたんだから」

その思いは事実だ。だが、どういう事か、口にした言葉と裏腹に涙が込み上げるのを感じて、ぐっと飲み込む。

ドアがノックされ、雫は慌てて目を擦った。

「ごめんなさい。大丈夫だから放っておいて」

海里に震えがバレないよう、少し声を張る。

暫く黙っていた海里が「わかった」とだけ言うと、階段を降りて行った。

言い過ぎただろうか。後を追おうべきかと思ったが、ドアノブに掛けた手が止まる。

これ以上、自分の気持ちをどう伝えたら良いのか言葉が見つからない。コミュニケーションが苦手な雫には、どう話をすれば良いものなのかがわからなかった。

渚の家に荷物を取りに行った海里が戻って来たのは、日を跨いだ頃だった。うとうととしていた雫は物音に目がさめた。

二階の奥のにある部屋の扉が閉まる音を遠い意識の中で聞いて、再び眠りに落ちた。



「なぁ、ほんまどうしたん。最近、二人で話してるとこ見いひんのやけど、もしかして喧嘩でもしてんの?」

盛夏の太陽が、夕焼けの家の真上に昇る。

あれから二週間が経っていた。庭の草むしりを終えた海里が縁側に座り、渚の淹れた麦茶を飲んでいる。

あの日から海里は日中に出掛ける事は無くなっていたが、雫が早朝に目が覚めた日、民宿を出ていくのを見たのだ。喧嘩をしたわけでは無いものの、何となく話しづらい。

海里も雫に話しかけてくることも無い。そんな状態で毎日が過ぎてしまったのだった。

「そんなわけねぇだろ。それより、俺もここに住むようになったし、渚はもう無理しなくて良いんだぞ。料理は俺も練習するし」

「は?嫌やし。私、別に無理してるつもりはないんやけど。ジュンさんが好きで、ここが好きやからやで。今は三人で民宿できてるのが楽しくて来てんのやから、余計な心配せんといてよ」

渚は空いたグラスを海里から奪い取り、台所へ入った。洗い物をする音に渚の小言が混じる。その時、玄関ドアが開く音が夕焼けの家に響いた。

「急にすみません。今夜泊めてもらう事って出来ますか?昼食はさっき定食屋で食べて来たんで、夕飯と朝食だけお願いしたいのですが」

シャツにジーンズ。小さなリュック一つ背負っただけの、四十代の眼鏡をかけた男性が人の良さそうな笑顔を浮かべている。

「勿論ですよ。中へどうぞ。冷たい麦茶淹れますね」

渚が居間に案内する後ろを海里と並んで着いて行く。海里は部屋の準備をしに、一階の客間に入って行った。

「予約もせずにすみません。あぁ、美味しい。バスを降りた時から海の匂いがいっぱいですぐに気に入りました。こんなに素敵な民宿に来られるなんて僕は幸運ですね」

麦茶を傾ける喉に汗が滲んでいるのがわかる。

日下部と名乗る彼は、仕事を辞めて二か月間に渡る一人旅の最中なのだそうだ。

「三人でここをやってらっしゃるんですか。楽しそうで良いですねぇ。ふふっ、青春だ」

彼は縁側に座って、渚が切り分けたスイカを食べていた。

途中、海に散歩に出て夕方に帰って来た彼は、汗を流したいと早めのお風呂に入った。

渚はバイトに行った為、夕飯は海里が作る事になった。

「ここは良い風が入って来ますね。あの朝顔なんてとても良い味を出している。縁側っていいなぁ。日本の家ってやっぱり蒸し暑い気候に合うように作られてるんですね。風鈴にじっくり耳を澄ませる余裕があるのは幸せな事です。最近はこれを騒音と捉える人もいるらしいですから。子供の声も嫌がる人もいるみたいですし。皆、思ってる以上に息苦しく生きてるんだなぁって、この旅をするようになってから気付きましたよ」

夕空の雲が虹色に染まる。

裏山から聞こえるヒグラシの声が、しっとりと哀愁に満ちた空気を作り出していた。

「日下部さんは、今までどこを旅していらしたんですか?」

雫が尋ねると、彼は脇に置いていたリュックからカメラを取り出し、今まで撮り溜めた写真を見せてくれた。

「その時々で適当に行ってるんですけど、先日は福井のあわら市にある金津創作の森に行きました。色んな芸術家の作品が公園のそこかしこに飾ってあるんです。空気も澄んでいて、平日の夕方だった事もあってか、とても静かで。鳥の声に溢れている綺麗な場所でした。敷地内にはアトリエや工房がありましてね。目に映る一つ一つのものがとても印象的で、旅の終わりにもう一度訪れようかと思っているくらいです」

そう言って見せてくれた写真には、森の中の公園に佇むアート作品やオブジェが映っていた。夕方のグレープフルーツ色の陽光が、木漏れ日となって地面をきらめかせている。

「これがガラス工房の体験で作ったコップです。不器用なので心配でしたけど、結構上手に出来たと思いません?」

鞄から出したのはガラス製のコップだ。

底の部分から青色のグラデーションになったもので、まるで海の様なデザインだ。

あまりに綺麗で魅入ってしまう。

「僕ね、親がとても厳しい人で、今までずっと言いなりで生きて来たんです。こんな良い年した大人が変でしょう。でも小さい時からずっと僕に選択肢は無かった。実家から離れる事すら許されなかった。幼い時に離婚して母に引き取られて、母しか頼る人が居なかったのもあったせいか、その生活が当たり前になって逃げるという事もしなかったんですよ。母が病で亡くなって、ようやく一人になって気付いたんです。僕はあと何年生きられるんだろうって。過去を思い出しても、笑顔になれる想い出が無いんです。抱く感情すらない。ただただ命の時間を消費した日々だった」

縁側に座る日下部の頬が夕陽に染まる。自由がない。その生活は雫と似ている気もして無意識にかつての自分を彼に重ねていた。

「人生の良し悪しなんてのは多分、自分が決める事なんですよ。人生の価値なんてのは、他人が決めるものじゃない。与えられた時間を、どれだけ自分の精一杯で生きたかだと思うんです。大きな功績を残す事でも、莫大な財産を築く事でもない。生きた時間の長さでも無い。自分の頭で考えて、沢山の事を感じて、自分の気持ちに向き合って生きる。沢山失敗したって良いんです。夢に破れたって、その経験と想い出は自分にしか無い宝です。そうして最期に人生を思い返して笑えたら良いんじゃないかって思うんです。どうせ人はみんな必ず死にます。たとえ短い人生でも、大切な想い出を一つでも胸に抱いて死ねるのは、悲しくても幸せな事なんだろうなって、この旅を通して感じました。今は僕が失くした時間をやり直しているところなんです」

そう言って穏やかに微笑む。

 最期に思い返して笑えたら、か。

「すみません、突然こんな話。でも、あなたは何故か昔の僕と雰囲気が似ている気がしたんです。感情を押し殺しているような。失礼ですよね、ごめんなさい」

自分の気持ちを伝える事が苦手で、海里とも話せなくなってしまった自分は、このまま最期の時が来たとして笑えるのだろうか。やがて台所から焼き魚の芳ばしい匂いと、カラカラと油の音が聞こえてくる。

 私は、残りの命の時間を消費するだけで終わりたくない。

「日下部さん、お話聞かせてくださってありがとうございます」

丁寧に頭を下げた雫に、日下部は少し驚いた様に「いえいえ、そんな」と笑っていた。



海里とは相変わらず話す機会を持てなかった。

というのもこの三日間、海里はどこかに泊りがけで出掛けていたのだ。それとなく渚に聞いてはみたものの、わからないとの事だった。

渚の母は何か知っている様子らしいが、海里から口留めされて教えて貰えないらしい。

居間のカレンダーは八月の半ばだ。もう雫には時間がない。日下部が帰った後も、ずっと彼の言葉が雫の心に残っていた。

午前四時の外はまだまだ暗い。

微かな物音に目が覚めた雫が一階に降りると、縁側に海里の姿があった。

つぼみになっている空色アサガオを見つめる海里の頭上で、風鈴がリンと鳴る。

「おはよう」

「あぁ。おはよう」

海里の隣に座る。清澄な朝の空気が二人を包んでいた。

「ねぇ、海里――」

「雫、釣り行かねぇか」

「えっ」

雫を見るでもなく、でもその横顔は微笑をたたえていた。

ここ最近、雫に向けられることの無かった柔らかい表情に、雫は「行きたい」と心の底から出た声で答えた。

早朝の海は、夏とはいえ少し肌寒かった。汀に打ち寄せる波が、さらさらと足元の砂をさらっていく。

灯台の下まで来た二人は、糸の先にオキアミというエビに見える餌を付け、更にそのオキアミを海に撒く。

今日は雫が見た事の無い棒状の浮きを付けた。凪いだ海に浮きが静かに上下する。

「雫、また眠れてないのか?」

沈黙を破ったのは海里だ。頷く雫に「そうか」と呟く。

「私がブルートパーズを大切にしていたのは、海里やおじいちゃんとの想い出があるからなんだよ。苦しい日々の中で、海里と砂浜で宝探しをした事やおじいちゃんと三人でかき氷を食べた事。楽しかったこの夕陽が浜の海みたいな色をしたブルートパーズを見たら想い出せたから、お守りとして持っていたの」

白い月が昇る薄青い空。水平線がぼんやりと浮かんでいる。

「海里の気持ちは嬉しいけど、でも探して怪我したり危ない事をするのは……凄く嫌なんだ。三人で見た蛍、とても楽しかった。幸せな想い出を、自分のせいで悲しい想い出にしたくないの。だから……」

そこまで言うと、海里は竿の先を見つめたまま雫の頭を撫で、ふっと笑った。

「わかったよ。もう探さない。あれから探してたけど、やっぱ見つかんねぇんだ。雫が気にすると思って、こっそり行ってたんだけど、気付いてたんだな。あ、悪い。またやっちまった」

慌てて頭から手を下ろした。そんな海里に、雫は首を横に振った。

「私、それ嫌じゃない。確かに最初は少し子供みたいに思われてるのかなって思った事もあったけど、今は違うの。海里が変わらず私の事を気にかけてくれている証拠なのかなって思うから」

雫の竿が微かに動く。海面の浮きがたぷんと水中に引き込まれる。

「あ!雫、掛ったぞ!」

「本当だ、えっとこれを……」

竿を握り、軽く引き上げてリールを巻く。手を止めて再び引き寄せ、またリールを巻いた。焦らず少しづつ、少しづつ。

「すげぇじゃん、クロダイだ」

釣りあげたクロダイを、海里が針から外して、氷と海水を入れておいたクーラーボックスに入れた。

「最初は糸垂らしてるだけだったのに、上手くなったなぁ」

再び並んで静かな時を過ごす。水平線の上に薄紫からピンクへの帯状のグラデーションの美しい空が広がっている。

「あれ、ビーナスベルトって言うんだぜ。日の出と日没後の短い時間になる現象で、下の薄紫の部分は地球の影なんだってさ。その更に下の見えない部分は夜なんだよ」

「へぇ、不思議だね……凄く綺麗」

あの水平線の向こうにも誰かがいて、雫が住む場所は朝になるけど、これから眠りにつく人達がいる。

見えている世界だけじゃない、もっともっと広い世界がある。

「小さい頃は、狭い家だけが世界の全てだった。でも五歳の時にここに来て、優しい人たちがいて、綺麗な場所があるって知った。ずっとここに戻って来たかった。あのまま生きてたってどうなってたかわかんない。死んで良かったのかも――」

「良いわけねぇだろ」

いつになく海里が低い声で言う。吐き捨てるように、眉間に皺を寄せて唇を嚙みしめていた。

「雫はここにずっと居たいか?」

呼吸を整えるように、大きく息を吸った海里は、ゆっくりと息を吐く。まるで感情を抑えるように。無理に平静を装っているように見えた。

「……居たいよ。ずっと居たい」

「そっか。うん、そうだよな」

そう言うと海里は再び黙ってしまった。

その後カサゴが三匹も釣れ、帰る支度をした頃には裏山の向こうから朝陽が昇り、海上のビーナスベルトも消えていた。



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