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第十一章 あらしの後
14 軒軒包囲網作戦
しおりを挟む撮影を終えた呉宇軒は、幼馴染と共にタクシーに乗って、彼の叔父の家に真っ直ぐに帰宅することにした。
撮影が長引いたせいで空には満天の星が輝き、歩いている人の姿もめっきり減ってしまっている。李家の窓には明かりが灯っていたものの、閑静な住宅街の外れにあるせいか、辺りはまるで真夜中のように静まり返っていた。
タクシーから降りると冷たい風が吹き抜け、車に揺られてうつらうつらしていた呉宇軒の目を覚ましてくれる。彼はあくびを噛み殺すと、支払いを済ませた李浩然に腕を絡めて甘えた声を出した。
「なんか、今日は疲れたな」
事件の詳細を聞きたがる生徒たちから逃れたり、記念撮影の大行列を捌いたり、何かと大忙しで休まる暇がなかった。小さくため息を吐いて寄りかかると、李浩然は慈しむように目を細め、彼の頭にちゅっと口づけを落とす。
「部屋に戻ってゆっくり休もう」
その提案には賛成だったものの、呉宇軒にはやりたいことがあった。優しい幼馴染に軽く体をぶつけ、甘えるように肩にちょこんと頭を乗せる。
「その前に、一緒に風呂に入ろうぜ」
仮装大会のお化けメイクはあらかた落としはしたが、まだ残っているかもしれないので、一度シャワーを浴びて完全に落とし切るようにと言われていた。それに、李家には日本式の広々とした浴槽があり、一度使ってみたいと思っていたのだ。この機会を逃す手はない。
目をキラキラと輝かせて期待の眼差しを向けると、李浩然は柔らかな笑みを浮かべて、彼の背中をそっと撫でた。
「分かった。準備をしよう」
返ってきた言葉に、呉宇軒は驚きに目を見開く。てっきりまだ早いと断られると思っていたので、嬉しすぎてニヤニヤが止まらない。だが、あまりにも嬉しすぎて急に不安になってきた。
「本当!? 本当に一緒に入ってくれるの?」
何かの間違いでは?と何度も確認する彼に、李浩然は優しい眼差しを向け、くすりと小さな笑みを漏らす。
「うん。一緒に入ろう」
その返事に呉宇軒はすっかり舞い上がってしまい、大喜びで飛び跳ねた。頭の中では二人で何をしようかと、色んな楽しい考えがぐるぐると巡る。
大はしゃぎする彼を優しい目で見ていた李浩然は、彼が落ち着いてきた頃を見計らい、色を正して口を開いた。
「ただし、中ではいい子にすること」
さすがは優等生、しっかりと念を押すことを忘れない。しかし、呉宇軒は緩みそうになっていた唇を引き締め、素知らぬ顔をして誤魔化した。
「悪いことって何かなぁ? 俺分かんないや」
心の中では悪戯する気満々だったが、すっとぼけてそう言ってのける。せっかく愛しい婚約者と二人で湯船に浸かれるのに、何もしないでいられるわけがない。
まるで言うことを聞く気のない様子を見て、李浩然は苦笑を漏らし、悪巧みする彼の頭を軽く小突いた。
玄関の鍵を開けてもらい家の中に入ると、リビングの方から微かに話し声が聞こえてくる。さすがに夜の九時を過ぎたので、李浩然の叔父、李悟静教授も帰ってきているようだ。
二人は足を忍ばせて廊下を歩くと、リビングの扉を静かに開き、僅かに開いた隙間からこっそり顔を覗かせた。
叔父夫婦はダイニングテーブルで向かい合って座り、お茶を飲みながら寛いでいる。リビングの扉が開いたことも、そこから甥っ子たちが様子を窺っていることにも全く気付いていない。
呉宇軒は吹き出しそうになるのをどうにか堪え、大きく息を吸った。
「おじさん、おばさん、帰ってきたよ!」
二人に全く気付いていなかった彼らは、急に聞こえてきた大きな声に飛び上がって驚く。その弾みに叔父の手にあった茶器からお茶が飛び出して、テーブルの上に小さな水たまりを作る。
安おばさんはリビングを覗く二人にやっと気付き、目を丸くさせた。
「あら、あなた達いつ帰ってきたの?」
「んー……たった今かな?」
わざとらしく考えてから、呉宇軒は甘えた声で答える。そんな彼を呆れた顔で一瞥すると、李悟静はキッチンへふきんを取りに向かった。
「全く、お前は相変わらずだな」
呆れながらも、その口元は緩く弧を描く。呉宇軒が小さな頃は何度も今のように驚かされていたので、怒るよりも懐かしい気持ちになったようだ。
嬉しそうな夫を見てふふふ、と笑みを漏らしながら、彼女はよいしょと椅子から腰を上げた。
「お腹は空いてる? 何か食べたいなら用意するわよ」
「大丈夫! 夕飯はいっぱい食べたから。ね、ね、お風呂使っていい? さっきまで仮装大会の撮影してて、綺麗にしたいんだよね」
「そうだったのね、お疲れ様。お風呂は好きに使っていいわよ。小然、やり方は分かる?」
心配そうに尋ねる叔母に、李浩然は小さく頷いて返す。
「大丈夫です。阿軒、一旦部屋に行こう」
どうやら、彼は幼馴染と二人で入るために使い方をしっかり予習していたらしい。叔父夫婦に別れの挨拶を済ませると、彼はまだ話し足りないでいる呉宇軒を引っ張って、そのまま二階へ向かった。
勉強中の従姉妹を邪魔しないように静かに二階へ上がった二人は、箪笥から着替えを引っ張り出してバスルームへ向かう。
相変わらず脱衣所は綺麗に整理されていて、叔母が気を利かせて二人分のバスタオルを用意してくれていた。
「お湯を張るまで少し時間がかかるから、君はいい子で待っていて」
またもや『いい子で』だ。彼はそのまま呉宇軒を脱衣所の椅子に座らせると、警告するように一瞥してから風呂の準備のために中へ入っていった。
急に手持ち無沙汰になった彼は、幼馴染が準備をしている所を覗こうかとも思ったが、邪魔をして二人でのお風呂タイムが無くなっては困ると思い直し、携帯を眺めることにした。
SNSにはさっそく今日の記念撮影をネットに上げているファンたちの書き込みがあり、羨む声が山ほど上がっている。当日のことを考えるとゾッとするくらい多い。
「うわっ……また行列できちゃうかもな」
今日の分を捌き切るのも結構な重労働だったのに、仮装大会当日はどうなってしまうだろう。
ファンたちが『軒軒包囲網作戦』なる計画を立てているのを見て、彼は眉根を寄せて渋い顔をしながら、スッスッと指を滑らせて書き込みを辿っていく。全体に目を通してみたが、今日は呉宇軒に恨みを募らせる例の女の書き込みは見当たらなかった。
彼がどうやって包囲網から逃れようか頭を悩ませていると、準備を終えた李浩然が帰ってくる。彼は幼馴染の異変にすぐに気が付き、心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうした? 何か問題か?」
「ううん、そうじゃないけど……俺、大会当日ファンの子たちに包囲されそう」
ほら、と携帯の画面を見せると、李浩然は眉間にシワを寄せて難しい顔をしながら書き込みに目を走らせる。
「何か手を考えた方がいいかもしれないな」
しばらく考え込んだ後、李浩然は深刻そうな顔でそう呟いた。彼のことだから、幼馴染のために体を張って盾になりかねない。
「あんまり無茶なことはしないでくれよ?」
「うん。でも、君はもう俺のものだから……撮影だけだとしても、誰にも渡したくない」
やっと彼が本音を隠さなくなり、呉宇軒の胸の中は密かな喜びに包まれた。
ぴょんと椅子から飛び降りると、彼はどこか拗ねたようにムッとする幼馴染に微笑んで、おいで、と両手を広げる。そして誘われるまま胸の中に飛び込んできた李浩然の体をぎゅっと抱きしめた。
「心配しなくていいのに。お前がどうしても嫌だって言うなら、もうファンとの写真は撮らないよ」
優しい声でそう言うと、李浩然はしゅんとして眉を下げ、返事の代わりに悲しそうな目を向けてくる。どうやら、彼はファンサービスを急に止めた後のことを考えて、そうしてほしいと言いたい気持ちをぐっと堪えているようだ。
確かにファンは悲しむだろうし、もしかするとファンであることを辞めてしまうかもしれない。しかし、呉宇軒は可愛い婚約者が何よりも大事で、彼さえ居てくれれば他には何もいらないほど愛している。そんな愛しい幼馴染の頼みなら、全て叶えてやりたかった。
「大丈夫だって。俺は、浩然さえいれば幸せだよ。そろそろモデルの仕事も辞めようと思っていたところだし」
いいタイミングだろ?と片目を瞑って見せると、やっと李浩然の顔にも笑みが戻る。話がまとまったところで、バスルームからお湯が溜まったことを知らせる音が聞こえてきた。
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