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夜明けのうたごえ
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コートを着込んでいると階級が分からないので、すぐには気付けなかった。
「私は帝国軍のディヴィス少佐だ。……見慣れない肌の色だが、本当にマウラカ人か?」
冷や汗をかきながら、視線を下に落とす。
これ以上話をしたら、声でもバレる。
恐らくこれが限界だ。
俺は立ち上がりがしら、雪をブーツのつま先で思い切り蹴り上げた。
「!?」
相手の顔に雪をぶつけた瞬間に身体を反転させ、行き止まりの断崖の方へ走る。
凄まじい急角度の下り坂へ飛び降りようと構えた途端、後ろから必死の声で呼び止められた。
「待て! お前はヴァランカ・セトと呼ばれている戦士だろう!? 私はお前に会いに来たのだ!」
会いに来た……?
そのまま飛び降りてしまえばよかったのに、驚いてつい両足が止まる。
その瞬間、不意に谷底から吹き上げた突風で、フードが外れてしまった。
隠していた長い金髪が風で舞い上がり、月明かりに晒される。
「っ、しまっ……」
慌ててフードを戻そうとしたが、もはや遅すぎた。
「……ハリス少佐!」
忘れかけていた自分の名が叫ばれ、山彦となって何度か響いた。
ああ、なんてことだ。
「やっぱりあなただった……っ、イアン・ハリス……生きておられたのですね!」
ロバートの薄青の瞳が震えながら俺をとらえる。
泣き叫ぶような悲痛な声で本名を呼ばれてしまい、凍り付いたように動けない。
帝国製の黒い革のブーツの足が、ジリジリと俺の方へ踏み出して迫る。
「何故あなたは帰られないのですか……! 一体、何のために……!」
俺は後ずさりながら左右に首を振った。
「……済まない。俺は、自ら望んで今こうなっている」
何といえば分かってもらえるのだろう。
いや、理解してもらえるはずがない。
自分の全てを捨ててまで、遂げたいことを見つけたなんて、――そんなことを。
それ以上なにも喋ろうとしない俺を、ロバートは眉を吊り上げて睨みつけた。
その瞳が、溢れる涙に濡れて光っている。
「嘘です……! とてもそんな風には見えない。そんな寂しそうな、何もかもを諦めたような顔をして……!」
そう言われて、驚いた。
俺は人が見たらそんな顔をしていたのか。
鏡なんてもう長いこと、髭を剃る時に顔の一部が映る、小さなものしか見ていない……。
動揺する俺の前に、一歩ずつロバートが近づく。
「帝国に帰るのに支障があるのなら、私が貴方を全力でお世話します。決して貴方を一人にはしません。どうか、……どうか……私の手を取ってください」
白手袋をした手がこちらに差し伸べられた。
この手を取ってしまったら、もちろん全てが逆戻りになってしまう。
月明かりを背に立ちながら、俺は首を振った。
「――ロバート。俺のことは忘れてくれ」
「嫌だ……! そんなこと、出来るわけがない! 力づくでも貴方をここから連れて帰ります!」
ロバートの手が俺の肩に伸ばされる。
すぐ後ろはもう、崖の先端だ。
「ごめん。――俺は今、幸せなんだ」
微笑みながらはっきりとそう答えて、俺は振り向き、崖を飛び降りた。
十数メートルの掴まるものも何もない斜面を滑落し、最後は転がりながら地面の雪の上に投げ出される。
ひどい衝撃は防ぎようがなく全身を襲った。
すぐに立ち上がったが、打撲した全身のあちこちに痛みが走る。
額のあたりから血が噴き出たが、骨はやられていないようだ。
なんとか動ける……。
――敵味方の死体が幾つも転がる中を、他のマウラカ人の戦士たちに紛れ、彼らの進む方向へとよろよろと走り出した。
戦いはもう終わりつつあるようだ。
上で待たせていた馬はもう捨てるしかない。
敵の馬をどうにか奪えば、帰ることは出来るだろう。
顔と髪を隠す余裕もなく、血と汗にまみれながら必死で谷の出口へと向かう。
月明かりの影に入っているせいか、ひどく暗く感じた。
それに、凍えるように寒い。
目眩がする……。
「――赤髪のヴァランカだ! そっちへ行ったぞ!」
不意に、そんな叫び声が聞こえて来た。
顔を上げると、谷底に月明かりの差し込んできたのと同時に、腰まである赤い髪を振り乱し、馬に乗ってこちらに向かって来る男の姿が視界に入った。
片肌脱ぎの獣の皮のコート、剥き出しの赤銅色の肌と、胸で踊る月藍石の首飾り……。
一瞬、時が止まったような感覚があった。
消えたはずの赤髪のヴァランカが、そこにいる。
その、禍々しい角の生えた仮面で顔の上半分を隠した相手の顔を見て、全身に鳥肌が立った。
今すぐ銃を構えて撃つべきなのに、その男は遠目に余りにもオルファンに似通っていて――金縛りにあったように足がすくむ。
「帝国人め!」
憎悪に満ちた声で、追い詰められ窮地に陥った赤髪の男が叫ぶ。
「殺してやる!」
――復讐の鬼ヴァランカが、地獄から甦り、俺を殺そうとしている。
出血と痛みのせいもあるのかもしれない。
息が止まり、頭が混乱する。
弾が尽きているのか、銃剣を振りかざし、男は真っ直ぐに俺に襲いかかって来た。
距離が余りにも近すぎる。
銃を構える暇もなく、どう考えても避けきれない。
――俺は死ぬのか。
この国の行く末も見届けることなく。
オルファン、お前が本当の望みを叶え、家族を取り戻すのを見ることも、もう、ない――。
――死を覚悟したその時だった。
高い銃声がすぐ近くで鼓膜をつんざいた。
額から血を流した赤髪の男が目の前で馬から落ちてゆく。
その仮面は銃弾で空いた穴から入ったヒビで粉々に砕け散った。
馬は前脚を上げて間一髪で俺を避け、崖に沿って走り去っていく。
「イアン!?」
ごく近くで名を叫ばれた。
俺の本当の名を呼び捨てで呼ぶ男は、もうこの国に一人しかいない。
やっと身体が動くようになり、ハッと顔を上げる。
気付くと、自分の馬から飛び降りたオルファンが、血相を変えて駆け寄ってくる所だった。
「……イアン……!!」
その逞しい両腕に強くかき抱かれて、やっと実感することが出来た。
あれは、あの赤い髪の男は、オルファンじゃない。
良かった……。
呆然として倒れた男の姿を見下ろす。
その素顔を見ると、オルファンとは似ても似つかない、平凡な顔をしていた。
仮面をしていたとしても、見間違うことは絶対になさそうな顔だ。
なのに何故さっき、あんなに似ていると思ったのだろう……?
「イアン、どうしたんだ、しっかりしろ。どこか撃たれでもしたのか!?」
オルファンの方が今にも死にそうな顔で、あちこち俺の身体に触れて確かめている。
その手が沁みるほど温かくて、涙が溢れた。
「大丈夫、だ……」
力強い腕にすがったまま、深い安堵の中で――俺は、意識を失ってしまった。
「私は帝国軍のディヴィス少佐だ。……見慣れない肌の色だが、本当にマウラカ人か?」
冷や汗をかきながら、視線を下に落とす。
これ以上話をしたら、声でもバレる。
恐らくこれが限界だ。
俺は立ち上がりがしら、雪をブーツのつま先で思い切り蹴り上げた。
「!?」
相手の顔に雪をぶつけた瞬間に身体を反転させ、行き止まりの断崖の方へ走る。
凄まじい急角度の下り坂へ飛び降りようと構えた途端、後ろから必死の声で呼び止められた。
「待て! お前はヴァランカ・セトと呼ばれている戦士だろう!? 私はお前に会いに来たのだ!」
会いに来た……?
そのまま飛び降りてしまえばよかったのに、驚いてつい両足が止まる。
その瞬間、不意に谷底から吹き上げた突風で、フードが外れてしまった。
隠していた長い金髪が風で舞い上がり、月明かりに晒される。
「っ、しまっ……」
慌ててフードを戻そうとしたが、もはや遅すぎた。
「……ハリス少佐!」
忘れかけていた自分の名が叫ばれ、山彦となって何度か響いた。
ああ、なんてことだ。
「やっぱりあなただった……っ、イアン・ハリス……生きておられたのですね!」
ロバートの薄青の瞳が震えながら俺をとらえる。
泣き叫ぶような悲痛な声で本名を呼ばれてしまい、凍り付いたように動けない。
帝国製の黒い革のブーツの足が、ジリジリと俺の方へ踏み出して迫る。
「何故あなたは帰られないのですか……! 一体、何のために……!」
俺は後ずさりながら左右に首を振った。
「……済まない。俺は、自ら望んで今こうなっている」
何といえば分かってもらえるのだろう。
いや、理解してもらえるはずがない。
自分の全てを捨ててまで、遂げたいことを見つけたなんて、――そんなことを。
それ以上なにも喋ろうとしない俺を、ロバートは眉を吊り上げて睨みつけた。
その瞳が、溢れる涙に濡れて光っている。
「嘘です……! とてもそんな風には見えない。そんな寂しそうな、何もかもを諦めたような顔をして……!」
そう言われて、驚いた。
俺は人が見たらそんな顔をしていたのか。
鏡なんてもう長いこと、髭を剃る時に顔の一部が映る、小さなものしか見ていない……。
動揺する俺の前に、一歩ずつロバートが近づく。
「帝国に帰るのに支障があるのなら、私が貴方を全力でお世話します。決して貴方を一人にはしません。どうか、……どうか……私の手を取ってください」
白手袋をした手がこちらに差し伸べられた。
この手を取ってしまったら、もちろん全てが逆戻りになってしまう。
月明かりを背に立ちながら、俺は首を振った。
「――ロバート。俺のことは忘れてくれ」
「嫌だ……! そんなこと、出来るわけがない! 力づくでも貴方をここから連れて帰ります!」
ロバートの手が俺の肩に伸ばされる。
すぐ後ろはもう、崖の先端だ。
「ごめん。――俺は今、幸せなんだ」
微笑みながらはっきりとそう答えて、俺は振り向き、崖を飛び降りた。
十数メートルの掴まるものも何もない斜面を滑落し、最後は転がりながら地面の雪の上に投げ出される。
ひどい衝撃は防ぎようがなく全身を襲った。
すぐに立ち上がったが、打撲した全身のあちこちに痛みが走る。
額のあたりから血が噴き出たが、骨はやられていないようだ。
なんとか動ける……。
――敵味方の死体が幾つも転がる中を、他のマウラカ人の戦士たちに紛れ、彼らの進む方向へとよろよろと走り出した。
戦いはもう終わりつつあるようだ。
上で待たせていた馬はもう捨てるしかない。
敵の馬をどうにか奪えば、帰ることは出来るだろう。
顔と髪を隠す余裕もなく、血と汗にまみれながら必死で谷の出口へと向かう。
月明かりの影に入っているせいか、ひどく暗く感じた。
それに、凍えるように寒い。
目眩がする……。
「――赤髪のヴァランカだ! そっちへ行ったぞ!」
不意に、そんな叫び声が聞こえて来た。
顔を上げると、谷底に月明かりの差し込んできたのと同時に、腰まである赤い髪を振り乱し、馬に乗ってこちらに向かって来る男の姿が視界に入った。
片肌脱ぎの獣の皮のコート、剥き出しの赤銅色の肌と、胸で踊る月藍石の首飾り……。
一瞬、時が止まったような感覚があった。
消えたはずの赤髪のヴァランカが、そこにいる。
その、禍々しい角の生えた仮面で顔の上半分を隠した相手の顔を見て、全身に鳥肌が立った。
今すぐ銃を構えて撃つべきなのに、その男は遠目に余りにもオルファンに似通っていて――金縛りにあったように足がすくむ。
「帝国人め!」
憎悪に満ちた声で、追い詰められ窮地に陥った赤髪の男が叫ぶ。
「殺してやる!」
――復讐の鬼ヴァランカが、地獄から甦り、俺を殺そうとしている。
出血と痛みのせいもあるのかもしれない。
息が止まり、頭が混乱する。
弾が尽きているのか、銃剣を振りかざし、男は真っ直ぐに俺に襲いかかって来た。
距離が余りにも近すぎる。
銃を構える暇もなく、どう考えても避けきれない。
――俺は死ぬのか。
この国の行く末も見届けることなく。
オルファン、お前が本当の望みを叶え、家族を取り戻すのを見ることも、もう、ない――。
――死を覚悟したその時だった。
高い銃声がすぐ近くで鼓膜をつんざいた。
額から血を流した赤髪の男が目の前で馬から落ちてゆく。
その仮面は銃弾で空いた穴から入ったヒビで粉々に砕け散った。
馬は前脚を上げて間一髪で俺を避け、崖に沿って走り去っていく。
「イアン!?」
ごく近くで名を叫ばれた。
俺の本当の名を呼び捨てで呼ぶ男は、もうこの国に一人しかいない。
やっと身体が動くようになり、ハッと顔を上げる。
気付くと、自分の馬から飛び降りたオルファンが、血相を変えて駆け寄ってくる所だった。
「……イアン……!!」
その逞しい両腕に強くかき抱かれて、やっと実感することが出来た。
あれは、あの赤い髪の男は、オルファンじゃない。
良かった……。
呆然として倒れた男の姿を見下ろす。
その素顔を見ると、オルファンとは似ても似つかない、平凡な顔をしていた。
仮面をしていたとしても、見間違うことは絶対になさそうな顔だ。
なのに何故さっき、あんなに似ていると思ったのだろう……?
「イアン、どうしたんだ、しっかりしろ。どこか撃たれでもしたのか!?」
オルファンの方が今にも死にそうな顔で、あちこち俺の身体に触れて確かめている。
その手が沁みるほど温かくて、涙が溢れた。
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