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見えない月

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 月の女神に出逢ってしまった僕は変わった。変わってしまった。

 なにも、書けないのである。

 森の小川を見ても、枯れ葉が舞い散る様も、博覧会で賑わいを見せる街並みや、夕闇に染まるビルを見ても、言葉がなにひとつ出てこない。

 なにも浮かばない。

 とうとう僕は出歩くことすら諦めた。

 部屋にこもりひたすら綴るのは女神を讃える言葉ばかり。一生綴ることはないと誓ったはずの、愛の言葉。

 誰にも見せることはないものをただひたすら書きなぐっては、悲嘆にくれていた。

 もう見ることも、触れることも叶わない。


――雲が晴れても見えぬのならば

――いっそこの目を潰してしまおう

――檻が無くとも触れぬならば

――いっそこの手を潰してしまおう

――塞いだ瞼、閉じた掌

――まだ残る幽かな記憶を失わぬ前に

――雲が晴れても見えぬのならば


 毎朝やってくるエリックすら、顔を合わせたくなくて居留守を使った。もちろんバレているからしつこい。

 隣の住人から苦情が来て、仕方なくエリックに会った。

 エリックは何事か言っていたが耳に入らない。

 聞いてないことが分かると、怒鳴りたててきた。

 無性に腹が立った。

 八つ当たりだと分かっていてもあの朝エリックさえ来なければ、あんな別れにはならなかったと。

 僕は革の手帳をエリックに押し付けて「ルナマリアは死んだんだ」と追い返した。

 ようやく静かになった部屋で、僕は本棚の前で膝を抱えてやりすごした。

 起きているのか、眠っているのかもわからない。

 だが、夢だけは見た。

 三日月に寝そべる女神の夢だ。

 女神は静かな寝息を立てて、微睡んでいる。

 僕が少しでも動くと、女神は光の粒となって消えてしまうから、できるだけじっとしている。

 それでも朝が来ると、やはり女神は消えてしまった。

 結局何をしても女神は消えてしまうことに気付いたのは、窓から見える鉄の檻に三日月が掛かる頃。

 二週間以上も過ぎていた。


 こうして僕の三度目の運命の出逢いは終わった。


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