Give Me The Key

城野亜須香

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Track-01:Monochrome 『モノローグ』

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  * * * * *

「……ごめん。わたし……」
「ばかやろうっ!!!ビビるなっ!!!」

 ステージの中心で俯く五峰茉莉ごほうまつりに、容赦ない喝を入れる薄葉千籠うすばちかご。顔を上げ、驚いた表情でそれを見返す茉莉まつり。突然の出来事ではあったが、音響P Aスタッフの判断により2人のマイクはそのボリュームを下限ミニマムに絞られ、後輩たち3人の奏でるバックトラックに、ノリのいい観客たちの手拍子も手伝って、二人の会話がほかに聞こえることは一切なかった。千籠ちかごは持てる限り全力の声量をもって、茉莉まつりを激励する。

「みんなお前の同類だ!!!みんなお前の友達だ!!!ビビってんじゃねえっ!!!それでもお前には絶対に敵わない!!!俺たちには絶対に敵わない!!!」

「……でも、だって!」
「『だって』じゃねえよ!!!だってそうだろっ!!?俺たちは無敵の『仲良し5人組ファイブカード』だ!!!絶対に負けたりしないっ!!!」

「……千籠ちかご。」

「失敗したって俺が守るっ!!!いいからさっさとっ!!!五峰ごほうっ!!!」

 そこまで叫んで、足早にステージ前方へと戻る千籠ちかご茉莉まつりと話す間も頭をフル回転させた結果、この状況から場を冷やすことなく(さらに盛り上げて)歌へと繋げることが可能で、かつも省略できるという、起死回生の演出をなんとか思いついた。これは偶然か、あるいは「ぜんくんに感謝だな」と、幸運を噛みしめる。

『 お待たせいたしましたーーーっ!!! 』

 後輩たち3人に右手と表情で「オッケー」のサインを出して演奏を中断させると、相変わらず手拍子を続ける温かな観客にはさらなる熱量を要求する千籠ちかご。彼は、この窮地に発揮された自分の機転を、自分で褒めてやりたい気分になった。どこかで聞いた話によれば、他人を察することが大好きな日本人は、この手のがえらく得意なのだという。まして陽気な連中ならば全世界人類共通で大好きなアクションであるからこそ、このパフォーマンスの成功はすでに約束されたのだ。

『 それではひとつ「」など!!!お願いしてみようかなって思いますよ!!!さあ、10っ!!!9っ!!! 』

 大宮司だいぐうじさや・屋代やしろあみな・桐ヶ谷蝉きりがやぜん。3人の後輩たちが茉莉の元へそれぞれ駆け寄って、それぞれに一声掛けては、走り去っていく。

「さあさっ!はやく歌いましょっ!!茉莉まつり先輩!!」

――8!!!7!!!

「えへへっ!早くしないと歌詞まで忘れちゃうよっ!!茉莉まつりちゃん!!」

――6!!!5!!!

「ワクワクしますね!入《はい》れますか、五峰ごほう先輩!!」

――4!!!3!!!

 茉莉まつりのことを誰より心配しながらも、それでも今はこの役目を成功させる責任があるから、何より彼女を信じているからこそ、それだけで充分だった。

「……ありがと。」

 茉莉まつりがその手にマイクを持ったまま、両の頬をパチンと叩く。カウントに合わせて既に生き返っていたマイクから、ボゴッと鈍い音響事故の音を立てて、ようやっといつも通りの彼女が

「……そうだよね!ごめんっ!!ありがとう、千籠!!みんなっ!!!」

 足元に投げ出された年季の入った薄金色の音叉おんさを素早く拾うと、それを、(長らく彼女の密かなコンプレックスでもあった、やや広い)おでこの上部に躊躇なく叩きつける茉莉まつり。なぜなら、そこならば万が一にもがないからだ。

――2!!!

 割れんばかりの、3千人の手拍子と熱気を帯びたカウントの大合唱の中、茉莉まつりのマイク越しの音取りロングトーンに、ほかの4人が耳を澄ます。そして等間隔に、ステージ上にワンラインで拡がる。ついに来たか、待ってましたと手拍子に混ざって観客から拍手と歓声が飛ぶ。
 本来の開演時間にはまだ少し早いはずなのにこれは一体どうしたことかと、通路を歩いていた観客たちも慌てて自分の席へと急ぐが、とうとうそれらの着席を待たずして、楽しい楽しい『ポピュラー・コーラス』の時間はついに始まるようだった。

「「「「「 いちっ!!!!! 」」」」」



  * * * * *




 さて御立合い。ここで「カウントダウン」を幾らか巻き戻すことにしよう。

 どれくらいかと言えば、ざっと2年くらいだろうか。


 今やステージの上で奮闘していた薄葉千籠うすばちかごが、高校3年生の春に何やら校則違反をやらかして、鬼の体育教師からお叱りを受けていた辺りまで、物語を振り返ってみようと思う。桜の花もすっかり散った、四月の半ば。それぞれの担当指導に教師たちが出払って人も疎らな職員室に、えらく背筋を正した姿勢で薄葉千籠うすばちかごは座っていた。

 彼が初めて五峰茉莉ごほうまつりと出会う、ほんの1時間ほど前のことだった。





―― Give Me The Key ―― はじまり





  *



「丁度、うるさいのがいなくなったところだしな」

 そう、林田は言った。
 つい先程まで鬼気迫る勢いで声を張り上げていた体育教師の堂島昭どうじまあきらが、まさか自分のことではあるまいな?とでも言いたげな表情でこちらへ振り向くものだから、僕は思わず吹き出しそうになる。

 職員室の一角にある来客用のテーブルセットで、僕は生活指導を受けている。本来こういったレクリエーションに相応しいはずの生徒指導室は、どうやらより凶悪な輩の為に充てられているらしく、それに対して僕の容疑(というか既に確定した罪状)は、校則で禁止されている課外活動だった。

 家族の知り合いが営む喫茶レストランで、高校一年生の夏頃からアルバイトをしていた。お金が欲しかったのかと聞かれれば、特にそういうわけではない。もちろん人並みの、世間一般的な高校生として、服を買ったり、雑誌を買ったり、買い食いをしたり、そのほか、ナニを仕入れたりなんかすることもあって、気が付けば貯金などこれっぽっちもしては来なかったのだけれど、それでもおそらく小遣いで足りないことはなかっただろうと思う。幼少時はあまり物欲の旺盛ではなかった自分のこと、取り立てて欲しいと望めば、難なく与えられただろう程度のものしか購入していない。

 しかし、堂島は(アルバイトくらいで)僕のことをまるで非行少年のように言っていたけれど、いち男子高校生として見れば3年生の新学期を迎えた今以て、母親との関係はすこぶる良好なのだ。品行方正というなら、それで事足りるじゃないか。まったく、一体どうしてバレたのだろう。

 この『品行』にあえて理由をつけるなら、『予定』が必要だったからだ。
 僕は高校に入学した当初から今に至るまで、一度も部活動に所属していない。では高校入学以前はどうだったかと言えば、そんな大昔のことはよく覚えていないのだけれど、小学校では文化部、中学校では運動部だったように思う。ひょっとしたら逆だったかもしれない。どちらにしても、中学時代までは部活動がほぼ強制加入だったこともあり、何かしらのアクティビティに、半ば嫌々取り組んでいたような、なるほど、わざわざ記憶を探ってみると、そんな胸の酸っぱさが込み上げてくる。
 そんな経緯もあってか、加入未加入が全く自由な高校部活動には、すこしインターバルを置くつもりで、決定を保留していた。そしたらどうやら気付いた頃には、「いつの間にか・もう今更なあ」、と思うようになってしまったのだった。

 まあ、ある話だが、とにかくだ。終礼のチャイムとともに、それぞれの部活動へと向かうクラスメイトたちを見送った後、ぽっかりと空いた放課後を埋めるための何かが必要だった。僕は外部に習い事を持っているわけでもないし、テレビゲームに凝るタチでもない。
 ああ、そうだ、それこそもし僕が本当に「不良」だったなら、もっと堂々としていたんじゃないかと思うね。僕は僕なりに、僕の放課後をあくまで健全に過ごす為のコミュニティとアクティビティを選んだに過ぎなかったのさ。

 そこまで自問した辺りで、林田が続けた。

「今日からは『放課後謹慎』ってやつで、このあとも反省文を二、三枚書いていってもらうんだけども、さすがにずっとそんなことさせてもな。あんまり無益だ」

 さすがリンダ。
 2年次のクラス選択から担任となった英語教諭の林田鞠哉はやしだまりやはテキトー、もとい柔軟な考え方をする男だ。おそらく規定では放課後の活動を制限するためにも、最低でも1週間程度は終礼から完全下校の時刻までの約3時間、生徒指導室での自習が言い渡されるのだろうが、ここはなんとか執行猶予を獲たい。

「だから、薄葉。おまえは部活に入れ。とうとうお前も年貢の納め時ってやつだな」

 こちとらウッカリしていて年貢の納付期限が過ぎてしまっていた身分なのだけれど、とうとう納付免除とならなかったことに関しては、僕の本心から言えば幸いだったのかも知れない。

「部活、ですか……」
「そうそう。カタチはちゃんと顧問のおれが指導下に置いてることになるわけだ。今後、せめて放課後くらいは、校内でおとなしくしてて貰わないとな」

 「いかがでしょう堂島先生」と、ほど近い自席で聞き耳を立てていた堂島に、林田が物腰柔らかく伺いを立てる。年齢的にも立場的にも、堂島がだいぶ上なのだと思うが、うまく説得してくれているようだ。
 しかし、いかに(期間的な)違反を重ねていようとも、こんな指導を受けること自体は今回が初めてなのだから、まるで油断のならないような言い方はさすがに傷付いてしまう。そもそも僕が抵触した『学業優先』という法規にしたって、それが校則だというのなら、この学校に通う生徒の半分は守っていないはずだ、と実感を持って言える。いや、3分の1くらいにしておこうか。

 僕がひとり心の中で腐っていると、すこし考えた様子で、堂島がゆっくり僕の眼前に迫る。

まあ――

「――時間を持て余していたってこともあるのかも知れないが、それでも校則を破っていい理由にはならないんだぞ?誰だって少しずつ事情や不都合は持ってるもんだが、そういうみんなが集まって生活するためにこそ、ちゃんとルールっていうのは決めてあるんだ。それに、他の人もやってるからなんてのも、もちろん通らない。」

 さっきまでと、声のトーンや音圧こそ違うけれど、このテンプレートを聞かされるのは3回目だ。

「それは分かるよな、薄葉」
「……すいませんでした。生意気を言いました。反省しています」

「お前はまた、そうやって調子のいいことを……まったくこいつめ」

 よしよし。
 「しばらく様子を見ましょうか」と林田に采配を託して、堂島は職員室を出て行った。おそらく向かう先は生徒指導室の大本命だ。信じられないほどにしつこく、細かく、大きな声で怒鳴るけれど、それでも生徒たちはそんな堂島センセイが嫌いという訳でもないのだ。
 まあ、僕の普段の生活態度が好ましいことが、この判決に至り得た最大の要因ふぁくたあであることは、言うまでもないけれど。

「……終わったあっ……」

 職員室に呼び出されて以来初めて背中にソファーの柔らかな感触を覚えさせて、ぐっと伸びをすると、緊張の糸がほぐれてそのまま崩れるように前方のテーブルへと突っ伏した。

「ははは。なあ薄葉、いったい誰がお前のことチクったんだろうな。知りたいか?」

 林田が悪戯な表情でこちらを伺う。

「……それ相手によってはギクシャクしますよね。出来れば知りたくはないですけど……」

 密告者がもしも僕のよく見知った生徒だったとしたら。もし本当にそうだったとしても、もちろん悪いのは僕なのだけれど、それでも、なにかすこし黒いものを腹の中に蓄えてしまいそうだ。

「それもそうだな。じゃあ、やめとくかっ」

 そう言われると、それはそれで胃のあたりにムカムカしたものを感じる。ひょっとすると、天邪鬼あまのじゃくな性格の僕に自ら拒絶させることで、追及の可能性を摘んだのかも知れないと、林田のわざとらしい声を聞いてそう思った。いや、ないか。

「さて、部活の話だったな。2階の『南廊みなみろう』、分かるよな?奥のやつ。あそこの真ん中の部屋が部室だ」

 僕の通う学校は、3階建ての『教室棟』、同じく3階建てで今いる職員室や特別教室がある『管理棟』、そこから第一、第二体育館・武道場・水泳プール・運動部室倉庫群を、渡り廊下を配して挟んだ地の果てに、旧教室棟である2階建ての『北校舎』がある。教室棟と管理棟は平行に位置していて、北・中・南の3か所にそれぞれの建物を繋ぐ空中回廊がある。『北連絡廊』と『中連絡廊』は、生徒や教師が通る廊下があるだけの構造で両面に窓があり、いつも良好な日当たりを保っている。一方で『南連絡廊』には片面に2つほど窓があるのみで、その反対側には等間隔にいくつかのドアが並んでいる。
 美術部なら美術室、科学部なら科学室、音楽部なら音楽室といったように、主要な部活動にはそもそも各特別教室が割り当てられているため、それ以外の文化部活動の需要を満たすために、その小部屋たちは使われている、らしい。というのは、僕自身も南廊のにあるドアに人が出入りするところを今まで見たことがないし、その数が一体いくつあるのか、確かなことは記憶していないからだ。
 もっともこれまでの僕といえば、部活動が行われる放課後の時間帯には、使い古したマホガニーのエプロンを腰に巻いていたのだから、当然といえば当然なのだけれど。 

「現在部員はったの1名、『海外情報研究部かいがいじょうほうけんきゅうぶ』だ。略して、えーとな……」
「冗談じゃない。遠すぎる。あんな僻地へきちに通えませんよ」

 率直な感想が漏れる。人の往来の大部分はクラス教室に近い『北廊』と『中廊』で賄われていて、比較的に特別教室エリアに近い『南廊』は、うっかりしているとあまり通ることのない通路だった。

「まあそういうなよ」
「……まず、何をする部活トコですかそれ」
「最近はなんか作ってる、って聞いたけどな」

 顧問と名乗るこの男は、どうやら曖昧な記憶を探って見せる。

「……部員が一名って、よく廃部になりませんね」
「うちの文化部は成果発表物を提出することだけが成立要件だから。まあ、例のアレだ。お前のことにしたって、別に人数集めって訳じゃないからな。安心しろ」

 『アレ』と言いながら、職員室入口付近の壁面にある掲示板を指さす林田。その先には、何かのスケジュールが記された大判の紙が貼られている。
 例年の僕には関係のない話だったけれど、そういえば毎年この時期の校内では、忙しそうな(楽しそうな)様子の生徒をよく見かける。そして僕は、普段廊下ですれ違う、一度も話したことのない生徒が一体どの部活動に入っているのか、それなりに把握していることを思い出した。この学校には、毎年夏休みを控えた時期に、そういう催しがあるのだ。
 ちなみに、文化祭は2年に一度と決まっていて、僕の学年は去年の一度きりですでに終了している。だが純粋な、文化部にとっての発表の機会だけは、毎年ちゃんと用意されてるのだ。

「……でも、今までそんな部活無かったような」
「まあ『発表』って言っても色々あるからな。たとえばだけど、だけが目的なら、やり方は色々ある」

「……ああ。そういう」

早い話が、の幽霊クラブという訳だ。

「……うーん。その生徒って、どんな奴です?」
「そりゃ行ってみてのお楽しみだよ。緊張するなぁ」
「そういうの結構いいから!」

僕にしては珍しく、少し苛立った雰囲気を伝えようと試みる。

「よかねえよ!本来なら1年生の時に済ませておくべき通過儀礼だぞ。積み重なって将来まともな大人になれなくなったらどうするんだ、お前」
「……恩師を見習って……英語のせんせいになります」

「はあ。ゴチャゴチャうるさいなあ」

 そう溜息を吐きながら、林田は教員デスクを反対側へと回り込んで、自分の席の下の方にある引き出しを開けると、二、三枚の用紙を指で数える音を立てた。それから、僕のいるテーブルにほど近い職員室共用の事務ケースの引き出しから、手に持った紙に丁度良いA4サイズの水色の封筒を取り出して、こちらへと戻ってきた。

「はい。じゃあ、反省文これ明日までにな。適当に書くとやり直しになるから気をつけろよ。おれも怒られる」

 そう言って林田が僕に差し出したのは、学校指定というほどかしこまったものではないけれど、ごく薄いクリーム色をした紙面にハッキリとした黒の罫線が入ったレポート用紙だった。その行間はなかなか狭く、合計三枚ほどあるそれをで埋めるのは、ちょっと大変そうだと思った。

「……あした?」
「後に回したらお前だって気を揉むだろうし、それなら早速、部室に行ってみればいいさ。『』に」
「……そ、そんな、急に言われたって……」

 えらく小心者で恥ずかしくなるけれど、林田が最後に付け加えた略称の意味するところに反応する余裕は、僕にはなかった。決して内向的でおとなしい生徒と評価されるつもりはないれど、放課後ともなれば人目もない連絡廊の一角にどんな荒鷲が待っているのか、分かったのもではない。そしてなにより、僕は部活というものに対して、センシティブな部分だってある。行き当たりばったりで掻き回されるとしたら、複雑な思いだ。

「大丈夫だ!お前の推理はハズレてる。詳しくは彼女に聞いてみな」

ポンポンと、林田が僕の肩をたたく。

「……別に、ビビっちゃいませんけどね」
「はははっ」

 林田はそう笑って、テーブルの上の用紙に、学年・名前・題名の位置や書式をガイドするための文章を書き込んだ、幅広の付箋を丁寧に貼りつけると、それを水色の封筒に収めた。そしてその表に『三年一組 薄葉千籠うすばちかご』と大きくと書き込んでから、やれやれと云った顔でそれを僕に手渡した。

「あんまり難しく考えんなよ。薄葉」

 自分の名前ではないのに、書き慣れてところどころを書き崩している。画数が多いことは何か申し訳ないような気持ちがしたけれど、それでも不思議と少し嬉しい気持ちもして、僕は手に持ったそれをまじまじと眺めてしまった。よく見ると『薄』の字が間違っていたけれど、今日のところは指摘するのをやめておいた。


  * 



【 海外情報研究部 】

 『南廊』は静まり返っていた。多少距離はあっても、教室棟側には2年生の教室が、管理棟側には物理室があるはずなのだけれど、何か見えざるものによる嫌がらせかと思えるほどに、誰もこちらへは歩いて来ない。間の悪い位置にたった2つ程開けられた窓から入る、申し訳程度の太陽の光では、ナーバスな今の僕にとってはやや頼りなかった。
 そんな静けさのせいか、あるいは極度の緊張のせいか、目の前の部屋からは微かだが、たしかに人の気配を感じ取ることが出来た。カリカリ、カリカリと、紙に、鉛筆ではない何かのペンで、文字を書いているような音だ。
 ここにはたしかに、例の部員がいるらしい。

 木製に灰色塗りのドアには、そこに薄黒く汚れた、それでも摩耗して光沢のある銀色の丸いノブがある。入らなきゃ。ここに突っ立っていたって仕方がないんだ。呼吸を整えて、勇気を振り絞って、古びたドアをノックする。

 ――コンコン

 しかし、反応がない。もう一度叩いてみるが、どういうわけかいくら待ってみても、室内の誰かは一向に反応を示さない。まさかとは思うが、万が一を考えて、今度はマナーよろしく3回ノックしてみる。

 ――コンコンコン

 案の定というか、やはりそういう問題でもないらしく、とうとう僕の呼びかけに対して入室の許可は返ってこなかった。いったい何をしているんだろう僕は。

 それもこれも、きっと林田鞠哉というお節介な男のせいなのだ。
 彼の話していた内容から、ドア一枚挟んだ向こう側には、単に「女子生徒」がいることがほぼ確定している。そこに加えて職員室からここまでの短い道中で、すでに僕の頭の中では、彼女がきっと自分好みの美少女なのだろうというプロフィールや、僕が彼女にあまりにあっけなく一目惚れをしてしまうのだろうといったシナリオまでもが、猛スピードで書上げられてしまっていたのだ。
 今の僕は、多少なりとも気負った上に気取ってしまっている。まだ見ぬ未来の放課後メイトへ、ただ出来る限りのスマートな第一印象を与えたいが為に。

 馬鹿馬鹿しい。ドアくらい開けてやるさ。

 耳を澄ませば、いつの間にか先程までの筆記音は聞こえなくなっている。きっと室内の彼女は、なるほど音楽でも聞いているか、あるいは居眠りを始めたのかもしれない。僕はそう推理した。あれこれ考えるのは止めよう。まずはこのドアを開けてしまって、それからだ。

 力を込めて、ドアを拳で2回小突く。

「……し、失礼します!」

 すこし上ずりながらも努めて元気な声をだした。滑りの悪いノブとは対照的に立て付けの緩いドアは、思いがけない程の勢いで、若干の風圧と共に僕の側に引き寄せられた。

  *

 手前に引いたドアの先に細長い視界が開けると、廊下の日差しに比べて圧倒的な太陽光のその中に、すらっと伸びたその後ろ姿で、ひとりの少女が立っていた。

 手狭な室内に不釣り合いな大きなテーブルの向こう側、また不釣り合いな大きな窓枠の、その手前で振り向いた少女の肌は、その風に舞う黒髪とぐず濡れた瞳は、およそ理解の追い付かない速度で僕に迫って、眩しいほどに春の色を見せつけた。


――Monochromeモノローグ――


 はたして僕のは的中した。

 彼女は決して眠ってはいなかったが、どうやら、その耳にイヤホンを装着している。道理でなんどノックしても一向に返事がない訳だ。どうやらそれを待たずにドアを開けたことは正解だったらしい。
 でも一方で、僕にこの泣き顔を目撃する権利があったんだろうか。もし彼女が、単に重度の花粉症などではなかった場合、ひょっとしたらこの、まだ名前も知らない少女のプライバシーを、僕は無神経にも侵してしまったのではないか。

「…………」

 キラキラとした瞳に若干の戸惑いを含んだまま僕を見つめる彼女の手に、スマートフォンと共にしっかりと握られたタオル地のハンカチは、そのピンク色がすこし暗くなる程度には湿っているように見えた。
 地毛なのか少し黒の抜けた、それでもしっとりと光沢のある髪に隠れた左の耳から、ゆっくりとイヤホンを外す。そして首元に映える、3年生の僕には見慣れたブルーのリボンのやや下あたりで、所在無げにその手を静止させた。高級感のある艶消しの白く細いイヤホンケーブルの先に、メタリックブラックのユニットを備えたそれは、右手の女の子らしい趣味とはギャップを感じさせる。その延長は紺色のブレザーの装飾ラインに紛れながら左ポケットに潜り込んでいて、そこに専用の音楽プレーヤーがあることを示していた。
 やがて彼女は、左手ひとつで器用にケーブルを畳むと、たっぷりと時間をかけてすべてをひとつのポケットに収めた。

「えっと」

 どうする、なんて声を掛ければいい。そもそも、彼女は僕がここに来ることを知っていたのだろうか。林田の入部勧告は、その場の思い付きのようにも思えたけれど、実際のところはどうなのだろう。

「驚かせてごめん」
「…………」
「いちおう、何度かノックしたんだけど、聞こえなかったみたいだ」
「……え……ごめんなさい。気付かなかった……」
「結局はこうして入って来てるから、意味ないんだけど」

「……うん、いいよ。まさか誰か来るなんて。もうずっと一人だし……」

なにか抗議するような言い方になってしまったが、まあこんなものだろう。彼女の方も、多少卑屈な物言いに聞こえたが、どうやら常識人であるらしい。こんな寂しい場所で、何を儚んでかひとり涙を流していた割に、もう半ばけろっとしている。

「はじめまして。薄葉っていいます」
「……薄葉、くん?」
「そう。林田先生から紹介されて、その、部活のに来たんだけど。やっぱりというか、知らされてなかったみたいだ」

「見学?ここに?」
「うん。まあ、色々あって。迷惑だったかな?」
「そんなことないよっ。そっかあ」

 正確には見学ではないのだけれど、すこし様子を見たかった。よくよく考えれば彼女だって、それがいつからなのかは知らないが、この静かな部室を独り占めに、案外愉快に過ごしているのかも知れないのだから、突然押しかけてこられてもそれは迷惑かもしれない。

「そうなんだ、林田先生が……不思議。ごめんね、全然知らなかった」
「あの人も勝手だよな。まさかとは思ってたけど、要するにぜんぶその場の思い付きだったんじゃないか!」
「うん。きっとそうだよ。大変だったねっ」

 そう言って、会ったばかりの僕を労うように言った。
 自分と同い年とは思えないほど、大人びた表情をする。小学生の頃か、クラスの女の子に身長を追い抜かれたことがあったけれど、そんなことを思い出す。いったいどこでこんな技術を覚えてくるのか、機会があれば是非とも聞いてみたい。少なくとも僕の人生においては、この手のカリキュラムにはまだめぐり合っていない。

 僕はもう新しい環境に安堵してもいいのだろうか、なんて思い始めたけれど、これもまた大人びた彼女の気遣いかもしれないのだから、もう少しだけ脚は崩さずにいてみようと思った。

「じゃあ、改めまして。ようこそ薄葉くん。私と同じで3年生だね。薄葉、ナニくんかな?」

「……千籠だよ」

「うん?」
「……ちぃかーご」

「ちかご、くん? へえ、珍しいね」
「……そ、そうかな」

「うん。だって……――」

 ***今から17年ほど前。まだほんの少しだけ空気が冷たい頃、臨月を迎えたどこぞのカップルが、共に過ごす貴重な寸暇を惜しんで、どこぞのテーマパークへ出掛けたそうな。無論、身重で過激なアトラクションなど搭乗できるはずもないのだけれど、きっとそこは二人の思い出の場所だったのだろう。二人は、いまの二人が唯一楽しめる限られたその遊具に乗り込んで、問題は、夢心地のその後だった。
 天空の密室で突然苦しみ出す女と、慌てふためく役立たず。どんなに祈ってみたところで、地上への帰還は早まらない。そこから先はてんやわんやの大騒ぎである。
 タイミングが良いのか、悪いのか。折に触れては振り返るのだろうそのエピソードを、二人は産まれてきた我が子に語り聞かせた***


「――……ふふっ。女の子みたい」

「はぁ。そうだね……よく言われるよぉ……」
「あははっ!やっぱり気にしてた?ごめんごめん」

 落ち込む僕をからかう様に詫びる弾んだその声に、およそ小学校入学以来の不満を、すこしだけ名付け親を許せるような気がした。彼女から最初の笑顔を引き出すきっかけに出来たのなら、それこそどんな奇天烈な名前でも構わなかったのかも知れない。彼女の瞳に、すでに涙はないけれど、それでもさっきよりずっと輝いて見えたからだ。

「……そ、そういうあんたの方は、なんてんだい?」

「えっ?あ、そっか!じゃあ、私も自己紹介するね!はじめまして。五峰茉莉ごほうまつりです。よろしくっ」

 彼女は、きちんと僕に正対し直してから、ちょこんと会釈した。

「うわあ!変わったヘンな名前っ!どっかの『伝統行事』みたい!」
「あー!!!言ったね!ひどい!!」

 「待ってました」と言わんばかりの、人懐っこい批難の声。彼女にしても、こんな「慣れっこなお約束」を、下手に遠慮されては却って調子が狂うのだろう。
 もちろんそんな名前のなど、僕らの住む街にありはしないのだけれど、今の僕をこんなにも惹きつけてしまう彼女の名前にだって、きっととんでもない秘密や、はたはた迷惑な逸話が、たくさん詰まっているに違いないと思った。

「……ははは!冗談だよ!よろしくな、五峰」

「ふふっ。こちらこそ!でもほんとに、『千籠くん』なんて素敵な名前」

 僕のことを下の名前で『千籠』と呼ぶ人間がこの世に何人いるのだろうと、頭のなかで数えてみた。家族や親戚を除けば、両の手で余るほどしかいない。そんな選り抜きのメンバーに今日彼女が、五峰が加わることを思ったら、それが素直に嬉しくて心が躍った。

「『チカゴ』でいいよ!」

 何の気なくそんなことを口走ってしまった。

「えっ」
「……え?ああ、いやもちろん、良ければだけど……」
「う、うん」

 五峰は明らかに当惑した様子だ――

 ――ふと視線を逃がした先のテーブルの上には、数枚のルーズリーフと何かの機械、電子辞書だろうか。飾り気のないシアンブルーの布製のペンケース近くに転がった何本かのカラーペンで、なにか文章が書きこまれている。一瞥いちべつしてうまく判別が付かないことからおそらくアルファベットだろうと思われるそれに、あまり漢字を含まない平易な日本語の文章が添えられている。ただ、やたら余白が目立つ贅沢な紙面の使い方が、何かの学習というよりは詩歌しいかの雰囲気を伝えている――

 ――僕もひどく狼狽してしまった。

「……オレ的には、『薄葉くん』以外なら、まあなんでもいいかなあって……」

 ありふれた自分の姓に、実際のところなんの不都合も恨みもないのだけれど、まるでそこに何かでもあるかのように、苦し紛れにそう取り繕ってみると、彼女が小さく吹き出した。そして、ほのかに頬を紅潮させて言った。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「……うん?」

「来てくれてありがとう。よろしくね。千籠」

 ――って、今日は見学なんだっけ!

 彼女ともっと仲良くなりたい。だって五峰もおよそ、そんな表情をしている。もしこれが僕の勘違いなら、いっそ世界なんて滅びてしまって構わない。見学に来ただけ、なんてつまらない予防線を張ったことにすこしだけ後悔をしながら、この他愛たわいもないやりとりがずっと続けばいいと思った。
 開けっ放したドアの外からは、相変わらず何の音も聞こえてはこなかったけれど、春の爽やかな風が流れ込む大きな窓を、きっと僕だけが恨めしく思っていた。五峰と初めて交わすいくつもの言葉たちを、出来ることならこの小さな部屋に閉じ込めて、万が一にも眼下を通り過ぎる他の誰にだって聞かせたくはなかったからだ。




Monochrome 『モノローグ』 おわり

Millionaire of Love 『君のためなら』 抜粋(Written all just for this)


©城野亜須香
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