寿安宮異聞

空-kuu-

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第3話 命の削命

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 警報が鳴り響く中、鈴蘭は寿安宮の長い回廊を疾走していた。呼吸をするたび、腐った果実を煮詰めたような悪臭が肺を灼く。

「どいて! 道を空けなさい!」

 すれ違う女官たちが、悲鳴を上げながら逃げ惑っている。ある者は腰を抜かして失禁し、ある者は壁に向かってブツブツと狂ったように祈りを捧げていた。宮廷の防壁を突破した淀は、すでに回廊に侵入していた。足元を這う黒い霧。それが人の足首に絡みつき、生気を啜っている。

「数値が高い……想定の三倍、いや四倍か」

 鈴蘭は袖で口元を覆いながら、左手の験命儀に目を落とした。水銀の柱が、何もしていないのにじりじりと下がっていく。この空間にいるだけで、生命力が削り取られていくのだ。前を行く麗妃の背中は、しかし揺らがない。彼女は純白の裳裾もすそを引きずり、祝宴に向かうかのような足取りで走り抜けていく。

「待ちなさい、解析官!」

 宮廷の北端、石造りの広大な儀式場へと続く門の前で、行く手を阻む影があった。祭祀院の特級祭司、閭宗憲りょそうけんである。彼は、儀礼用の杖を突き立てて鈴蘭を睨みつけた。

「これより先は聖域である! 青玉ごとき流れ者の道具屋が立ち入ってよい場所ではない!」
「道具屋で結構よ。でもあなた、今の麗妃様の数値を見ていないの?」

 鈴蘭は白衣のポケットから、先ほど記録したばかりのデータを叩きつけた。

「彼女の胆力は限界値に近いわ。この濃度の中で最大出力の浄化を行えば、心臓が持たない! 直ちに避難させ、結界で時間を稼ぐべきよ!」

「黙れ、小娘!」

 宗憲は、鈴蘭の言葉を一蹴した。その目には、麗妃に対する心配など微塵もない。儀式の遂行に対する、狂信的な義務感があるだけだ。

「帝都の民が恐怖しているのだぞ! 清香炉は、こういう時のために生かされている道具であろうが! 壊れるまで使い潰すのが、我々の役目だ!」

 壊れるまで。その言葉が、鈴蘭を冷たく刺した。論理的だ。あまりに非人道的で、吐き気がするほど論理的だ。一人の命と帝都の安寧を天秤にかければ、彼の言い分こそが正解なのだから。

「……行きます、宗憲様。そして、鈴蘭様」

 沈黙を破ったのは、麗妃だった。彼女は蒼白な顔で、しかし毅然と微笑んだ。

「私が道具であるならば、その役割を全うしましょう。……鈴蘭様、私の最期まで、その目で記録してくださいませ」

 麗妃は鈴蘭の手をそっと握り、そして離した。その指先は、氷のように冷たかった。

    ◇

 門の向こうには、広大な石畳の儀式場が広がっていた。その中央には、何十段もの大理石を積み上げた巨大な土台——天鳴の基壇が鎮座している。宮廷で唯一、空に最も近づくことを許された場所だ。

 麗妃がその石段を一歩ずつ登っていく。平らな宮廷の屋根が、彼女の足元に沈んでいく。鈴蘭もまた、背後から迫る黒い霧に急かされるように、石段を駆け上がった。

 壇上にたどり着いた瞬間、身体は暴風に叩きつけられた。頭上を覆う空は、本来の青さを失い、どす黒い紫色に染まっている。渦巻く雲——否、精神の泥。それは、何百万という人間が吐き出した嫉妬、怨嗟、悲嘆、絶望。それらが凝固し、巨大な顎となって、寿安宮を噛み砕こうと降下してきている。

 耳をつんざく轟音の中に、無数の声が混じっていた。  

 ——苦しい。
 ——憎い。
 ——なぜ私だけが。死ね。死んでしまえ。

 幻聴などではない。空気が振動し、音声となって鼓膜を犯してくるのだ。

「くっ……!」

 鈴蘭は咄嗟に、解析眼を起動した。視界が青白く染まり、世界が数値とベクトルに変換される。

(淀の質量、推定八千トン。落下速度、秒速十五メートル。対する麗妃の出力……足りない。圧倒的に足りない!)

 吹き曝しの祭壇。その中央に、麗妃が立った。彼女の薄衣が、重力を無視してふわりと浮き上がる。彼女を中心として、直径三メートルの凪が生まれた。

「——天よ、地よ。我が身を以て、清浄なる息吹と為せ」

 麗妃が細い両手を天に掲げる。その唇から、歌とも祈りともつかない旋律が紡がれた。

 キィィィィィィン……。

 寿安宮の建物が軋むほどの高周波。直後、黒い雲が祭壇に激突した。

 ドォォォォン!!

 激しい衝撃音が、鈴蘭の三半規管を揺さぶる。だが、麗妃の周囲に展開された透明な清香の障壁が、その汚泥を受け止めていた。

 空気の密度が異常に高まる。ミシミシ、パキパキと、何かがひび割れる音が空間を満たす。それは、鈴蘭の解析眼には色の衝突として映っていた。漆黒の濁流と、麗妃の発する白銀の光が、互いの領域を食い荒らし合っている。

「ぐっ……ぅぅ……!」

 麗妃の膝が折れかける。その白い頬に、赤い亀裂が走った。皮膚の下の毛細血管が、外からの圧力と内からの気圧差に耐えきれず、破裂したのだ。  一筋、二筋。額から、首筋から、鮮血が滲み出す。

 だが、その血が地面に落ちることはない。空気に触れた瞬間、まばゆい光の粒子となっていく。甘美な芳香へと変換され、腐臭を中和される。

(血を……香りに変えている?)

 鈴蘭は戦慄した。これが浄化の正体か。自らの血液を触媒にし、汚泥を中和している。文字通り、命を削って。それはあまりに美しく、そしてあまりに残酷な光景だった。

「だめ……圧力が強すぎるわ!」

 鈴蘭は叫んだ。解析眼が映し出すグラフは、麗妃の清香の障壁が崩壊するまでのカウントダウンを始めていた。あと三十秒。いや、持って二十秒。それが尽きれば、彼女の肉体は八千トンの呪いに押し潰され、原形も留めない肉塊に変わる。

「麗妃! 真正面から受けてはダメ! 仰角三十度、右へ回して流すのよ!」

 鈴蘭は青玉の箒を杖にして、暴風の中を這うように進んだ。

「聞こえているの!? 受け止める必要はない、逸らせばいいのよ!」

「それは……できません……!」

 麗妃が、血を吐くように叫び返した。その瞳から、赤い涙が流れている。

「逸らせば、下層の居住区に直撃します! あそこには……子供たちが!」

「そんなこと、気にしている場合じゃないでしょう! 貴女が壊れたら元も子もないのよ!」

 鈴蘭は叫ぶ。——非論理的だ。居住区の被害など、後で計算すればいい。ここで、唯一無二の特級清香炉である彼女を失う損失に比べれば、民草の犠牲など誤差の範囲だ。解析官としての脳は、そう結論づけている。

 だが。目の前で、全身から血の汗を噴き出しながら、それでも一歩も退かないその姿。誰かのためにという、鈴蘭が最も軽蔑し、最も理解できない動機のために命を燃やすその熱量が。鈴蘭の胸の奥にある、冷え切った論理回路を焼き切ろうとしていた。

 ——痛い。

 鈴蘭自身が傷ついているわけではない。だというのに、なぜこんなに痛いのか。心臓が早鐘を打ち、呼吸ができない。これは共感かなのか。あるいは、同情なのか。いや、違う。これは憤りだ。美しいものが、理不尽に踏みにじられることへの、根源的な怒りだ。

「……計算が、合わないのよ!!」

 鈴蘭は絶叫した。彼女は左手首の験命儀を乱暴に掴み、安全装置を解除するレバーを弾いた。カチリ、という音。刹那、彼女自身の体内の胆力が、右手の箒へと流れ込む。

 血管が軋む。内臓がねじ切れるような喪失感。験命儀の水銀が沸騰している。自分の寿命が削れる音が、鈴蘭にはっきりと聞こえた。

「どきなさい、この計算外の聖女!」

 鈴蘭は麗妃の前に躍り出た。解析眼が、頭上の黒雲の中に、一点だけ密度の薄い特異点を見つけ出す。彼女は青玉の箒を、刀のように上段に構えた。  柄のひび割れが、赤熱した鉄のように輝き出す。

「私の計算を、邪魔するなぁぁぁッ!!」

 一閃。鈴蘭は箒を振り抜いた。先端の青い結晶から、収束された衝撃波が放たれる。鈴蘭自身の生命力を振動に変換した、純粋なエネルギーの塊だ。  青い閃光が、黒い雲の特異点を正確に貫いた。

 ズゥゥゥン!!

 風の通り道が穿たれた。行き場を失っていた麗妃の光が、その穴へと殺到する。

「今よ! あの穴に全てを注ぎ込んで!」

 麗妃が目を見開く。彼女は残った力を振り絞り、血の滲む喉で祈りを捧げた。白銀の光が柱となって、鈴蘭のこじ開けた風穴へ吸い込まれていく。

 ゴォォォォォ……ッ。

 黒い雲が内側から発光し、膨張する。そして——ガラス細工が砕けるように四散した。

 後に残ったのは、キラキラと輝く光の粉塵と、嘘のように澄み渡った青空だけ。そして、甘く切ない、むせ返るような清香の香りが、風に乗って帝都へと降り注いでいった。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 鈴蘭は箒を杖にして、その場に膝をついた。視界がぼやけている。吐き気が止まらない。験命儀の水銀は、危険域まで低下していた。たった一撃で、数ヶ月分の胆力を失った感覚がある。

 だが、そんなことはどうでもいい。

「麗妃!」

 祭壇の中央で、麗妃が糸の切れた人形のように崩れ落ちていた。鈴蘭は這うようにして駆け寄り、その身体を抱き起こす。恐ろしいほどに軽い。中身が空っぽになったかのようだ。純白だった衣は、斑点のような血の染みで汚れている。

「……無事、ですね。鈴蘭、様」

 麗妃が薄く目を開け、微笑もうとした。だが、その端正な顔には、先ほどまでの聖女の美貌とは違う、人間的な、あまりに人間的なやつれが見て取れた。目の下の深い隈や唇のひび割れ。乾燥した皮膚。

「喋らないで。すぐに数値を……」

 鈴蘭は震える指で、麗妃の手首を取り、脈拍と体表温度を測定した。解析眼が、容赦なく麗妃の状態を映し出す。頭の中で計算式が回る。基礎代謝の低下率。血液中の穢血澱の増加量。細胞の壊死レベル。

 算出された答えに、鈴蘭の思考が凍りついた。

 ——五日。

 たった一度の浄化で、五日分の寿命が消失している。事前予測の三日を、二日も上回っていた。鈴蘭の介入がなければ、十日は削れていただろう。だが、それでも五日だ。

 鈴蘭の視線が、麗妃の喉元に吸い寄せられた。そこには、悍ましい光景があった。透き通るような白い肌の下に、黒い網目模様が浮き上がっている。  穢血澱が血管を突き破り、表皮にまで達しようとしているのだ。

「……あぁ」

 鈴蘭の喉から、声にならない音が漏れる。方程式は間違っていなかった。ただ、変数が最悪の形で変化していたのだ。彼女の身体はもう、濾過装置としての機能すら果たせていない。フィルターが目詰まりを起こし、逆流した汚泥を溜め込むだけの状態になり果てようとしている。

 麗妃は、自分の喉元の異変に気づいていないのか、それとも気づいて隠しているのか。鈴蘭の腕の中で、安心しきったように小さく息を吐いた。

「空が……綺麗ですね」

 その言葉が、鈴蘭には痛ましく聞こえた。空が綺麗になればなるほど、この腕の中の命は汚れていく。鈴蘭は、抱きしめる腕に力を込めることしかできなかった。その温もりが、今にも指の間から零れ落ちる砂のように感じられたからだ。解析不能な涙が、鈴蘭の頬を伝って、麗妃の黒い茨の上に落ちた。
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